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虫追い祭り
アトラス編集部編集長・碇麗香はある日、万年平社員三下をデスクの前に呼び出して、一通の薄いピンク色をした封筒を差し出した。
「なんですか、これ?」
三下は思わず手を伸ばしたが、ぴしゃりと叩かれひっこめた。
「読者からの手紙よ。でもね、困った事に現金がそのまま入れられていたの」
ああ、だから叩かれたんだなぁ、などと三下は暢気に思ったが、それが自分とどう関係があるんだろう。はぁ、幾ら位だったんですかなどと気の抜けた返事をしていると、碇の眉がキっと吊りあがった。
「大金よ。少なくともアナタの月給よりは多いでしょうね」
凄いとは思うけれど、所詮自分のお金ではないのだから、うらやむ事もない。
「……ねぇ三下君。ちょっと最近やる気無さ過ぎね、あなた」
「5月病なんですきっと」
「バカね。5月なんてとっくに過ぎたわよ。今は7月。この手紙が来た地方では、『虫追い祭り』の開かれる月だわ」
「それって何ですか」
「育ち始めた稲につく害虫を追い払うために、夕暮れから夜に掛けて大きな藁に火をともして、田んぼの畦を練り歩き、最後には人型の藁人形を燃やして秋の豊作を願う……そういう慣わしの事、と手紙には書いてあったわ」
「はぁ、それで?」
「ただそれだけならいいのよ。でも今年は違うの。100年に一度の『本物の虫を追う』年なのよ。そして差出人の木村さやかさんは、今年の祭りの『姫様』に選ばれてしまったんですって」
おどろおどろとした碇の声に、三下は背筋を凍らせた。こんな声をした碇編集長に呼ばれた時には、碌な事が起きてない。早く逃げなくちゃ。そう思ったにもかかわらず。
「ねぇ三下君。見てみたいわよね、本物の『蟲追い』」
5分後。押し付けられた東北行きの新幹線の切符を片手に、三下はあらゆるツテを頼りに電話を掛け続けていた。
「取材と返金を兼ねて行ってらっしゃい」との碇の命令だったが、ただ見るだけで済む話に、こんな大金がくっついて来るわけがないのだ。
── 変な事に巻き込まれそうな僕を、誰か助けてぇ……。
<オープニング:シュライン・エマ>
「ええ、午後にお伺いしたいの」
夏の空の下、目の前に広がるのは緑の田園。シュライン・エマは月刊アトラス編集部、三下忠雄の頼みで山間部のとある村へとやってきていた。
今では滅多に使うことに無い公衆電話。この村には携帯の電波は届きにくいらしい。そして受話器の向こうの相手は、三下に手紙を出した本人、木村さやかだ。
「虫追い祭りについて、少しね、取材したいと思って……」
シュラインは三下に届いた手紙の住所から、彼女の電話番号を検索したのだった。翻訳家であり幽霊作家でもあり、某興信所で事務員も勤めている彼女にとって、この程度の情報収集は朝飯前なのである。
しかし、東京から幾度も掛けた電話は繋がらなかった。三下の元に届けられた大金、姫の役割の話も合わせて不安を抱いていたシュラインだったが、今、受話器の向こうの声が、おどおどとした印象はあるものの元気そうである事にほっとしていた。
受話器を置いて、踵を返す。涼しげな麻のパンツスーツに身を包んだシュラインの胸元には色がかかった眼鏡が下げられているが、この強い日差しを避ける為のサングラスではない。それは兎も角、そんな姿をした彼女は凛とした『身分確かな』妙齢の女性に見え、その後向かった公民館の窓口でも勿論、受付の男性がほんのり頬を染めながら二つ返事で彼女に村の蔵書の閲覧を許可した。
そして、連れられていった資料・史書室。
「あら……」
畳張りのその部屋で見慣れた顔を見つけ、シュラインは驚いたように目を見開いた。
<待ち合わせる>
資料室は本独特の埃と匂いに溢れて、真名神慶悟には煙草の吸えない苛立ちを、シュライン・エマには好奇心を呼ぶ。
「ま、祭りについて大体のところは調べたんだがな、出てくるのは年中行事としての虫追い祭りの資料ばかりだ」
真名神は、シュラインにだけ座布団を渡していった係員を渋い顔で見送りながらそう言った。あの受付は、彼が資料を見たいとやってきたときも胡散臭げな顔をするばかりでなかなかここに通してくれなかったのだ。
「そう。なら伝承や伝説についてはもう調べてみた?」
昨日の昼からこの村に来ていたという真名神の言葉に、勝手知ったる、という様子でシュラインは頷きながら早速その場に積まれていた書簡に手を伸ばした。和綴じのその本に書かれているのはミミズがのたくったような文字だが、全く気にしない様子で目を通し始める。
「いや、まだだ」
同じ和綴じ本の別の巻を手にとりながら真名神は首を横に振った。「百年に一度……と定まっているという事は過去にどう対処したかが解かる筈なんだがな……ああ、こっちは伝承調査書なのか」
あんたに任せる、という風にすぐ別の書簡と取り替える。
「何も残さなかったのかしらね」
手も目も休めず次の書簡に手を伸ばしながらシュラインが言う。
「本物の虫とやらの検討はついてるのか?」
「そうね、連想するのは疫病、それに姫は……」
と、口篭もる。真名神はだが、口寂しさに懐を探っていてその表情には気付かなかった。
「疫病か。流行れば稲も里も全滅というところだな。あるかも知れん」
何気ない調子で恐ろしい事をさらりと言って、真名神は再び本に目を落とし黙り込み、シュラインも同じくその切れ長の瞳を伏せて、じっとそれを読みふけり始めた。
4時間後。幾度かの休憩を挟みつつも、驚異的な速さと集中力でその部屋にある関連書を全て読み終えた二人が調べ上げた結果、百年ごとの虫追いについて見つかったのは次の二つだけであった。
虫は、村の北に位置する朔山からやってきて、村の稲に豊穣をもたらすと言う伝承。
いつかは解からぬものの、姫を出さなかった年があった事。その結果稲が全滅しかけ、やはり姫を立てることになった為、姫は必須であると書かれた一文。
「どうやら見返りを求めるたぐいの、もののけか、もしくは神か」
「姫を出すのは避けられないみたいね」
と、シュラインは腕に捲いた細い腕時計に目をやり、はっとしたように真名神に言った。 の会話に遠慮は見えない。「いけない。もうこんな時間なのね。私この後木村さやかさんに会う約束をしてるのよ」
「木村? 手紙の主か。相変わらず素早いな」
「誉めても何も出ないわよ。じゃ、また……」
立ち上がりかけたシュラインを、真名神は手で制し、言った。
「三下が昼の便で表のバス停に着くはずだ」
とりあえず一服してから行くが、先に見てきてくれないか、と真名神はいい、頷いて出て行くシュラインの後姿を見送った。そして、廊下に出て煙草に火をつけ、深く息をつく。
── 虫か……。稲とかかわり深いらしいが。稲、ね……。
***
「こっちよ」
公民館前の木陰で皆を待ち構えていたシュライン・エマは、バスを認めると大きく手を振った。涼しげな麻のスーツが彼女のすっとした顔立ちにとてもよく似合っている。
降り立ったのは三下を入れた4人の男性。すぐ後から爆音を響かせバイクで到着したのが一人。
「ああ、来てくださってありがとうございます、シュラインさん」
三下がすぐさま涙も流さんばかりに今回の紅一点である彼女の傍に走り寄る。女好きという訳では無いのだろうが、現金なものだ。
「久しぶりだね」
「お久しぶりですね」
後ろから掛けられて重なった声に、おや、という顔をした三下の前で、シュラインが笑う。
「百鬼さん、シオンさんも。お久しぶり。来るというお話は聞いていたわ。……自己紹介といきたいところだけれど」
と、傍で待つ3名の男性を見たが「中で真名神くんが待っているから、行きましょうか」
「いや、その必要は無い」
上下黒のスーツを身にまとい、ごく明るい金髪を陽光に煌かせ登場した真名神の姿を、皆が一斉に振り返る。
「調べたい事は、俺とシュラインとで手分けして大体終わらせたんでな。後は手紙の主に直接話を聞いてみようという話になっていたんだ」
煙草厳禁の資料室から外に出て、漸く解禁だというように真名神は煙草に火をつけ深く一息吸い込んだ。
「じゃあ、自己紹介は歩きながらね。木村さん……手紙のその子とも、もう連絡は取れているから、お家へ行ってみましょうか」
親しげな二人の手際の良い指示に、三下は恐れ入ったように従い、歩き始めた皆の後を慌てたように追っていった。
<伝説と伝聞>
じりじりと照りつける太陽の下、歩く農道はバスの轍で凸凹し、僧衣のままバイクを引いて歩く抜剣白鬼(ヌボコ・ビャッキ)を多少苦労させた。彼はシュラインと真名神の話を聞きながら、なんどか頷く。
「そうか、二人とも朝のバスで先に着いていたんだね。俺はこの通りここまで単車を転がしてきたけれど、少々遊び気分が過ぎたかな」
夏の風が気持ちよかったものでね。と白鬼が言うと、
「それを言うなら我々だって、のんびりと来てしまって申し訳なかったですね」
シオン・レ・ハイは、伸ばしたままの無精髭をぽりぽりと掻きながら言った。彼は真名神と同じく太陽熱を良く吸収しそうな黒いスーツを着ていたが、シャツも含めて胸元を大きく開けた上に、ちゃっかりと白鬼の幅のある体の陰に入ろうとしている。
暑さに比べて道のりは穏やかだった。両脇に伸びかけたススキ、視線の先には緑の田畑、そのまた先には社の鳥居が置かれた小山がひとつ、ふたつ。小川をわたって、まだ歩く。
「いや、そんな事はないさ! 俺達はこの三下を励ましつつ、護衛しつつ、楽しませつつの旅路だったんだから」
新幹線で来たという三下の背中を、紅葉ができそうな勢いで叩き、藤井雄一郎(フジイ・ユウイチロウ)は、大口を開けて笑った。この男もシオンも体格が良い。また頼りがいのありそうな年齢……早く言えば青年を過ぎ壮年間近という『いい歳したおっさん』のように見えた。いや、本当なら白鬼だけはまだ30歳だったのだが、見た目というものはどうしてもあり。「じゃあラスイルさんは? どうやってここまでいらっしゃったの?」
尋ねたシュラインに、それまでひっそりと後を歩いて来ていたラスイル・ライトウェイが顔を上げた。片手にヴァイオリンケース、服装はチャイナ風スーツというなかなか派手ないでたちとは裏腹に、物静かで、常に微笑をたたえているものの、自ら会話に加わってこようとはせずにいた彼は、シュラインの問いに曖昧に、また微笑んだ。
「…………」
微笑んだだけだった。こんな山奥に、新幹線でもなくバイクでも車でもなく、一体どうやって……。それに見た目こそこの中では最年少の真名神と同じくらいに見えるが、彼こそ一体幾つなのか……。
と、皆が押し黙ったとき、真名神が行く先を指差した。
「あれだ。あれが手紙の主、木村さやかのアパートだな」
ぽつぽつ民家も増えだした、そんな所だった。アパートの前に黄色いひまわりが咲いていた。
***
「三下に金を見せられたときには、一体どこのお嬢様かと思ったがなあ」
どうやら新幹線の中で、封筒の中身を確認したらしい藤井が、通された2DKの狭く何も無い部屋を見渡して、隣にいたラスイルの耳に囁いた。
木村さやかは、ドアを叩いた三下たちを認めると黙ったまま部屋に通し、こうして茶を用意してくれているのだ。
第一印象は、ぱっとしなかった。黒髪で卵型の顔に黒目がちの瞳。二十代半ばか。もしかしたら美人なのかもしれないが、なにぶん生気というものが感じられない。同じ黒髪でもシュラインの艶やかな髪とは違い、手入れがなっていなかった。
「ねぇ皆さん、早いところお金を返して帰りましょうよ」
ここはなんだか嫌な空気です。と先ほどまでの暢気さはどこへやら、三下は真名神の服裾を引いたが、シッ、静かにしろとその手を払われて、所在無さ気に膝を見る。
「どうぞ……」
膝を付き、茶を差し出した手の荒れを認めて、白鬼が眉を僅かに上げる。
「冷えた麦茶ですか。嬉しいですね、生き返りますね」
脱水症状を起こしかけていたシオンが嬉しげに言う。部屋には壊れかけた扇風機が一台。木村さやかも含めて8人で居るには暑すぎた。おどけたようなシオンの台詞にも、さやかは微笑さえ見せず、しん、と室内が静まる。やがて彼女がおずおずと切り出した。
「あの……皆さん虫追い祭りの取材にいらしたとか」
「ええ。村の方たちが言うには、お祭りは明日だそうね。もしかしたら忙しい時だったかしら?」
事前の電話でシュラインが彼女に説明しておいた事だった。
さやかは大きく首を振って一同を見渡す。
「いいえ。とんでもない。嬉しいです……とっても。でもまさかこんなに大人数でいらっしゃるとは思っていなかったもので、私……皆さんのお部屋の用意ができていません、ごめんなさい」
意外な一言に、一同困惑する。
「じゃあ俺達が来ることは以前から知っていたのか?」
シュラインからは今日の午前に連絡が入ったはずだが、と真名神は眉を顰める。
「あ、はい、あ、……いいえ」
つい答えてしまって、さやかが動揺を見せる。誤魔化そうとしたようだが、じっと見詰められて観念したように俯いた。「来てくださるかもしれない、けど、誰もこないかもしれない、とそう思っていて……」
本当は布団ひとつ用意していませんでした、と彼女は言って黙り込んだ。全体的に何に対しても自信が無いような雰囲気が漂う娘だ。
寂しい物言いだな、とラスイルは思った。彼は木村さやかがなぜ金を、よりにもよってアトラス編集部へ送ってきたのかが気になっていた。アトラスは怪奇ネタ専門の雑誌だが、『ちょっと怖いお祭り』程度に足を運ぶほど一般的ではないし、金をちらつかせれば取材を承知するような編集長もいない。
「アトラスのことは前から知っていたのですか?」
「いいえ。でも、怖い記事を載せている雑誌だという事は知っていました」
今年の虫追い祭りが例年とは違う『本物の虫を追う』祭りだという文章と、金だけを入れ、しかし取材にきて欲しいとは書かない。
もし彼女が『虫追い祭りの取材に来て欲しい』というだけだったなら、アトラスではなく文化誌にすればよかったし、そうはっきりと書けばよかった。金を入れる必要もなかったのにこうしたのは、他でもない怪奇現象を扱うアトラスの連中に、村ではなく彼女の元に来て欲しかった、だが来てくれるかどうか、金を送ったにも関わらず信じられなかった、そう言ったも同然なのだ。
少しだけ、この祭りにおびき寄せられたのかもしれないと疑っていたラスイルだったが、彼女の態度に考えを改めた。
そう、彼女の周囲には悲しみや怯え、そして孤独が漂っている。
「このお金……」
沈黙に耐え切れなくなったように、三下は膝を乗り出し封筒を差し出した。こら、と小さな誰かの声が聞こえた気がしたが、もう遅かった。「返しに来たんです。受け取れないので」
さやかは、見慣れぬものを見たように、封筒を見詰めた。それからああ、と漸く理解したように頷いて、そのまま三下の膝元に封筒を差し返した。
「いいえ、私には必要ないものなので……よろしければ差し上げます」
「こ、困りますよ」
「じゃあ今夜のお代にしてください。少し行ったところに民宿がありますから」
「受け取るわけにはいかないよ」
そう言ったのは藤井だった。彼は頭をぼりぼりと掻くと、さやかを見た「言っちゃなんだがあんた、そう裕福そうには見えない。これはあんたにとっちゃ大金だろう?」
「でも、本当にいらないお金なんです。だけど私が自分で稼いだお金です。怪しい事はありませんから」
「あのね、大事じゃない金、要らない金なんて無いよ。強欲は勿論良くないけれどね」
荒れた手は、よく働くいい手だ。白鬼は言った「自分のために使うのが一番だ。キミみたいな人は特にね」
ゆったり振られた手に、さやかは再び黙り込んだ。
「……お祭りのお話を聞かせて、さやかさん。あなたは姫に選ばれていると手紙に書かれていたけれど」
暑さのせいばかりではなく、重苦しくなった空気を換えようとシュラインが言った。金の事は彼女を混乱させるだけのように思えたせいもある。
「はい……お祭りは、お聞きになった通り明日の夕方から始まって夜までです。虫追い祭りは、山からやってくるとされる虫を藁に火をともして田畑を練り歩く事で追い払う祭りですが、今年は姫役の私が、里へやって来た虫を引き付け山へ逃げます。今年の虫は……ただの虫ではないので追うだけではいけないのです」
「ただの虫ではない?」
シオンが首をかしげる。「虫ってイナゴではなかったんですか? コバネイナゴにハネナガイナゴ。本で読んだらすべて食用だと書かれていたので、私楽しみにして来たんですが」
と、どこに隠し持っていたのか、フライパンを差し出した。
「…………」
冗談なのか本気なのか、と三下を除く全員の目がシオンとフライパンに注がれたが、彼はきょとんとした顔で、佃煮は? と首をかしげた。
「あのね、シオンさん」
思わず額に細い指先を当て、シュラインが言った「イナゴは漢字で稲の子よ。佃煮にするのは秋。はい、今はいつ?」
「夏、でしたかね?」
首を捻りながら無精ひげを掻いたシオンに、ある人は呆れ、ある人は可笑しげに笑ったが、さやかにとっても面白かったようで、ずっと、怯えたように俯いたままだった顔をあげて、小さく微笑んだ。
「でも質問としては良かったわ、シオンさん。それがどんな虫なのか、私も知りたかったところなの」
真名神とシュラインは二人してこの祭りについての調査を行ったが、例年の祭りについての資料は見つかったものの、百年に一度とされる今度の祭りに関しての資料は、ほとんど見当たらなかった。
分かったのは、今さやかが言っていた山というのが、村の鬼門に位置する朔山であること、虫を追い返すことができなかった場合には、村が全滅すると言われている事だけだ。
真名神が、出された空き缶に灰を叩きながら言った。
「ただの虫ではないとすれば、神……もしくは先祖の魂といったところか?」
「神ね。虫追い祭りは俺のふるさとにもあるよ。虫といっても蛇や龍を示している地方もあるけれど、それかな」
青森出身の白鬼が、その光景を思い出すかのように腕組みしながら右上に視線を上げて呟いた。
皆の意見に軽く眉をひそめ考え込むシュラインにさやかは軽く首を横に振った。百年前の事で、虫については誰も知らないという。
「いつ始まった祭りなのかも知りません。ただ、虫は小山ほどに大きいと聞いてます。ですが今まで虫を追い返すことに失敗した事はないと言う話です」
「ずいぶん大きいんだな。百年前もそうして姫を囮に追い返したのか? 山のどこまで走ったらいいんだ」
真名神が尋ねると、さやかはそれもわからないと言い、むしろなぜそんな所まで気にするのかという顔をした。
「明日になれば、教えてもらえるのですが……ああ、写真を撮るんですか? 場所が分からないと困りますか?」
そうなのだ、さやかは彼らをただの取材班としか認識していない。三下が首から下げたカメラに目を留め、申し訳なさそうに頭を下げた。
彼らにしても、ただ三下の願いでついて来た者もあれば祭り自体を面白そうだと思ってついて来ただけのものもいる。真名神などは、虫そのものに興味を持っていたようだが……。
「そうね……なら明日、またお話しましょうか」
シュラインは、今まで調べた事、今聞いたことがまとめられたメモを閉じた。
***
木村さやかの言っていた宿はすぐに見つけることができた。民家に毛が生えた程度の宿だったが、湯量は少ないながらも天然の温泉が沸いていて、湯の香が部屋まで漂ってくる。
夕食前にと一風呂浴びた一行は、膳の用意された一室に集まって、先ほどまでのことを話し合っていた。
「……何か腑に落ちないのよね。祭りに来て欲しかったんだっていう事は分かったけれど、彼女が何をしたかったのかは分からないまま。取材をして終わり?」
男性陣が浴衣に着替えたのに対し、彼女だけは洋装のまま。刺身をつまみながら真名神が頷いた。
「送られてきた大金といい、百年に一度だという祭りの内容といい、何かあると思って来たんだがな」
「ただの祭りで終わるならそれでいいじゃないか。雰囲気をこう、楽しんで。美味いもの食って、風呂に入って疲れを癒す。それが一番」
ああ、娘達も連れてきたかった。言いながら藤井も確かに引っかかるものを感じているのか、手酌でクイと酒を煽る。
「もともと私たちは三下さんに頼まれてのことですしねえ。でも、まだお金はここにありますけど」
ほくほくに炊けた新潟米をマイお箸で食べながらシオンはテーブルの上に目をやった。大体150〜60万あるだろうか。それは木村さやかが稼いだというリアルな数字で、おかずにするには消化が悪そうだった。宿の代金は彼らを呼んだ三下の懐から容赦なく取られている。出張費代わりだ。
「自分には必要ないと言っていましたね」
ほとんど膳に箸をつける様子も無くラスイルが言う。横から藤井に、成長期にはもっと食えと言われているようだが、全く気にしていない。シュラインは切れ長の目を細めてまだ考え込んでいる。と、その時だ。
「追加のお銚子お持ちしました」
ふすまの向こうで声がして、宿の主人が顔を出した。
「丁度良かった。二・三聞きたいことがあってね。いいかな」
白鬼は彼の持つ盆から銚子を受け取りながら、彼に向かって人好きのする笑顔を向けた。どうやら皆の意を汲んで、さりげなく主人を引きとめる事にしたようだ。
「何でしょう」
どこか安心できるその笑顔に、釣られた様子で主人も微笑む。東京からの取材班と聞いているが、この一行、ヴァイオリン男又は、僧侶姿又は、金髪ピアスに咥え煙草又は、黒髪長髪黒手袋又は、ただのおっさん、且つ一人だけ美女。 怪しい事この上ない。泊めていいものかどうか迷ったほどだ。
「明日の祭りの事なんだけれどね、ほら、姫に選ばれた木村さやかさんという人……」
白鬼は、地元民である彼女の話題を出す事で、姫の役割や、虫追い祭りについての情報を遠まわしに聞き出すつもりだった。だが、主人は木村の名を聞いた瞬間、持っていた盆を取り落としかけるほどの動揺をみせ、その場にいた全員を怯えたような目で見返した。
主人の態度に驚き口をつぐんだ男性陣の横で、シュラインの眉尻がきゅ、と上がる。
「ねぇ。姫といったら祭りの主役よね、普通。地元の方々で選んだのかしら? それとも姫になるには何か理由があるの?」
「……虫追い祭りには、姫なんて居ませんよ」
「え……?」
「それにそんな名前の女もこの村には居ませんよ。変な事を言わないで下さい」
開いた皿を片付け、引き払う主人の背中はすべて拒んでいるように見えた。
「なんだってんだ、なあ?」
く、と盃を煽った藤井は、唇を横に広げて不味い酒を飲んだという顔をした。
「間違いなく俺達には知らされていない情報があるみたいだな。それとも姫うんぬんは木村さやかの想像か?」
いつのまにか皿をすべて平らげた真名神が、食後の煙草に火をつけながら言った。
「残念ながらそうは思えないね。今の主人の態度を見てしまうと」
と白鬼が返す隣で、シオンが箸を咥えたまま、困ったように首をかしげる。
「うーん、私は楽しげなお祭りだと思ってついて来ただけだったんですが、なんだか暗い話になってきちゃってますね。虫追い祭りの虫もいっそ、『飛んで火にいる夏の虫』って言うんですか? 熾した火にぽーんと飛び込んで終わりなら、お祭りも大成功で気持ちいいんですけれどね」
シオンの言葉は何気なかった。が、その言葉に全員が静まり返った。
ラスイルが、口を開く。
「火に飛び込む夏の虫……ですか。祭りの最後に燃やす藁人形が、もしや今回に限り藁で作られた人形ではなく、木村さやかさんその人である……とか? その火によって、虫を惹き付け山に返す」
青い瞳に浮かんだのは、口調とは裏腹の確信に満ちた光だった。
シュラインはくっと唇をかんだ。彼女も予測は立てていた。が、凄惨な予想は口には出したくなかったのだ。
「囮役になるだけならばまだいいわ。でもそれじゃ人身御供よ」
シュラインが言う。が、誰からもそれを否定する返事は来ない。
「……木村さやか本人は、それを知っていると思うか?」
真名神の問いに、ラスイルが落ち着いた様子で答える。
「そうですね。知っているから我々を呼んだのでは? でも、助けて欲しいなんて一言も言われてませんよ。放っておいたらいいんじゃないですか?」
「意外と、冷たいね」
下唇を突き出し、白鬼が言う。
「まあね。シオンさんじゃありませんが、私も祭りを楽しみに来ただけですから」
優美とも言える表情で微笑んだラスイルに、
「馬鹿言っちゃいかん!!!」
卓を叩いて藤井が立ち上がった。拳を握り締めて緑の瞳を怒りに染めている。
「わわ、勿体無いですよ」
こぼれ掛けた汁椀をシオンが受け止めた。
「つまりそれは、年頃の娘を丸焼きにしようって話だ。どういう訳があったって、許される話じゃなかろう!」
断固止める! 絶対にやめさせてやる。と藤井は興奮気味に宣言する。どうやら彼は彼の愛娘とさやかを重ねて見ているようだ。
「確かにな。虫が出るというだけでも気になるが、そんな供物を求めるような虫なら、ますます放っておけん」
それがたとえ神だとしてもな、と言葉だけは冷静ながら、やはり熱しやすい真名神はこれから起こる事を予測してか、どこか嬉しげに口端を上げた。腕を磨くいい機会だと思っているのかもしれない。
「これも三下君の持ってきた縁ということで、一肌脱ぐとしようか」
白鬼はあぐらを掻いた格好のまま、仕方なさ気に微笑んで顎髭を撫でた。
「……仕方が無いですね」とはラスイル。
「じゃあ私も体を張ってさやかさんをお助けしますよ! その三下さんも道連れに!」
どんと胸を叩いて、自分で与えた衝撃に咳き込むシオン「ご、ごほ…ごほ……あれ、そういえば三下さんは?」
その頃露天風呂で石鹸を踏み、滑った拍子に気を失ってそろそろ2時間が経とうとしていたとは誰も気付いていなかった。
「よし、じゃあ決定だ。俺達は虫を追って娘さんを助ける。悪虫退散っ!」
藤井はその勢いのまま、どこに行くつもりだったのか浴衣で部屋を出ようと、スラとふすまを開けた。
「ちょっと……落ち着いて」
こういった事件にはあくまでドライに対処、のシュラインがそれを止めようとするが。
開けたその目の前に、驚き顔の木村さやかが、立っていた。
「私これから『禊』に行く事になりました」
部屋に入ってきたさやかは、入り口付近に静座すると、皆の雰囲気には気付かず静かに言った。「お祭りまでそこから出られないそうなのでご挨拶に……急で済みません、私ほとんど何もご説明できなくて」
さやかは昼間と同じように小声で、俯いたまま喋った。
「それは言えないでしょうね、『私は明日藁人形の換わりに火で焼かれるんです』なんて」
ずばりと言ったラスイルの言葉に、木村さやかははっと顔を上げ、言葉を失った。顔色は見る見るうちに青白くなり、肩からは力が抜けたように見えた。シュラインは悲しげに目を細める。
「……本当にそうなのね、さやかさん」
「っ違うんです、そんな事は……」
「じゃあどうしてそんな風に驚くんですか? 私としても残念ではありますが、木村さん、私たちの中ではあなたを助けると今決定した所なんですよ」
無造作に束ねた銀の髪を耳に掻き上げながら、ラスイルが少々面倒そうに言った。
「だめです、いけません。そんな事をしてもし万が一あなた方に何かあったら」
強く首を振るさやかの肩にシュラインが手を置く。
「大丈夫。私たちはあなたが思うよりこういった事に慣れているわ。だから聞かせてくれない? 色々なことを。私たちがあなたを助けるためには、沢山の情報が必要なのよ。お願い、昼間のようにはぐらかしたりしないで」
木村さやかは、百年に一度の虫追い祭りのために育てられた娘であった。藁人形の替わりに燃やされる娘である。
身寄りは無く、村の公共施設で働いてはいるものの、村の人々からは『居ないもの』として扱われていた。
それはそうだろう、祭りがきたら儀式といえど自分達が死に追いやる相手だ。元から見なかったこと居なかった事にしておけば、祭りの後もすぐ忘れられる。
「あ…、あ、あ〜……。こんな感じ、ね」
シュラインが、喉の上に指を置き声の響き具合を確かめている。今、木村さやかとシュライン・エマは服を取り替え、髪型を変え、化粧を変え、その上で真名神の掛けた幻術で、すり替わっている。
「十分だ。だが今掛けた術のは言霊の呪だ。木村さやか以外の名で呼ばれても答えるな。呪が解けてしまうからな」
「分かったわ」
シュラインは木村さやかの声で答えた。彼女の声帯模写能力はズバ抜けており、こうして姿を模した後では、本人そのものとしか思えなかった。
さやかの身代わりを申し出たのはシュラインだった。歳も背格好も近く、何より女性は彼女一人だけだったから。
そしてさやかは本当に虫追い祭りの詳細を知らなかった。詳しい説明は禊の場……北の朔山のふもとにある社で聞かされるものらしい。
「じゃあ、明日の夜」
村で藁の火が灯ったらそれを合図に虫を追い込むと言う村の北端、朔山。
虫は山からやってきて、山に帰る。
姫であるシュラインの役目は、里まで虫を行かせず、身を囮に山頂へ駆け戻る事だ。
さやかに社の場所を尋ねて、真名神の式が護衛に付き、怪しまれぬようシュラインは一人出て行った。
「ええと、それで私たちはこれからどうしましょう?」
彼女の背中を見送り、さくらが隣室に姿を消したのを見届け、シオンが言うと、白鬼がそれに答えた。
「なに、役立たずは寝るだけさ」
<禊 〜シュライン・エマ>
木村さやかとすり換わったシュラインは、朔山から流れ出る川のほとりに、白衿の長襦袢を身に纏って立っていた。
空に月は無い、晦だ。
先ほどまで水に浸かっていたため、シュラインの解いた黒髪は濡れそぼって背中まで艶やかに流れ、川べりに燈された松明の明かりを反射して光っている。
彼女の周りには老婆が一人。口の中でずっと念仏を唱えつづけていた。
芯まで冷えた体を、身に張り付いた着物ごと思わず抱きしめると、老婆がシュラインを盗み見るように見上げ、目が合うと怯えたように逸らした。
この老婆が、木村さやかを死に追いやる最後の役目を請け負うのだ。
── 気に入らないわね。
それが、シュラインが身代わりを請け負った理由だった。さやか一人を犠牲にしよう、何も無い事にしようという村人達に対しての怒りである。
木村さやかが大金を送ってきた訳が、彼女のふりをしている今ならよく分かる。
宿からこの社まで、そして今も、シュラインは誰の目にも入らぬもののように扱われていた。目が合っても素通りされ、無論声もかけられず、すれ違えば避けられる。なのにいつも見張られているような視線を感じるのだ。
── どんなに辛かったかしら。
ここに来る前、彼女に電話を掛けた時のことを思い出した。戸惑うような受け答えは、自分に電話がかかって来た事に驚いていたのだろう。
『来てくれるかもしれない、けど、誰も来てくれないかもしれないと思って』
彼女は、多分助けて欲しくてアトラスに手紙を出したわけではない。死ぬ前に誰かに自分を訪ねてしかっただけなのだ。話をし、自分がそこに居ること、居た事を知って欲しかっただけなのだ。
── でもね、さやかさん。あなたが選んだのはアトラスだった。だから、助けてあげられる。
寒さに震えるシュラインの前に差し出された新しい着物は、朱地に鮮やかな金銀の刺繍が入れられた『姫』の衣装。
それは、婚礼衣装のようにも見えた。が、何より違うのは、油に浸してあるらしいその匂い。
「きかせて、おばあさん。私の役目を」
燃やされるつもりはさらさら無い。
次の日。夕刻。
シュラインは、社から一人姿を現し朔山へ通じる道へ上がった。
姫とは、婚礼衣装を纏い、虫に身を捧げる、神への供物のこと。虫の正体はやはり神だったのだ。
手に持っているのは、オオカメノキの葉をすり潰し、他にも薬草を混ぜ合わせた虫をおびき寄せるための薬と、火打石。すっと背を伸ばし山の上を見上げる。
虫はもうそこまで来ている。西の山にこの夕日が落ちれば目を覚まし、オオカメノキと、供物の匂いをかぎつけて降りてくるだろう。だが、里に下りてくる時、虫は村に豊穣と豊作をももたらすのだ。
この社……村の北の口まで来させて、追い返す。
シュラインが村に向かって逃げないように、背後には村から選ばれた男達が立つはずだった。
── さて……どうやって皆と連絡をとろうかしらね。
ちらりと村を振り返り、シュラインは思わず笑った。
道を遮るように横並びに立っていたのは、見慣れた5人の男達だったからだ。
── 頼もしい武者達だわね。
彼女は西に日が落ちるのを確認し、ぐっと腹に力を込めた。
<虫追いのとき>
薄暗くなっていく、山間の村のあちこちで。
ぽつ、ぽつ、と火の手が上がる。
藁に燈された火が、村人の手から手に渡り、広がっているのだ。
背後にそれを感じながら、シュラインという姫を囲み、一同は山を見詰めていた。
ぞぞ、ぞぞぞ……と、何かが蠢いている。
黒く不気味で大きく、形の無い何かだ。小山ほどに大きいとはよく言ったもので、その不気味さに村人が怯えている。その怯えが、黒い塊をより活発にしていくように思えた。
「神か、それともただの悪食な虫か」
ぽつり、呟きながら真名神は心の高揚を覚える。久しぶりの手ごわい相手だ。楽しめる。
「神よ。虫は姫を欲しがる代わりに、村に豊穣をもたらすの」
シュラインの着物からは、浸した油の匂いがし、懐には火打石を持っていると言う。
「来ましたよ!」
シオンの声が飛んだ。薄暗い景色の中、山から猛スピードで駆け下ってくる黒い塊の一端は、一瞬の後にはもうシュラインの目の前に居た。それは、蟲であった。よく見れば、塊のひとつひとつが細胞のように組み合わさった虫、虫、黒い虫。虫とはまさに蟲であったのだ。
「……っ!!」
眼前に迫った虫の、触覚や翅や足が、重なりあって擦れあってゾゾと鳴る。それがとある昆虫を思わせて咄嗟に目を見開き両腕を顔面に交差し構えたシュラインと虫の間に、息吹と共に錫杖が一閃した。
「むっ」
白鬼に斬られて霧散した虫の固まりは、四方から再び彼女をめがけて襲い掛かる。追撃だ──がっしりとした体格からは想像もつかぬ体捌きで白鬼は体を返したが、その時ごう、と風が鳴った。白鬼先陣として後ろで構えた藤井の仕業だった。彼の頼んだ風の精霊に巻かれて、蟲は一旦空へ舞い上がって行った。
「どうだ!」
ガハハと笑いながら藤井は少々お下品な指型を蟲に向かって突き出す。
「シュライン、今だ走れ!! 走って山まで入るんだ!」
「分かったわ!」
後ろから飛んだ真名神の声に頷いた途端、シュラインの変化が解ける。本来の彼女の青い瞳、白い肌が、油に重い朱色の着物と華やかにコントラストを描いて、駆け出す姿は、村人が掲げる藁の炎に照らし出されてすでに火に捲かれたようにも見え、美しく目を奪われるようだった。
百メートルも行かぬうち、着物重さと、禊の為夕べから何も口にしていない喉が、上がる息に鳴りはじめるが、シュラインは木村さやかではない。髪を掠るほどにその気配を近く感じれば咄嗟に身をかがめ、足を捕られかければ軽やかに身を翻す。
そして、たどり着いた。山と里を隔てる場所に。
彼女の両脇を固めていた白鬼と藤井は完全に足を止め後を振り返った。白鬼は首に掛けていた数珠を片手に巻きつけ錫杖を掲げ持ち蟲に向かい、藤井も心得たように隣に立ち、懐から取り出した霊枝を払うと、霊枝はひゅるりと伸びて鞭となった。
白鬼が言った。
「後少しだね」
「追い詰めたのか、追い詰められたのかって所だがな」
シュラインを狙う蟲を鞭で払いながら、藤井が答える。
そして蟲が戻らぬよう村を守る形で走ってきたシオン、真名神、ラスイル。
「さて、ここからが本当の『蟲追い』ですね」
ラスイルが青い瞳を楽しげに細める。こんな状況だと言うのに、真名神とはまた違った意味で楽しんでいる様子がありありとわかった。手にしたヴァイオリンはどう使うつもりなのかケースから出されており、光沢のあるグァルネリのボティが銀の髪と共に艶やかに光っている。 鬱蒼とした森の中、明かりはシオンが持った藁の炎だけだ。
「考えがあるなら早くしてくださいね真名神さん。でないと私がいいところを頂いてしまいますよ」
ラスイルの軽口に口端を上げた真名神の手には、彼が夕べのうちに書いた札と、ラスイルに頼んで探し出して来てもらった『例のもの』。
一穂の稲であった。
これもまたどう使うかは兎も角、この時期にどこで、と驚いた顔をした藤井にラスイルは言った。酒蔵で手に入れたのだと。酒は米から作られる。神棚を飾っていた稲を村人から借り出してきたのだ。
なんにせよ、彼の機転でこれは間に合ったのである。
「まずはこいつらを一箇所に集めるか動けなくしてくれ」
「私も協力しますよ」
炎を燈した藁の束を振り回し、シオンが気合を入れる。ふざけているわけでは決して無いのだが、どこか剽軽な男だ。
いつのまにか5人の男達は、誰からともなくシュラインの周囲に再び陣を組んでいた。彼女を中心として外を向き、空に広がる虫に睨みを効かせる。
「それじゃあ、俺から行かせて貰おうかな」
羽鳴りや蠢きが辺りを取り囲み、月の無い空を覆い隠すように広がる中、白鬼は錫杖をじゃんと鳴らして地に突き刺した。と同時に懐から取り出した札を数珠を持った手に乗せ、その上で退魔の印を切る。常はその穏やかな性格を映して、肌守りや門守りの札を使う事の多い白鬼も、今度ばかりは身を膨らませるほどの気合を見せていた。
「炎の陣!」
藁の炎で追えるものなら、勿論炎が一番効果的だ。そう白鬼は考えたのである。炎は地と空の間を這っていた蟲に襲い掛かり、二分させるや否や方向を変えて円陣となり、次にはその輪が一気に狭まる。
誰もが上手くいくと思った。が、しかし。皆は顔色を変えた。炎に追われた虫は空に向かって逃げ、更に一転して全員に敵意を持って襲い掛かってきたのだ。蟲は、一同を敵と見なしたのである。
「く……っ」
「え。ちょ、ちょっと待ってくださいよ……!?」
特に身を守る術も無いシオンが、慌てて踵を返したが、隠れた先はラスイルの背の後ろで、ラスイルは冗談じゃないと目を丸くした。
「どういうつもりですか!」
「そう仰られても……っ」
シオンは右手にはめた黒い手袋を慌てて取り去る。
「困ったときの、神頼み……」
シオンの掌に描かれた青い獣のタトゥが動いたように見えた。途端、襲い掛かってきた蟲を飲み込む実体の無い雪狼が現れ、ラスイルの目の前で槍の先のようにその形を凍らせて消えた。「……ほ、珍しく上手い事いきましたよ? 驚きですね」
が、シオンが凍らせた一部の蟲もすぐに溶け始める。また、全てが凍った訳ではない。
「ならこうだ!」
間髪いれず、藤井が手にした鞭をしならせた。すると彼の意に従い、鞭は更に細く網状に変化し、更に毛細となって蟲を覆った。しかし、蟲たちは極狭い網の目を潜り抜け広がり行く。「このままじゃ埒があかんぞ! どうする?」
「みんな、耳を塞いで!」
飛んだのは中心にいたシュラインの声だった。皆は咄嗟に掌で耳を閉じ、または指で耳穴を塞ぐ。
次の瞬間。全員の脳に、キィンと鳴るような感覚が走った。空気の振動によりラスイルの持つヴァイオリンの弦が目に見えるほどに震えた。。
シュラインは、持てる能力を生かし、常人には不可能な超高音を自らの喉で紡ぎ出していたのだ。
「あ、アァアァアアアァァーーッ…………」
このシュラインという女性、一体どんな喉をしているのか。最後には人の耳にも届かぬほどの高音となった彼女の声に、辺りを覆っていた蟲が、痺れたように地面へ落下する。
「よし! いくぞ!」
長い指で符をはさんだまま空に印を結び真名神が叫んだ。「……稲作において虫が湧けば『無に至ル』すなわち『虫』」
流れるような節回しは、陰陽師独特のそれ。
「『穀物』は虫を剋する『剋物』、稲は『去ね』、虫を剋すは稲なり。今此処より去ぬるは虫なり。我が呪は我が意、摂理なり。虫は此処に在る事適わず、今此処より去ぬるべきものなり、そよぐ稲穂は汝に命ずる」
その手に持たれた、稲穂が空を払った。
「去ね!」
その瞬間、黒い塊は森の中より一点に縮まり、闇より濃く色を変えると、ぐぅっと空に向かって伸び、見えなくなった。
まるで月後には何も残っていない。音も気配も。残っているのは静まり返った夜と星の空だけだった。
「朔に還る……」
シュラインの呟きが、ぽつんと漏れ聞こえ。
後にはしんと静まり返った夜と星空だけが残った。
***
ラスイルの奏でるヴァイオリンの音色が、焼かれ天に上っていく『姫』の衣装と共に夜空に響いている。
今はもう村人全てが寝静まった集落の外れ、朔山の入り口で、木村さやかはその音色を、膝を折って座り込む形でじっと見詰めながら聞いていた。
「しかし、なんで稲の穂だったんですか、真名神さん」
少し離れた場所で、演奏中のラスイルの傍に立ったシオンが、真名神に尋ねた。
「稲に関連の深い虫である事だけは、シュラインと調べたときに解かっていた。だから調伏術に稲を絡めれば威力も強まると考えたんだ」
ふんふんと頷くシオンだが陰陽道には詳しくない。
真名神のしようとした事を本当に分かって頷いたのは白鬼のほうであった。
「自然物を媒体にする方法は確かに古来からあるね。山川草木、石や土、それに呪歌になれば、月や花も歌われる」
「なかなか風流な話だな。なるほど植物の力は、そこにあるだけでも全てに有効と言っても過言じゃないと俺は思うぞ」
なぜか胸を張って藤井が言った。植物大好きフラワーショップ店長の彼は、どうやら自分が誉められたような気になっているらしい。
「でも、蟲は追われただけ。居なくなったわけではないわ……」
白いサマーセーター姿に戻ったシュラインが冷静な面持ちでそう言った。
さやかの身代わりとなってくれたシュラインだったが、祭りの間ずっと三下と共に居たさやかには、シュラインがどんな目に遭ったのか分からない。聞いてもなぜか教えてはくれなかった。それになぜ、そんな憂うような目で自分を見つづけるのだろう。とさやかは思った。
「また百年経てば現れる。滅するわけにも浄化するわけにもいかなかった。シュラインが言うには、あれは里に豊穣をもたらす神でもあるそうだからな」
真名神が吐いた煙草の煙も、星空に上って炎の熱と混じって消えていく。
シオンは演奏中のラスイルの傍に立ち、藤井は白鬼のと一緒にさやかの様子を眺めている。
さやかは深い溜息を漏らして、手を組み立ち上がった。顔には変装のためシュラインに施された化粧がまだ残っており、はじめのような疲れ果てた色こそ無かったが、自信なさ気な様子はそのままだった。
「その時には……。また姫が選ばれるんですね」
多分、自分のように身寄りがなく、ひっそり居なくなっても誰も気にとめないような誰かが。
さやかにはまだ信じられなかった。虫はもう居ないのだという事、何より、自分は死なずに済んで、そしてこれからも生きていくのだという事が。
「キミが何を心配しているのか分かる気もするけれど、そんな浮かない顔しちゃいけないね」
百年後の事は分からない。でも今年の虫追い祭りはもう終わったんだ、キミはキミの生き方を、と白鬼が言った。
ずっと響いているヴァイオリンの音色は、まるでさやかの心中を表しているかのようだった。悲しい音色は次の『姫』を案ずる心、上下する旋律は世の中に急に放りだされたような不安、ゆっくりとしたテンポは今まで影に隠れて生きてきた自分に似ている。。
「さっきから何を弾いてるんだ?」
植物なら何でもござれだが、音楽に関しては少々疎い藤井が、ラスイルに尋ねる。
「鎮魂歌ですよ。アレンジしてますが」
弾きながら答え、ラスイルは言った。「さやかさん、あなたの曲ですよ」
と、曲調が一変した。明るく、穏やかで、やさしいものに。
「今までのあなたは、あなたとして。あの炎と一緒に燃やしてしまいなさい。あなたは白鬼さんの言うように、これからを大事にすることですね。それがあなたの身代わりを申し出たシュラインさんの想いでもある。そうでしょう?」
後は何食わぬ顔をしてヴァイオリンを弾きつづけるラスイルの言葉に照れたのか、そんなこと……と、シュラインが微かに頬を染める。それを見て皆軽く微笑んだ。シュライン本人は気付いていないだろうが、彼女は冷静に見えて案外情に脆い。お見通しなのだ。
明るくなったその曲を聴きながら、さやかは胸のどこかがぽっと温まるのを感じた。いいんだろうか。このまま『姫』だった自分を捨てて生まれ変わってしまってもいいんだろうか。
「冷たいフリしてなかなかやるじゃないか!」
この女殺し! でもウチの娘には通じんぞ。とか何とか言いながら藤井はラスイルの脇腹を肘で突き、それでもまだ手を止めないのを見て意地になったのか今度はくすぐってやろうと手を伸ばす。
それをみて木村さやかが笑った。
笑いながら涙を零した。
「ああ……泣かないで。ほら、ええと……これで涙を拭いて下さい」
多少おろおろしながらもシオンがさっとスーツのポケットからハンカチを取り出す様は、まるで一昔前の少女漫画のようだった。
「ほら藤井さん、シオンさんにも突っ込み入れなくちゃ」
「よし来た」
からかって微笑むシュラインの言葉に、くすぐりの矛先を変えた藤井が手をワキワキさせながらシオンを追う。
「わあ! あなた本当に48歳ですか!?」
逃げまどうシオンの背に真名神の声。
「諦めろシオン。その男の精神年齢は多分8歳くらいで止まってる」
「ははは……」
錫杖を肩に掛け朗らかに笑う白鬼の声が、泣き笑いのさやかの声と、ラスイルの奏でる音楽に重なって響き、夜空に消えた。
***
後日。
月刊アトラスに送られてきた木村さやかからの礼状には、3つの事が書かれていた。
ひとつは、虫を追った皆への礼、ひとつは、シュラインの薦めに従い今回の事象を文献として残し、百年後に備え伝える事になったという話。
もう一つは。
木村さやかはあの村を出て、別の土地で暮らすことにした、という事だった。返された封筒を資金として使うつもりだという。
「……で、三下くん?」
手紙を読み終え、事のあらましを知った碇が、デスクの前に三下と、三下が今回撮った写真を並べて、額に青筋を立てていた。
「はい?」
暢気にやって来た三下は、碇の怒りに気付かぬ様子で首をかしげた。
「新潟では、なんだか面白い事件があったみたいね」
手紙を指にはさんでひらひらと振りながら、碇は微笑む。「だのに、なんであなたの撮った写真は、こんなに平々凡々なのかしら!?」
「え……でも僕、ちゃんと取材しましたけど……」
「虫は! 虫追いのスクープは!!」
「写ってましたよね?」
「あ〜〜っ、もう、違うわよ!!」
この万年5月病男! と叫んで碇は机に拳を振り下ろす。
三下君に、合掌。
<終わり>
■登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
整理番号|PC名|性別|年齢|職業
0086|シュライン・エマ |女性|26歳|翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員
3356|シオン・レ・ハイ |男性|42歳|びんぼーにん 今日も元気?
2072|藤井・雄一郎(フジイ・ユウイチロウ) |男性|48歳|フラワーショップ店長
0389|真名神・慶悟(マナガミ・ケイゴ) |男性|20歳|陰陽師
0065|抜剣・白鬼(ヌボコ・ビャッキ) |男性|30歳|僧侶(退魔僧)
2070|ラスイル・ライトウェイ |男性|34歳|放浪人
※ 申し込み順に掲載させていただきました。
■ライター通信
藤井雄一郎さん、白鬼さん、ラスイルさん、はじめまして。シュラインさん再びの参加ありがとうございます。真名神さん、ご無沙汰しておりました。お久しぶりです。ライターの蒼太です。
「虫追いまつり」これにて終了です。いかがでしたでしょうか。今回は推理・戦闘シナリオのつもりで依頼書を書かせていただきましたが、ヒントが少なかったのではないか、と心配しておりました。が、それでも色々調べてきてくださったり、逆に自由な発想をもったプレイングを読ませていただけました。そしてこのような出来上がりとなりましたが、PCさんたちが思い切り動き回ったり、色々考えているように感じていただければ幸いです。
PCさん達のキャラクターや考え方、口調など思っていたものと違うときには、どうぞプレイングの隅にでもどんどんお書き下さい。改善、訂正、努力したいと思います。
では、また機会がありましたら。一緒にお話を作っていきましょう! ではまた。 蒼太より。
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