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<東京怪談ノベル(シングル)>


真夏の邂逅


 一年中穏やかな気候の土地にしては、その年の夏は異常に暑かった。
 雲に遮られる事のない太陽は、容赦なく地上にその強い光を降り注ぎ、人々を小さな木陰や軒下へと追いやっていく。
 そんな夏の午後、ベッドに横たわるセレスティ・カーニンガムの耳には水の跳ねる音と幼い歓声が遠く響いていた。
 街の中心よりやや国境に近い自分の屋敷の傍に、子供達が遊べるような泉か小さな池でもあっただろうか。
 セレスティはベッドに横たわったまま首だけを動かし窓の外を見た。
 途端に目を射る陽光に思わず眉を顰める。夏の強い光と熱は、セレスティにとっては最大の敵だ。
 それでも目を細めたまま屋敷の門のその向こう、レンガの散歩道を見つめていると、ふと陽炎が揺らいだ。
 地面から立ち上る熱に歪まされた空気を通して見える世界は、平衡感覚を失わせる奇妙な色と形をしていた。それがゆっくりと形を変え色を変え、消えてはまた現れる。
 陽炎の影響を受けていない他の建物が太陽に焼かれながらじっと立っている中、その揺らぐ空間だけが自分をその奇妙な光景の中へと手招きしているように見える。 
 思わず少し体を起こし、目を凝らしてみる。ゆらゆらと歪む景色を見ていると、自分が揺れているのか、陽炎の中の情景だけが揺れているのか分からなくなってくる。
「……ふぅ……」
 眩暈にも似たその不快感に額に手を当て思わず小さく息を吐いたセレスティの視界の中で、陽炎が一際大きく揺らいだ。
 それはこちらに近づいて来ているようで次第にはっきりとした形を成していった。
「あれは……」
 その陽炎は人の形をしていた。片手には花束を、片手には何やら布に包まれた四角い物を持っている。
 その人物はそのまま屋敷の入口へと消えていった。

* * *

「やあ、セレス。具合はどうだい?」
 メイドに案内されてセレスティの寝室に入ってきたのは、一人の青年だった。
 よれよれのシャツは元は白かったのだろうが長年主の体を守ってきた証でやや黄ばんでしまっている。麻のズボンもところどころに違う布があてられており、さながら奇妙な世界地図のようだ。しかし本人はそんな風体を気にするでもなくにこやかに、だが暑さで寝込んだ友人を心配する表情を隠さずに近付いてくる。
 年恰好はほぼセレスティと同じ二十代半ばくらいだろう。とはいえ、セレスティは外見年齢とは程遠い長い年月を生きているのだが、それをこの青年が知るわけもない。
 青年は花束をメイドに預け、持っていた四角い布を手近なテーブルの上に置くと、その椅子をセレスティの寝ているベッドの脇まで引きずってきて座った。
「連日の暑さに君が参っていると知ってお見舞いに来たんだ。大丈夫かい?」
「わざわざありがとう。今日は幾分調子が良いようなのでご心配なく」
「そうか。それなら良かった」
 セレスティの言葉に素直な笑顔を見せる青年につられるようにセレスティも微笑を浮かべた。
 彼と出会ったのは数ヶ月ほど前になる。
 太陽が顔を隠し始めた夕暮れ時、やっと暑さの引いた街を一人ゆっくりと散策している途中、通り雨に降られ避難した小さな店の軒先で一緒になったのが彼だった。
 彼は後から入ってきたセレスティを見て一瞬驚いた後、こんなところでお会い出来るとは、と顔を綻ばせた。
 聞けばずっとセレスティを見ていたらしい。
 いつもこの通りから屋敷を見上げると、窓際にセレスティが居て、遠くを見つめるその姿がこの世のものとは思えないほど綺麗であった、と。
 職業柄、モチーフになりそうなものには目が行ってしまうんです。
 照れながら小脇に抱えたイーゼルとキャンバスを見せた彼は、下町の画家だった。
 それから何度かの邂逅を経て、セレスティと青年画家は友人として交流するようになり、今はこうして見舞いに訪れてくれるようにもなった。
 そう、彼は画家なのだ。だから彼が手にしていた四角い布は多分―――
「今日はね、君に絵をプレゼントしようと思って持ってきたんだ」
「それは嬉しい。どんな絵を描いてくれたんです?」
「セレスの肖像画だよ」
 その言葉にセレスティは相手に気付かれぬような小さな溜息を吐いた。
(肖像画、ですか……)
 彼から自分の肖像画を貰うのは初めてだが、肖像画自体は今までも何点か他の画家から贈られている。
 肖像画だけでなく彫刻や交響曲など、一代で名を馳せた美貌の青年貴族を自分の芸術の中に昇華させたいと思う芸術家がこの街には多くいたのだ。
 しかし、セレスティは作品を贈呈されるたびに虚しさが募ってゆくのを感じていた。
 出来上がった物が、自分への賞賛であろうと、彼らの自己満足であろうとそれは構わない。
 その作品に対しての愛情が湧かないだけだ。
 肖像画や彫刻や音楽など、自分を閉じ込めた物を残す事にセレスティは疑問を抱く事が多い。
 何のためにそんな物を残すのか。
 限りある生や美を作品の中に留めて、後世に伝え愛でるためだろうか。
 その人物がそこに居た事を証明するためだろうか。
 どちらもセレスティには必要のない物だった。
 この先今あるこの姿のまま、セレスティはこの世界に在り続けるのだから。
 本人が存在するのに、虚飾に彩られた絵画の中の自分など不要な存在だろう。
 そう感じてしまうと、セレスティはもう自分の肖像画を好きになる事はなかった。
 風景画や静物画になら素直に感動出来るし、自分以外の誰かをイメージした物ならば癒される事もあるのに。
 だから青年画家がお見舞いにと持ってきてくれた絵画が自分の肖像画だと知って、セレスティは心の中で苦笑せざるを得なかった。
「ずっと描きたいと思っていたのだけれど、どうしても描けなかったんだ。でも、先日いつものように窓辺の君を見かけた時にふとイメージが湧いてね。気に入ってもらえると良いのだけれど」
「そうですか」
 内心の苦笑は表に出さず、受け取った包みを解いて中を見たセレスティは、一瞬目を見開いた。
「これは……」
 そこには今まで見た自分の肖像画の中にはない表情が描かれていた。
 やや俯き加減で、憂いを含んで細められたその瞳は足元よりももっとその下の、地の底を見つめるかのようだった。
「……気に入らなかった、かな……? ダメなら描き直すけど」
 反応のないセレスティの顔を覗き込むようにして青年が尋ねる。
 その問いかけにはっと顔を上げ、セレスティは微笑を作った。
「いえ、少し驚いただけです。他の方は、もっとその……」
「微笑んだ顔ばかりだから?」
「……ええ」
 青年の言う通りだった。
 他の画家達はいつもセレスティの微笑を描いていた。類稀なるその美貌を表現するのに最も適した表情だとばかりに、優美に微笑むセレスティ・カーニンガムを、白い画面の上に描いていった。
 確かにセレスティは滅多な事がない限りその微笑みを絶やさない。
 けれどそれは、他人を撥ね付けるための仮面の役目も果たしている。
 セレスティは人と深く関わる事を極力避けていた。親しい誰かが老いて死にゆくのを、自分だけが若く美しいままで看取るのはあまり好ましい事ではなかったから。
 老い、朽ちていく人の時間の中で何も変わらない自分の時。
 少しずつ腐食はしているのかもしれないが、それは動いているのか止まっているのか分からないくらいの緩やかな流れだ。
 そう、何十年何百年と変わらぬ笑顔で飾られている肖像画達のように。
 肖像画を好きになれない理由はもう一つ、そんな変化のない自分に対する自嘲と諦観のせいもあるのかもしれない。
 それを見抜ける人間などいなかったのに、この青年だけはセレスティの内に潜む暗い思いをセレスティ本人に絵という形で見せてくれた。
「どうしてなのか、僕にもよく分からないのだけれどね。セレスは時々、とても悲しい顔をしていると思ったんだ」
「悲しい、ですか」
「うん、悲しいと言うか寂しいと言うか、もしかしたらそれが君の本心じゃないかと思って。すまないね。折角描くんだから、やっぱり微笑んだ明るい表情の方が良かったかな?」
 何となくばつが悪そうに笑う青年の顔を見て、セレスティは小さく笑った。
「いえ、気に入りましたよ、すごく。有難う」
「そうか」
 安心したように破顔すると、青年は立ち上がって窓際に向かった。
 室内にもっと風を取り込もうと少し大きく窓を開けると、太陽を背にセレスティを振り返る。
「ねえ、セレス。悩んでいる事があったら遠慮なく言ってくれよ。僕で良ければ力になるから」
 外から吹き込む風が彼の体を横切り、セレスティの髪を揺らした。
 ―――僕は思うんだ。君は……―――
 彼がまだ何かを語りかけている。
 しかし風に運ばれてきたのか、急にまどろみがセレスティの瞼を押し下げる。
 次第に遠のく意識の中、青年の後ろに輝く太陽がセレスティの瞳に残像を残していった。

* * *

 低く唸るような音に目を開けると、薄闇が部屋を包み、程よい冷気を帯びた風が頬を撫でた。
 空調の切り替わる機械音に意識を覚まされ、今まで眠っていた事をセレスティはゆっくりと思い出した。
 僅かに汗ばんだ肌に張り付いた銀色の髪を指で取り払うと、首だけを巡らして窓の外を見る。
 そこに瞳を焼いた太陽はなく、綺麗とは言えない東京の大気の向こうで月が弱々しく輝いているだけだ。
 適度に冷やされ除湿された室内でもねっとりと重い空気を感じて、今自分がいるのはあの夏の日ではなく、暑く湿度の高い東京の熱帯夜なのだとはっきり認識する
「……懐かしい夢でしたね……」
 僅かに開いた唇から浅い吐息と共に呟きが漏れた。
 ただ一人、微笑まない自分を描いてくれた昔の友人の夢。
 最後の言葉は、なんと続いていたのか。
 先程まで見ていた夢なのにもう思い出せなくなっていた。
 外に向けていた視線を戻し、ほの暗い天井を暫く見つめた後、セレスティはだるい体を億劫そうに起こすと、ベッドの傍らの車椅子へと乗り移った。
 車輪に手をかけゆっくりと押し出す。広い寝室の片隅に車椅子を進ませると、少し高い位置にあるそれをじっと見上げた。
 今もまだ、自分はこんな顔をするのだろうか。
(そんな事はありませんよね……)
 あの時と、今と、世界は変わった。
 見た目と共に変わらないと思っていた心も、いつしか変化が見られた。
 それはやはり緩やかな流れだったけれど、不変を厭う灰色の感情を鮮やかな色彩へと変えるものだった。
 しかし、
「……やっぱり肖像画は好きではありませんね……」
 呟いて小さく苦笑する。
 それは偽りの自分がそこにいるから、などという理由ではなく、見せるのが少し気恥ずかしいから。
 もしも今、彼が傍にいて、いつの間にか思考の中心にいる可愛らしい姿に微笑んでいる自分を見たら、きっと喜んでくれただろう。
 これこそが彼の望んでいた表情なのだから。

 ―――ねえ、セレス。僕は思うんだ。君はそんな悲しい顔より笑顔の方が似合うって。君が、いつかきっとどこの誰よりも、幸せで素晴らしい笑顔が出来る事を願っているよ。


[ 真夏の邂逅/終 ]