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<東京怪談ウェブゲーム アトラス編集部>


安らぎの香りは危険な誘い(前編)

 いつものように、アトラス編集部は雑然としていた。人は頻繁に出入りするし、時に怒声にも似た声は飛び交うし、とかく騒がしい程の活気があるし、部外者が出入りしていても誰も気に止めるような余裕もない。そんな中、音切創は特に何をするでもなく、指の上で揺れるやじろべえに視線を落としていた。
 何しろ、決まった用事があってここにいるわけではない。けれど、オカルトを扱う雑誌の編集部のこと、不可思議な事件の話題には事欠かないし、うまくそういった事件に出くわせば、能力を使う機会にも恵まれるだろう。何分、「実験体」である創にとって、能力を使うことはほとんど義務なのだ。
 果たして、創の思惑を読んだかのように、勢い良くドアが開いたかと思うと、悲鳴じみた女の声がそれに続いた。
「月刊アトラスの編集部はこちらですか!? 今月の記事でお聞きしたいことがあるんです!」
 その声に、創は顔をあげてそちらに視線を向けた。
 よっぽど切羽詰まっているのだろう、30半ばと思われるその女は、肩で息をして乱れた前髪が額にはりついていた。けれど、それを気にする風もなく、鋭い視線で編集部の中を眺め回している。
 どうも事件の匂いがする。創は注意深くその女と、間が悪く押し出されて対応している冴えない編集員との会話に耳をこらした。
「ここ、この記事なんです」
 女が半ば震えた手付きで雑誌を開くのを横目で見ながら、創は近くに今月号が転がっていないか探した。さしたる苦もなく見つけたそれに手を伸ばせば、ちょうど横から別の手が伸びて来たところだった。
 長い黒髪を伸ばし、黒いゴシックな衣装に身を包んだ人形のような印象のその少女は、創と目が合うと、少し驚いたような顔をした。彼女もこの件に興味を持ったのだろう。
 創は軽く微笑んで雑誌を彼女に譲ると、客人と編集員の会話へと注意を戻した。
「中学生の娘が、眠ったまま目覚めないんです。お医者に見せても身体に異常はないと言われて……。枕元に香炉があって灰だけが残っているんですが……。多分、この香だと思うんです。この香について、詳しいことを教えてもらえませんか!?」
 客人の女性は口早に訴えた。確かに、娘が目覚めなくなったというのなら一大事だ。取り乱すだけのことはある。創は2人の会話を聞き逃さないように耳をそばだてながら、彼女の手許の雑誌にも目を凝らした。
「『街の噂』の頁みたいだ」
 未だ当該ページを見つけられないで苦戦しているらしい傍らの少女に、見出しの文字を伝える。
「それは大変ですね」
 事態の重さを感じたのだろう、奥に座っていた女性編集長が、女の前へと歩みでた。彼女にねぎらいの言葉をかけると、冴えない編集員を振り返る。
「三下君、資料を出してちょうだい。記事に載せたからには当然、追加取材はしてるわよね? 現物くらいは手に入れてるんでしょう?」
「ええっ?」
 編集長の言葉に、三下と呼ばれた編集員は大袈裟に驚愕の声をあげた。
「……まさか」
 途端に編集長の眼差しが鋭い光を帯びる。
「だ、だ、だって、このコーナーは『噂』って……」
 言い訳をする三下の声は消え入らんばかりに弱々しくなっていった。
「人の命がかかってるのよ、すぐに調査しなさい、徹底的によ、て・っ・て・い・て・き。この意味、わかるわね」
「……はい」
 宣告のように下された命令に、しゅんとなる三下を見て、創と少女はそろって「あーあ」と溜息をつく。
 辣腕女編集長は、依頼人の女性に向き直ると、残っていた灰を持って来てくれるように頼み、女性は頷いて編集部を出て行った。途端に、編集部にざわめきが戻る。
「で、例の記事はどうなってるの?」
 どうやら記事を探し当てたらしい少女に尋ねると、少女は開いたページに目を落とした。2人して、香の記事を探す。それは、うっかりすれば見落としてしまいそうに小さな記述だった。
「ええと……『女子中高生の間で流行。過去を呼ぶという不思議な香』?」
 少女が確認するかのように読み上げたタイトルの続きを、創が引き継いだ。
「『焚いて眠れば過去の夢を見られるという香が、女子高生の間で密かに流行っているという。何でも、香は時折街中で配られているそうで、それがまた不思議な気分を盛り上げているらしい。人との繋がりが希薄と言われる現在、何が女子中高生を懐古主義へと駆り立てるのか』か……。ということは、その目覚めない子は、今過去の中にいることになるのか」
 記事の中身を口ずさみ、ぽつりと呟きを漏らすと、傍らの少女が軽く肩をすくめた。
「過去は居心地が良いから囚われているのかしら? 過去は記憶の中で組み立てられた主観的なものでしかないわ。記録とは違うもの。輪郭をなぞっていくうちにだんだんあやふやになっていくものよ。それに自分だけの閉じた世界って感じじゃない。刺激がなくってつまんないと思うんだけど」
 そのすっぱりした物言いに、創は思わず苦笑を浮かべた。確かに彼女の言うことは正しいけれど、そう簡単に割り切れる人間はきっと、そう多くはない。
「だってあたしは見たい過去なんてないもの。忘れっぽいし。でも香の正体は気になるから調査してみようと思うんだけど。あの三下って人も困ってるみたいだしね」
 さすがに少し気が引けたのか、少女はやや口調を緩めて言葉を足した。
「うん、香の正体も気になるけど、そんな香が街中で配付されてるなんていうのも少し奇異な感じがするな。流行っているなら、売ればそれなりのもうけになりそうなのに、そのあたりがうさん臭い。まるで不特定多数の人に過去を呼ばせようとしてるみたいで」
「それもそうね」
 創の方も気にかかっていることを口にすると、少女も大きく頷いた。
「どっちにしろ、調査するなら街に出て現物を手に入れるのが先決だな。女子中高生に協力してもらえれば手っ取り早そうだけど……」
「それなら任せて」
 創が呟きまじりに言うと、少女はにこりと笑みを返した。そのまま三下の方を伺うと、つかつかと歩み寄って行く。当の三下はというと、ちょうどその時、この少女と大して年も変わらないであろうおっとりとした少女に泣きついているところだった。その姿は、傍から見ていても「情けない」の一言に尽きる。
「ねえ、ちょっと、三下って人!」
 歩み寄って行った少女は、2人の会話が一段落したのを見計らって勢い良く割り込んだ。三下はびくりと身を震わせると、おどおどした顔を向けた。いかにも「いじめて下さい」と言わんばかりだ。
「変装用の制服持ってない?」
 少女がぐっと顔を近付けると、案の定、三下は大袈裟に目を白黒させた。
「せ、せ、制服ですか? ぼ、僕がっ?」
 慌てて答えた声までが裏返っている。あまりの情けなさに、見ていた創までもが、つい失笑を漏らさずにはいられない。
「からかっただけよ」
 喉の奥でキヒヒッと引き攣るような笑いを漏らしながら、少女は引き下がった。
「制服でしたら、わたくしが持っております。妹を参考にセーラー服ですが」
 おもむろに、三下の相手をしていた少女が口を開いた。その言葉に改めて見れば、彼女はこの暑い盛りだというのに冬物の漆黒のセーラー服に身を包んでいる。けれど、その出で立ちよりも、長く伸ばされた闇色の艶やかな髪と、どこか大人びてはいるものの、世間ずれしていない神秘的な雰囲気が人目を引く。
 少女はゆっくりとした手付きで、荷物の中から制服を取り出した。自分が着ているのと同じ、いかにも暑そうな冬物の漆黒のセーラー服だった。確かに制服は制服に違いないが、この時期、冬服を着て街を歩くというのはいかがなものだろうか。
「……いいわね、貸してちょうだい」
 いくばくかの迷いの後に、人形のような少女はにこりと微笑んでそれを受け取った。
「あたし、ウラ・フレンツフェンよ」
 そのまま名乗ると、相手のセーラー服の少女もまたおっとりと微笑んで丁寧に頭を下げる。
「海原みそのと申します」
「これで、囮捜査兼、女子中高生への聞き込みができやすくなるってことだな。ああ、俺は音切創ね」
 創はすかさず自己紹介に便乗しておいた。調査はこの2人とすることになるのだろう。
「今どきの女子中学生に聞き込みですか。浪漫があっていいですね」
 創の言葉に、みそのはうっとりと微笑んだ。
「じゃ、着替えてくるから。三下、覗かないでね」
さくりと言いおいて、ウラは編集部の奥へと姿を消した。
「そ、そんなことしませんよぉ」
 ようやく返した三下の言葉は、相手を失って虚しく宙を漂う。
「あとは起きなくなったお嬢様にお会いして『流れ』を読みたいところですね」
 三下に構う風もなく、みそのはおっとりとした笑みを浮かべて話を続けた。
「ああ、俺もその娘さんには会いたいね。対処法がわかるかもしれない。けど、親御さんが今一度家に戻ってるから後でだな」
 さらりとした口調で創がそれに答え、みそのもゆったりと頷く。
「ねえ、似合う?」
 着替えを済ませて出てきたウラが、漆黒のスカートの裾をそっと摘まみ上げた。
 確かに、似合うことは間違いなく似合う。先程までもゴシックな感じの黒い洋服を着ていたわけだし、漆黒のセーラー服は、彼女のストレートな黒髪や白い肌によく映えていた。けれど、何というべきか、女子中高生らしいかと言われると、これはみそのにも言えることだが、彼女たち特有の俗っぽさのようなものが感じられない。
「ええ、とっても」
 創が答えに困っているうちに、みそのがにっこりと微笑み、ウラはそれに「ありがと」と極上の笑みを返した。ウラはそのまま、つかつかと三下へと歩み寄る。
「ねえ、どこに行ったら香の配付人に会えるの?」
 半ば命令口調に近い語調のウラの問いに、三下がびくりと身体を震わせた。
「え、駅前とか繁華街とか、人の多い場所……の近く、だそうです」
「そ、ありがと」
 そんな三下にどこか「女王様」めいた笑みを向けて、ウラはみそのたちを振り返った。
「じゃ、決まりね。行きましょ」
「ちょっと待ってちょうだい」
 今にも出かけようとした3人を止めたのは、奥の編集長デスクに座る碇麗香だった。
「今、他の助っ人にも声をかけてあるの。こっちに向かっていてくれているから、もうちょっと待っていてちょうだい」
「助っ人? 他にも?」
 軽く首を傾げた創に、碇は大人びた笑みを向けた。
「ええ、こういう件ではとても頼りになる人よ。あなたたちとの相性も良いと思うわ」
 と、不意にまなじりを釣り上げて、きつい眼差しを三下に向ける。
「これというのもみんな、三下くんが使えないから、なんだけどね」
「あわわわわ、す、済みません」
 まだ助っ人が来ると聞いてすっかり顔の弛んでいた三下は、碇の容赦ない一言にあわてて目を白黒させた。
 そうこうしているうちに、編集部の扉が叩かれ、2人の男性が入って来た。杖をついて長い銀髪を背に流した絶世の麗人に、彼に付き従うようにしている、これまた端正な長身の金髪の男。およそ雑然とした編集部に相応しくない洗練された2人が、碇の言う助っ人であることはすぐに知れた。
 2人の方も、すぐにみそのたちが協力者だと悟ったらしく、軽い会釈を返してよこした。自然と、自己紹介をする流れになる。銀髪の麗人はセレスティ・カーニンガムと名乗り、金髪の部下をモーリス・ラジアルと紹介した。
「では、これからどうしましょう」
 年長者としての役割か、どこか老成されたその雰囲気からか、自然とセレスティが場を仕切るような空気になった。が、その言葉には、創たちの意志を伺うような柔らかさがあった。
「まず、街に出て現物を入手するのが先決だと思う。その後で、眠ったままの娘さんの様子を見たい」
「そうそう、そのための制服なんだから。うまくすれば配付人に接触できるかもしれないしね」
 その言葉に答えるように創が先程までの計画を口にすると、ウラが即座に同意を示す。スカートの裾をつまんでくるりと一回転すると厚みのある布が宙を舞った。
「ええ、今どきの女子中学生にお話をお聞きするのも浪漫があっていいですわね」
 ワンテンポ遅れて、うっとりとした口調でみそのも言葉を足した。
「では、そちらの方はお願いしますね。私とモーリスはここに残って、灰の方から香について探ってみます。娘さんのお宅には、後で親御さんの許可を頂いて参りましょう」
 セレスティがたおやかな笑みで計画をまとめると、傍らで忘れられていた三下が情けない声を出した。
「あの……。僕は……」
「おまえは来なくていいわ。怪しいおじさんがいたところで邪魔なだけだもの」
 おどおどと言いかけたその言葉を、ウラが容赦なく一刀両断に斬って捨てる。
「そんなぁ……」
「三下くんは残っていて下さい。やってもらうことがありそうですから」
 たじたじと数歩退いた三下に、モーリスは笑顔を向けた。けれど、その声にもフォローの色は見られない。
「じゃ、行ってくるから」
「じゃあね、三下」
「行って参ります」
 そんな三下に構うことなく、みそのたちは思い思いの挨拶を残して編集部を後にした。

「賑やかですわね」
「本当。どっからこんなに人が湧いてくるのかしら」
 駅前の喧噪に目を細めたみそのの言葉に、ウラも呆れたように溜息をついた。
「とりあえず、配付人らしいのは見当たらないな」
 夏の陽射しを遮るように掌をかざして、創はあたりを見回した。駅前には昼間から、それこそウラの言うように、老若男女を問わずたくさんの人が溢れているし、ティッシュやら化粧品の試供品やらを配っている人間もいるが、どうも香を配っているような人間は見当たらない。
「そう……ね」
 冷静な創の言葉に、ウラも注意深く周囲を見回して、低い声で答えた。が。
「あのう、もし……」
 1人マイペースなみそのがいつの間にかさっさとその辺の高校生らしき少女をつかまえて声をかけていた。キンキンに髪を染め、厚い化粧をして元の人相が全く伺えなくなっているような、ある意味「今どきの」ではあるが、平均的な範囲に入るかはかなり微妙な少女たちだが、みそのにはそれに構う様子もない。
 ウラも慌ててそこに駆け付け、話題に加わったようだったが、創は彼女たちに加わる気にはなれなかった。
 どうも、人のペースも考えずに中身のないことをただぺらぺらしゃべっては、遠慮のない笑い声を上げるあの手の少女には近付く気にはなれない。近付いたら最後、どこまでも侵入してこられてしまいそうな無遠慮さがあるのだ。
 第一、彼女たちが、とても過去を夢見てそれに囚われるような繊細さを持ち合わせているようには思えない。ウラとみそのも彼女たちに捕まってしまったようで、このままではウラたちが配付人に声をかけてもらう可能性も低くなってしまうかもしれない。
 創は大きく溜息をつくと、傍らの路地の入り口に腰を下ろした。ほんの少し路地に入っただけで、大通りの喧噪ははるかに遠いものとなる。
 さてこれからどうすべきか、と創はもう1つ溜息をついた。やはり、出て来る前にもっと作戦を練っておくべきだったのかもしれない。
「……こんなはずじゃなかったんだけどな」
 誰に言うともなく独りごちた創の肩が、不意にとんとんと叩かれた。慌てて振り向いた創の目の前に、小さなセロファン紙の袋が差し出される。ほんの微かながら、甘ったるい香りが鼻先をかすめる。思わず顔をあげると、いつの間に現れたのか、目深に帽子を被ったうす汚れた男が目の前に立っていた。
「あんたが、香の配付人?」
 半ば反射的に袋を受け取りながら、創は男を注意深く見詰めた。が、深く被った帽子のせいで、男の表情は伺えない。
「何が目的でこんなことしてる?」
 黙ったままの男にさらに問いを重ねると、男は重い口を短く開いた。
「求める者がいる。この世界の『今』を否定したあなたのように」
 その声には、どこか遠いところから聞こえて来るような奇妙な響きがあった。
「『今』を否定……」
 創は思わず低い声で呟いた。確かに今、「こんなはずじゃなかった」と思ったし、「ああしておけばよかった」とも感じた。けれど、それは「『今』を否定する」というような大袈裟なものではなかったはずだ。
「目が覚めなくなった子もいるっていう代物をそんなに簡単に?」
 さらに問いつめても、男は動じた様子も見せない。
「これを必要とする者がいるように、私もそういった者を必要としている」
 どこか当を得ない回答に、創がどう返そうか考えあぐねたその時、異変に気付いたらしいウラが駆け付けて来た。
「ちょっと、香を配っているのはお前?」
 わずかに息を乱しながらも、ウラが勢い良く尋ねると、男はわずかに顔をあげた。目深に被った帽子のせいで、その顔までは伺えないが、わずかに笑みを浮かべたのが気配で伝わってくる。
「あなたは、私を必要としていない……」
 静かにそう呟くと、男はくるりと踵を返した。そのまま路地の奥へと歩いて行く。決して足早に歩いているようにも見えないが、その姿は思いがけず速く遠ざかっていく。
「待ちなさいよ!」
 ウラは後を追うべく、足を踏み出した。けれど、追いつけそうにないと悟ると、くるりとそのままステップを踏み、リズムよく手を打鳴らす。それに呼応するように、空を裂く稲妻が、威嚇するように男の足元に落ちた。当の男は、足を止めたと思いきや、その姿が霧のように消えてしまう。
「何よ、あいつ……」
「この世の者じゃないな……」
 苛立ちを隠さずに呟いたウラに、創は乾いた声で頷いた。
「取り逃がしたのは残念だけど、とりあえず戻ろう。配付人にも接触したし、香も手に入れた。一応の目標は達成したわけだし」
 言って創は、小さな紙袋を見せた。
「……そうね」
 まだまだ収まらない様子のウラだったが、これ以上ここにいても仕方がないというのはわかっているらしい。不承不承といった様子ながらも、創の言葉に頷いた。

「ただいま戻りました」
 みそのは優雅に挨拶をしながら、ウラは無言のままで、創が開けた編集部の扉をくぐった。
「あ、お帰りなさい」
 三下がすぐに迎えてくれるが、編集部に残っているはずのセレスティとモーリスの姿は見当たらない。
「あの、セレスティさんたちなら出かけられました。依頼人さんのお宅には、直接向かうので、先に行っておいて下さい、だそうです」
 3人が口を開くより早く、三下が留守番をしていた子どものように、伝言を口にした。
「『だそうです』じゃなくて、あなたが彼らと一緒に行きなさい。依頼人氏に対応したのは三下くんなんだから」
 自分の役目を果たしたと言わんばかりの顔をした三下に、すかさず編集長席の碇から声が飛ぶ。
「は、はいっ」
 パブロフの犬よろしく、条件反射的に三下は背筋を正す。編集部のあちこちから、押し殺した失笑が漏れた。

 都心の喧噪からやや離れた閑静な住宅地に、依頼人の家はあった。特別大きいわけでも小さいわけでもなく、変わった外装をしているわけでもない。ごくごく普通に周囲に溶け込んでいる。
 三下が緊張した面持ちで呼び鈴を押すと、出て来た母親が4人を招き入れてくれた。
「さっそくですけれど、お嬢様にお会いできますか?」
 4人を居間に通し、茶でも出そうかと用意しかけた母親は、みそのの言葉に戸惑ったように動きを止めた。
「ああ、どうかお構いなく」
 創が言葉を足すと、母親はやや躊躇いがちながらも頷いて娘の部屋へと通してくれた。
 そこは、淡い色調で整えられた、ごく普通の女の子の部屋だった。調度品は少なく、すっきりとまとまった部屋の隅に置かれたベッドで、少女は気配さえ感じさせないくらい静かに眠っていた。
「……とても幸せな夢を見ているようには見えないわね」
 4人に一礼を残して母親が出て行った後で、ウラがぽつりと呟いた。眠っている少女の様子は、幸せな笑顔を浮かべているわけでもなく、苦痛に満ちた表情をしているわけでもなく、凪いだ水面のようであり、まるでよくできた人形のようだった。あたかも魂が抜けて、抜け殻にでもなってしまったかのように。
「三下さん、ちょっとこっちに来て」
 おもむろに創が部屋の入り口あたりに立っていた三下を手招いた。唐突に何か言われても逆らえないのが三下の性だ。不安げな顔をしながらも、ひょこひょこと創の側へと寄ってくる。
「ちょっとこの子と入れ替わってくれる?」
 創は組み換え師だ。現象等の組み換えをすることができる。「実験」を兼ねて、ここで三下と少女の状態を組み換えれば、解決の方法も探れるかもしれない。
「入れ替わるって……」
「大丈夫、ちゃんと元に戻すから」
「またですかぁっ!?」
 三下の泣きの入った訴えは、何が「また」なのかわからない創によって、またも綺麗に無視され、その身体は床へと崩れ落ちた。代わって、ベッドの少女が、ゆっくりと上体を起こす。
「何したの、今?」
 興味津々といった面持ちで、ウラが目を輝かせた。
「現象の組み換え。一時的にだけど、この子と三下さんの状態を組み換えたんだ。これで、どんな過去に囚われているかが聞けるはず……」
 軽く説明を返して、創は少女の方へと視線を向けた。が、少女は薄く瞳を開いたものの、ぼんやりとした視線を宙に浮かしているだけだった。
「ご自分のお名前、おわかりになりますか?」
 思わず訝しげに眉を寄せた創の横で、みそのが穏やかに尋ねた。
「な、まえ……」
 少女は茫然と、抑揚のない声でみそのの言葉を繰り返した。不意に何も映していないような瞳に怯えたような色が浮び、細かく震え始める。
「あ……、あ……、何……。真っ暗で……、あ……」
「生まれる前の世界に迷いこんでしまわれたのですね。大丈夫、大丈夫ですよ」
 ともすれば恐慌状態に陥りそうな少女を、みそのは柔らかく抱き締めた。そのまま創に、元に戻すように促す。創の能力で再び状態を組み換えられた少女は、静かにその身体をベッドへと横たえた。
「ねえ、どうなってるの?」
 傍らで見守っていたウラが小首を傾げる。
「始原の闇、渾沌……。ものに名前がつく前の、区別というものがない世界。そういった世界に迷い込んでしまわれたようです。ご自分が生まれる前の、自分が誰かわからない世界に」
 軽く目を伏せて、みそのが2人に説明してくれる。
「つまり、究極の過去ってことか……」
 創は軽く眉を寄せると、溜息をついた。
「ええ、こちらに戻ってきて頂くには、ご自分を見つけて……、ご自分が誰で、どんな方か思い出して頂く必要がありそうですね」
 みそのは再び凪いだ水面のような寝顔を浮かべる少女を見下ろして、静かに続けた。
「迷い込むのは簡単だけど、帰ってくるのは大変そうだね。……っていうことは、さっきこの子と状態を入れ替えた三下ってどうなるわけ?」
 不意にあがったウラの甲高い声に、3人は先程から一言も発さない三下へと視線を転じた。案の定、そこには、床に座り込んだまま、ずれた眼鏡越しに虚ろな視線を宙へと泳がせた三下の姿があった。

<了>


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1388/海原・みその/女性/13歳/深淵の巫女】
【3579/音切・創/男性/18歳/実験体(組換能力体)】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【2318/モーリス・ラジアル/男性/527歳/ガードナー・医師・調和者】
【3427/ウラ・フレンツフェン/女性/14歳/魔術師見習にして助手】

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■         ライター通信          ■
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こんにちは。ライターの沙月亜衣と申します。
初めましての方も、二度目ましての方も、今回のご依頼にご参加いただき、まことにありがとうございます。
そして、私の方の事情で納品が遅れてしまい、大変申し訳ありません。
また、今回は余裕がなくなってしまいましたので、勝手ながら個別のコメントはご容赦下さい。重ね重ね申し訳ありません。

今回、5名ものPC様を預からせて頂くのは初めてでしたが、非常にバランスのとれた構成で、楽しんで書けました。
私の予想以上に能力の高いPC様が多かったため、だいぶ込み入った真相になって参りましたが、楽しんでいただければ幸いです。
なお、オープニング段階で申していた「してはいけないこと」は、「途中で誰も止めてくれる人がいない状態で、眠っている少女の夢に潜り込む、あるいは同調する」ことでしたが、今回、音切さんの能力によって、三下くんにアウト判定を出させて頂きました。後編では少女に加えて、三下くんも救ってあげて下さい。

なお、後編は、私個人の事情がありまして少し間が空いてしまうのですが、9月の中ごろに窓を開けたいと思います。気が向かれれば、ご参加いただけると幸いです。

また、ご意見等ありましたら、遠慮なくお申し付け下さい。できるだけ真摯に受け止め、次回からの参考にさせて頂きたいと思います。
それでは、またどこかでお会いできることを祈りつつ、失礼致します。本当にありがとうございました。