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<東京怪談ノベル(シングル)>


紙飛行機

 ひとり紙を折る。
 折り紙という遊びを覚えたのがいつごろだったのか、照亜未都自身もよく覚えていない。小学校か、幼稚園か、それともそれらに通うようになる以前のことか。いずれにしろ物心ついたころから、未都は折り紙だけでなく、手でなにかをつくるという行為そのものが好きだった。思い通りのものを作り出せる手が未都の自慢だった。なのに。
「なのに、どうして」
 知らず口元からつぶやきが洩れるのがまるで他人事のようで、慣れた手は意思とは無関係に紙を折っていく。
「どうして……?」
 紡がれる言葉とはまったく無関係に、手はただ紙を折り続ける。
 なにかに操られるようにして。


 未都のこころは手に宿っている。
 それは普通連想されるような比喩的な意味を宿していない。照亜未都という少女の意思、思考、経験、記憶。要するに精神とか、あるいは魂と呼ばれるものは、いつのころからか未都の手、正確に言うならばいつもはめている手袋に存在していた。
 体を動かすことはできる。唇を動かして言の葉をつむぐこともできる。未都の場合、それを肉体に指示するのも、会話によってものを考えるのも、脳ではなく手袋の役割なのだった。未都は脳で考えておらず、文字通り手で考えているのだ。
 ――それって、普通じゃないよね?
 いつから、そしてどうして、こんなことになってしまったのか、未都自身にもよくわからない。
 未都はもう十二歳。中学生になったばかりだった。もう子供ではないと自分では思っている。まだ大人ではないかもしれないが、もう子供でもない。すくなくとも、今の自分の状態が尋常のものではないことはわかる。
 たとえばクラスメイトに、たとえば親に、自分の心は本当は手袋にあるのだと言って、信じてなどもらえない。未都だって自分がそうでなければ信じない。
「どうして、こんなことになっちゃったの……?」
 つぶやいても誰も答えてはくれない。

 ことさらに得意なのは、紙飛行機だった。たとえば鶴を折るのもきらいではないが、優美にひろげた折り鶴の羽は飾り物で空を飛ぶことはできないのを未都は知っていた。飛べない鳥は真の意味で鳥とは呼べないが、紙飛行機は自分の手で飛ばすことができる。だから未都は紙飛行機を折るのが好きだった。
 手袋をつけたままでも、いや、だからこそだろうか、未都の手は正確に紙を折ることができる。正方形の紙の角を合わせ、するりと手を滑らせて折り目をつけ、手順どおりに形をつくっていく。それは彼女にとってはなんでもない、呼吸をするように簡単なことだったが、小さいころはよく周囲から褒められた。褒められると嬉しくなって、折り紙だけでなく、編み物やお裁縫、刺繍や工作など、器用さを活かすためにいろいろなことに挑戦した。
 そんなことを思い出すと、やにわに心の表層に浮かび上がってくる声がある。

(本当に器用だな、未都は)

 低いやさしい声。いつくしむような響き。
「お兄ちゃん」
 知らず知らずのうちにつぶやいた呼び名がまるで魔法の呪文だったかのように、ただうつろに仕事を続けていた手が動きを止めた。



(本当に器用だな、未都は)
 ほんとう?
(本当さ。お兄ちゃんなんか不器用だから、尊敬するよ)
 未都、図工とか、家庭科とか、クラスでいつも一番なんだよ。
(へえ、すごいな)
 うん、すごいでしょ。

 そのころはまだ、未都は普通の人間だった……ような気がする。年上の「お兄ちゃん」はもうずっと前から未都のあこがれで、声も表情ももう心の中で何度再生したかわからない。まじめで頼りがいのある男の人に、親もあきれるくらいべったりくっついていた記憶がある。

(未都はなんでもでできるんだな)
 今、お料理も勉強中なんだよ。
 うまくできたら、……。
(ん?)
 うまくできたら、食べさせてあげるからね。
(ああ、楽しみにしてるよ)

 のみこんだ言葉は結局お兄ちゃんには伝えられなかった。どうしても言うことはできなかった。
 お料理が上手になったら、お兄ちゃんのお嫁さんになりたい。もしそう言ったとしても、お兄ちゃんがそれを笑って流してくれるだろうなと思っていた。自分の言うことでお兄ちゃんが困ったりしないとわかっていた。でも、いや、だからこそ、未都はそう言うことはできなかったのだ。
 未都なりに真剣だった。あいまいに流されたりするのを見たくはなかった。もっと大きくなって、もっときれいになって、いつかお兄ちゃんがびっくりするような女の子になれれば、そんなふうに思うことはなくなるのだと闇雲に信じていた。
(お兄ちゃん)
 おぼろげにひとつのイメージが浮かび上がる。
 刺すかのような全身をさいなむ苦痛。遠のく意識の中真っ赤に染め上げられた視界。
 そして、未都のこころを呑み込もうとする、黒い深い昏い虚無。
 確かな記憶はない。そんな体験をした気がするという、模糊としたただのイメージにすぎなかった。けれどこのときを境に、確かに自分は変わったのだと、それだけは確かな確信がある。
 全身から力が失われ心が閉じていく。記憶でありながら、未都の心はもう一度そのときの出来事をなぞっていた。この虚無に心をまかせればあとは苦痛など感じないのだと、教えられもしないのになぜか知っていた。ただ抵抗をやめて、力を抜いて己をこのくらやみに委ねればいい。
 それなのに未都のどこかが、しきりに抵抗の意志を示していた。
(たすけて。お兄ちゃん)



 いつのまにかうたたねしていたらしい。身を起こすと、目の前には完成した折り紙の飛行機がひとつ、文房具を入れている缶に寄りかかっていた。手を伸ばそうとして、未都は、自分の目元が濡れているのに気がついた。
 ひどく懐かしい夢を見ていた気がする。
 涙はまるで夢の残滓のようだった。ごしごしと瞼をぬぐうと、それまで心を覆っていたわずかな夢の記憶すら消えてしまう。その仕草はさながら、無意識のうちに、それが夢だったことを確かめるようだった。
 涙をぬぐった手はいまだ手袋に覆われている。ふとそれを見下ろして未都は沈黙した。
 落ちたつぶやきは果たして、意識してのものだったのだろうか。
「お兄ちゃん……?」
 夢の中で、暗い深い怖いところに連れて行かれそうになった気がする。
 誰かに手を握って、ここから引っ張り出してほしいと泣いた気がする。
 そのとき自分が親でもなく友達でもない「お兄ちゃん」を呼んだことを思い出す。赤ん坊のように泣いたことを思い出す。夢の余韻を反芻して、ふと、はじめて未都はわかったような気がした。
 ここにこうして自分の存在する意味が。
 自分の意思がこうして肉体ではなく手に宿ったのは、いつか、あのひとに手を握ってもらうためなのかもしれない。

 鍵を開けて窓を開ける。
 空を切り取った窓から上半身を乗り出すと、青い高い空が痛いほどに目を焼いた。
(いつか、お嫁さんに)
 紙飛行機を構えて、空に向かって思い切り投げてみた。
 ちいさな未都の手から解き放たれた紙飛行機は、まぶしい太陽に照らされながら、風にのって空高く上昇した。