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このチカラは誰のため
音を立てて流れ落ちる水。
小さくても滝は滝。
降りかかる水流は重く、痛いこと痛いこと。
「くぅ‥‥」
苦しそうな吐息を水鏡千剣破が漏らした。
滝に打たれる荒行の真っ最中である。
白装束が水に濡れて透け、端整な顔立ちが苦痛に歪む。
男性の九九・九八パーセントくらいが生唾を呑み込みそうなシーンだが、むろんここは神域である。
男どころか、関係者以外立入禁止だ。
だから、誰の目も楽しませることができない。
「楽しませるわけに‥‥やってるわけじゃない‥‥」
ぎりり、と、奥歯を噛みしめる少女。
ものすごく真剣だ。
まあ修行というものは、たいていは真剣にやるものではある。
そうでないと鍛えられない。これは当然のことなのだが、修行したからといってすぐに強くなるわけでもない。
スポーツや格闘技と同じだ。
練習の成果がすぐに形になることはないし、まったく成果が出ないこともある。それどころか練習の仕方が間違っている場合、逆に弱くなる事も珍しくない。
ウサギ跳び、などが有名だろう。
この運動は、まったく鍛える効果がない。
むしろ膝と腰に必要以上の負担を与え、かえって怪我の原因になる。
いまでこそこんなトレーニングをする運動部はないだろうが、一昔前は定番のトレーニングだった。
有名なスポーツアニメでも主人公がウサギ跳びをしているシーンがある。
プロスポーツ選手だって、昔はやったらしい。
ウサギ跳びで石段を登ったりとか。
実際に故障して選手生命を断たれたものもいる。
こうなると、無益を通り越して有害である。
千剣破の神社の石段も、かつてはそういう人たち往来したものだ。
もちろん、彼女が物心つく前の話だから、憶えているわけがないが。
「はぁっ!!」
ざん、と、腕を振る千剣破。
滝の中から。
右手に現れる半透明な剣。
陽光を受け、きらきらと輝く。
流れ落ちる水が、剣の形を成したのだ。
「やったっ!」
おもわずガッツポーズを作る。
やっと、カタチを作れるようになった。
水には形がない。
流水のたとえもあるように、その場に留め置くことも簡単ではない。
それを、意思の力で繋ぎ止める。
千剣破の能力とは、すなわち、水操である。
いままでだってサボっていたわけではないが、あの戦い以来、よりいっそう訓練に熱がこもった。
明確に目標ができたから。
あの男との決着をつけること。
そして、自らの身体に宿るこのチカラを、
「完全に制御するっ」
ぶん。
言葉とともに振るわれた水剣が、水平の虹を描いて大気を切り裂く。
人類は地球の覇者だという。
だが、その覇者とやらにもできないことは数多い。
死者を蘇らせること。
時の流れを逆転させること。
他にもいくらだってある。
そして自然の猛威の前には、人間の持つ知恵など何の役にも立たない。
その日、千剣破の住む地域に集中豪雨があった。
未明から降り続いた雨は、やむ気配すら見せずに激しさを増し、正午すぎには降雨量が四〇〇ミリメートルを超えた。
そして深夜。
「河川の増水に注意が必要です」
無機質なアナウンサーの声が、テレビから流れてくる。
じっと、画面を見つめる千剣破。
青と黒の瞳に映る川面。
普段ならば、人々に恵みをもたらす河。
だが、牙を剥いたとき‥‥。
「あたし、ちょっと見てくるっ!!」
いきなり席を立って、少女が走り出す。
訓練の成果か、あるいはただの虫の知らせか。鋭敏になった彼女の感覚は、堤防の決壊が近いことを告げていた。
びっくりして両親が押しとどめようとするが、むろんそんなことで止まる千剣破ではない。
「あなたたちが育てた娘よっ! 変なことをするわけないでしょ!!」
などと言い残して、家を飛び出してゆく。
なかなにか立派な台詞だが、変なことはともかく無茶なことは何度もしている千剣破だった。
それを知っている両親は、心配そうに視線を交わし合ったものである。
「きたっ!」
雨の街を懸命に走る千剣破。
ごごご、と、大地が唸り、大気が鳴動する。
堤防が破られたのだ。
ついに水竜が、人間どもに対して牙を剥いた。
「急がなきゃっ!」
叩きつける雨も滝行だと思えば、
「苦しくなんかないんだからっ」
走る走る。
堤防の決壊がはやすぎる。彼女が家にいたとき、避難勧告は出ていなかった。あれから一〇分も経っていないのだ。
仮に勧告が出されていたとしても、とても避難が間に合ったとは思えない。
と、濁流が足元に流れ込こんできた。
「くっ!?」
驚く暇もあればこそ、みるみる水位が上がる。
膝を流れに浸しながら、さらに進む千剣破。
青年団だろうか、必死の救助活動をおこなう人々を励まし、かつ励まされながら堤防を目指す。
危険きわまる行為。
両親が心配するのも当然だが、彼女なりの成算がある。
「危険だっ! さがりなさいっ!!」
土嚢を積んで流れを引き留めようとしていた青年が怒鳴る。
「大丈夫」
ほとんど何の役にも立っていない土嚢にちらりと視線を投げ、堤防へと向かう千剣破。
まるで巡礼者のように。
人柱になりにいくのかとおもった、とは、後日になって青年団員が語ったことである。
むろん千剣破は死ぬつもりなどない。
両手から、ゆっくりとチカラを解放してゆく。
大丈夫。できるはずだ。
滝を逆流させたり、流れを止めたり、つらい修行をしてきたのだ。
それの延長線にあるのだと思えばいい。
自分に言い聞かせる。
彼女がしようとしているのは、水の流れを変えること。
いま、堤防の破損箇所には強烈な水圧がかかっている。
これを取り除き、通常通り下流へと向かわせてやのだ。
「いくわよっ!!」
チカラを解放し、一気に水を押し戻す。
水が一瞬で、沸き上がる歓声。
まさか千剣破がやっているのだと思うものはいないだろう。
もちろん、長時間に渡って支え続けるのは無理だ。
住民の避難が終わるまで、二時間、否、一時間で良い。それだけ持ち堪えれば充分だ
「気合い入れていくよ‥‥」
輝きを増す、青い左目。
降り続く雨が、黒髪を頬に貼り付かせていた。
エピローグ
台風一過、という言葉がある。
大荒れに荒れた天気も、すぎてしまえば気持ちの良い青空が広がる。
この日の大雨で、街は大きな損害を出した。
しかし、奇跡的に、死者も重傷者もでなかった。
強烈な不運だったが、それでもこれはささやかな幸運だ。
「命があって良かった」
と、住人たちはほっと胸を撫で下ろしたものである。
むろん、そこに超常現象が関与していたこと、それを引き起こしたのがオッドアイの少女であることを、人々は知らない。
知らなくても良いことだ。
「んー‥‥良い天気っ」
大仕事を終えた千剣破が、泥だらけて大きく伸びをした。
視線の先には蒼穹。
無限の連なりをみせている。
どこまでもどこまでも。
おわり
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