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<東京怪談ノベル(シングル)>


あちこちどーちゅーき 〜夕涼み〜

 ――ピン。

 弾いたコインに反射した光が閃いた。
(……あ)
 それが宙に描く弧を見失う。カラン、と軽い音を立てて、アスファルトの上をコインが転がった。
(ついてませんね。よりによってこれを落とすなんて)
 桐苑敦己(きりその・あつき)は、軽く眉をひそめながらそれを拾う。
 目の前にはY字路があった。その先に、オフィス街に続く北への道と、歓楽街らしい西へ向かう道がそれぞれ続いている。
(――どちらにしろ、あまりいい予感はしませんが……)
 岐路を前に、しばし黙考した。
 日差しが少し和らいだ午後とはいえ、風のない真夏日だ。屋根のない場所でいつまでも立ち止まってはいたくない。
(……さて、どちらに向かいましょうか)

 とりあえず北へ向かうことにした。
 続くのは都会らしい乾いたアスファルトだ。周囲を見まわすと、オフィス街らしくビルばかりが続いている。
 終業直前であるせいか人通りはない。なんにしろ、平和で日常的な都会の街並みに見えた。
(この空気は……)
 ――見えるままの場所ではないと気づけたのは、敦己の勘の良さ故か。
 ピタリと彼の足が止まった。苦笑いが、口元に浮かぶ。
(嫌な予感……当たりでしょうか、これは)
 微かだが、水の匂いが鼻についた。夏だというのに空気にひやりとしたものが混ざっている。
(このまま進むのは、危険かも知れません)
 奇妙な空気の理由は気になるが、分かれ道はすぐ後ろだ。少し戻って別の道を目指すことで、安全な旅を続けられるかも知れなかった。
(……そうですね、戻りましょう)
 軽く頷いて、きびすを返す。先ほどの岐路まで、一度来た道を戻ることにした。

 改めて岐路から西へ向かう。
 夕闇に沈む寸前の歓楽街を眺めながら歩を進める。
(へえ、こんな時間にあいている店もあるんですね)
 ふと、ビルの壁面に並ぶパネルや道の端に置かれた看板に、ちらほら明かりが灯っていくの気づいた。
 夜の街が活気付くにはまだ早い時間だが、それでも敦己がこの街を通り過ぎる頃には、ほとんどの店が営業を始めていることだろう。
(……やはり、この道が正解でしたか)
 先刻のオフィス街と違って、この辺りに奇妙な空気は感じない。敦己はホッと胸をなでおろした。
(――おや?)
 ふと視界の端に、幼子の姿が目に入る。夕暮れの歓楽街には少し不似合いだ。
 けれど足を止めるほどには違和感を覚えることもなく、敦己はさらに進み、少しずつ幼子に近づいていく。
 幼子は道端で俯いているようだった。赤く染まる歓楽街に、動かぬ幼子の影が伸びている。
(どうしたんでしょう)
 見た目五歳ほどの女の子だ。あの歳の頃の子供が長い時間じっとしていること自体、あまり考えられない。
 迷子が歩き疲れているのか、それとも具合が悪いのだろうか。
(やはり気になりますね。声をかけるべきでしょうか)
 少し悩みながら、それでもさらに幼子に近づく。
(……あ)
 小さな雫がぽたぽたと、彼女の足元を濡らしていた。恐らくあれは涙だろう。
 あんなに小さな子供が、じっと佇み声を殺して泣いている――一体、何があったのだろうか。
 これはますます放っておけないと、敦己は表情を引き締めた。
 もう彼の歩みに迷いはない。しっかりと前に踏み出された足が、自然に幼子の影を踏んだ――その、瞬間。

(え?)
 不意に敦己の耳元をざわめきが掠めた。それはやけに遠い雑音で、意味のある言葉が拾える類の音ではない。
 なのに、それが耳に残るように思うのは、どういう訳だろう。
(これは、一体――?)
 思わず立ち止まり、耳を澄ました。
 賑やかな音だ。多くの人の声がする。やはり意味のある言葉は拾えないが、歓声らしきものも混ざっているようだ。
 周囲を見回す。だが、この雑音たちの源らしきものは見当たらない。
 夕暮れの歓楽街は、まだ静寂を保っている。なのに何故、こうも騒がしい音が耳を掠めていくのだろう。

 ――月が――

(あ……)
 ふと、雑音の中に拍子が混ざった。明るい音色だ。
 ようやく意味を見いだせそうな音の存在に、敦己は意識を集中させる。

 ――月が出た出た 月が出た――
 ――三池炭坑の 上に出た――

 それは。
(…………)
 あまりにも――あまりにも有名な、唄。
(…………炭坑節?)
 旅の間でも比較的聞く機会の多い唄だ。この季節なら尚のこと。何せ盆踊り定番の一曲なのだから。
(な、何故急に炭坑節が?)
 解せない。
 祭や催し物でもやっているならいざ知らず、何故こんな平日の歓楽街で、それも不自然な歓声混じりにこの曲を聴くことになるのだろうか。
 祭の時に適当に録音した音を、誰かが流しているのかと考えた。だが、敦己はすぐさま自分の考えを否定する。そもそも、祭の音を流すことに何の意味があると――
(――祭?)
 その単語がやけに引っかかった。迷走していた敦己の思考は一端止まり、もう一度、今度は筋道を立てながら動き始める。
 つい先刻通った、北と西に分かれた分岐路。
 北へ続く道。そこで感じた水の匂い。
 泣いている幼子。近づいた途端に聞こえた雑音。
 混じる唄は、夏の風物詩――夏の祭、盆踊りの象徴。
 夏の祭。
 水。
 泣いている幼子。
 本来は乾いたオフィス街。
 ――そういえば、あの岐路と水の気配を感じた場所、それに幼子が泣いているこの場所は、子供の足でも充分に行き来できる距離だ。
(……もしかして)
 敦己は、先刻同様にきびすを返す。
 ゆっくり歩いて来た道を、今度は走ってさかのぼった。

 ――――ぽちゃん

 かすかな水音をたてて、赤く小さな金魚が二匹、ドロにまみれた敦己の手からプラスチックのバケツの中へと身を躍らせる。
(よかった……間に合いましたね)
 ホッと安堵の息を漏らしながら、敦己は優しい笑みを浮かべた。
 乾いたオフィス街にも、雨水を逃がすための排水溝がある。敦己は、そこに捨てられた金魚を救い出したのだ。
 コンビニで買ったオモチャのようなプラスチックのバケツと水道水の中ではあるが、それでも汚れた排水溝にいるよりは幾らかマシだろう。事実、金魚は狭いバケツの中を、すいすいと気持ちよさげに泳いでいる。
 この金魚を捨てたのは、恐らく先刻の幼子だ。
 何日前のことかは分からないが、この辺りでも盆踊り大会があったようだ。そこであの幼子は、屋台の「きんぎょすくい」でこの金魚を手に入れ、これから飼っていこうと家に持ち帰った。
 だが、親に反対されたのか、それとも他に何か困難があったのか。
 とにかくあの幼子は、自分から金魚を捨てたのだ。
 敦己が幼子の影を踏んだ瞬間に聞いたものは、哀しみと後悔が膨れ上がった結果あふれた記憶の断片。
 この辺りで感じた水の気配は、金魚の命の灯火が発したSOS。
 二つの霊症は、軽い気持ちで手に入れた小さな命を殺そうとした、幼子の罪の跡だったのだろう。
(――とにかく、この子たちを早く池にでも逃がしてやらねばなりませんね)
 確かこの街を出て少し歩いた辺りに、小さな池のある山があったはずだ。あの淡水の池なら、この金魚たちも自力で生きていけるかも知れない。
(できれば、あの子にこのことを伝えてから)
 歓楽街の道端で、まだあの幼子は泣いているだろうか。
 優しく慰めて、あの子のしたことを許してあげるつもりはない。
 けれど彼女は知ってもいいと思うのだ。こんな小さな命でも、人間の手がなくとも生きられる場所はあるのだと。
(では、早速参りましょうか)
 敦己は客をもてなす気持ちで丁寧にバケツを抱えて立ち上がる。ほんのしばしの間ではあるけれど、旅の連れであることに変わりない。
 これで、久々に目的地ができたことになる。少なくとも、今日はもうコインを弾いて道先を決めることはなさそうだ。
(道中よろしくお願いしますよ、金魚さん)
 敦己は、そう胸のうちで呟きながら、もと来た道を歩き始めた。