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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


 □君の名を□


 うっすらと射し込んできた光に目蓋を照らされ、緋羽はそっと目を開けた。
 横たわっているのは古い布団の山の上。使い古されて後は処分を待つだけのそれの上にかけられた真新しいシーツが場違いに見える程に、この場所には古い物で溢れている。
 木箱に仕舞われている掛け軸や、今やもう誰の手にも触れられないであろうくすんだランプが転がっていたかと思えば、部屋の端には何故かバケツが佇んでいたりと、置かれている物に統一性はない。 

 シーツに埋もれるように横たわっていた少女は少し身じろいで、光の在り処を探すように仰向けになると、すぐに光原は見つかった。
 ここ屋根裏部屋に密やかにつけられた、小窓。光はそこから射し込んでいた。たったひとつしかない明かり取りの窓から射す朝の光は、屋根裏の薄暗い空間を柔らかく裂いて、緋羽へと静かに降り注いでくる。
 常よりも熱を帯びたそれは、夏の証。

「…………………」

 蝉の声が響き、車が走り去るエンジン音が遠くで轟く。どうという事のない日常というものが、外では始まっているのだろう。子供の駆ける賑やかな声も微かに聞こえた。
 そんな音を聞きながら、緋羽はゆっくりと身を起こした。長い黒髪がその拍子にさらさらと肩から零れ落ち、白いシーツにいくつかの渦巻きを残す。
 布団の上に座り込みながら何度か覚醒の為に瞬きをした後、少女は自分が何故ここにいるのかを思い出し、そっと自身の額へと手をやる。

 触れたそこは、緋羽の指が触れると温もりを得て僅かに輝く。
 つい先日刻まれた、新たな契約の印だった。力の枯渇により一匹の鬼すら倒せなかった緋羽を護り、そして契約を決意した少年の血液が、緋羽の額の奥深くで静かに脈打っている。
 刻まれた『令』の一文字は、主従の証だった。この文字が緋羽の額にある限り、階下にいるであろう契主の少年との間には決して消えない絆が存在し続ける。死を迎えるまでという、限定された永遠の契約だ。
 
 久しぶりの感覚を宿した額を白い指でなぞり終えると緋羽は軽く布団を蹴り、音もなく床へと着地した。床に積もった埃はひとかけらも微動だにしない。
 人の姿をしていながら人にあらざる少女は、狭い屋根裏の中でひときわ異質でありながら、そこにいる事に違和感を感じさせなかった。気配を消す術を身につけているだけではなく、静かに過ぎる少女の身にまとう雰囲気がそうさせているようでもあった。
 
 しかし彼女がここにいるのは、本来契主たる少年の意向ではなかった。
 初め、少年は緋羽を「ここなら見つかり辛いから」と使われていない奥まった部屋へと案内した。武家屋敷でもあったこの家は暮らす人数の割に部屋がかなり多いので、自然と使われない部屋というのも存在するのだという。
 緋羽が最初案内されたのも、そんな一室だった。使われていないと言っても、その部屋は少し埃を払えばすぐに寝泊りできる程の場所であり、少年が勧めたのも頷ける場所だった。
 
 だが緋羽は首を横に振ってそれを辞し、こうして屋根裏で寝起きするに至る。
 最後まで少年は別の部屋を勧めたが、緋羽は頑として譲らなかった。いくら奥まった場所とはいえ見つかる可能性がないわけではないという理由もあったが、ここを選んだ最大の理由はこの床下にあった。
 緋羽の踏み締める木の床は、少年にとっては天井だった。つまり、この真下は契主である神嗚 雅人の部屋なのである。緋羽がここを選んだ理由が、それだった。

 契主である彼をいつでも護れる位置にいなければというのもあったが、ここにいた方が落ち着くというのもあった。契主の存在を感じられる場所、気配の波を受け止め易い場所にいる事こそが、緋羽にとって部屋を選ぶ唯一の条件のようなものだった。住みやすさは二の次。彼女にとっては、契主以外に優先するべき事などは、ない。
 そして緋羽は今もまた屋根裏に背筋を伸ばして立ち、契主の気配と屋敷内の気の乱れを目を閉じて探っていた。
 つい先日など鬼が突如侵入してきた例もあるので、警戒はしてもし過ぎるという事はない。

 閉じた目蓋の裏に、朝の屋敷の光景が映っては変わり映っては変わる。日焼けした畳の上を歩く静かな足音や、暑いせいか障子を開け放つ木と木とが擦れ合う音、そしてその光景が緋羽の脳へと次々に送られてくる。
 だが、緋羽が最も探し求めている少年の気配だけが、ない。
 
「……契主、何処に」

 敵が侵入した痕跡はない。ならば、どこにいるのだろうか。 
 そう思いながら思念を道場へと飛ばしたその時、唐突にその回答が得られた。

「…………」

 目を閉じたまま、少女はそっと息をつく。
 最後に確かめた古びた道場の中に感じた気配。それはまだ繋がって間もないが、けれどはっきりとそれと分かるものだった。夏の熱気とはまた違った、肌で感じる事はできない独特の暖かな気。
 
 緋羽は敵が潜んでいないのを完全に確認すると、俯き加減だった顔を上げ、小窓の向こう側を見つめる。
 今日もまた強くなりそうな陽射しに目を細めながら緋羽はそっと気配を消し、布団に寄りかかるようにしながら、置物のようにひっそりとその場に座り込むのだった。





 蒸し暑い道場の中、雅人はひとりただ黙々と型をこなしていた。
 体さばき、足運び、そして受け身など、基本の練習を静かに繰り返していく。傍から見れば地味なものかもしれないが、しかしこういう練習を積み重ねる事こそが成長に繋がる。合気道を始めた時に叔父がよく雅人に言い聞かせていた言葉だったが、それからいくつ時が経ってもその言葉は実感として雅人の胸の中に残り続けている。
 困難な技ほど基本を必要とするのは勿論、常の生活においても普段からこうした練習をしていれば、いざという時に危険から我が身を護れる可能性も高い。

 だが。と雅人は畳から起き上がりながら思う。
 先日鬼に襲われた時の自分は、ただその恐ろしさに震え逃げ惑うしかなかった。それまでも決して基本を疎かにしていたわけではないが、けれどああいった局面でただ無様に駆けるしかなかった自分を思い出すと、胸に苦いものが広がる。もっと何かできた事があるのではないか、そんな後悔にしか過ぎない事すら考えてしまうほどに。
 分かっている。きっとどんなに武芸に精通していたとしても、人の手に負えるモノではなかったのだと、頭では理解していた。けれど人の性であるのか、どうしてもその時何かができたのではないかと考えてしまう。もう少し、もう少し強かったのなら、あの時。

 彼の少女を血に塗れさせる事を防げたのではないかと、可能性の消えた傲慢な未来を思ってしまう。

「……………っは……」 

 背筋を伸ばして畳に立ち、雅人はこの屋敷の何処かにいるだろう少女の事を考える。 
 あれから少女は自分が呼ばない限り姿すらも見せる事はない。ともすれば緋羽という少女がいる事すら自分の夢であるのではないのかと思ってしまうほどに、力を取り戻した少女の気配の消し方は見事だった。
 だが表面上は特に何の変化もないように見えたとしても、しかし中身は全く反対だった。緋羽という少女の存在も、そして、自らに宿っているであろうこの瞳の奥にある何かしらの力も、全てが雅人の眼前に消せない現実として在る。
 
 これから自分の道の前に待っているものは何なのだろう。

 漠然とした不安を振り払うかのように、雅人は再び型を繰り返すべく深呼吸をした。
 今は考えてもしょうがない事なのだ。





 ガラスの引き戸を開け外に出ると、開かれた窓から心地良い風が吹き込んできて雅人は目を細める。シャワーを浴びてまだ濡れたままの髪がひんやりとするのが心地良い。
 夏の稽古は道場自体の風通しがあまり良くない為にいつも汗だくになってしまうので、嫌う者も多いのだが、その後に待っているこの爽快感を知っている雅人にしてみれば勿体ない話だと思わざるを得ない。
 一通り頭をタオルで拭いて、それを無造作に首に引っ掛けながら裸足のまま廊下を歩いていると、遠くから子供たちのはしゃぐ声が耳に届き、雅人はあれ、と首を傾げる。

「もうそんな時間なのかな」

 シャワーの名残ではない雫が額をつたうのをタオルで拭いながら手にしていた腕時計をかざして見れば、九時を指しているのに気付き、成る程と雅人はひとり頷く。元気の塊のような子供たちがもうそろそろ飛び出してくる時間だった。

「にしても、始めたのが六時半だったから……結構やってたのか」

 いつもはもう少し軽く済ませているのだが、どうやら色々考えながらしているうちに勝手に時間が経過してしまっていたらしい。
 そんな自分の行動に苦笑すると、再び雅人はぺたぺたと廊下を歩き出す。向かうは台所に鎮座する、冷蔵庫だった。
 台所へ繋がる引き戸を開け、大型の冷蔵庫を開く。普通の家ではあまり見かけないタイプの物だったが、合気道を習いに来る生徒たちに振舞う為の飲み物や湿布の類などもまとめて入れてあるので、この位の大きさの物で丁度良いのだと叔父が言っていたのをぼんやりと思い出しながら、雅人は麦茶のボトルをひとつ取り出し、グラスを取ろうと棚へ手を伸ばした。
  
 と。

 ひとつだけコップを握った所で動きを止め、少年は外から入り込んでくる陽射しを見上げる。
 脳裏を過ぎるのは黒に近い着物をまとう小柄な姿と、あまり風通しの良くない屋根裏部屋の光景。
 
「……暑い、よな。きっと」

 ぼそりとそう呟きながら雅人はもうひとつグラスを取り上げ、氷を落として均等によく冷えた麦茶を注ぐと、どこか軽い足取りで台所を後にするのだった。





 緋羽は、閉じていた瞳を開いた。主が少女を呼んでいるのに気付いたからだ。
 
「緋羽、いるか?」
「……何でありましょう、契主」

 呼びかける声に少女はふわりと屋根裏から飛び降りると、隠密の形を解く。
 主である少年は緋羽の姿を見つけると、「あ、いたいた」と言いながら緋羽へと近づき、そっとしゃがみこんで目線を合わせてきたかと思うと、手にしていた麦茶のグラスを緋羽へと差し出してくる。

「………?」

 てっきり命令を与えられるのだと思っていた緋羽が、目の前に出されたグラスと主である雅人の顔とを見比べていると、少年は微笑みながら言った。

「今日、暑いだろ。だから冷たいものでもって思って持ってきたんだ。良かったら飲んで」
「…………………」

 促すような笑みに、けれど緋羽は抗う術を知らなかった。
 そのまま小さな手のひらを伸ばし、両手でグラスを受け取ると、その動きで中の氷が涼しげにカランと揺れる。
 
「……有難う、ございます。契主」
「あ、それなんだけど」
「………………?」 

 しゃがみこんだまま、雅人は困ったように頭を掻く。

「その『契主』って呼び方、できれば止めてもらえないかな……。いや、嫌だとかそういうのじゃなくて、どうも慣れなくて。今までそんな呼ばれ方した事ないから」
「けれど」
「いや、主になった人をそう呼んできたっていうのは教えてもらったんだけどさ、でも何だか呼ばれる度にむず痒くなるから、できれば名前で呼んで欲しい」

 緋羽は逡巡する。彼女にとって契主は護る者であると同時に、最も尊ぶべき者だ。
 そんな相手に敬意を払うのはごくごく当たり前の事過ぎたので、その事に異を唱えられた緋羽は迷ったが、しかしこれも主たる少年の意向であると思い、すぐに迷いを消し口を開く。

「まさと……さま」
「様もいらないよ、ただの雅人でいい。そう呼ばれる方が僕も嬉しいから」

 更にそう言われた緋羽は、首を傾げるようにして再び口を開いた。

「…………マサト」

 ぽつりと、しかし通る声で名を呼ばれ、雅人は優しく微笑み、頷いた。

「うん」
 
 しかし緋羽がこそりと心の中だけで名の前に『契主』と呟いている事を、雅人は知らない。

 緋羽にとっては名そのものというのは特に重要なものではなく、ただ自分と契約を結んだ者が『契主』である事、その事実だけが彼女にとっては重要だった。 
 名というのは個体を識別する為のものではあるが、それを必要とはしない緋羽は、今まで契約を結んできた全ての主を等しく『契主』と呼んできた。勿論、どの契主にも名前というのは存在していたのだろうが、彼女はその殆どを名で呼んだ事はない。
 少女にとって人間というのは、主とそれ以外の二種類にしか分けられてはいない。故に、呼び方はそのどちらかをはっきりと示すたったひとつだけしかないのだ。それが『契主』という呼び名だった。それだけあれば、緋羽に他を識別する為の言葉は要らず、覚える必要さえなかったのだ。

 そういえば、と緋羽は思い出す。
 もうどの位昔の話だろうか、ひとりの契主が緋羽に、『契主』以外の者に殆ど関心を寄せないのは何故かと、問いかけた事があった。
 だが、緋羽の世界が『契主』とそれ以外にしか分かれていない事を知ったその契主は、静かに少女の頭を撫でながらそれを「寂しい事だ」と言い、悲しげに微笑んだ。
 一体何が寂しいのかも分からないまま、ただ契主の側に寄り添う事しかできなかった、遠いあの日。


 今目の前で静かに微笑んでいる少年がもし緋羽がそういう存在である事を知ったら、一体どう思うのだろうか。
 寂しいと彼の主のように微笑むのか、それとも。


 胸の片隅でそう思いながらそっと麦茶で唇を潤し、緋羽は教えられたばかりの呼び名をもう一度繰り返すのだった。




END.