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<東京怪談ウェブゲーム 草間興信所>


海境の巫子姫


 月のない真夏の海岸。
 遠くの街の明かりがまるで星のように閃いてさざめく。
 寄せては返す闇色の波は、赤黒く濡れた砂と共に足元に伏して広がる長い黒髪を洗う。
 虚ろに天を見上げる少女の骸へそうっと静かに手を伸ばし、なにごとかの音を口の中で紡いだ。
 指先に光が灯る。
 呪はチカラとなって波紋を生む。
 そして。
 ふわりと、まるでホタルが飛び立つように光の粒子が夜の海辺に舞い上がった。
 静かな瞳がソレを追う。
 粒子はどこまでも広がり、闇を照らし、やがて夜の海にひっそりと沈んでいった。
 赤い瞳は最後の一粒が消え失せるその瞬間まで無言のまま見つめ、そうして世界に再び深い闇が訪れると、骸を残してふらりと歩き出す。
 背後に続く森の影では、いくつもの瞳がひそやかに息を殺してその姿に視線を注いでいる。
「お白様……」「お白様じゃ」「おお……」
 ざわざわと囁きあうその奥底では、ただどこまでも純粋な畏怖と狂信の色が滲んでいた。



「……ええと、つまり娘さんが友人達と海水浴に行ったまんま戻ってこないと、そういうことですね?」
 連日30℃を越す猛暑のために些か朦朧としながらも、草間は応接間のソファに座る依頼人へと言葉を返した。
 けして快適とは言えない興信所内で、失踪した少女の両親はじっと俯いたまま言葉をつなげる。
「本当は一昨日の夕方に帰ってくるはずでしたの……でも……でも、あの子は……」
 だが、娘は深夜になっても戻ってはこなかった。
 数分刻みで携帯電話へと掛けてはみたが、それにも一切返答がなかった。
「海辺の町で祭りがあるとか言う話でして……弥生はそれを文芸部の仲間と見に行くのだと言っておりました」
「祭り…ですか?」
「ええ。なんと言うんでしょうか。『お白様』とか言うその土地特有の祭事であるとかどうとか……すみません。私どもも詳しい話は聞いておりませんで」
 心底申し訳なさそうに、彼は何度も頭を下げた。
「ああ、いえ。それはこちらでも調べられますからお気になさらずに」
 困惑の表情を浮かべながらも、草間がそれを制する。
 誰が想像できただろうか。
 娘は当たり前に旅行へ行き、数日後には当たり前に帰ってくるはずだったのだ。
「ところで、警察にこの件の届出は既に為されてますか?」
「ええ、話しました。もちろん娘が泊まる予定だった宿にも問い合わせてみました。町にあるという派出所にも。ですが、向こうにはそこまで客の動向を把握していないと話を打ち切られまして。それ以後の情報は一切……」
 部活の友人達と共に忽然と姿を消してしまった17歳の少女。
 海沿いの町で起きた失踪事件。
 常識的範囲で考えるならば、ときおり修学旅行生などに見られる『家出』や、何らかの事故、事件に巻き込まれた可能性が挙げられる。
 だが、草間は何故か奇妙な違和感を覚えていた。
 海岸沿いの祭り。お白様。帰らない少女。素っ気ない町の対応。全てが何らかの符号めいて囁きかけてくる。
「分かりました。この依頼、引き受けしましょう」
 扇風機が掻き混ぜる熱気にむせかけながら、怪奇探偵は頷きを返した。



 ひとつ、ふたつと捧げられていく魂。
 その度に降りかかるはずだった厄災が遠い水底に呑まれて消える。
 だから。
 お白様を怒らせてはいけない。
 お白様の儀式を止めてはいけない。
 祭りを続けることこそがこの地に課せられた使命なのだから―――



「結局文芸部で今回の合宿に行かれたのはこの5名ですね」
 茹だるような暑さの中。
 涼やかな空気を提供してくれるカフェの一角で、尾神七重はシュライン・エマと共に弥生の両親から受け取った7人分の情報が記載された部員名簿と、十を超えるスナップ写真が展開させていた。
 コピー用紙の空白にはいくつかの書き込みが為されている。
「そして、行かなかったのはふたり。家族旅行と丁度かち合ったこの子と、あとは風邪をひいてしまったこの子、ね」
 向かいの席からシュラインが指し示す名前を確認する。
「倉田裕子さんと水元静さん……ですね」
 少女が祭りを知った経緯を追うことは、この依頼を遂行する上で最も重要とされる行動選択のひとつだ。
 早々に現地へと赴いた調査員もいるなか、2人は共に東京に残り、消えた少女達や文芸部の活動状況についての情報収集を試みていた。
「移動当日の服装のリストアップはこれ。移動手段は、列車とバス、ね。日程的にはご両親の証言と相違ないわね。ただ、顧問が同伴じゃないという辺りがちょっと問題…かしら?」
 名前と顔を一致させるように名簿の隣に写真を並べていきながら、先程までの聞き込みで得た情報を整理していく。
「参加者のご家族は皆さん、今回の旅行に関してどこに行くのか一通りの説明は受けているんですよね」
「未成年だし、一応は合宿という体裁でもあるしね。親の承諾はカタチだけだとしても必要になってくるわ」
「そして5人はそれぞれの自宅から待ち合わせの駅に向かった……」
 当日、彼女達に不審な点は見受けられなかった。
 ごく当たり前に『行ってきます』と笑顔で家を出ている。
 だからどの家族も当たり前に送り出した。
「でも、宿泊施設側は来ていない、知らないと言っている……」
 中には、着いた当日の夜に自宅へ連絡を入れていた者もいた。にも拘らず、強固に否定する様は明らかにおかしい。
「祭りはもう後戻りできないところまで進行しているということ、ですよね……でなければ」
「家族が何らかの動きを見せる可能性は充分考えられる。それでも構わないという姿勢は明らかに『問題』ね」
 あの町で一体何が起こっているのか。
 何が進行しているのか。
 そして、調査に赴いた者達に果たして彼らはどんな動きを見せるのか。
 弥生の失踪に関わる調査だということは伏せて行動してもらうように伝えてはいるが、それでも田舎とは余所者を嫌う傾向にある。
 閉鎖社会の戒律は思わぬ障害となりうることは容易に想像できた。
「それにしても、お白様とは一体何を指しているものなのでしょうか……」
「ん〜……遠野には『おしらさま』信仰があったりするんだけど、まあ今回とは別モノと考えた方がよさそうね」
 シュラインの呟きに思わず顔を上げる。
「あ。それ、以前本で読んだことがあります。遠野の民話では蚕の神様として描かれていましたよね」
「そう。私が思い当たるのはそれだけなの。一応、念のために布を巻いた棒状の桑の木が祀られていないか、藍原さんたちに確認を頼んではいるんだけど……」
 おそらく見つからないだろう予感はしている。
 長く怪奇の類に関わり続けていると、この手のことに妙に鼻が利くようになるものだ。
「この方達の出身地、一度確認した方が良いのではないでしょうか?」
 言いながら、七重の指が一枚の写真を取り上げる。
 依頼のあらましを聞いたときからずっと息づいている小さな疑念。
 それは同時にシュラインにとっての引っ掛かりでもある。
「この2人に事件のことは知らされているのでしょうか」
「顧問の先生の話では、昨日の時点で一応の話は通してあるみたいだったけど……どんな説明を受けて、どういう受け止め方をしているのかは分からないわね」
 調査員が興信所へ赴く前に、シュラインの事前調査は既に完了していた。
 そんな彼女の行動力と思考力に、表情には出ないまでも七重は感嘆し、そして同時に尊敬の念を抱いた。
「あの……では後ほど彼女達にコンタクトをとってみてもいいでしょうか?」
「じゃあ先生を通して話をつけた方がいいかしらね。あんまり警戒されないで済ませたいし」
「……そう、ですね」
 コクリと素直に頷きを返す七重。
「さてと。じゃあ、今日のタイムテーブルを決めちゃいましょうか?」
 人目につかないカフェで2人のディスカッションは続く。



 無人となった草間興信所に来栖麻里がするりと姿を現す。
 扇風機の止まった室内を睥睨し、草間の机の上にシュラインがまとめたのだろう調査資料を発見すると、無言のままソレに手を伸ばした。
 記載されているのは部員名簿の写しと、依頼内容の詳細。そして、彼女達に関わるモノたちの証言がいくつか。
「……ふん」
 プリントアウトされた文字を目で追っていきながら、次第に口元が笑みの形につりあがる。
 今回の調査は久しぶりに手ごたえがあると認識できた。
 依頼者からの情報と、現時点で確認されている事柄はどれもひどく狩猟者の血を沸き立たせる。
 所属する『財団』から彼に下された指名は『お白様』の存在を見極め、監視すること。場合によっては『能力』による完全排斥も認められていた。
「ようやく暴れられる」
 目を通した分厚い調査資料を主のいない机に投げ捨てると、そのまま窓から外に向けて軽く跳躍した。
 しなやかな獣を思わせる少年の躰が真夏の空間に掻き消える。



 人間の平熱を超える気温を更新し続ける東京に比べ、ここはまるで天国のようだと藍原和馬は単純に思った。
 頭上から降り注ぐ太陽もけして痛くはなく、あの粘りつくような湿気もない。
 どこにいても漣がこの耳に届くような気がする。
 ただひとつ難を言えば、今回の同行者のメンツだろうか。
 ちらりと視線を横に向ければ、非常に対照的な2人が立っている。
 藤井雄一郎と榊遠夜。
 バイタリティ溢れる笑顔の成人男性と、表情筋が不自由そうな色白の青少年。
 今回唯一敬意と優しさとサービスを提供するに足る対象、つまり女性であるシュラインは、現在東京で七重とともに別方向から調査中だ。
 実に侘しいと思う。
「そうだ。藍原君だっけ?あの興信所のお嬢さんから新しい指示は届いてるか?」
 つい遠い目をしてしまった藍原の顔を藤井が覗き込んでくる。
「ん?ああ、とりあえずこっちで調べて欲しい項目のリストアップがさっき届いたな。こまめな写真撮影も頼むとさ」
「お。さすがだねぇ」
「そりゃあもう、草間興信所を代表する切れ者司令官だからな」
「なるほどなるほど」
 仕事でもない限り、男に対して愛想を振りまく趣味は藍原にはない。
 にも拘らず、その主義主張を覆してつい笑顔を返してしまうのは、藤井という名、そして彼に纏わりつくニオイから知った『素性』ゆえだ。
「いきなり父親登場ってのはきっついよなぁ、マジで」
 そんな自分の心境など藤井が知るはずもなく。
「ん?どうした、青年?」
 思わず口から洩れてしまったらしい呟きを拾い上げて、当の本人が反応を返してきた。
「いや?なんも言ってないぜ?しっかし、ここもやっぱり動き続けてると暑くなってくるな」
 さりげなく素知らぬふりを通しながら、藍原は無理矢理会話の方向を捻じ曲げた。
 とりあえず2人のファーストコンタクトはおおむね良好と言えた。
 だが、もうひとりの同行者とはいまだまともなコミュニケーションが取れていないことに藍原は気付く。
「………」
 こぼれそうな溜息を呑み込んで、榊は黙々と足を進めながら意識は周囲に張り巡らせている。
 こちらに向けられた町人たちの遠巻きな視線が少々煩わしい。
 目が合うとニコニコと取り繕った笑顔を浮かべる者もいることにはいるが、たいていは顔を背けてそそくさと逃げるように姿を隠してしまう。
 そうしてまた、物陰から耳障りな噂話を繰り広げ始める。
 けして居心地がいいとは言えない現状。
 観光地と呼べるほどメジャーな場所ではないからだろうか。いわゆる人馴れをしていない様が見て取れる。
「と、さあ、到着だ」
 藍原の足が、ある古びた旅館の前でぴたりと止まった。
「それにしても無事にこの宿が取れてよかったな!時期が時期だし。お疲れだったねぇ、藍原君!」
 少女達が泊まるはずだった、あるいは泊まっていたはずの宿を見上げて、藤井が笑顔を向けてくる。
 彼の肩ごしに見える榊は無言、無表情でじっと空を見つめている。何かを感じ取っているのか、ちらりともこちらを見ない。
「ま。何泊になるかはわからねえけど、とりあえずは3名様ご案内って奴だ」
「荷物を置いたらさっそく調査開始だな!あんなにも若い女の子達が行方不明だなんてあってはならない事件だ。親御さんだって身の細る思いをし続けているんだし」
 一瞬、やる気に溢れた男の背後に燃え盛る炎が見えた……ような気がした。錯覚なのだが。
「同意。貴重な人類の財産をむざむざと失うわけにはいかねえよな」
 藍原の価値基準はある意味非常に分かりやすくシンプルだ。
「ああ、そうだ。断っとくけど、3人部屋だかんな。シュラインから経費削減を言い渡されちまってるし」
 この宿は、事情聴取、もしくはただの荷物置き場にはなっても寝床としての機能はほとんど果たさないだろうことは充分予測出来た。
 だから自身の快適さよりもシュラインの希望を優先させる。
 振り向いてそう告げた瞬間、無言の榊の表情がほんの僅か困惑めいた動きを見せたが、それを確認するより早く、藤井がポンっと手を打ち、藍原と榊の肩をガシッと背後からつかむ。
「いいねぇ。実にいい。なんだか修学旅行を思い出すねぇ」
「修学旅行?バス旅行で添乗員のバイトしたっつう思い出しか俺にはねえぞ」
「おっ、おっ、なかなかいい職業歴だな、青年。生きてる間にいろんな経験を積むのは素晴らしいことだぞ!」
 彼に押し出されるようにして、3人は件の宿へと乗り込んだ。



 遠く近く寄せては返す波の音。
 不定形に揺らぎながら、海の水は私の足場をゆっくりと崩していく。



「やっぱ眺望はさすがだな」
 声を弾ませてニヤリと笑う藍原の横をすり抜けて、榊は開け放たれた部屋の窓からデッキテラスへと出て見る。
 眼前に広がるのは緑と青と白に満ちた世界だった。
 空を映してさざめく海。
 太陽の光を反射する水面。
 だが、ソレが内包するのはどろりと淀んだ何か、だ。
 嫌な匂いがする。海特有の、どこか淀んで混沌とした匂い。
 五感としての嗅覚ではなく、この身に宿す能力が榊の神経をちりちりと苛んでいる。
「協力を仰ぐことはあまり期待出来そうにない、ね」
 明らかに余所者を忌避している町人の背を思い起こしながら、ぽつりと無表情のままに呟く榊。
「だろうな」
 それに短く同意を返すのは、部屋の隅に荷物をまとめる藍原だった。
 少女達の足取りを追うことと並行して自分たちがここでやるべきことは、『お白様』の正体と、現在執り行われているだろう祭りの詳細についての調査である。
 ただし、あくまでも内密に、かつ慎重に進めなければならないだろう。
 彼らの不興を買うことで起こる弊害は計り知れない。
「まあ、田舎なんてこんなもんだ。小さい町は閉鎖的で、他所から来た人間たちを非常に警戒をする。もちろん必要以上の詮索もするだろうな」
 何となく自身の住まう場所を思い浮かべてか、藤井が苦笑する。
 まとう空気、発するニオイから異質な存在だと嗅ぎ取り、出来る限り廃除しようとする感覚は都会ではあまり養われないものかもしれない。
 街――特に東京のような大都市では誰もが無関心だ。
 隣人の顔すら知らないことも稀ではないだろうし、自分の娘たちもほとんど近所とは付き合いらしい付き合いをしないままひとり暮らしをしている。
「……もしも皆さんも考えているとおり町ぐるみでの隠蔽が日常化しているとしたら、下手に情報収集をするのも危険…ということになりますね」
 榊の呟きは的を射ている。
 そしてまた考え込むように彼は沈黙してしまった。
「せめて僕に出来る最大限のことを―――」
 空へと差し伸べられた手には数枚の符。
 艶を帯びた唇から紡がれるのは内より生まれるチカラある呪。
 ふわりと生まれた光は無数に分かれて緩やかに白い鳥へとその姿を変え、そして海を映した青い空の方々へ飛び立っていく。
「見つけておいで。あの少女たちのカケラを――あの少女達が囚われた何者かの痕跡を――」
 榊の言葉はそのまま命となり、鳥の存在意義となる。
 放たれた無言の式神たちは光を纏って空に消えた。
「では、僕は少し歩いてきます」
 自分が為したことに驚きとも感嘆とも違う表情を浮かべた2人を置いて、榊は一礼を残してふらりと部屋から出て行こうとする。
 慌ててそれを追いかける藤井。
「待て待て。俺も行くから!動くなら単独じゃない方が絶対いい。捜査は二人一組が基本だぞ、少年!」
 それは刑事の原則じゃないだろうかと思いつつ、榊は溜息の代わりに無言で頷いた。
 藍原も半ば強引に藤井に引き摺られるカタチで部屋を出たが、そこでふと足を止め、窓の向こうを振り返る。
 今、ほんの一瞬だけ同族のニオイが鼻先を掠めていった。
 初めからここにいた者ではない。唐突に出現し、唐突に消失した。残り香だけがここにある。
 誰、だろうか。
「藍原君!急がないと置いていくよ」
「はいはいっと」
 だが、そんな疑問に自分なりの答えを見つけるより早く、藤井の呼ぶ声が滑り込んできて思考はそこで中断してしまった。



 調査員の中に気になる匂いを嗅ぎ付けて、来栖は進路を変更し、引き付けられるままにここに来た。
 ソレが何であったのかは一目で分かった。確認したからには長居をする必要はない。
 窓の外に茂る木の上から藍原たちの部屋を覗きこむとすぐに、来栖は背を向けて別の空間へと跳んだ。
 興信所に出入りする人間達と馴れ合うつもりなど毛頭ない。
 行方不明者の捜索や、その背後に関わる事件の解明は雇われた調査員達が黙っていてもやるだろう。
 彼らがどこで何をしようと基本的には構わない。
 だが、狩りの邪魔をされるのは不愉快だ。
 鬱屈した精神状態をこれ以上悪化させられるのも腹立たしい。
 そして、『神』でなければいいとも思う。
 そうすれば全力で叩き潰せるのだから。
 病んだ気配を追って辿り着いた場所は、砂地から切り離された細長く尖る岩場だった。
 危うげな足場に降り立つと、ぐるりと海岸線を見渡し、ついで遠くの町と、それを護る様に広がる木々を見つめる。
 磯の香りに紛れ込む腐臭はこの岩場のどこかから流れてきている。
 海岸沿いの町から僅かに隔たった場所。
「ちっ……祭りの場所はここじゃねえのか」
 様々なニオイが混じりあって互いの存在を主張しすぎるが故に、気になる異臭の発生位置を正確に把握するのは些か困難だ。
 それでも、自分の任務のために。
 全ては自身の守るべき『森』のために。
 頭上――雲ひとつない澄んだ青の世界に命のない鳥がふわりと舞い上がる様を一瞥し、来栖は再び空間を跳んだ。



「ええと、倉田裕子さんと水元静さん、ね?ごめんなさい。お待たせしちゃったかしら?」
「お忙しい中、ご足労下さり有難うございます。はじめまして。尾神七重です」
 口元に微笑を浮かべて首を傾げるシュラインの隣で、七重は深々と頭を上げる。
 太陽光が猛威を振るう午後2時30分。
 2人が訪れたのは空調の効いた図書館の二階フロアの入り口だった。そこで自分達を迎えてくれたのは、急な呼び出しに応じてくれた文芸部の少女達である。
 彼女達はまるで双子のように同時に腰を上げ、
「あ、気にしないで下さぁい。全然待ってないですぅ。ねぇ、裕子ちゃん?」
「こちらこそすみません。こんなところを待ち合わせに指定してしまって」
 シンクロのごとくやはり同時にふるふると首を横に振った。
 彼女達は学校の課題をやるために今日ここで待ち合わせていたらしい。
 生徒として、そして文芸部の面々が良く使う場所という意味で、シュラインにとってはここの指定はある意味とても都合が良かった。
「さて、どこでお話を伺ったらいいかしら?」
「あ。あの、ここの地下に談話室みたいな場所があって。あんまり人もいないし、いいかもしれないかと」
 裕子の案内に従って、4人は白い階段を地下に向けて降りていった。
 周囲を照らすように取り付けられた窓から差し込む陽光も、次第にこちらまでは届かなくなっていく。
 降り切ってすぐの正面の壁には一面を埋める巨大なキャンバスが嵌めこまれ、自分達を出迎えた。
 描かれているのは太陽と海と風の抽象画、と言ったところだろうか。
「ええと。こっちです」
 思わず目を奪われ、絵画の前で足を止めてしまったシュラインを呼び寄せるように、廊下の向こうから裕子の声が静かに響いた。

 地下一階の談話室は四方を絵画とガラス棚に占められた比較的広い場所だった。
 何席か用意されたテーブルのひとつに落ち着く。
「まず確認させてもらいたいんだけど……どうやって今回の合宿のお話が出たのかしら?」
 ガラスのテーブルを挟んで座ると、不安げな2人にシュラインから出来るだけ緩やかに話を切り出す。
「ええと……最初に合宿の話を出してきたのって誰だっけ?なんとなく?」
「ええとええと、なんとなく……じゃなかったっけぇ?毎年恒例の行事だしって感じ?張り切ってたのはやっぱ部長だよねぇ?」
 互いの顔を見合わせて、少女達は懸命に記憶の糸を辿る。
「イベント大好きだしね」
「で、善は急げとばかりにすごい勢いでばたばたぁってスケジュールも決まっちゃってぇ……」
「よく宿取れたもんだよね」
「ねぇ?」
 顔を見合わせて首を傾げる2人。
 七重の中でひとつの仮説が成立しようとしていた。
「お白様……あまり耳にしない名前のようなのですが、こちらの方はどなたが調べられたんですか?」
 それを確かめる術のひとつが、この用意してきた質問だった。
 だが、彼女たちの答えは七重の予想を裏切るカタチとなる。
「弥生だよね?」
「うん。弥生が見つけてきたんですよぉ。古本屋ですっごいの見つけたって大喜びしちゃってぇ」
「え」
 七重のあまり動かない表情が反射的にぴくりと反応する。
 暗紅色の瞳に驚きの色が浮かび、喉の奥で疑問符が音になって外まで洩れ出てしまった。
「どうしましたぁ?」
「あ、いえ。すみません。何でもありませんので続けてください」
 あの町の出身者が彼女達をあの場所へ導いたのだと考えていた。
 最初に浮かんだ可能性――初めから仕組まれていたのではないかという仮定は彼女たちの証言によって否定されてしまった。
「とにかくあの子、民話とかにすっごい興味あってね。部員の中でこの手の話を題材に話書くのは弥生くらいじゃないかな?」
「どんな本だったのか、覚えているかしら?装丁やタイトル、できれば出版社関係なんかも分かると助かるんだけど。どう?」
「ええと、ええと、ちょっと待ってくださいねぇ……」
 静が懸命に思い出そうと記憶を辿る横で、裕子もまた思考にふける。
 藍原はネットを検索しても引っ掛からなかったと言っていた。
 そして、七重も自分も『お白様』の出所を今の所掴んではいない。
 相手が何者なのかを知ることが、そしてどのような言い伝えが為されているのかを把握することが、今回の事件を解き明かすポイントだと考えている。
 それを期待しての接触ではあったのだが。
「白いハードカバーだったのは覚えてるんですよぉ。手触りがすっごく良くてぇ。思ったよりうんと薄くて……」
「本の厚さって1センチなかったじゃないかしら。お白様のお話だけしか乗ってなかったみたいだし。でもそれ以外となると全然……」
「うん。全然思い出せないみたい……変だなぁ。皆でめいっぱい読んだはずなのにぃ……何回も何回も。ね?」
「うん……すみません」
 けれど、そこから導き出されたのはあまりにも頼りないものだった。
 それでも別の方向から得られた情報もある。
 しゅんとうなだれる少女を気遣い、気にしないでと慰めながら、シュラインの視線がちらりと七重に向けられた。
 それを受け止め、彼女へ頷きを返す。
 弥生が手にした本には何かの呪術が掛けられている可能性が浮上した。調べてみる価値は充分にある。
「あ、そうだ。これ、必要ですか?」
 ふと思い出したように、裕子がカバンをごそごそと掻き回して一枚の紙を引っ張り上げた。
 四つ折のコピー用紙がテーブルの上で広げられる。
「合宿用に配られたタイムテーブルなんです。これで部長達の行動を追いやすくなるといいんですけど」
「有難う。すごく助かるわ」
 穏やかながらも凛とした笑顔を浮かべ、シュラインは彼女達へ礼を述べる。



 月が昇るそれまでは、ただ夢も見ずに眠ろう。
 海境への道が開かれるその時間まで、しばし世界は闇に閉ざされる。



 宿の人間に教わって訪れた神社の境内は、およそ祭りという言葉のイメージからは程遠い雰囲気だった。
 境内の隅で幼い子供達が数名、かくれんぼか鬼ごっこをしている他は、特にこれといった変化はない。
「何にもねえじゃねえか」
 ちっと不服そうに舌打ちしつつデジタルカメラを構える藍原の隣で、藤井は辺りをぐるりと見回す。
「ん〜?まあ、町を挙げての大掛かりな祭りは2日前に終わってるって話だったからなぁ」
 提灯が吊るされているわけでもなければ、出店が軒を連ねるわけでもない。特別な飾りつけも特に目にはつかず、お囃子も何も聞こえない。祭り特有の空気すらない。
 そして、祭り後のようなあのなんとも言えない寂寥感とざわめきも残っていない。
 一見日常と変わりない地味な雰囲気。
 祭りは終わったと彼らは言う。
 だが、どれほど巧みに隠そうとも、水面下で蠢く不気味な空気はこの肌に伝わってくるのだ。
 あまりにも密やかで、少女達は一体ここの何に興味を惹かれ、何を見に来たのかが分からない。
「形式的なお祭りなら多分ここで行われたんだろうけど……でも、違う」
 榊の目を通して見えるのは、境内が映す過去の残像。
 縁日のようなものが確かにここに存在していたことを告げている。
 この町全域に広がりつつある式神たちからも、その様子が伝えられてくる。
 祭りに付き物のありきたりな光景がここで生まれ、そして終わったのだ。
 だが。
「この町を包み込んでるこのイヤ〜な空気の発信源ってワケじゃねえよな」
 言葉を継ぐように、藍原が鼻を鳴らす。
「まあ、彼女達もここには寄ったみたいだけどねぇ」
 いつのまにか境内に茂る低木の前に屈みこんでいた藤井が2人を振り返った。
「この子達が目撃してる」
「この子達、ですか?」
「どいつのこと?」
「だからこの子達」
 彼が指先でちょんっとつつくのはただの植物だ。
「この町以外の場所から来た女の子が5人、りんご飴買ったり神社で参拝したりしてたって言ってるからな。間違いないだろ」
 この時になってようやく、2人は藤井の持つ能力の質を知った。
「ついでだ。あの子達にも事情聴取ってのをしようか!なあ、青少年?」
 にっと笑った行動的な男が次に指を差したのは、遊びをやめてこちらの様子を窺い始めていた子供達のグループだった。
 急に藤井に指を刺されて驚いたらしく彼らはやや尻込みし、一歩引くのが見える。だが好奇心からかその場を動こうとしない。
「んじゃあ、着ぐるみヒーローショーで鍛えた華麗な技で話を聞きだすとするか」
 一体どこのスイッチが入ったのか。藍原が実に楽しげに大股で彼らとの距離を詰めに行った。
「藍原さん……本当にいろんなバイトをされてるんだ」
「貴重な経験だな。何がどんな役に立つか分からん世の中だ。少年もしっかり社会勉強しとけよ!」
 半ば呆然と呟く榊の背中を、藤井が遠慮なくばしばしと叩いた。



 お白様。
 お白様。
 此岸と彼岸を渡す巫子姫様。
 真夏の夜に雪を呼ぶ。
 海境の向こう側から、雪を呼ぶ。



 七重の知り合いを通じ、大学の一室に設けられた民俗学の研究室でシュラインは地方の民話を集めた資料集を何冊も積み重ねて調べていく。
 弥生が見つけ、文芸部員達が見たという白いハードカバーの本は、情報不足ということもありまったく同じものを手に入れることは出来なかった。
 懇意にしている古本屋や出版関連のネットワークを駆使しても影すら掴めなかった。
 この時点で、普通に出版・流通していた普通の本ではなかったという仮定がより強固なものへと変わる。
 もしかすると彼女が見つけ出してきたものは、この世にただ一冊しか存在していないものかもしれない。
 禁書の取り扱いのできる友人がいることにはいるが、彼女に連絡をつけることは叶わなかった。
 お白様信仰。
 部員達も顧問も弥生がどこからソレを買ってきたのか分からないと言う。
 結局、随分な時間を費やしてシュラインが行き着いたのは、資料が並ぶ本棚の奥でひっそりと管理されていた持ち出し禁止の古い和綴じの資料だった。
 遠野の民話がほとんどの中でただ一冊、ほんの数十行ではあるけれど『蚕』ではない『お白様』の記述を見つける。
「……海境……」
 自分が翻訳を勤めるジャンルではほとんど出会うことのない単語がぽつんと浮かび上がる。
 指先と視線で辿る物語。
 真夏の夜に海に雪を呼ぶ『彼女』は果たして何者なのだろうか。


 シュラインが資料を調べている間に七重は別室で電源を借りて、これまでに得た情報全てを持参したノートパソコンに打ち込み、まとめていた。
 そうすることで自身の考えもまた整理されていく。
 明日には彼女とともに現地組と合流する。
 それまでに自分の想像がどこまで正しいのか確かめておきたいという想いもあった。
 出来るならもっと別の場所まで証言を集めに行きたかったが、躰の方が限界を訴えている。
 少し胸が苦しいのは、久しぶりに自分の足を使ってあちこち回ったせいだろう。
 部員達の家を回り、図書館で彼女達と会い、古本屋を巡って、ここに落ち着く前に警察署にも寄って来た。
 一日のほとんどを室内で過ごす自分にとって、シュラインと過ごしたこの数時間は普段の運動量の一週間分をはるかに上回っていた。
「……それにしても……」
 打ち込む先から、不可解な思いが頭をもたげる。
 弥生達が向かった海岸沿いの町で過去に発生したと思しき行方不明事件は、ここ数年の間ではまったく確認されていなかった。
 似たような事件があればとも思ったが、彼女達があの町へ赴くまでは随分と落ち着いていたらしい。少なくとも同じ時期に同時多発的に起こっているものではないらしい。
 ただし、町ぐるみでの隠蔽工作がなされているとすれば、この数字もあまり信用は出来ないのだが。
 視線を手元の資料に移す。
 あまり気の進まない手段ではあったが、尾神家の筋を使って部員全員の家族構成と出身地も親の代まで遡って調べてみた。だがあの町に関係するものは誰一人出てこなかったのだ。
「……どこまでが仕組まれたものなんだろう……」
 弥生は『本』と出会った。
 それは果たして偶然なのだろうか。
 それとも、偶然と見せかけただけの必然……運命であったのだろうか。
 思考に沈み込み始めた七重に、立ち上げたままのメーラーが新着を知らせる。
 情報用にと調査員達に知らせたメールアドレスに舞い込んできた件名は『真夏の雪』――差出人の名は『藤井雄一郎』だった。
 CC欄には自分の他にシュラインのアドレスが併記されている。
「何か進展があったのでしょうか……」
 本文には軽い挨拶、宿の場所や町の印象と続き、その後に何故か地元の子供達が雪を見たという証言内容が綴られていた。
 そして彼らはお白様が降らせたのだと言う。
「………真夏の夜に降る雪……」
 弥生たちが失踪した時期と時を同じくして起きた怪異。
 その事実がひどく引っ掛かる。



 藤井は持参したモバイルパソコンから七重宛にメールを送ると、そのままふらふらと植物達の声を聞きながら町の外れまで歩いてきた。
 冬ならばとっくに夕暮れを通り越しているだろう時間帯。そろそろ証言者である緑もうつらうつらし始めているらしい。
 それでも、問いかければ彼らは揃ってここにも少女達が来たことを告げてくれた。
 女の子達ばかり5人で、本当に楽しい時間を過ごしていたのだろう。
 花を手折ることなく、ただ眺めてはキレイだと笑いあい、そういえばこの花は以前読んだ小説に出てきたのだと話し合う。
 そんな彼女たちの姿を、植物達は嬉しそうに語って聞かせてくれる。
 シュラインからメールで送られてきた『合宿のタイムスケジュール』に沿って足取りを辿ることも比較的容易だった。
 だが、饒舌だった目撃証言も、ここに来て唐突に途切れてしまった。
 何を畏れているのか。
 何に対してそれほどまでに過剰な想いを宿すのか。
 それまで少女達の軌跡を語っていたにも拘らず、花達も風や自然に潜む精霊達も森の中心に向かうほどに口を固く閉ざし、そこはかとなく怯え始めていた。
「ん?」
 ふと自然の中で一瞬閃く異質な色を捕え、ザワザワと風に揺れる木へ手を伸ばしてみる。
「ネックレス……?」
 小枝に引っ掛かっていたのはビーズ細工のキレイなアクセサリーだった。この町にそぐわない匂いがしている。
 失踪した少女の持ち物、だろうか。
「お前、こんなところで何をしとるんかね?」
「え?」
 いつのまにそこにいたのだろうか。
 突然背後から声を掛けられ、振り返った視線の先には中年の男がひとり立っていた。
 おどおどと視線を彷徨わせる小太りな外見はどこか頼りなく、情けない。ある種の人間にとっては不快と感じるかもしれないような印象を受ける。
 何故か『いじめられっこ』の文字が藤井の頭に浮かんだ。
「こんな所に来て何をしとるんかね?」
 どこか怯えすら含まれた胡乱な目でじっとねめつけて来る。
「どうもこんにちは。すみません。緑がきれいだなぁって見とれているうちにちょっと道に迷ってしまったみたいで」
 あまり友好的とは呼べない男に対し、爽やかな笑顔で応じてみせる。
「ところでいま『こんなところ』と仰ってましたが一体どういう意味なんでしょう?」
 あくまでも善意の第三者を装って、にこやかに、かつ申し訳なさを滲ませながら話しかけていく。
 日々フラワーショップで接客を勤める藤井の笑顔には、どこか人の警戒を解く作用があるらしい。
 はじめは胡散臭そうに眉を顰めていた男も、やがて視線を周囲にめぐらせながらボソボソと話し始めた。
「ここはな、犯罪者か自殺者くらいしか寄り付かんところなんだ」
「犯罪者か自殺者、ですか。でも、そんな場所ならどうして」
 どうしてアナタは来てるんだと問いかけるより早く、男はまるで予防線を張るように次々と言い訳にも似た言葉を並べていく。
「他所モンは困る。勝手に動き回って、侵しちゃならん禁忌を平気で侵す。だから町の人間達でたまに見回る。それだけのことだ。分かったらとっととここから出るんだな」
 まるで吐き捨てるような忠告と共にきつく睨みつけると、男はくるりと背を向けた。
「あ、あの、でもこの森ってすごく素敵だったと知り合いの女の子に教えてもらったんですけど」
 去ろうとする男の背中を声で追いかける。
 彼の肩が一瞬跳ねた気がした。
 足が止まる。
 沈黙。
「……こんな所に、来ちゃいかんのだ……あんたらみたいのは、来ちゃいかん……森の向こうにも行っちゃいかん」
 男はやがて背を向けたまま、暗く淀んだ呟きを洩らした。
「………あの子らは帰ってこん……そういう決まりだ……お白様の……ご意思なのだ……」
 藤井はそのまま黙って彼の言葉の続きを待った。
 だが、結局それ以上のことは何も言わず、彼は振り返りもせずに森のいずこかへと分け入ってしまった。
 その背中を見送り、それからはらはらと舞い落ちる花びらを見上げて、藤井はふと思う。
 ここにあるのは『相対的な白』という概念ではないだろうか、と。
 真っ白な空間から降りてくる雪は灰色で、ただ何かの色……ビルや人、人の服、そんなものに重なると、灰色の雪は純白に変わる。
 お白様と呼ばれる存在もまた、これと同じではないだろうか。
 逆光の中、鷲が白い鳥を引き連れて頭上を飛ぶ様が視界の端を過ぎっていった。



 緩やかな生と死に彩られ、漣に光と影が移ろう。



 捩れた異空間の片隅で、ぽつんとひとり横たわっているのは誰なのだろうか。
 黒一色の虚空。
 自分しか、あるいは自分と同じ能力を有したものしか存在することの叶わない場所。
 天井も床も何もないそこで、波間に漂うがごとくにゆらゆらと、真っ白な式服に身を包んだ少女は瞳を閉じてそこにいる。
 露骨な警戒を全身で放ちながら、来栖はゆっくりと円を描くようにじわじわと彼女へ近付いていく。
 ヒトの匂いはしない。
 耳をそばだてれば心音は聞こえる。
 だが呼吸ははっきりと止まっている。
 生命活動のチグハグな存在は違和感以外の何も自分に与えない。
「……コイツ」
 目を覚ます気配のない彼女のそばへようやく辿り着き、そろりと手を伸ばす。
 一瞬触れた肌の温度は、来栖に真冬の海を思わせた。瞬時に凍傷になりそうな痛みがちりりと指を刺し貫く。
「……囚われているのか……いや、変質したのか……?」
 触れた先から流れ込んでくるのは、禍々しい邪の痕跡を残しながら清浄にして崇高な光を宿すものだった。
 契約の呪。
 まるで神との婚姻を示すかのような、絶対的呪縛。
「……ちっ」
 久しぶりに得られたせっかくの楽しみがここにきて奪われようとしている。
 これはあまり歓迎したい類の情報ではなかった。


 彼女は彼岸のと岸の狭間でただひたすらに眠り続ける。


 藍原の背後や頭上には白い鳥が数羽、後を追いかけるようについて回っていた。
「アイツんとこのだなぁっと」
 ちらりと一瞥するだけで、後はまるで気にせず地を蹴って、海面から非連続的に続いている高低差の激しい岩場を器用に渡っていく。
 目指すのは波の狭間で微かに顔を覗かせている小さな島だ。
 しめ縄が周囲にぐるりと渡されているのが見えている。
 そして、影になって良くは見えないが祠のようなものも確かに存在している。そこからは潮のニオイに紛れてあってはいけないはずの呪が流れ出ていた。
 吸い込む空気はどこかしら陰湿で退廃的なものだ。鉄のような生臭く粘りつく腐臭。しかも、おそらくは行方不明となった少女たちの生存を危ぶむに足る量の血液が流れていることが分かる。
 この『穢れ』は裏の世界に長く生きてきた藍原にとってはひどく馴染みのあるものだった。
 生贄の儀式。
 おそらくはソレが、今感じ取ることが出来るものの中では最も近い表現だろう。
「まったくなぁにやってんだろうな、人間ってのは」
 いつも思う。
 ヒトは何故、ああも破滅に向かう道を妄信することができるのだろうか。
「縄張り意識と常識で頭が凝り固まったケーサツは当てになんねえし。つーか、嫌いだし?」
 警察の視界はひどく狭い。
 常人のあずかり知らぬ世界で起きた非日常的出来事。ソレがたとえ自分の目の前で起ころうとも、常識の範囲から逸脱した時点で彼らは見なかったことにする。
 そして。
 そして、今回の場合はこんな事実よりも更に始末が悪い。
「イヤだねぇ、まったく……っと」
 器用に右手をついて身体を反転させ、絶壁の中央に開いた洞窟の入り口に滑り込む。
 瞬間。
 藍原の表面を微妙の電流が貫いていった。
 だが、明らかな拒絶の意思を、つぃっと指先を真横に移動させるだけでいとも容易く振りほどく。
「ん?」
 違和感。
 何かがまだそこにある。
 だが何も見えない。
 確かに存在している、その事だけは分かる。
「………結界、とも違うな……ズレてんのか?」
 空間を隔てた向こう側。この眼には映らない壁を通して感じるのは、あの時宿で嗅ぎ取った同族の、そして錆びた血のニオイだ。
 不意に、藍原の視界の端を白いものが横切り、次いで目の前でバチッと火花を散らして弾け飛んだ。
「あ〜あ。榊のトリが消えちまったか」
 はらはらとかつて鳥だったものは符へと戻り、地に落ち切るより先に燃え尽きて消滅した。
「こりゃ、ちゃんとした手順踏まねえと追い返されて終わりって奴だな」
 カシカシと指先で自分の髪を掻きながら、藍原は現状と打開策に思考を巡らせる。



 許されない罪。贖いのための儀式。
 それは崇高なる自己犠牲。



 背後に森を抱えた浜辺は、押しかけてはゴミを散らかすだけ散らかして去る観光客もおらず、ひっそりと美しい姿を保っている。
 昼間以上にひそやかな秘め事を隠し持つ夜の海。
 こんな場所に来たのはどれくらいぶりだろうか。
 榊の目に映るのは、いまある景色ではなくそこに重ね見る遠い日の想い出だった。
 かつて知る幼い妹の笑みが浮かぶ。
 目を凝らせば、手を取り合い、波打ち際で遊んでいたあの頃の自分たちの影が視界を過ぎる。
 ここではないどこかで紡がれた記憶の欠片。
 彼女が深い眠りの世界に落ち込んでから、一体自分はあとどれほどの時間をひとりで過ごさなければならないのだろうか。
 どれほど待ち続ければ終わりは来るのだろうか―――
「響?」
 自身の内面へと沈み込んでいた榊の意識に、遠く離れた使い魔の意識が流れ込んできた。
 視神経を刺激する不可思議な光景。
 月の光。
 暗い波。
 小太りな黒い影と、白くたなびく鳥の化身のような影。
 光の中に浮かび上がった細い腕が、天高く掲げられた。
「行かなくちゃ」
 導かれるままに、榊は海岸線をひたすらに進む。

「なんだ、飼い猫か」
 波打ち際。何を嗅ぎ取ったのか、影の足元に纏わり着いて懐く響。
 その喉を指先で撫でている人物が、不遜な表情で金の瞳を自分に向けてきた。
 使い魔は情報と共にひとりの見慣れぬ少年の下へ自分を導いたらしい。
 彼からは次元を超えた先にいる崇高な獣の匂いがする。それはどこかあの藍原にも通じる、この世ならざる存在のニオイだ。
「キミは……」
「お前、草間んところの奴だな?」
 腰を屈め、自己紹介をする気はないらしい彼が、下からねめつけるように胡乱な目で榊の顔を見上げてきた。
「そうだけど」
「……ふうん」
 鼻先が触れそうなほどの接近。
 漆黒の瞳を射抜く、獣の視線。
「それで?これを拾いに来やがったのか?」
「これ……?」
 彼の足元で波に揺られ、砂とともに徐々に海の中へと運ばれていくもの。
 それが人であると分かるのにそう長い時間は掛からなかった。
「これは―――」
 これはキミがやったのか。それとも。
 問いかけ半ばで言葉を切り、榊は来栖の横を抜けて波打ち際に膝をつく。
 そうだ。自分がここへやってきたのは彼に会う為ではなく、あの光景を確かめるために―――
 手を伸ばし、こちら側へと向きを変えれば、絶命した男の顔が闇の中に浮かび上がる。
「…………この人は……」
 見覚えがあった。
 うつ伏していたのは、昼間に藤井と森で接触していた男に間違いない。
「言っとくが俺が殺ったわけじゃねえからな。見てただけだ」
「なら、誰が」
「そこで『誰が』とか疑問に思うのか?お前らが追いかけてる奴に決まってるだろ?」
 馬鹿にしたように狼の気配をまとう彼が嘲笑う。
「お白様……なのか?」
 自分の知らない信仰の対象。
 自分の知らない世界に存在するもの。
「……何故、彼が――贄となるのは少女だけじゃなかったのか……」
「せいぜい気をつけろ。お前らは神の領域に踏み込むかも知れねえんだからな」
 服が濡れることも厭わずに跪く榊を見下ろして、彼は投げやりな忠告を頭上から落としてきた。
「………神?」
「動き出してるぞ。お前らが何を調べようと、もう止められねえかもな」
「それは一体どういう意味かな?」
 だが、その質問に答える義理はないとでも言いたげに、彼は海へと顔を背ける。
「言葉どおりの意味しかねえよ」
 それを最後に、来栖は話しを一方的に打ち切って闇の中へと融けて消えた。
 榊は彼の言葉を反芻する。
 神の領域。
 神とはなんであるのか。
 少女達がここに来たことを物語る証拠品は僅かながらもこの手に集まってきている。
 だが、彼女たちの姿はどこにもない。
 そして、式神の一団が瞬時に消滅したのも感じていた。
 アレは何かの禁忌に触れた証拠。
 ここに来て、少女達ではなく町人の男が死んだ。
 彼は何故殺されなければならなかったのか。
 そして何故、どこか充たされた表情をそこに乗せていたのか。
 闇と死体の狭間で、潮騒とともに答えの得られない問いかけがいつまでも繰り返される。



「あれ?まだ居たのかい?」
 突然背後から懐中電灯で照らされて、シュラインは一気に現実世界へ意識を引き戻された。
「あ、すみません。つい夢中になってしまって」
 慌てて席を立ち、守衛に頭を下げる。
「そろそろ鍵を掛けるからね。お嬢さんは帰った方がいいよ。研究員の先生達も帰り支度始めてるし」
「はい。すみません。有難うございます」
 去って行く彼にもう一度頭を下げて、ちらり壁掛け時計を確認すると、時刻は既に22時を越えてしまっていた。
「……もうこんな時間」
 思わず呟きが洩れる。
 藤井や藍原たちからの情報をレポートにまとめ、添付されてきた画像ファイルを興信所のパソコンへ送り、ここでしか得られない資料なども打ち直している内にこれだけの時間が経過していたのだ。
 七重を先に帰しておいて本当に良かった。
 とにかく明日は早いのだ。残りの作業は自宅でやることにしよう。
 広げていた自分の荷物を掻き集め、周囲を整理整頓すると来た時以上に見栄えの良い状態となった。
 それに満足し、今度こそ帰ろうとカバンを取り上げた瞬間、不意に携帯が僅かに点滅し、着信を告げた。
 藍原の名がディスプレイに表示され、続いて簡潔に述べられたメールに目を通すと、シュラインは無言のまま研究室を後にする。
 表情がほんのすこし緊張しているのが自分でも分かった。



 まっくらな海岸に淡雪のごとき光が舞い降りる。
 裸足の足を引き摺り、長い髪を風に遊ばせて、ゆるゆると微かな旋律をその唇で奏でる。
 後に残るのは波に洗われ続ける屍のみ。



 榊が海岸で死体を見つけてから一夜明けた海岸沿いの町。
 炎天下の中を、日に数本しかないバスが鈍い音を立ててゆっくりと停車した。
 東京では見かけることのなくなった古い型のワンマンバスは、見るものにひどくくたびれた印象を与える。
 たった2人の乗客が降りるのを待って、カラになったバスは左右に揺れながら走り出した。
「長旅お疲れさま、お嬢さんたち」
「よお」
 姉弟のようにも見える客人を出迎えてくれたのは藍原と藤井2人の笑顔だった。
「わざわざこちらまで有難うございます」
 エンジン音と土埃に紛れながらも、シュラインが彼らに礼を述べる。
「お待たせしてしまい申し訳ありません」
 彼女に続いて七重がお辞儀する。
 バスにでも酔ったのか、それとも長旅の疲労ゆえか、彼の顔色はあまりよくない。
「宿までの道案内兼荷物持ちだ。気にすんなよ」
 藍原がヘラリと笑いながら捜査資料で確実に重みを増したシュラインのバッグを取り上げる。
「んじゃ、俺はこっちを持とうかな?重いだろ、少年?しかもあんまり体力なさそうな顔してるしな」
 女性が現れた以上サービスするのは彼女ひとりと自動的に思考がシフトしたらしい藍原の代わりに、藤井が七重からバッグを受け取る。
「……殺人事件が起きたとお伺いしましたけど、それは一体?」
「ん?ああ……その辺は多分榊くんに聞いた方が話は早いんだけどな」
 藤井は空を仰ぎ見て、微苦笑をその唇に浮かべた。
「その榊さんはどちらに?」
「考えたいことがあるからって海に行ってる」
「そう、ですか」
 確かに起きたはずの殺人事件は、この街から一歩でも外に出てしまった場所では一切報道されていないらしい。
 新聞の片隅にすらその事実が載る気配はなかったという。
 警察を通じて聞いた話では、彼は覚悟の自殺だったと、そうコメントするのみだ。
 いったい何の覚悟だったというのか。
 この町で起きた事件は部外者である自分達にはそれ以上の一切を語らず、後は警察の仕事だからと第一発見者である榊にも詳しい聴取をせずに追い返してしまった。
 あの森で、藤井に立ち入るなと話してくれた男。
 彼はもうこの世にはいない。
「遺体は榊さんが確認されているんですよね……自殺とは到底思えないと、そう伺いましたが」
 発見された遺体は行方不明になった女の子の内の誰かではなかった。
 そして、よそ者である榊が遺体の第一発見者という位置についてしまった。
 それなのにこの町は全てを隠蔽しようと動いている。
「ん?ん〜まあ口封じ、ともとれなくはないかな。でもきっと、町の人たちは殺人事件ではないと言い張るような気はしているけどねぇ」
 まるで町民側の事情を全て察しているかのように藤井が軽く溜息を洩らす。
 彼にとってソレはけして理解の範疇を越えるものではないらしい。
 秘密を漏洩したモノには制裁を。
 古くからの因習に縛られ、閉鎖世界で生きる集落では度々見られる行為。
 事件をなかったことになど出来はしないのに、彼らは何をするつもりなのだろうか。
「ああ、そうだ。宿の予約、追加でちゃぁんと取ってあるからな?宿に着くまでしっかり頑張れよぉ?」
 先を歩いていた藍原が遅れがちな七重たちを振り返り、声を飛ばす。
「気遣ってもらっちゃったな、少年」
「はい」
 心なしか歩調の緩んだ先導者の後を追いかけながら、2人はひっそりと笑いあう。



 彼女はやはり病みの呪縛を受けながらひっそりと眠り続けている。
 来栖はそんな彼女の寝顔をじっと見つめていた。
 自分達以外誰もいない、何もない空間で、昨夜の光景を幾度となく反芻する。
 彼女が男をその手に掛けたあの瞬間、自分は彼女を止めなかった。
 止められる距離にはいた。
 だが、止めなかった。
 あの男が殺されることを望んだのだ。
 彼女の犠牲になることを願った。
 余所者に荒らされる前に、頼むと、そう嘆願した声を確かに聞いた。
 ソレは不可侵の契約のようにも思えて。
 ならば自分に手出しは無用と判断した。
 今夜、また彼女は儀式の名のもとに人を殺めようとするだろう。
 そして、あいつらがそれを阻止するだろう。
 だが、海の神の意志が働いているのなら、自分がそれを妨げるわけにはいかない。
「……終わらせちまった方がアンタの為にはいいのかも知れねえけどな」
 それでももし終わらせるとしたら、自分が彼女を海の神の領域へ連れて行くしかない。
 一度神と契ってしまった者をニンゲンの世界に還すことは出来ないのだ―――



 藍原に案内を頼んで、シュラインは自分の眼でも現場を確かめに来たのだが、昨日3人で訪れた森の上の神社はひっそりと静まり返り、薄暗い木造建築はしなびた雰囲気に沈んでいた。
 遊んでいたはずの子供達の姿も今日はない。
 代わりに白髪の神主がポツンとひとりで境内の掃除を行っていた。
「あの爺さん、昨日は見かけなかったんだけどな」
「じゃあ、お話を伺うのに丁度いいタイミングだったということね」
「まあ、そうなるか……って、シュライン?」
 彼女は言葉と同時に藍原の横をすり抜けて、神主の元へ向かっていた。
「あの、すみません」
 藤井同様にシュラインもまた人間からの情報収集能力が高いのかもしれないと、巧みな話術を披露する彼女の姿を思わず観察してしまう藍原。
「お白様とは本当は何を祀っているものなのでしょうか?ご神体とか見せていただけると嬉しいんですけど」
「祭りは終わったからな。おいそれと公開できるもんじゃない」
 そういって渋っていた老人が、ことばを交わすうちにその表情をどんどん和らげていくのがここからでも見て取れる。
 思わず唸ってしまいたくなる。
「藍原さん。こちらで見せていただけるみたいよ」
 シュラインが自分の方へ手を振ってみせる。
 さすが、とつい口笛で囃したくなる衝動をぐっと堪えつつ、藍原は神主について歩き出した彼女の背中を追った。

 歩く度に軋んだ音を立てる古い神社の内部を案内されながら、藍原は興味深げにキョロキョロと辺りを見回す。
 異形のチカラを宿す自分を、ここは拒もうとしないらしい。
 少なくともあの海の中に見た祠ほどの力は有していないのが肌で分かる。
「お白様とは本来『お白波さま』とも呼ばれていた海境の巫子姫様のことなのだ」
 老人は薄暗い廊下で講釈を始める。
「うなさか?」
「海神の国と人の国とを隔てる境界…ですよね?」
「ほう。お嬢さんは良く調べ取るな」
 嬉しそうに、彼は目を細めてシュラインの見識を褒める。
「有難うございます」
「お白様はこの土地特有の神であり、海神と現の架け橋的な存在でもある。この町は彼女の力によって守られ、彼女の降らせる雪によって災いを清めてもらうのだよ……さて、ここが本尊を祭っている場所だ」
 日に焼けた障子戸が男の手によって左右に開かれる。
 そして。
「これは」
 本尊の前の祭壇に掲げられているものを前に、シュラインの表情が固くなる。
「どうした?」
 ぴたりと動きを止めてしまった彼女を訝しみ、藍原が肩越しに部屋を覗き込む。
 彼女が見つめる先。
 そこには白いハードカバーの本が長膳に置かれていた。
「………これはお白様のことについて書かれたただ1冊の本だ。新たな巫子姫様を選ぶ際に用いられるとも言われている」
 神主が目を細めてそう説明する間も、シュラインの表情は強張ったままだ。
「……巫子姫を選ぶ神具……」
 古書店や出版社をめぐって方々手を尽くしてもその存在を見出せなかったものが、ここに祀られている。
 藍原も、シュラインからのメールでその存在は知っていた。
 弥生たちをこの場所へ呼び寄せた代物。
 この世ならざる気配をまとい、
 ソレが今ここにある。
 言い知れぬ不安感が胸の内に募っていく。



 禁忌の森を背後に控えながら、波は相変わらず真っ白な砂浜を撫でては引くを繰り返していた。
 海岸線に沿って巨大な岩場がいくつか形成されているのが見える。
 遠くに青く霞んで見えるのはいわゆる離島だろうか。
 足場の悪い森を藤井に庇われながら通り抜け、ようやく辿り着いたその場所で、七重はこの光景に戸惑いを覚えていた。
 本来ならば自然だからこそ作り上げられた美しい景色だと思えるそこに、禍々しい毒と闇を感じ取ってしまうのは何故なのだろうか。
「まだあんまり本調子って感じじゃないな、少年?」
 気遣わしげに彼が自分の顔を覗き込んできた。
「そんなんで遠出させて悪かったか?無理はしない方がいいぞぉ?」
「あ、はい、すみません……大丈夫です。僕も自分の眼で見ておきたかったので……」
 完全に引き潮となれば今はまだ見えてこないものも姿を現すかもしれない。
 潮の満ち干は時に思いがけないモノを連れてくる。
「……彼女たちの……痕跡を……ここに……あるはずの、ものを……」
 岸壁に打ち上げられているもの。
 強く望む。
 彼女たちの遺留品。
 どんな小さなものでも構わない。
 強く強く、想い、見つかるはずと信じてその瞬間を胸に描く。
 波が運んでくる。
 海が持つ秘密の一端が必ずこの手に落ちてくる。
 七重の中に眠る無意識の力が、偶然を引き寄せ干渉する。
「…………あ」
 青と白と緑の色彩に、ポツンと赤いシミがひとつ、ころころと波打ち際で転がっている。
 ソレが何であるのか、すぐには分からなかった。
 だが、自分の望んだもののひとつなのだと妙な確信を持って、七重は足早に近付いていく。
 手を伸ばし、拾い上げる。
 ぱしゃんと跳ねてまとわりつく冷たい水の中で玩ばれていたのは赤いサンダルだった。
 踵部分にはめ込まれた可愛らしい花の飾りが目を引いた。
「失踪したあの子達の誰かのものか?」
「……いえ……多分、違います……でも彼女達と『同じ』だと思います……」
 やはり捜査資料には反映されていない場所でも、失踪事件は起きていたのだ。
「……藍原さんか榊さんならこれから何かを読み取れる、でしょうか……」
 この2人の能力についてはシュラインから一応の説明は受けている。
 彼らならあるいは。
「噂をすればってな。向こうにいるの、榊君じゃないか?」
「え?」
 言われるままに顔を向けると、黒猫と鷲を従えた同い年くらいの少年がじっと海の方角を見つめている姿に行き当たる。
 何を見つめているのだろうか。
 彼の視線を追った先。
 引き潮のせいなのだろうか。
 真新しい注連縄が幾重にも巡らされた巨大な岩の祠が、水底からその姿の一部を現していた。



 遠く近く寄せては返す波の音。
 ただひとつの聖域で、7人目の贄を望む声を聞く。



「囮が必要、という考えは間違っていますか?」
 宿の一室。互いの情報交換を終えた調査員の前で、榊が不意に顔を上げ、ポツリと提案を口にした。
 少女達だけが消える。
 ソレはまるで古くからの決まりごとであるかのように。
「祭りにおける儀式の『対象』はあくまでも十代、特に12歳から17才までの少女に限定されている。その姿はいまだ確認されず、相手の力は不明瞭のまま。だとしたら、僕がその役を務める方が早い」
 弥生たちは消えた。
 そして男がひとり死んだ。
 でも何も変わらない。
 この町で淡々と進んで行く祭りを止めるには、外側からの干渉では無理なのだ。
 祭りに潜り込み、なおかつ、いかなる事態に陥ろうとも対処できる人間は限られている。年齢に制限を受けず、ソレが可能と考えられるのは自分だけだと榊は判断していた。
「危険よ?」
「……はい」
「周囲を巻き込むかもしれないな。あの手の人間は敵に回すと怖いぞ。見境がなくなるからな」
「……分かっているつもりです」
 シュラインと藤井の言葉に、榊はゆっくりと頷き、答える。
「この町の人たち全員を敵に回すことなく依頼を遂行することを大前提と考えています」
「無用な刺激は避けたい…ですよね?」
 七重が確認するように榊を見上げる。
「儀式の場に『お白様』が現れた時点で結界を張るんです。完全なる隔離状態であることが望ましいですから。藍原さんに協力していただければ多分可能でしょう」
 彼の能力を榊は知っている。
「今日の時点で行方不明者は6名、か……確かにそろそろ決着つけねえとな」
 藍原が逸らした視線の先には、七重の見つけてきたサンダルや昨日見つかった少女達の『痕跡』が畳の上に並べられている。
「では行きましょう」
 祭りの場所は、遠く近く寄せては引く波の狭間。
 神社を通り、森を抜け、その先に広がる海岸線の向こう側にのみ見ることの叶う光景。
 ひっそりとそこにあり続ける浮き島こそが本来の儀式が執り行われる場所だ。



 波が揺れる。
 漂い、さざめく。
 異界の扉が、再び夜の世界に開く。
 かすかな旋律をその唇に乗せて、少女はひとり、水際を遊ぶ。
 愛しい人。
 愛しい世界。
 神に仕え、神に捧げ、この町をひそやかに護り続ける。
 血肉は光の雪に変わり、この穢れた黒い世界に降り注ぎ、清めていく。



 月の光が世界を青白く染め上げる。
 砂浜と祠のある島とを結び、海面に浮かび上がる、光の道筋。
 少女はまるで重力の干渉を受けていないかのように、海の中から光の粒子を纏った姿で現れた。
 白装束が波と風に揺れる。
「………キミが……」
 シュラインの服を纏い、薄青のパンピースに包まれ少女となった榊へ、誘うように伸ばされた白い手は血が通っていないかのように冷たく凍えていた。
 そして見つめる彼女の瞳は、どこまでも慈愛に満ちた色を含んでいる。
 一目見て、確信する。
 憑物ではない。
 神の契約の名のもとに、彼女はもう『彼女』ではなくなってしまっていた。
 今の彼女は、人ではなく神聖なる巫子姫――なのだ。
 町人達の盲目的な信仰をその身に受ける、不可侵領域の存在。
 生贄の儀を行う、海境の護り人。
「………今日で、終わりにさせてもらうよ………罪の贖いと、キミという魂の救済を―――」
 その言葉を合図に、榊と藍原の結界が二重に世界を覆った。
 ぴしりと空気が凍る。
 空間が断絶されていく。
 この町を、浮島を、彼女が立つこの場所そのものを包み込み、2人の結界は現実世界から自分達を隔絶する。
 お白様と呼ばれる少女と、彼女の存在を求めた調査員だけが色のない世界に閉じ込められた。
 

「やはり貴女がお白様……だったんですね」

 そして、祠の影に身を潜ませていた彼らがゆっくりと彼女と榊の前に姿を現した。
 七重の表情が曇る。
 話を聞いてからずっと抱いていた疑惑。そして辿り着いた答え。けれど的中して欲しくはなかった。
 散らばったパズルが次第に合わさり、最後のピースが嵌り込んだ瞬間、そこに浮かび上がってくる像はどこまでも哀しくどこまでも美しい。
「ご両親が貴女の帰りを待っていますよ」
「……弥生さん。帰りましょう?」
 シュラインが更に言葉を重ねる。
「もうこんなものに囚われている必要なんかないのよ。貴女はあの本に選ばれたかもしれない。でも、貴女はお白様である前に白石弥生さんでしょ?」
 懸命に彼女の心に呼びかける。
 僅かでも残っているかもしれない自我への訴えが、何らかの変化をもたらすと信じて。
 だが、そんな努力の合間を縫って、広域に渡る結界を張ることに全神経を使っていた藍原の背後に、すっと影が舞い降りる。
「手出しをしてもらいたく、ねぇんだよっ!」
「―――ぐっ!?」
 不意打ちで受身が一瞬遅れた藍原の脇に、強烈な拳が入る。
 それでも打たれ強く出来た頑強な身体は膝を折ることなく留まり、結界の法を綻ばせることもなかった。
「ちっ」
「やめるんだ!」
 更に攻撃を加えようとする来栖の身体を、藤井が霊枝を鞭のようにしならせ薙ぎ払った。
「何をするんだ、来栖君!君はそんなことをするような子じゃないだろ!?」
「うるせぇ!てめえにそんなこと言われる筋合いはねえんだよっ!!」
 掴みかかってきた手を振り払い、来栖は嫌悪を隠そうともせずに藤井の腕を噛み付いた。
 ギシリと軋むように顔を歪ませて、来栖は藤井の拘束する腕の中から掻き消え、榊の背後に姿を現す。
「お前らの手に負える相手じゃねえんだ。お前ら人間が踏み込んでいい領域でもねえ。分かったらとっとと失せやがれ!」
 獣が咆哮を上げ、殺気を漲らせて爪と牙を容赦なく振るう。
「やめろ!」
「―――来栖くん!?」
 悲鳴を上げるシュラインの前に立ち、七重が人差し指を獰猛にして俊敏な獣へ向けた。
「―――ぐぁっ!?」
 指先が彼を捕えた瞬間、法則を無視した重力の磁場が来栖の身体を地面に押し潰す。
「すみません……でも僕は彼女のご両親の思いに応えたいんです。貴方にそれを阻止されたくありません」
「弥生さん」
 榊が彼女の名を呼ぶ。
「弥生さん、聞こえますか?」
 けれど彼女は答えない。
 弥生は言葉を発しない。
 これほど激しい感情が自分の目の前でぶつかり合い、交錯しているにも拘らず、彼女はただ宗教画に描かれた天使のごとく、穏やかで威厳に満ちた笑みをその口元に湛えているのみだ。
 かつてダークブラウンだった彼女の瞳は、海を映した透明な青へとその色を変えていた。
 スナップ写真の中で無邪気に笑顔を弾けさせていた少女はもうどこにもいない。
「……帰れねえのか……?」
 答えてくれるものの宛てもないままに、藍原は問いだけをこぼす。
 誰の目にも、彼女がもう人であることを辞めてしまっているのが分かる。
「……神の子ならば……神に還す。お前らニンゲンに、それを止める権利はねえ…はずだ」
 全身の関節が軋んだ悲鳴を上げているにも拘らず、苦しげな呼吸の下で来栖は調査員達を睨みつける。
 彼女は選ばれてしまった。
 そして、もう覚醒してしまったのだから。
「それは……」
「確かに権利はないかもしれません。でも、彼女の帰りを願う両親の想いに応えたいと行動を起こすことそのものを否定されたくはありません」
 逡巡とともに言葉を飲み込んだ榊の代わりに、七重が来栖へとまっすぐに答えを返す。
「……そう、だね……僕たちにそんな権利はないかもしれない……でも」
 この町に住まう者達が持つ罪の概念は、外側の人間からすれば随分と歪んでいるだろう。
 お白様信仰をやめさせることなんて、自分達には出来るはずがない。おそらくはそんな権利すら持ち合わせていないのだ。
 けれどこのような悲劇が繰り返されることだけは許せないと、確かに自分もまた感じたはずだ。
 榊はゆっくりと視線を上げ、チカラを込めて言葉を吐き出す。
「この場所を永久に封印します。そして彼女を取り戻す。それが一番だと思うから……お願いします。僕にチカラを貸して下さい」
 贄を欲するような神がこの世界に具現化してしまってはいけないのだ。
 弥生を呼んだものはなんであったのか。
 定められた運命だったとでも言えばいいのだろうか。
 彼女は友人殺しの大罪を犯し、その白い手を血で穢した。
 けれど同時に、神の名のもとに、崇高なる巫子姫の役目を果たしてもいた。
 それをいま解き放ち、この祠を封じなければ、終わることが出来ない。
「やめ、ろ――っ」
 抑えつけられた来栖の目の前で、榊と藍原の呪が互いに絡み合い、神の契約の元に降り立つ少女を取り巻いた。
 海境の巫子姫に収束していく光。
 幾重にも折り重なり、まるで繭のように包み込む。
 彼女を支配する強大な呪縛が彼らの力に抗い、払うように火花が散らす。
 だがそれもやがて呑みこまれようとしていた。
 誰もが終わると思っていた。
 彼女を取り戻せると信じられた。
 だが。
 一瞬の隙だった。
 七重の意識が自分から逸れ、重力から解放されたその瞬間に、来栖は身体を跳ね上げて光の繭となった弥生の元に走ったのだ。
「―――――こいつはお前ら人間の手には渡さねぇ!俺の手で、海神のもとに連れて行くっ!」
 濃紺の獣の腕が術の発動している力場から少女の身体を奪い去り、そのまま結界を張っているはずの箱庭から掻き消えた。
 対象を失ったチカラは一気に膨れ上がり、少女の代わりに祠を内包する岩場を沈めに掛かった。
「間もなくここは沈みます!」
 榊の警告の声が響いた。

 チカラが膨大な規模にまで膨れ上がり、全てが目を焼く白い闇の中に消えた。



 お白様。
 海境の巫子姫。
 白い本に呼ばれ、彼岸と此岸の境に眠る少女。



「お手柄だったな、少年!」
 白い砂浜に降り立つと同時に倒れこんだ七重を抱きとめて、藤井が笑顔を向けた。
「………有難う…ございます」
 岩場がこの空間から消え去る瞬間、七重の指が海を拓いたのだ。
 それはまるで旧約聖書に記されたあの預言者のごとくに。
「お疲れ様、七重君。本当に有難う」
 シュラインを始め、榊や藍原からも労いの言葉を掛けられて、七重は蒼ざめた頬に笑みを微かに浮かべた。
「……でも…これで本当に良かったのでしょうか……」
 藤井に支えられながら、視線は凪いだ夜の海に向けられる。
「最善とは言い難いかもしれない……でも」
 ふと洩れた七重の呟きに重ねて、榊が中天を過ぎた月を見上げる。
 結局自分達は弥生も、そして彼女と共にここへ来た少女達も救うことは出来なかった。
 遺体の一部すら親の元へ返すことが出来ず、ただもうこの世にはいないという事実のみを告げなければならないのだ。
「でも……」
 文芸部の少女たちはもうこの世にはいない。
 贄となり、雪となり、海境の向こう側に棲まう神に捧げられたのだ。
 お白様にとって、そしてこの町にとってそれは罪ではないのかもしれない。
 だが、もしも弥生が自分で友人達を手に掛けたのだと知ってしまったとしたら、17歳の少女と外の世界の人間達はソレを容認できるのか。
 許容できるのか。
 耐えることが果たして出来るのか。
 そして、そこに救いは見出せるのか。
 もしかしたら来栖の選択が一番良かったのかもしれないという思いが、ふと榊たちの胸に過ぎる。
「……せめて、これくらいはさせてもらおうか……」
 藤井は静かに視線を落とし、深呼吸を繰り返す。
 そして、そっと全身に巡る想いを緩やかな言葉に変えて紡ぎだす。
 帰ってくると信じ、待ち続けている家族のために。
 帰ってこられると疑いもせず、けれどもうこの世には居られなくなってしまった少女達のために。
 追憶と鎮魂の花がいずこからともなく舞い降りてくる。
 白と薄桃の優しい色彩。
 魂の欠片で為した雪ではなく、優しい花びら。
 それは限りない祈り。
 純然たる想い。
 やるせないこの想いをただ花に変えて、藤井は海の波間に捧げる。
 そして、シュラインたちもまた、彼とともに若くしてこの世を去ってしまった少女達のために祈りを捧げた。


 夜が明けるとともに、余所者である彼らは切なさだけを胸にこの町を去っていく。
 帰り際、藍原はひとり神社に向かい、薄闇の中で白い本を燃やしてきた。
 これでもう、お白様も、そしてお白様の祠もこの世界に姿を現すことはないだろう。
 もう二度と、ここに魂の雪が降ることもない。
 それだけがせめてもの救いだろうか。

 海はあらゆるものを内包し、真実に口に噤み、ただ花びらの舞う夜の世界で沈黙し続ける。



 翌日。
 死んだ男が行方不明事件を企てた犯人であり、少女達を殺した挙句に贖罪のために自殺したという報道が海辺の町から発信された―――




END

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【0642/榊・遠夜(さかき・とおや)/男/16/高校生・陰陽師】
【1533/藍原・和馬(あいはら・かずま)/男/920/フリーター(何でも屋)】
【1627/来栖・麻里(くるす・あさと)/男/15/『森』の守護者】
【2072/藤井・雄一郎(ふじい・ゆういちろう)/男/48/フラワーショップ店長】
【2557/尾神・七重(おがみ・ななえ)/男/14/中学生】

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■         ライター通信          ■
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 はじめまして……のPC様は今回はいらっしゃらないですね。
 こんにちは。そして、いつもお世話になっております!
 最近立て続けに自分内ヒット小説を読むことが出来てほくほくのミステリ好きライター・高槻ひかるです。
 さて、16タイトル目にしてついに『海』が舞台となりました。
 『館』や『森』は依頼でも登場回数が多かったりするのですが、モチーフとしてかなり愛している『海』を持ってきたのは今回が初めてだったりします。
 いいですよね、海。いろんなものを呑み込んで、いろんな表情を含むあの神秘さと澄んだ青がたまりません。
 何より夏ですしv
 でも相変わらずな内容で、海特有の涼やかさは全然表現できていないあたり申し訳なく……(とほほ)
 予想以上に長くなってしまった今回の依頼、少しでも楽しんでいただければ幸いです。

 なお、シナリオに分岐点はありません。全て共通となっております。


<藤井雄一郎PL様
 2度目のご参加有難うございますv
 そして、シチュノベでは娘さんたちと共にいつもご指名くださり有難うございますv
 プレイングの最後に添えられたお言葉を拝見した瞬間、今回のラストシーンがポンっと浮かんでしまって、とにかくこれを描写しようと決めておりました。
 優しい視点がすごく素敵でした!
 重くなりがちな話の中でムードメーカー的役割も果たして頂きまして、楽しく書かせていただきましたv

 それではまた別の事件でお会いできますように。