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<東京怪談ノベル(シングル)>


泡沫 dream
 静かだ。
 小さなカウンターに座り、つやつやに磨き上げられた板の上に肘を付きながら、茜はボーっと狭い店内を見つめていた。いや、見つめているというのは正しくない。
 彼女の目には何も映っていないのだから。
 不自然に歪み、たわんだ世界しか。
 今日はまだ1人も客が入っていなかった。元々小さく看板も出していない店のこと、お茶を引くことも珍しくは無い。
 ふぁふ…
 猫のような小さな欠伸をひとつし。
 頤を手の上にちょこんと乗せ、すぅ…っと目を細めた。

     * * * * *

 ――夢を、見ていた。

 はっはっ、はっはっ。
 小走りに動くたびに、肩の辺りでぴょこん、ぴょこんとお下げが揺れる。やや癖のある真黒な髪は、無駄な量でもって毎日編むのに苦労させられている。
 黒ぶちの厚みのある眼鏡はこういう時すぐずれるから嫌だった。かと言って外すのにも躊躇いがあり、結局は息を付く合い間に不器用に揺れる眼鏡を押さえてぎゅっ、と鼻柱に押し付けるのが常だったが。
 ここは…どこなんだろう。
 すっかり暗くなった道を走る足音が、何故だか自分の後を付けているようにも聞こえ自然と足運びが速まっていく。

     * * * * *

 自分のことが大嫌いだった。
 何度ブラッシングしてもほんのちょっとしたことですぐ崩れてしまう黒髪は、毎日痛いくらい締め付けなければ言う事を聞かなかったし、上目遣いで見る癖が付いてしまっていたために少しばかり猫背気味になっていた身体…年と共に自分では不相応だと思うくらい成長し続けるスタイルは、いくらサイズを落した下着や服で締め付けても無駄な事で。
 それでいて、自分でもどうしようもないくらい引っ込み思案な性格は小さな時から変わらず…ある時、少しでもきちんと前を見ようと決心して買った、厚みのある伊達に近い眼鏡も、次第次第に成長していく周囲の異性には全くフィルターの役目も果たさず、逆に『地味』な自分にぴたりと似合ってしまう始末。
 変えなければならない…そう思っても、気付けば目立たないような変わりばえのしない服ばかり選んでいた。どういった形が、色が自分に合うのか探す事もせずに、ただ身体を押し込めておくための服しか買っていなかったのだから当たり前かもしれない。
 友人にも何故だか劣等感を感じずにはいられなかった。年相応のはつらつとした笑顔を見る度、地味な自分をからかうような眼に気付く度、その感覚は強まりこそすれ弱くなって行くことは無かった。だから、それは茜にとって一大決心だったのだ。

 地元で就職も進学もせず、東京の大学へ行こうと。

 反対されなかったわけではない。だがその理由が、茜が世間知らずである、ということと、見るからに大人しい姿に対する危惧だった事が、逆に茜を依怙地にさせていた事も事実だった。

 ――私は大人しいまま終わりたくない――

 『東京』に行きさえすれば、私は変われるかもしれない。変わることが出来る何かがあるかもしれない。
 その思いだけが、たった1人での受験を決意させ、そして――。

 …ここは、どこだろう?
 慣れない街。匂いも人の表情も、歩く速度もまるで違う。
 道を訊ねたくても、皆茜を拒絶しているように見え、声を掛けることさえ出来ない。
 受験のために予約した宿へは、もうとうに着いている筈だった。
 それなのに、降りる駅を間違え、慌てて乗り換えた場所も間違え――目的地ではない駅で降りた茜は完全に迷ってしまっていた。
 行く前に何度も何度も確認したのに、と暗い空を眺めながら憂鬱な気分になる。
 ――だから言ったじゃない。1人で行くなんて無茶だって。
 身内の、心配する…それでいて、『やっぱり駄目だった』茜にほっとするような、笑いを含んだ声が聞こえて来た。
 きっとこのまま帰ったら全く同じ声色で言われるだろうと予想が付く。今までに何度も聞いて来た声だったから。
 だからこそ…茜は、不安な気持ちをありありと顔に浮かべながらも、駅へ戻ると言う事が出来ずにいた。
 駅に戻ってしまえば…落ち着いて目的の場所へ向かう前に、言い訳を繰り返しながら家へ戻ってしまうだろうから。

     * * * * *

 ――はっはっ、はっはっ。
 ぱたぱたと移動し続ける自分の足音が煩い。普段スポーツに縁遠い身体が悲鳴を上げ、脳のてっぺんで繰り返しているように聞こえる息遣いが煩い。
 …気付けば、駅への道さえ分からなくなっていた。
 自分の荷物は、ぎゅうぎゅうに詰め込んだバッグ1つ。
 予約無しでも泊まる事が出来る宿があることも…茜は知らない。

 ――。

 ふと、何かの声が聞こえた気がした。
 辺りを見渡せば、住宅街の近くらしく通りがかる者はいない。
 一瞬空耳かと思ったが、そうではなく…立ち止まって耳をすませば、やはり路地裏から聞こえて来る。
 誰か、いるの?

 近づいちゃいけない。
 そんな声が頭に浮かぶ。それはきっと正論だったのだろう。
 ――だから。
 茜はそっと、足音を忍ばせながら、声らしきものが聞こえた方向へと進んでいた。
 路地裏を覗き込む。
 其処には…円を描くようにしゃがんでいた数人の男達の姿があった。

     * * * * *

 何か言われていたのだろうが、茜の記憶にはその声は入っていない。
 ただ、
 ――すえた匂いと、
 どきりとするくらい『危険』を感じさせる、焦点の合っていない瞳と、
 数少ない街灯に反射する、男達の手にある銀色のナイフが。
 ――ああ…私、脅されているんだ。
 何故だか、強張った表情の中で茜はそんなことを考えていた。
 ぎらぎら輝くナイフと、自らの有利を確信している男達のどこか弛緩している笑み。
 笑いたくなるくらい、滑稽な光景だった。
 自分が脅されている事実。もしかしたら、自分に明日は無いかもしれないと言う、思い。

 まさか自分の身にそんなことが起こるなんて。

     * * * * *

 だから、もう1つの出来事も良く理解出来ないままだった。
 いつの間にか自分の目の前に大きな背中があったこと。
 その大きな背中の…男性が、次々に男達を倒していったこと。
 ――最後の1人が地面に崩れ落ちると同時に、その男性も腹を押えながら膝を付いたこと。

 それはまるで無音映画のように、静かに進行していた。

 助けてくれたその男性に駆け寄ることもせず、立ち尽くす茜。そんな彼女の脇をすり抜け、男性へ急ぎ近寄って行く女性。そのまま倒れている男へ汚れるのも構わず膝を付き、茜には理解出来ない仕草で『何か』を行っている。
 何か言っているのかもしれない。だが、茜には聞こえなかった。
 何故か真赤に染まっている腹部を手で押さえながら眼を閉じている男にも、それは聞こえていなかったに違いない。
 満足げに何かをし終えた女性が、ちらと茜を見…そして、微笑んだまま崩れ落ちても。
 ほぼその直後にぱちりと目を見開いた男が、自分の腹部を押えて撫で、傷の無いことに不審げな顔をするとほぼ同時に傍らに倒れている女性の姿を見つけ――目を見開いても。
 わななくその唇から、何度も何度も叫んだであろう声も、茜には届いていなかった。

 直後、強烈な光に包まれ――

     * * * * *

 ぱちっと目を開いた瞬間、自分が何処に居るのか分からなかった。硬い磨きこまれたカウンター、好んで使っているアロマ、ごく静かに流れている音楽にようやく『自分』を取り戻し、そして苦笑しつつ泣いていたらしい目元をそっと拭う。
 ほぼ同時に、何の飾りもない店のドアが開いた。其処へ意識した柔らかな微笑を向ける。

 ――こんな時に限って、『彼』は来てくれる…。

To be continued...