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泡沫 cocktail
「いらっしゃい。いつものね?」
「ああ」
ふらりと前触れ無く現れる彼。そのまま、客のいない店内をいつものように眺めると、カウンターにいた茜の隣に腰を降ろす。
先程まで薄らと浮かんでいた涙はとうに顔から消え、にっこりと極上の笑みを浮かべてカウンターの中へ入り、ストックしてある好みのボトルを取り出して手際よく混ぜ合わせるとコトリとカウンターの上へ置いた。
彼好みの辛いカクテル…口に合うように作れるようになったのは、一体いつのことだっただろう。
…グラスへと伸ばす指先にふっと視線を置き。再び彼の隣へ腰掛けながら、そんな事を思う。
最初の一口を喉に流し込む姿を見ながら、頭は今しがたの夢の続きへと飛んでいた。
* * * * *
「――ぁ…うぁああ…」
弾けるように、突然声が聞こえてきた。
はっ、とそれまで動く事も忘れていた茜が、急に笑い始めた膝を押えるように、荷物ごとぎゅぅと自分を抱きしめて目を見開く。
男が――泣いていた。
ひっきりなしに、嗚咽を絞り出しながら…地面に横たわっている女性のすぐ傍に膝を付きながら。
…男の人は…泣かないものだと、思っていた。
少なくとも、こんな風に『惨め』な姿では、泣かないと思っていた。
「………」
まだ、かくかくする足を無理に立たせながら、一歩一歩その丸められた背中へ近寄って行く。
見下ろした女性の顔は…茜に向かって微笑みかけた時と同じ、安らいだ顔をしていた。
「………」
ごめん、なさい。
自分がこの場へ来なければ――この男性が、自分を庇わなければ――きっと、こんなことにはならなかった。
刺された筈のこの人が元気になっていて、その彼に何かをしていた女性がこんな風に青ざめた顔でぴくりとも動かなくなるなんて…普通だったら信じられなかった出来事なのに。
『常識』を考える部分が麻痺していたかのように、茜は、擦れ声で繰り返すことしか出来なかった。
そしてそれ以上に、目の前で小さくなって泣いている男性から離れることが出来ずにいた。
「……っ」
暫く…2人とも、そうやって動かずにいた。男はまだ溢れ出そうとする涙を無理やりぐいと拭い取り、横たわっている女性をゆっくりと抱き上げると路地の奥から別の道へと移動していく。
付いて来い、とも、さっさと帰れ、とも言わず。
茜はその後を黙って付いていった。
* * * * *
「彼女は――俺の母だ」
涙を意思の力で止めているのか。
そう思えるくらい真赤な目で、その男はぼそぼそと語った。
ここは、ひと気の無いビルの一室。勝手知ったる様子で道を抜けた先にあったこのビルの中へ入ると、傷ひとつない女性をそっと床に横たえ、自分の着ていた服の上着を脱いで、その上へ丁寧に安置しなおした。
眠っているようにしか見えない…けれど、その女性が呼吸をする事は無く。
「信じるかどうかは勝手だが…俺達は特別な力を持ってる。母も…そのせいで、彼女は…」
自分を助ける力が無かったら――こんな風に、母も死なずに済んだのに、と。
呟く声は静かだが、握り締めた手はかすかに震えていた。
「ご…ごめんなさい…」
「謝る必要は無い。元々は俺の油断だった。…あいつらが武器を持っていたのを知っていたのに」
はっ、と自嘲気味の笑い声を上げ、鋭すぎる目が茜を射る。
「俺に術を施す必要なんか、なかったんだ。俺の傷は深すぎたから。母は、俺の命を自分の命で購ってしまった」
ぐ、と胸元へ手をやり、裂けたシャツを両手でびりり…と広げて見せる。
「ほら」
…初めて見る、若い男性の肌にどぎまぎしながらも、茜はその傷口に目を置かずにいられなかった。
あの時は自分に背を向けていたから良くはわからなかったが、肋骨の隙間を縫うように、すっと肌色の線が入っている。
「短いナイフだって十分心臓に達する。…あいつら…多分、初めてじゃない」
ぼそりと呟いたその声は、ひやりとする冷たさで。何故だか茜の身体までが冷えたように、ぶるりと身体を震わせた。その様子に気付いたのか、男が窺うように茜を見、
「付き合せて悪かったな。――もう帰ったほうがいい。親が心配する」
初めて、ほんの少しだけ笑みを見せて、そう言った。
反射的に茜がぶるぶると首を振る。訝しげな顔をする男に、慌てて口を開き、
「そ、そのっ…あたし、受験で…こっち、来てたから…だ、大丈夫、です…」
「1人で?」
こく、と頷く茜。――ぽつぽつと自分の事情を話す。迷った事も、路地で襲われたいきさつも。
「…そうか。送ってやりたいところだが…今は、母さんの傍に居てやりたいしな…」
「いえ、その…今日はもう遅いし、あたしまた迷っちゃうから、朝になったら…帰ります」
東京は自分のような娘が来る場所じゃない。
分不相応にこんな場所へ来てしまったから、この青年から母親を奪う羽目になってしまったんだから。
だから、もう、いい。
――帰ろう。
「助かった」
え?と顔を上げる茜に、男がもう一度、柔らかな微笑を浮かべる。
「…泣き顔まで見せて恥ずかしいんだが…今晩、1人きりになるのは――正直つらくてな」
* * * * *
――不思議。
どうしてあたしは、こんなに落ち着いているんだろう。
壁に頭をもたせかけながら、茜は胸の中で小さな寝息を立てている男性へそっと目をやった。
庇ってくれた時はあんなに大きな背に見えたこの男が、あまりにも小さく見えたために、以前なら考えもしないことをやっている。
ぎゅ、っともう一度目を覚まさない程度に抱きしめ、そしてその頭をゆっくりと撫でた。
まるで、おかあさんみたいね。
縋りつく子供を庇護するように、眠れなさそうな彼に両腕を広げて迎え入れたのは何故だったのだろう。
そしてまた、彼も…何故、素直に抱きしめられるままになって、驚くくらいあっさりと眠りに落ちていったのだろう。
家族以外の異性と話すことなど、例え教師にさえまともに出来なかった自分。
こんなことをしているのは、自分を助けてくれたから?
それとも、同情?
――どう考えても分からなかった。だから。
茜は考えるのを止め、目をゆっくりと閉じた。
感じ取れるのは、冷えた空気と、温かな体温と――規則正しく、打つ鼓動。
――とくんとくん、とくんとくん…
それは…何よりの安定剤だった。
* * * * *
「ん…」
眩しい光に目を開ける。どうやらぐっすりと寝入っていたらしい。気付けば抱きかかえていた男の姿は無く、がらんとした室内が奇妙に広々と感じられる。
「……」
行ってしまったのだろうか。
きっとそうだろう、だって彼は自分とは違う世界の人間なのだから。
どくん。
「……っ!?」
急に驚く位大きく鳴った心音に驚き、胸の上に手を置く。
どくん、どくん、どくん…。
不安――では、無かった。いや、寧ろその逆で…。
「な…なに、これ…っ」
身体が酷く不安定に感じられる。その癖、髪の毛の先から爪先まで酷く熱い。
放っておけば自分の身体がばらばらになるのではないかと思う。
生まれて初めての、昂揚感…それが何なのか分からないだけに茜は自らを持て余していた。傍目から見れば、おかしなものに見えただろう。眼鏡越しに隠しようのないきらきらと輝いた瞳や血色の良い頬、今にもはちきれんばかりの身体を、細い両腕で必死に抑えつけようとしているのだから。
「起きてたか。母の方の手配を――」
がちゃりと開いた扉から顔を覗かせた男が、顔を引き締めると茜の傍に寄る。
「どうした?」
「わ――分からないの。なんだか、溢れ出しそうで…」
男へと向けた茜の顔は紅潮し、薄らと汗さえ浮かんでいる。昨日あった時にはまるで感じなかった何かを茜から感じ取ったらしく、すぐに近寄って来た男が茜の手に触れて、目を見開き。
「そうか…あの時」
それだけ呟くとぽんと両肩を叩き、
「抑え付けなくていい。大丈夫…それは君自身だ」
「あたし、自身?」
「そう。詳しいことは後で説明するが…そうだ。名は?」
「あ――茜…」
顔を真っ直ぐに覗き込まれ、震える声が自分の名を告げ。
――どくん…
後から思えば…この時に、『茜』は初めて産声を上げることが出来たのだろう。
* * * * *
あの夜。
目の前で母親が、自らの命を代償に自分を助け出したのだと気付いた瞬間、男の中で何かが弾け飛んだ。
――その時暴発した魔力が、すぐ近くに居た茜へと降りかかり、そのせいで何らかの『力』を得たのではないか――男はそう、茜へ説明した。
其れを聞いた時の茜の目には、もう眼鏡は無かった。ぎっちりと編んでいたお下げも、緩やかなウェーブを描いて背中へと流している。
結局、あの後受験会場へ行くことは出来なかった。そして、家へ帰ることも無く…この先何校か受験する度に上京するのは金銭的に負担がかかるから、と親へ電話し、此方で出会った友人の所に泊めてもらいながら残りの受験をすると言う言い訳を、親が心配しないよう納得するまで説明してから電話を切った。
そして今、茜は男と共に暮らしている。
いや、実際にはそうではない。このマンションは一月借り切りのものだし、男はひっきりなしにやって来るものの泊まっていくことは無かったからだ。
「どうだ?疲れただろう」
「ええ、でも大丈夫。何だかとても楽しいの」
男は様々なことを茜に教えてくれた。まずは、茜の中に産まれた『力』のコントロール。それから、本来の目的になる受験勉強――ぶっきらぼうな態度を取る割には、男の教え方は的確で、そしてまた覚える茜も今まで学んできた時間は何だったのかと思うくらい貪欲に知識を吸収することが出来た。
そして…茜の服は、地味一辺倒だったものから、ぱっと花が咲くように明るい、けれど決して派手ではない、年相応の服装へと見事な変化を遂げていた。こう言った服を買ったことさえない茜へ恥ずかしげもなく次々と服を買い与えたのは、やはりこの男で。ごく短期間で、茜は道行く人が――女性であれ男性であれ――思わず振り返らずにはいられない、そんな女性へと生まれ変わっていた。
* * * * *
――あのひとは…あたしのことをどう思っているのだろう。
不用意に『力』を与えてしまったから、そのサポートに回っているだけ?
母親を失った代わり?
聞くことは出来なかった。そんな事を聞けば、この夢のような生活がぱちんと弾けて消えてしまいそうだったし、聞いても仕方の無いことと思っていたからでもある。
けれども、日に日にその男の存在が自分の中で大きく育っていくことは止めようがなかった。いや…茜自身、止めてしまいたくはなかった。
それこそが、生まれて初めての恋だったのだから。
まだ地味で大人しい茜だった頃には絶対に知る事の出来ない、この甘く切ない感情を得た事…。
そのこと1つを取ってみても、自分は幸福だと思わずにはいられなかった。
そして――本命の大学の受験日は、刻一刻と近づいていた。
To be continued...
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