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<東京怪談ノベル(シングル)>


泡沫 ...and kiss
 一杯目が空になったのを見計らって、茜がカウンターの中に入る。作るものはいつも同じ。
 言葉無く目の前にグラスを置くと、ちらと一瞬だけ茜へ目を置いてから、男はグラスへと手を伸ばした。
 何を考えているのか、とか。
 男が聞くことはない。
 それでも、またこうやって茜が隣に座ることには何も言わず、時間を引き延ばすようにじっくりとカクテルを味わっている。
 ごつごつしてはいない、けれどしっかりと男らしい手を見ながら、またも意識を潜らせて行く茜。

     * * * * *

 見方を変えるとこんなにも変わるものなのか。
 眩しい世界に目を細めながら、茜は明けた空に向かって微笑んでいた。
「行ってくるね」
「ああ」
 男に会場近くまで送ってもらい、ありがとう、と礼を言って、アップにした黒髪を揺らしながら駆け出していく。

 上目遣いを止めてみれば、周囲は思っていたよりもずっと優しかった。後ろ向きに考える事を止めてしまえば、今までほんの些細な事で自分が立ち止まっていた事を思い知らされた。
 受験会場で知り合ったばかりの子達と意気投合し、帰りにカラオケで盛り上がることも、ほんの1ヶ月前なら考えもしなかっただろう。
「受かったらまた遊びに行こうね!」
「うん、きっとね」
 受験直後のハイな状態だったとは言え、女の子同士で別れる直後にぎゅぅと抱きしめ合うのも初体験だったし。
 一緒に居た男の子達は少しばかり羨ましそうだったけれど。
 笑顔で別れ、昂揚感そのままに急ぎ足で『家』に戻っていく。
 其の結果は報われたと言う他ない。
 がむしゃらに勉強したつもりだったあの頃ですら、きっと無理だろうと思われ、自分でもそう思っていた名のある大学に、見事に合格したのだから。
「…合格したわ」
 親よりも、教師よりも、友人達よりも。
 ――真っ先に連絡を入れたのは――
「お願いがあるの。今夜…お祝いしてくれない?」
 声の震えを消そうと、何度も唾を飲み込み、深呼吸を繰り返し。
『ああ』
 あっさりとした…深みのある男の声を聞くために。

     * * * * *

 あれから、まだどきどきが止まらない。
 親へ連絡を入れた時も、学校へ連絡を入れた時も上ずった声をしていて、だがそれは合格した興奮のためとどちらも受け取ってくれた。そして、電話口で驚いた声と共に『良かったねぇ』と言われ、素直に頷いて。
 ちっちゃいながら2人分のケーキを買い。あまり上手ではないが、男が来る前にと張り切って料理を作り…。
 それでも、胸の鼓動はおさまらず。
 テーブルにそれらを並べ立て、飾り立てても、まだ。
「――凄いな」
 全て終えた頃を見計らったかのように現れた男がちらと茜を見ると、もう2度とこのどきどきは止まらないのではないかと思ってしまうくらいに激しく動いていた。
 息苦しさを堪えてにこりと笑う。
「お祝いしなきゃ。あなたのお蔭だもの」
「俺の?」
「そうよ」
 そうよ――全部、あなたのお蔭。
 あたしをあのちっちゃな茜から生まれ変わらせてくれたのも、こうして目標だった大学に合格できたのも。
「それは、どうかな」
 男が真赤な頬をしている茜にそう言って小さく笑う。
「俺は…俺の責任を果たしただけだ。お前に『力』を与えてしまったからな。――けどな。素質はお前の中にあった。それは忘れるなよ」
「ええ」
 こくり、と頷く。
 目の前には、男からのお祝いの、グラスに注がれた赤い液体がある。それを口に含む前に、言わなければならないことがあった。
「あのね」
 ん?と男が顔を上げる。その、深い眼差しが茜の全てを見通すように彼女の顔を覗き込み。
「もう1つ…お願いしてもいい?」
 男が、じ…っと、茜を見つめ。
「ああ」
 あっさりと声にして返した。すぅ、と息を吸い込んでから、覚悟を決めて、
「あたしの初めてのヒトになって」
 真っ直ぐ。
 目と目を見交わしながら、茜が言い放つ。
「………」
 ――目を逸らしたら、負けだ。
 無言で茜を見つめて来る男の目は、時々酷く鋭くなる…その視線にも、負けず、見つめ返す。
「――あの時…」
 ぽつりと、男が口を開く。
「聞くべきだったかもしれないな。…何故、付いて来るのかって」
 グラスに注いだ赤い液体へと、男の視線が動いた。
「後悔するなよ」
「しないわ。だって――」
 あたしは、あなたが。
 同じくグラスへ目を落とし、指先で摘んで口元へ運ぶ。

 ――、だもの。

 言葉と一緒に飲み込んだ赤は、渋味と…甘味が混在していた。
 それは、その夜の味でもあった。
 後悔なんか、しない。
 あなたが、あたしを変えてくれたのだから。
 シーツに包まれた熱い身体で、男を胸の中に抱き寄せながら、茜はそんなことを何度も呟いていた。

     * * * * *

 カラン。
 グラスの中の氷がぶつかって小気味良い音を立てる。

 大学へ入るまでに一旦戻った茜を待っていたのは、周囲の驚愕と、大量のアドレス帳だった。
 急に東京へ出た事で変わったと皆は思っただろう。とは言え、化粧を始めたわけでも髪を染めたわけでもない。単に着る服の色が変わり、表情がぐっと明るくなっただけ…本当にそれだけで茜は変わって戻って来た。それは卒業式に制服に身を包んだ事で更に強調され、今までクラスメイトに居た事さえ認知されていなかった茜へは、卒業後の連絡を切るまいとする面々から毎日のように連絡が来た。
 今も連絡を取り続けている者はほとんどいないけれど。
 ――大学へ入るために上京しなおした茜は、男と一緒に暮らすようになった。自分のために用意し直してくれたちゃんとしたマンションで過ごす月日は、今でも何物にも替え難い宝物として胸の奥へそっとしまってある。
 男は――何か、危険な仕事をしていたようだった。
 時々何処かへ出掛け、何日かして戻ってくる。その都度男が背負っているモノが一瞬顔を覗かせるのだ。
 それでも、男がいつも無事で…そして必ず戻ってくる事が分かっていたから、それ程心配はしていなかった。
 だが。
 そうやって暮らし始めて4ヶ月が過ぎたある日。
 突如、彼は茜の前から姿を消した。

「もう一杯、どう?」
「そうだな…もらおうか」

 急に目の前から消えてしまった時、これでもう会えないのかと思いはした。最初の数日は流石に茫然として過ごした…が、悲しみは訪れなかった。
 彼にはやらなければならないことがある、と知っていたから。それは、言葉で告げられた訳ではなかったが…茜には分かっていた。
 彼が茜のものでもないことも…そして…黙って出て行ってしまったことも。
「…これも、あたしのため…なんでしょう?」
 その答えは、きっと永遠に聞くことが出来ないままだろう。

 男の手が、冷たく冷えたグラスを掴む。
 冷たく冷えたグラスと同じくらい、冷たい横顔。

 1人きりの部屋。茜は、それでも楽しそうに微笑んでお腹へ手をそっと当てる。
 彼は出て行った…が、『絆』は残っていた。その証が…

 そこまで考えて、ふっ、と赤い自分の唇に柔らかな笑みを浮かべる。
 意味の無い事は考えない事だ。
 少なくとも――
 …カウンターに置かれたままのもう片方の手に、白い自分の手をそっと重ね、きゅ、っと握り締める。
 今はこうして、手の届く位置に居る。
 あたしのためにでも、彼のためにでも、どっちでもいい…あたしにとっては近くに居てくれる、その事実だけが大事。
 だから、それだけで…

「ねえ?」

 声をかければ、振り返ってくれる。

 それだけで。

 ――グラスから離れた冷たい唇に、不意打ち気味に唇を押し付けながら。

 …顔を離しても、きっと微笑を浮かべてくれる。それが、分かっているから…。


-END-