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Spirits in the blue
今日もまた、席の空いた自分の店「In the blue」で、彼――安芸島・勇(あきしま・いさむ)は一人愛読している哲学書を読みながら愛飲している酒『ラフロイグ』をキープボトルの入っている棚から取り出してグラスに注いで頂いていた。十年もののそれは、濃い金色で大理石のカウンターのテーブルにゆらゆらと金色の揺らぎを映し出していた。淡い青色の照明に照らされた店内は小奇麗にされていても、人はいない。まぁ、いつものことだしな――と本を片手に酒を飲む。そんなことだからこの店を構えるための借金を返済する目処はいかんせんつかない。
カランカラン…とドアに付けてある鐘の音が久しぶりに店内に響いた。
「久しぶりね」
と入ってきたのは碇麗香だった。月に二、三回程度この店に訪れるが、閑古鳥が鳴いているどころか住み着いているこの店にとっては貴重な常連だ。
「いらっしゃい。――…バイオレットフィズいかがですか?」
「お願い」
さらりと、当たり前のように勧め、そして受ける。
差し出された紫色の液体を、彼女が口に含むと、さぁぁぁ、と何かが四散した。どうやら麗香に『何か』が憑いていたようで、それがバイオレットフィズの紫色で取り払われたようだ。
特別、勇は彼女に憑き物が憑いていたと看破したわけではない。というか、本人はそのつもりは一切ないのだ。バイオレットフィズ、もしくはブルームーンといった、紫色のカクテルを勧めた相手には、当たり前のように憑依霊が憑いているのだった。憑いているから勧めるのか、勧めたら憑いていたのか、その因果関係は一切が謎である。必然なのか偶然なのか、それは本人もわからない。たまたま、と言ってしまったら元も子もないのだが、そもそも百発百中なのだから始末が悪い。彼が紫色のカクテルを勧める時は、イコールで憑依霊に憑かれているということになるのだ。――とは言っても、客そのものがあまりいないので、それを知っている人はごく限られてるのだが。
「相変わらずみたいね」
と、店内を一瞥して麗香が一言。
それは、店内の閑古鳥な様子なのか、はたまた無意識に憑き物を落としていることなのか。
「まぁ、この通りお客さんはいませんがね。借金ばかりが残りますよ。お客さんが部下をつれてもっと頻繁に来てくれたら助かるんですけどね」
「薄給だから無理だと思うわよ」
上司なんだからおごってあげればいいのに、と思いながら、自分も客を肴に一杯やる。
「ん…?」
何か、店に――店全体に違和感を感じた。何かが違う、と。
「…ねぇ、何かおかしくない?」
麗香も、何かを感じ取ったようだ。店全体に広がるこの違和感を。
店そのものにはなんの異変も無い。だが、確かに何かが違うのだ。それは空気か、それとも雰囲気か。――否、確かにそこには今まで無かったものが在るのだ。それこそ店全体に。店を覆うように、また店の中に広がるように。
「さっきまで私に憑いていた奴じゃないかしら?完全に消えきっていなかったようね」
「全く、面倒だな…」
ふぅ、と勇がさも関わりたくないと言わんばかりにため息をつくとソレは現れた。はっきりとした姿はない。だが、その部分だけ向こう側が歪んで見えるのだ。そう、それは確かにそこに在り、二人を見下ろしていた――というのに、二人は実に冷静にそれを見ていた。麗香なんかは席に腰掛けながらグラスを右手に、と先ほどと体勢はほぼ変わっていない。ただ、視線を向けている相手が違うだけだ。勇も、別段驚く様子は無く、それを見ていた。むしろ、一切の特別な反応を見せない二人に憑依霊の方が驚いていた。
「あら、驚かないのね――と言っても日常茶飯事かしら」
自分こそちっとも驚いていないだろうに、と思いながらも、彼は言った。
「所詮、これはドイツ観念論でいう表象にすぎん」
と。
「精神病理学――特にラカンにおける他者の欲望の転移でしかない」
あっさりと憑依霊の存在の根本を完全否定してのけた。無意識に憑き物を落としている人間が、ソレの存在の根本を否定するなどと――。
すると、目前の歪みが正されていく。そう、歪みは正しく直され、店は店に戻り、その空気も感覚も、雰囲気も、店を覆っていたソレも、全てが元通りになった。憑依霊は存在を否定され、存在すらできなくなったのだ。そう、それは文字通り――消え去った。綺麗さっぱり、何も無かったように。そこには何も在りはしなかったように。
「やれやれ」
と、店主はカウンター側の椅子に腰掛けて、飲みかけのラフロイグを口に含む。
「随分とあっさりとしてるのね」
「できれば関わりたくない」
「その割りに、たくさん憑いたり落としたりしているようだけど」
くす、と笑って麗香はグラスに残ったバイオレットフィズを一気に飲み干した。
「おかわりもらえないかしら」
「何がよろしいですか?」
「今度はバイオレットフィズは勧めないのね。安心したわ」
くすくす、と笑う麗香に対し、
「それではブルームーンなんかいかがですか?」
と冗談で言った。もちろん、もう憑依霊も何も、彼女にもこの店にも憑いてはいなかった。
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