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水底の夢
海原みなもは、八月のある暑い日の午後、草間興信所を訪れた。手には、午前中に作ってしっかり冷やした水まんじゅうを入れた袋を持っている。
青い髪と青い瞳の彼女は十三歳。中学一年生である。そして今は夏休み中だ。青い水玉模様のワンピースとサンダルといった姿で、軽やかに草間の事務所のドアの前に立つ。額ににじむ汗を、軽くハンカチでぬぐって、ドアを開けた。途端、エアコンの吐き出すひんやりとした風を感じて、彼女は小さく吐息をついた。
事務所にいるのは草間と、事務のバイトをしているシュライン・エマの二人だけだった。零は買い物に出かけているのだと言って、シュラインが水まんじゅうを受け取り、せっかくだからおやつにしようと、台所へ消えて行く。
その背を見送り、みなもは改めて草間に視線を移して、思わず目を見張る。
二人の声に、うたた寝から覚めたらしい草間は、げっそりとやつれ、目の下にはくっきりと隈が浮いていたのだ。
「どうしたんですか? 草間さん、その顔……」
「ああ……。ここんとこ、ちょっと体調が悪くてな……」
あくびと共に答える草間に、彼女は小さく首をかしげた。
「まあ……。お医者さんには……? お仕事が忙しいからと、あんまり不摂生をされるのは、よくないです」
場合によっては、彼が不眠不休で働くこともあることを知っている彼女は、思わず言う。
しかし草間は、返事に困ったように考え込んでいる。
「それが、そういうわけじゃないのよ」
代わりに答えたのは、台所から戻って来たシュラインだった。彼女の手には、人数分の水まんじゅうと湯呑みの乗った盆があった。彼女はそれをテーブルの上に並べ、みなもに席を勧めると、自分も草間の隣に腰を降ろす。
みなもも礼を言って、二人の向かいに座した。その目の前で、草間がさっそく水まんじゅうに手を伸ばす。
「うまい。なんか、気持ちがしゃっきりした気がするな」
「お口に合ったようで、うれしいです」
一口食べて感想を漏らす草間に、みなもは幾分照れて言った。そして、改めて問う。
「ところで、不摂生のせいでないなら、体調が悪いってどういうことですか?」
「ああ……実は……」
水まんじゅうを口にしながら草間が語り出したのは、なんとも不可思議な出来事だった。
ここしばらく、草間は眠るとかならず同じ夢を見るのだという。その夢というのは、光も射さないような水の底で、下半身を鎖に縛められて助けを求めている女と、その前に剣を手にして立ち尽くしている草間自身の夢だ。
夢を見始めたのは、『人魚は海の底に眠る』と題されたオンラインのファンタジー小説を読んでからだった。作者は碇麗香の友人で、近く出版が決まっている作品だという。薦めたのは、むろん麗香だ。たしかに面白い作品で、草間は柄にもなく夢中で読みふけってしまった。だが、その夜から、その不可解な夢が始まったのである。
件(くだん)のオンライン小説は、人間に恋をした罰として深海に捕らわれの身となった人魚の娘を、人間の男が助け、そのために呪いを受けた二人がそれを解くために旅をする、という内容だった。そして、夢はその小説の冒頭のシーンそのままである。
夢を見て目覚めた後には、かならずひどい頭痛が伴っており、それは市販の鎮痛剤を飲んでも効果がなかった。結局草間はこの数日、夢を見ないためにろくに眠っておらず、そのための不眠と頭痛とに悩まされ続けているのだというのだ。
話を聞いてみなもは、大きく目を見張る。
「そんな小説があったんですか。あたしも読んでみたいです。そのサイト、教えていただけますか」
興味を引かれて、思わずそう矢継ぎ早に問い質す。人魚の末裔である彼女にとっては、たとえ今の草間の症状がなくても、聞き流すことのできない内容だ。
「プリントアウトしたものなら、ここにあるわよ」
シュラインが、苦笑しながら言った。彼女もまた、草間の現状を改善しようとしてでもいたらしい。
「本当ですか? 読みたいです」
みなもは、目を輝かせた。
「いいわよ」
シュラインはうなずき、立ち上がるとデスクの傍に置いた自分のバッグの中からクリップで綴じた紙束を取り出すと、みなもの方へ差し出した。彼女は礼を言って受け取り、それから少し考えて言った。
「その夢は、単純に考えれば、草間さんがその人魚さんに助けを求められた人間に同調しているように思えますけど。碇さんから、その作者さんを紹介していただいて、もっと詳しい事情なりを聞くことはできないんでしょうか」
自分自身のことを思えば、みなもには、そのオンライン小説の内容が、まったくの作り事とばかりも思えなかったのである。むろん、本当にただの小説でしかない可能性もある。が、それらをたしかめるためにも、作者と会って話すことは重要だと思えた。
それに対してシュラインが告げたのは、麗香とも作者とも連絡がつかないという事実だった。なんでも麗香は、携帯電話どころか固定電話さえないような不便な場所へ出張に出かけていて、いつ帰るともわからないのだという。また、小説の作者は、急病で入院中らしい。
「作者には、一応メールを出してみたけれど……返事が来る確率は少ないわ」
肩をすくめて言うシュラインに、みなもは軽く目を見張った。
「……それでは、手立てがありませんね」
低く呟いた後、彼女はシュラインに断って、さっそくそのオンライン小説を読み始めた。
事務所の中を、静けさだけが支配していた。
草間は、水まんじゅうを食べ終わると、またソファでうたた寝を始めた。シュラインはみなもが来る前にしていた仕事に戻る。あたりにはただ時計の音と、みなも自身が紙をめくる音だけが響いていた。
その静けさを破るように、新たな訪問者が訪れたのは、三十分ほどが経過した後だろうか。やって来たのは、御崎神楽だった。黒い目の小柄な少年である。黒い髪は、長く伸ばした後ろの部分だけが白い。年齢は十二歳とみなもより一つ下なだけだが、事情があっていまだ小学校一年生である。むろん、今は夏休み中だろう。
「やっほー武クン、何かお仕事……あれ?」
ドアを開け、何か言いかけた彼は、居眠りしている草間に口をつぐみ、首をかしげた。
「武クン、お昼寝?」
その声に、草間が再び目を覚ます。体を起こした瞬間、まるで痛みをこらえるかのように、軽く眉をしかめた。神楽の姿に、バイトを探して来たのだろうと察し、今は何もないと答える。
「そっかー、つまんないの」
本当につまらなさそうに呟いたものの、その目が輝いたのはテーブルの上にそのままになっていた空の器と湯呑みを見つけたせいだった。
「武クン、おやつ?」
問われて、草間は苦笑する。シュラインに、水まんじゅうがまだ残っていたら、出してやってくれと声をかける。シュラインも苦笑して立ち上がった。
みなもが持って来た水まんじゅうは、まだ幾つか残っていて冷蔵庫に入れてあったので、シュラインがそのうちの一つを器に入れ、お茶と共に事務所に持って行く。
それを目にして神楽は無邪気な歓声を上げ、シュラインがそれらをテーブルに置いたので、みなもの隣に腰を降ろした。
一方、みなもは読書に熱中するあまり、新たな来訪者にも、彼と草間たちとのやりとりにも、まったく気づいていなかった。が、隣に人が座した気配に、初めて顔を上げる。
「あ……。こんにちわ」
軽く目をしばたたいて神楽を見やり、とりあえず挨拶した。
「こんにちわー。ええっと……はじめまして、だよね? かークン、御崎神楽」
「あ……。海原みなもです」
相手の、のんびりした物言いに、幾分面食らいながらみなもは名乗る。初対面なのだが、神楽は遠慮する様子もなく、彼女の手元を覗き込んだ。
「何読んでるのー?」
「『人魚は海の底で眠る』っていうタイトルのオンライン小説です」
問われてみなもが答えた。と、神楽はしばし考え込んでから言った。
「かークンも、そのお話読んだよー。なんだかちょっと、悲しくなっちゃうよね」
途端に草間、シュライン、みなもの三人は色めき立った。
「これを読んだって、本当か?」
「それで? あんたは夢を見なかった?」
「もし見たのなら、内容を詳しく聞かせていただけませんか?」
三人にそれぞれ詰め寄られ、神楽は目をパチクリさせる。
「んーとね、見なかったよー。かークン、夢も見ないでぐっすり眠るいい子だからー」
のんびりほえほえとした答えに、今度は三人が三様に落胆した。神楽は、また目をパチクリする。
「どうしたのー?」
尋ねられて、草間が落胆しつつも事情を話した。
聞きながら何か考えていたらしい神楽は、草間が口をつぐむと言った。
「あのねーその女の人、やっぱり武クンに助けてほしいんじゃないかなー。かークンも助けに行く! あ、でも、どこに行けばいいんだろ?」
半分は自問自答しつつ、じっと草間を首をかしげて見やっていた彼は、どうやら勝手に回答を引き出したらしい。
「武クンの中に入ればいいのかなー」
などと言いつつ立ち上がると、草間の傍に歩み寄った。そして、とまどう草間の額をわしづかみにして、目を閉じる。
「おい、やめろ! 神楽!」
草間は、その手から逃れようと思わずもがく。神楽はこう見えても、強大な超能力の持ち主なのだ。一般的に超能力として知られる能力のほとんどを使うことができる。そんな彼が今しようとしているのは、精神感応力を応用して草間の精神世界へ潜る方法だった。
もがいていた草間の体が一瞬硬直し、ややあって神楽が目を開ける。少しだけ呆けた顔をしている草間を見やって、彼は言った。
「あのね、ひょっとして女の人を助けたのって、武クンじゃないの? だって、なんだかおんなじかっこうしてるよ」
彼の言葉に、二人のやりとりを見守っていた、みなもとシュラインは思わず顔を見合わせた。
「それは、どういうことですか? 神楽さんは、草間さんと作中の戦士ウロボロスが同一人物だと言われるんですか?」
「うん、そう!」
みなもの問いに、神楽は大きくうなずく。
「これ書いた人に会いに行こうよー。そうして、女の人を助けるんだ!」
おっとりした口調ながら、真剣な顔つきで提案する彼に、みなもはとまどい、軽く眉をひそめる。
(もしかして……オンライン小説の中へ……ということでしょうか?)
気づいて胸に呟き、思わず頭が痛くなった気がして、大きな溜息をついた。見れば、シュラインも頭痛をこらえているような顔でこちらを見やっており、草間は同じように大きな溜息をついていた。
不思議そうな顔をしているのは、神楽だけだ。
「あれ? どうしたの?」
尋ねる彼に、草間が小さく咳払いした後、作者とも麗香とも連絡がつかないことを告げた。が、神楽はへこたれるふうでもない。
「でもー、この女の人のとこになら、かークン、きっと行けるよー」
などとのたまう。たしかに、超能力で電子機器の内部やネット空間に入り込むこと自体は可能だった。だが、「オンライン小説の中」に入り込むことは誰にもできない。ネット上にある「オンライン小説のデータ」をいじることは可能だが、たとえ超能力でではあっても、それは違法行為だった。それに、物語上では捕らわれの人魚リリシアは、戦士ウロボロスに救い出されているのだ。助けに行くも何もない。
草間がそれらに言及すると、神楽は軽く天井をふり仰ぎながら、うーんと唸る。草間の言葉は、彼にとっては難しいものだったようだ。
そんな二人のやりとりを、半ば呆れたように見やっていたシュラインだが、何か閃くものがあったらしい。
「ねぇ、神楽くんはさっき、武彦さんの精神世界へ潜って夢を見て来たのよね? だったら、私やみなもちゃんを一緒に連れて行くことはできないかしら」
そんなことを言い出す。
「どういうことですか?」
みなもは、小さく目をしばたたかせて尋ねた。
「今のままじゃ、手詰まりだわ。麗香さんとも作者とも、いつ連絡が取れるかわからない。それなら、私たちが武彦さんの夢の中へ行って、何か行動を起こしてみる方がいいんじゃないかしら」
シュラインが答える。
それを聞いてみなもも、なるほどと胸にうなずいた。たしかに、もしもそれが可能ならば、実際に草間の夢の中に行ってみるのが一番てっとり早い。草間のこともそうだが、もしも彼の夢に現れる女が作中の人魚であるならば、そして、何か助けを求めているのだとすれば、同じ人魚の血を引く者として、助けてやりたいと思うのだ。
だが、草間にとってはシュラインの提案はあまりうれしくないものだったようだ。
「おい、シュライン!」
半ば抗議に近い声を上げる。が、シュラインはそれを受けつけなかった。
「武彦さんだって、いつまでもこれじゃ、体が持たないでしょ」
ぴしりと言ってから、彼女は改めて神楽と向き合った。
「それで、どうなの?」
「うーん。やったことないけどー、できるかもしれないから、やってみるー」
返って来たのは、そんなどこか頼りない返事だった。
「なら、お願い」
シュラインが、うなずく。
みなもは、少しだけ不安になったものの、それしか方法がないならしかたがないと自分自身に言い聞かせ、同じくうなずいた。
「……試してみる以外に、ありませんよね」
が、ふと自分がまだ借りたオンライン小説を読みかけだったことを思い出す。作品はずいぶんと面白かったので、ほとんど一気読みしてしまい、あと少しで読み終わるところまで来ていた。
そのことを告げて、いっそ読み終えてからでもいいかと問うと、シュラインが了解をくれたので、彼女は再び読書に没頭した。
そして。
みなも、シュライン、神楽の三人は今、草間の夢の中にいた。といってもむろん、精神だけの話だ。
彼女たちの肉体は、草間の事務所のソファの傍に手をつないで倒れている。そして、ソファの上には横になって眠っている草間がいた。
それは、知らない者が見れば、ずいぶんと驚くだろう図だったので、ドアには鍵をかけ、電話も留守電に切り替えてから決行した。
ともあれ。
周囲は、草間が言っていたとおり、深い水の底のようだった。その中に、腰から下を鎖で縛められた女がいた。もっとも、その下半身は闇の中に沈んでいて、長い髪に隠された顔同様、どうなっているのかがはっきりとはわからない。草間はその正面に、片手に剣を握って立っていた。たしかに神楽の言うとおり、草間は作中の戦士ウロボロスと同じ蛇の鱗のように見える銀の鎖帷子をまとい、額には銀のサークレットをはめていた。
みなもたち三人は、その二人を囲むようにして水の中に立っている。他人の精神世界であっても、水の中だからだろうか。みなもは、人魚の姿になっていた。
一方、草間にも彼女たちの姿が見えているのか、一瞬驚いた顔をして、三人にそれぞれ視線を走らせた。
それに気づいてか、シュラインが神楽に問う。
「武彦さんに、声をかけても大丈夫かしら」
「大丈夫だよー。かークン、こうやって誰かの中に入った時ねー、そこにいる人とよく話すよー」
神楽が相変わらずのんびりした声音で請合った。
「そう、なら……」
「どうするんですか?」
うなずくシュラインに、みなもは訊く。
「あの鎖を切るように言ってみようと思って。案外、あの人の願いってそういう簡単なことかもしれないじゃない?」
「そうですね。私も、それは試してみても悪くないんじゃないかと思っていました」
シュラインの言葉に、同じように思っていたので、みなもはうなずいて言った。
それへうなずき返して、シュラインが草間に声をかける。
「武彦さん、その鎖を切ってみて。もしそれがその人の望みなら、それで夢は終わるかもしれないわ」
「わかった、やってみる」
どうやら、彼女の言葉はちゃんと草間に伝わったようで、彼はうなずくと手にしていた剣を握り直した。そうして、気合と共に女を縛めている鎖の一番手前にあるものを断ち切った。
その途端、水の中だというのに軽い音が響いて、鎖は驚くほどあっけなく断ち切れた。一ヶ所が切れると、鎖は女の体からはずれ、粉々に砕けて水の底に落ちて消えて行った。
「ありがとう……」
女の口から、囁くように感謝の言葉が泡と共に吐き出され、その全身がやわらかな光に包まれる。
それを見やってみなもは、これで女は解放され、草間の夢も終わるのだと感じて安堵した。シュラインや神楽も、そして草間自身もそう思ったのだろう。彼らの顔にも安堵の笑みが浮かぶ。
だが。
光の中で初めて明らかになった女の全容に、彼女たちは驚愕の目を見張った。
闇に沈んでいた女の下半身は、魚ではなかった。同じように鱗に包まれてはいるものの、水中に長々と尾を引く蛇身である。そして、長い髪の陰になってはっきり見えなかった顔は――これまた、人間のものではなかった。眦はきつく切れて吊りあがり、唇もまた、頬まで切れてそこから鋭い牙が覗いている。
女は、本物の蛇そのままに口を開いて素早い動きで、草間に襲いかかった。
「武彦さん!」
一瞬息を飲んだシュラインが、鋭い叫びを上げる。それとほぼ同時に、みなもは動いていた。周囲の水を操って、草間と女との間に、水の壁を作り上げる。女の体はそれに弾かれ、わずかに後方へ跳ね飛ばされた。女はまさか、自分の攻撃が阻まれるとは思わなかったのだろう。獣のような怒りの声を上げる。それは、周囲に満ちた水をびりびりと震わせた。
女はそのまま再度草間に襲いかかろうとするが、変わらずみなもの作った水の壁が、二人の間を阻んでいる。
(大丈夫。この人に、この水の壁を壊す力はないようです)
みなもは、そう確認してから草間の方へと目をやった。彼の手からは、いつの間にか先程の剣は消えている。オンライン小説では、主人公の人魚リリシアを助けた戦士ウロボロスの持っていた剣は、魔力を持っており、その能力でもって人魚の縛めを力まかせに解いたことになっていた。だが、草間が手にしていた剣は、この女を自由にするためだけのものだったようだ。
(でも、あたしではあの人を抑えておくことしかできません。……攻撃できないわけではないですが……それをしたら、たぶん、あたしたち自身もそして草間さんも危険です……)
胸に呟き、どうすればいいのかと、彼女が唇を小さく噛みしめた時だ。シュラインが神楽をふり返った。
「神楽くん、あんたの力で、切った鎖を元に戻せない?」
神楽は、さっきからひたすら「すごーい」「かっこいー」などと、どうもピントのずれた歓声を上げながら、静観を決め込んでいたのだが、シュラインに問われてキョトンとしたようにそちらを見やり、少し考えて答えた。
「んー。わかんないけどー、やってみるー」
そして彼は、ふっと黒い瞳を女の方へ向けた。と、暗い水の底に粉々になって沈んで行ったはずの鎖のかけらたちが、ゆっくりと浮上し、そして、まるでビデオの巻き戻しを見るかのように、静かに元の形を取り戻し始めた。
やがて、それらの鎖は元どおりに、女の体に巻きつき、その下半身を縛め、動けなくする。女は、必死にそれから逃れようともがき、暴れたが無駄だった。
「凄いですね」
みなもは、なんと鮮やかな手並みだろうかと内心に舌を巻きながら、水で作っていた壁を解除し、素直に感嘆の声を漏らす。
「ええ」
シュラインもうなずいた。
二人から称賛を浴びせられて、神楽は照れたように笑った。
その時だ。ふいに彼女たちの頭上に、何か細長い光輝くものが降って来た。よく見れば、それは、水晶細工のようにも見える細身の美しい長剣だった。
みなもは、その剣が降って来るのと同時に、あたりをとんでもなく大きな気配が包むのを感じて、目を見張った。降って来た剣には、その気配が濃厚にまといついている。
(この気配は……まさか……)
信じられない思いに、体を強張らせる彼女の上に、ふいに声が降って来た。
『勇気ある者たちよ。その剣を使え。それはただ一つ、その水妖を滅することのできる剣なれば』
声は、どこか厳かな響きのある男のものだった。
その声の中に、今度こそ間違いなく神の気配を感じて、みなもは更に目を見張る。その気配を感じているのかどうかはわからないが、シュラインと神楽もまた、同じように目を見張っていた。三人は、そのまま顔を見合わせたが、女は吊り上がった目を恐怖に見張り、体を強張らせている。
(この人も、この声の中にある気配に気づいているのですね)
それを見やって、ふとみなもは思った。
「武彦さん!」
彼女の隣でシュラインが、草間に促すように叫ぶ。
「ああ」
草間はうなずいて、ゆるやかに落ちて来る剣を受け止め、構えた。いつもはハードボイルドを気取っている彼だが、今はファンタジー系アニメの主人公とも見えなくもない。
草間のその姿に、女は更に大きく目を見張る。と、彼らの目の前で、女の顔は悪鬼のごときそれから、美しく清らかな乙女のものへと変貌した。青く澄んだ瞳に、真珠の涙を浮べて、命乞いする。
「やめて……。助けて……」
か細く弱々しげな声に、そちらへ切りつけようとしていた草間の動きが止まった。
その悲しげな姿に、みなもも思わず息を飲んだ。が、そこへ神楽ののんびりした声がかかる。
「武クン、だまされちゃだめだよー。そいつのホントの姿は、さっきのだからねー」
「わ、わかってる」
草間は、一瞬の動揺を押し殺すようにうなずき、剣を握り直すと、女に向かって行った。半ば体当たりするように、剣の切っ先を女の胸元へと突き刺す。
途端、あたりを震わせて女の絶叫が響き、同時にあたりは女の体から炸裂した光に包まれ、何も見えなくなった。
気づいた時には、みなもたちは、草間の事務所のソファに寄りかかるようにして倒れていた。みなもとシュライン、神楽の三人が互いに顔を見合わせ、無事を確認し合う中、草間もソファから起き上がった。
目覚めた彼は、ここ数日来という晴れ晴れとした顔つきで、まるで憑きものが落ちたかのようだった。いや、本当にそうだったのかもしれない。ちなみに、神楽によれば女は消えたから大丈夫とのことだった。
その数日後。
みなもたち三人と草間は、出張から帰って事の顛末を知った碇麗香の仲介で、例のオンライン小説の作者イクトに会うことになった。
白王社近くの喫茶店で会ったイクトは、ごく普通の大学生だった。こちらも、数日前に病状が良くなり退院したのだという。
彼は、四人を前にすると、開口一番詫びた。やはり麗香が草間に、彼の小説を勧めたのには訳があったのだ。
彼は現在大学の三年だが、一年の時、大学の図書館で見つけた本に載っていた水妖に取り憑かれていたのだという。もっとも、彼自身は「取り憑かれている」とは思わなかったらしい。水妖は彼の夢に現れては、予言めいたことを告げるのを常としていた。が、その夢には実際に助けられたこともあるし、彼にしてみれば「ラッキー」ぐらいの気持ちでしかなかったのだ。件のオンライン小説を書き始めたのは二年の時だが、それもヒントを与えてくれたのは、水妖だった。
ところが、今年に入って彼は急に体調を崩し、床に就くことが多くなった。それでも、どうにか学校にも通い、オンライン小説の方も完成させたのだという。
完成した直後から、作品の人気は上昇し始め、やがて出版の話がやって来た。これもあの夢の女のおかげかと喜んでいた矢先、彼は大学で倒れて救急車で運ばれ、そのまま入院ということになってしまった。サイトのトップへの告知は、その時付き添ってくれた友人に頼んだものだったが、そのおり、その友人は気になることを言ったのだ。
「おまえ、何かに取り憑かれているんじゃないか」
と。
それで初めて水妖のことを怪しみ始めた彼は、見舞いに来てくれた碇麗香に、一年の時からの経緯を話した。
話を聞いた麗香は、何か心当たりがあるようで「自分に任せておけ」と胸を叩いたのだったが……それがどうやら、草間のことだったというわけだ。
「……退院してから、麗香さんに連絡を取って、初めて草間さんたちのことを知って……本当に、驚きました。ご迷惑をかけてすみませんでした。そして、ありがとうございました。たぶん、ぼくが退院できたのも、草間さんたちのおかげです」
再度頭を下げるイクトに、草間が小さく溜息をついて言った。
「まあ、いいさ。……とりあえず、俺もこうして元気でここにいられるんだしな。しかし、おまえが退院できたのが、俺たちのおかげってのは、どういうことだ?」
「……ぼくの病気も、彼女のせいだったんじゃないかと思うんです。入院している間、ずっと高熱が続いていたんですけれど、医者は原因がわからないって言うんです。そして、その間ぼくは、ずっと夢を見ていました。鎖に縛められながらも、ぼくにしがみついて、ぼくの血を啜り続ける彼女の夢を……」
イクトは、幾分青ざめた顔で、そう言った。更に彼が言うには、友人たちの中には、彼の首に女がしがみついているのを見た者がおり、例の取り憑かれているのではないかと告げた友人も、そんな中の一人だったという。また、オンライン小説の読者からのメールにも、時おり、主人公の夢を見てうなされたという主旨のものがあったという。
結局のところ、水妖はイクトが見つけた本の中に誰かによって封印されていたのだろう。それが、封印が弱まったのをいいことに、彼に取り憑き力を蓄え、更にオンライン小説という形で自分の元に彼以外の人間を引き寄せる道を作り……そして、その中で自分の封印を完全に解くことができる人間を探していたということなのではないか。みなもは、彼の話を聞きながら、そんなふうに思った。
やがてイクトが再度彼らに謝罪して立ち去ると、草間たち四人はなんとなく顔を見合わせた。
「武彦さんも、災難だったわね」
シュラインが、溜息と共に言う。
「ああ。麗香には、いずれこの貸しは返してもらわないとな」
電話の向こうで、出張の期日が迫っていてつい……などと言い訳していた麗香の声を思い出したのか、草間はむっつりとうなずいた。
それへうなずき、シュラインはふと思い出したように言った。
「そういえば、あの時、剣をくれたのは誰だったのかしら。私は作者の彼だったのかもって思ってたんだけど」
「んー、違うよー。あれねー、神様」
クリームソーダを飲むことに集中していた神楽が、ふいに屈託なく言った。
「へ?」
「神楽くん、冗談は……」
草間が思わず目を点にして頓狂な声を上げ、シュラインも引きつった笑顔で何か言いかける。二人とも、神楽の言葉を冗談だとでも思っているようだ。
だが、みなもはそうではないことを知っている。彼女は、真剣な目をして二人を遮った。
「いえ、冗談じゃないと思います。あたしもあの時、神の気配を感じました。あれはたぶん、海の神様です」
それを聞いて、シュラインと草間が顔を見合わせる。
「……俺、本物の勇者になった気分だな……」
ややあって、引きつった笑顔を見せて草間が呟いた。
「武クン、勇者ー。すごーい」
クリームソーダのグラスを空にした神楽が一人、はしゃいだ声を上げて小さく拍手した。
彼ののんきな発言に、みなもは思わず苦笑する。実際、こんなことを言って笑っていられるぐらいでよかったと、彼女は思う。
まさか草間の夢に現れていた女が、水妖だなどとは思いもしなかったし、人魚だと信じて同情さえしていたのだ。おそらく、あの時あの剣を与えてもらうことができなかったら、草間の夢と頭痛は今も続いていただろう。
(それにしても、やっぱり不思議です。……どうして、あそこにいきなり海の神様がやって来られたんでしょうか。……誰かが、呼んだのでしょうか)
胸に呟き、みなもは残り少なくなったレモンスカッシュをストローで吸い上げながら、考える。草間やシュラインには、何も霊的な力はないはずだった。……とすれば。
(まさか……)
みなもは、ふと、空のグラスの氷をストローでつついて遊んでいる神楽を見やる。その姿は、ただの無邪気な子供そのものだ。だが、考えてみれば彼は、いともたやすく彼女たちを草間の精神世界へ伴い、切れた鎖をあっという間に復元したのだ。もしかしたら、その外見からは信じられないような力を秘めているのかもしれない。
彼女の視線に気づいたのか、神楽がふと顔を上げ、のんびりとしたお日様のような笑顔を返して来る。つられてつい笑顔になりながら、みなもは胸の奥で苦笑した。
たしかに彼の仕業かもしれないが、しかし結果的に不可思議な出来事は解決したのだ。草間はすっかり顔色がよくなり、あれ以来、夢は見ていないらしい。むろん、頭痛もないようだ。目の下の隈も消えている。
(終わりよければ、全てよし……ですね)
胸に呟きみなもは、もう一度神楽に笑いかけて、レモンスカッシュを飲み干した――。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【0086/ シュライン・エマ/ 女性/ 26歳/ 翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【1252/ 海原みなも(うなばら・みなも)/ 女性/ 13歳/ 中学生】
【2036/ 御崎神楽(みさき・かぐら)/ 男性/ 12歳/ 小学生】
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■ ライター通信 ■
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ライターの織人文です。
私のシナリオに参加いただき、ありがとうございます。
●シュライン・エマさま
いつも参加いただき、ありがとうございます。
毎回、いくつもの可能性を秘めたプレイングをいただいて、
私自身も楽しませていただいています。
今回は、草間の夢に入っていただきましたが、いかがだったでしょうか。
またの参加をお待ちしています。
●海原みなもさま
いつもご参加いただき、ありがとうございます。
今回は、草間の夢の中へ行っていただきましたが、いかがだったでしょうか。
また機会がありましたら、よろしくお願いします。
●御崎神楽さま
はじめまして。ご参加ありがとうございます。
神楽さまのようなキャラクターは、自分では書くことがありませんので、
難しいながらも楽しく書かせていただきました。
今回は、いかがだったでしょうか。
少しでも、楽しんでいただけていればいいのですが。
それでは、またの機会がありましたら、よろしくお願いします。
以上、私も楽しく書かせていただきました。
参加いただいたみなさんが、少しでもこの作品で楽しんでいただけますように。
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