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<東京怪談ノベル(シングル)>


夜闇に知るは海人

 夏特有のじっとりとした暑さ。昼の名残を空気中に宿す静かな闇のなかで、特別何をするでもなく海原みなもは流れる時間を眺めるようにして夜の底にいた。耳を澄ませても聞こえるのは涼やかに鳴く虫の声だけ。総てが寝静まってしまったかのように、夜の底は静かだ。
 その静けさを断ち切るような気配を感じる。驚きとも焦りとも判然としないそれを確かめるように振り返ると、父の姿。帰ってきていたのだと思ってお帰りなさいと笑うと、平素の父の姿からは想像もつかないほどに焦った様子でみなもの声に答えることもなく父は部屋に踏み入り、ベッドの上で何をするでもなくぼんやりとしていたみなもの傍に立った。
「お父さんを信じているか?」
 父は問う。
 何故そんなことを問うのだろうかと思いながら、みなもは心のままに頷き答える。
「信じているし、好きだよ」
 みなもの微笑とその言葉に安堵したのか、父はそれまで張り詰めていた何かを緩めるようにして柔らかな声で云う。そしてみなもの不安を少しでも軽くしようとするためか、そっと頬を撫ぜると囁くような声で、力を抜いて、と呟いた。云われるがままに躰の力を抜く。父の声はやさしく闇の底に響き、すぐに元に戻すからという声は滑らかに闇のなかに溶けるようにして響く。温かな手が夏の暑さへの煩わしさを軽くするような気がする。脱力した躰が、やさしく撫ぜる父の手に総てを明け渡す。
 感覚が鈍くなる気配。
 脳髄で張り詰めていた意識がぼんやりと緩み、肌を覆っていたパジャマの感触が遠くなる。
「怖いことなど何も無いよ。―――力を抜いて、すぐに元に戻すから」
 父の声はやさしい。心の底から信じられると思う。怖いものなど何もない。ただ今に身を任せていればそれでいいのだと思うことができた。
 緩やかに五感のなかに流れ込む違和感さえも怖くなかった。痛みもなければ、快楽もない。言葉にできるものなど何もなく、ただぼんやりと輪郭を失っていく意識だけが明瞭だ。自分の身に起こる一つ一つがまるで他人事をなぞるように、確認作業の一つになる。
 パジャマという覆いを失った躰は自由自在に形を変える粘土のように粘性を増して、柔らかな感触と共に形を変えていく。形ばかりではない。色さえも変わっていくのがわかる。肌の色は染め上げられるようにして深い緑に染められ、髪は硬質で金属質な棘に変わる。明らかに人外のものに変わっていくのだという自覚とは裏腹に恐怖はなく、妙な好奇心が自分は果たして何に変わっていくのだろうかという心を掻き立てる。
 少女らしいあどけなさを残したほっそりとした四肢は歪に曲げられ、滑らかな肌を覆い隠すように一枚一枚鱗が貼りつく。五本の指が潰され、自由がきかなくなるのがわかる。手足はまるで蛙のように変態し、総てがそれに飲み込まれるようにして変化していく。目蓋がなくなりまばたきの自由を奪われる。鼻が潰され、口も唇が溶けるように失われていったせいで歯が剥き出しだ。
 そんな自分の変化を遠くに感じながら、みなもはこれはまるで姉が口にしていた深淵の海人のようだと思う。人の形を奪われ、何かに侵食されていく意識はぼんやりとして判然としない。変態の続く自分の躰は、まるで誰かの意識が流れ込んで主導権を奪われてしまったかのように自由にならない。
 父が話している声が聞こえるような気がする。
 自分の話し掛けられているような気もしたが、平静を抱えた頭の片隅が否定する。父が話し掛けているのは自分ではなく、自分であった"何か"だ。朦朧とした意識のなかでそれを判断して、遠く響く父の声を聞く。声が音になって、上手く言葉が理解できない。ぼんやりとした意識は肌の上にある感触にだけ忠実だ。ぬめるようでいて硬い、鱗の艶かしいような感触。人ではないものになっているという意識だけが鮮明で、変態のプロセスをなぞると恍惚にも似た感覚が自分を支配するのがわかった。何かの糸が解け、それが纏わりつくようにして躰が歪、変わっていくプロセスはひどく魅力的なものに思えた。人ではない何かに変わっていく。夏の暑さは遠く、まるで海底を懐かしむような心地がした。
 父の声が遠く聞こえる。"何か"はみなもを気に入ったようであることが途切れ途切れに意識に響いてくる声からわかった。けれど父はそれを肯定するでも否定するでもなく誤魔化している。
 父のやさしさだと思いながらぼんやりと霞む朦朧とした意識のなかで自分を遊ばせていると、柔らかく温かな触手に辛うじて残っていた意識の自由を奪われるようにして総てが闇に沈んだ。


 朝、目が覚めて辺りを見回すと何も無かったかのように総てが元通りになってそこにあった。みなもの躰も元に戻っている。父の姿はなく、夏の朝らしい清々しさが部屋を満たしていた。まるで何事もなかったようだったが、みなもの記憶のなかには確かにあった。
 昨晩の出来事。
 変態のプロセスが、確かに記憶のなかに焼きついている。