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第二地獄・灼熱
一
頭上からじわじわと蝉の鳴き声が聴こえる。
すきっと天を穿つように楠が生え、それが何十と集まって緑色の天蓋を作っている。
塗料の剥げ落ちた鳥居を潜れば、そこは陽の光が届かぬ地。
夏の厳しい陽射しの代わりに降り注ぐのは、暑苦しい油蝉の声、声、声……。
――僕は夢を見ている。
少年は蝉の声を振り切るように神社の奥へ奥へと進む。
木々の間から僅かに射し込む光が肌を焼き、少年はそれを熱い、と感じる。
神社の敷地内はある種の陰湿さに支配されており、真夏だというのに冷気すら漂っているよう。
それでも少年は、熱い、と感じていた。
――夢を見ている。僕が“幻”になる前の夢を。
異界の奥深くに迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えていた。
狂ったような蝉の声のせいか、神を祀る場所でありながら淀んでいるその空気のせいか。
現実から切り離された世界に独り。
軋んだ世界に迷い込んでしまった。
――夢の中のはずなのに、酷く、熱い。
目の前に自分の両手を翳す。
じりじりと夏の太陽に焦がされた肌。汗をかいており、呼吸は乱れ、心臓がどくんどくんと全身に血液を送り出している。
自分は確かに生きている。決して人間の出来損ないなどでは、“幻”などではないとわかっているはずなのに、まるで夏が生む蜃気楼に同化してしまったような気がするのはなぜだろう。
少年は大きく息をつく。走ってきたために脱水症状を起こす寸前であり、先ほどから酷い眩暈がしていた。身体が無茶をするなと訴えかけている。
そう、生きている。
僕は人間だ。
けれどちっとも安心できないのはなぜだろう?
いずれ死んでしまうとわかっているからだろうか……。
少年は一心不乱に走ってきた道を振り返った。随分長い距離を走った気がしていたが、彼が潜ってきた鳥居までさほど距離はなかった。
それなのに遠く隔たってしまった……、と少年は思う。
色々なものから。例えば平和な日常から。あるいは憩いを求めた場所から。そんなものははじめからいなかったけれど、もしかしたら彼を愛してくれたかもしれない人から。――もう二度と、ここから抜け出せない。
本堂の前の階段に腰を降ろし、少年は深く、深く息を吐き出し、吸い込んだ。動悸は治まらなかった。
見上げれば闇。昼も尚暗い異界。
頭上のみならず、左右あちこちから蝉の鳴き声が聞こえてくる。じわじわ、じわじわと絶え間なくつづく声に、精神を冒されてしまいそうだ。
まともとは言えない精神状態にあることを自覚しながら、どうしてこんなことになってしまったんだろう、と少年は自身に問う。
左目の下に触れると、汗に血が混じってべっとりと濡れていた。痛覚はとうに麻痺している。だがその瞬間を思い出す度、心臓がぎゅっと絞られるような感覚と耐えようのない痛みに襲われる。
何か酷い言葉をいくつも浴びせられた。ただし口論の内容は覚えていない。口論というよりは相手の一方的な言葉による暴力だったかもしれない、ともかくも酷いことを言われ、終いに物を投げつけられた。そのとき相手が見せた凄絶とでも言うべき表情が何度も脳裏にフラッシュバックしていた。
暑さと蝉時雨に思考力を奪われ、少年は何を言われたのか思い出すことができない。目の下の傷とその痛みだけが、自分は存在そのものを否定されたのだという、残酷な事実を記憶している。
誰もが否定する。
そして突き放す。
僕を一人にしないで、見捨てないでというその声はしかし、誰にも届かない。
たった一人でもいい、誰かが理解してくれたのなら。
話を聞いて、わかってくれたのなら……
独りで、こんなところにいなかったに違いない。
――きっと僕は、“幻”なんかにはならなかった……。
湿った地面を踏み締める音がして、少年は顔を上げた。
やや細身の男が立っていた。男の出で立ちは奇怪なものだった。この季節にも関わらずフードを目深に被り、マフラーを巻いて顔を完全に隠している。
「誰……?」
少年は男に訊く。フード姿の男は答える。
「僕は君だよ」少し間を置いてから言い直す。「君の幻だ……」
困惑して少年はじっと男を見つめ返す。
単に男の言っている意味がわからなかったというのではない、フードの下からほんの少しだけ覗いた悲しげな表情が胸をついたのだった。なぜ男がそんな顔をするのかわからず、少年は困惑している。
「僕の……“幻”……?」
“幻”はゆっくりと口を開いた、
「君は何を望むの?」
少年は首を横に振る。
「わからない……」
「何を求める?」
「わからない……」
「苦しいの?」
「わからない……」
幻の手がすっと少年の顔の前に伸びた。
触れることはなく、少年の視界の半分を覆う。指の隙間から、“幻”の、悲しげな瞳だけが見えた。
「寂しいの?」
「……僕は……」
「優しくされたい?」
「僕は……」
少年は絶望的な、しかし妙に満ち足りた気持ちで答えた。
「もう、何もいらない……」
蝉の声がぱたっと止んだ。
ざっと吹いた突風に目を細め、再び開いたとき、男の姿は消えており、世界は無に帰していた。彼は白い世界に独り立ち尽くしていた。
少年は幻になっていた。
二
幻が意識不明になって、数日が経過した。
先のゴースト事件の被害者から記憶を略奪するために、死亡した医師の身体に触れ、彼はそのまま意識を失ってしまったのだ。
今も昏々と眠りつづける幻を前に、夜切陽炎はただ無力感を噛み締めている。
目を覚まさぬ以上彼が何を見たのか知ることはできず、つまり真相も明らかになっていない。陽炎が一人で奔走したところで、警察すら暴けないでいる事件の核心に近づくことなどできるはずもなかった。
幻のためにもなんとかこの件を解決したいとは思う、だがそれよりも、幻が眠りから覚めることを彼女は切に願っていた。
「幻殿……聞こえるでござるか」
幻の手を握り、陽炎は小さくつぶやく。
聞こえるはずがない。昏睡状態なのだ。
「…………」
それでも何もしないよりはマシだと思い、陽炎は度々幻に話しかけている。
部屋の主が眠りつづけているせいか、二人にはやや狭い空間もやけに広く感じられた。
ベッドから離れ、夜切陽炎はつけっぱなしになっているニュース番組に向き直る。事件に関する情報は何一つ逃すまいとして、陽炎はここのところ報道と新聞に齧りつく日々を送っている。
理不尽な殺人事件や、遠い異国での災害。汚職、争い事……ひっきりなしにこの世の暗い部分が報じられている。だが幻が関わるような怪事件は、そうマスコミで取り沙汰にされるものではない。
ある程度は報道管制が敷かれているのだろう。医療ミスを組織ぐるみで隠蔽しようとした医師達の死亡についてさえ、詳しい報道はなされていなかった。それが賢明だと陽炎も思う。
だから不可解な事件の情報を手に入れたいとなれば、テレビや新聞に頼るよりは『その筋』の人間を頼ったほうが確実だ。そしてそれは、願わずとも向こうからやって来るものだと経験則で知っている。
その日の夜、幻の知人であり検察官でもある男から、夜切陽炎に電話がかかってきた。
何でも『また』変死体が出てきたということである――
「溺死でござるか?」
電話の向こうで、男はいいやと言った、
『焼死だ。全身に火傷を負っている』
「それはまた――」
溺死に劣らず苦しそうな死に方だ。
「気の毒ではござるが……ゴースト事件の被害者と何か関係が?」
『関連性は今のところない。だが背中に何か妙な文字のようなものが書かれていてね……君達の管轄だと私は思う』
人を刑事か何かのように言ってくれるでござるな、と陽炎は胸中で悪態をついた。
『――彼は? 未だに目を覚まさないのかね』
陽炎は溜息をついた。相手に見えないとわかっていながら首を振ってしまう。その気配が伝わったのか、男は「そうか」とだけ言った。
『とにかく――一度こちらに来て遺体を見てほしいのだが』
「今からでござるか?」
陽炎は時計を見た。女性が一人で外出するには非常識な時間だが、伊賀上忍たる彼女にとって闇は歓迎すべきものである。
「――了承した。すぐに参る」
手短に話を終えて通話を切る。
部屋を出る前に、陽炎は幻を一度だけ振り返った。
変わらず、幻は眠りつづけていた……。
三
惨い遺体を前にして、陽炎は息を詰まらせた。
はじめはそれが何であるか良くわからなかった。
と言うのも、髪はほとんど残っておらず、皮膚という皮膚は黒く変色し、とても人間の姿とは言えなかったからだ。身体の部位によってはごそりと皮膚が落ち、その下の組織が剥き出しになっている。一体この人物はどれだけ苦しみ抜いて死んだのか……、考えるだけでぞっとした。
「被害者は二十代後半から三十代前半の女性。見ての通り全身に火傷を負っている。おそらくこれが直接の死因だろうね」
白衣姿の男は資料に目を落としながら、淡々と説明する。陽炎が顔をしかめていることにやや遅れて気づいたらしい。
「……女性に見せるものではなかったかな」
「誰も進んで見たいとは思わないでござる」
しかし見ないわけにもいかないのが現状だ。
数日前の水死体も酷いものだった。その記憶を略奪するという行為に幻がいかなる覚悟を必要としたのか、陽炎には想像もつかない。
仮に幻と同じように、死者から記憶を略奪することができたとしても、彼女はとても目の前の遺体に対して能力を行使する気にはなれなかっただろう――
それほど、惨い。
「文字のようなものが書かれていたと?」
極力苦悶に歪んだ顔を見ないようにしながら、陽炎は遺体の横に回り込んだ。
「そう、それなんだが……」男は遺体の背中を指し示した。「どう思うかい?」
陽炎は、遺体の背中の、みみず腫れのような痕に目をこらす。
確かにそれは文字に見えた。禍々しい模様のようにも見える。
「……?」
これは呪文ではないのか。
意味は判然としない、しかし――
「これ、は……」
「わかるのかね?」
「……呪文でござる」
陽炎は遺体の背中に刻まれた文字を頭から順に追う。確かに見覚えがあった。
やはり――
「拙者の『管轄』でござるな」
陽炎ははっきりそう言った。
この事件は何か、とんでもなく大きな闇に包まれている――
夜切陽炎は確信していた。
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