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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


   赤い絵本





 この世には不思議な色の絵本があるという。

 【白い絵本】は、その日見た夢を映すという。
 しかし、本を開いた状態で眠ってしまうと現実を映してしまう。ごくたまに絵本の中の現実から抜け出せなくなって眠り続けてしまう者が出る、というアクシデントを除けば、知られている絵本の中では最も実害の少ない本である。

 【青い絵本】は、天を翔るという。
 それだけでなく、水を操り雨を降らす事も出来るらしい。かつては日照り続きに雨乞いとして使われたらしいが、水害を招くほどの雨を降らしてしまうので、いずれにせよ本を開くには細心の注意が必要だ。

 【黒い絵本】は、心の闇を映すという。
 心の闇を具現化し、暗黒の中に人を引きずり込んではその生気を喰らう。しかし具現化された心の闇を打ち払う事が出来ればその者は、精神的に一回りも二回りも成長できるとされ、ある地域では成人の儀に用いられたという。



 ――――そして、ここに【赤い絵本】があった。





【起承転結の起】 本を開けば物語りが始まるは道理



 それを家の納戸で彼女が見つけたのは単なる偶然であった。
 A5版の本より一回り大きいくらいだろうか、マット加工された肌触りの良いハードカバーの表紙には、白金の箔押しで『赤い絵本』とだけ書かれている。
 赤い、という割りには、どす黒く変色してしまったような表紙の色だ。
 中の紙までどす黒い。
 水瀬由香は不思議そうにその本の外装を見やって、それからゆっくりと中を開いた。
 表紙を開いて遊び紙を捲ると1行だけ、こう書かれてあった。



   【血が欲しい・・・・・・】



   ***


「やはり、おかしいですね……」
 手にしていた不思議な形の銀時計を見やって、セレスティ・カーニンガムは形のいい眉をわずか顰め、困ったように首を傾げた。
 その蒼い目は確かに時計の方を向いてはいたが、よく観察して見ると、彼の焦点は微妙に時計からはずれている。見ている風を装ってはいるが、実際には殆どその文字盤を見てはいなかった。いや、より正確に言うなら見えていないというべきか。残念ながら彼の視力はあまりいいとはいえない。それを類稀な感覚で補いながら、銀時計が示す時間を読み取って、彼は小さく溜息を吐いた。
 目の前に置かれたティーカップの中身はとうの昔に空っぽだ。
 待ち人来たらず。
 朝からずっと連絡がつかぬまま、とりあえず待ち合わせ場所には来てみたものの、やはりと言うべきか、そこに約束の人物は現れなかった。
 かれこれ2時間。
「嫌な予感がしますね」
 呟いて、彼はふと顔をあげた。
 長い銀色の髪を掻き揚げると、こちらをずっと伺っていたらしいこの店のウェイトレスと目があった。伝票を掴んで、お会計とばかりに微笑んで見せると、ウェイトレスはそのまま半歩後ろへよろめいて店の奥へと消えてしまう。どうやらそのウェイトレスは、彼の白皙の美貌に魅入られてしまったらしい、こういう事はよくあることだ。とはいえ、これでは会計もままならないのだが。
 彼は微苦笑を滲ませつつ机の脇に立てかけてあったステッキを手に立ち上がると、ゆったりとした足取りでレジの前へ歩み寄った。後から出てきた男の店員が彼の美貌に顔を赤らめつつレジを打つ。彼の美貌は男女を問わず魅了してしまうらしい。
 会計を済ませ、セレスティは駐車場に止まる一台の車に近寄った。
 運転手が素早く出てきて後部座席のドアを開ける。
 彼は車に乗り込むと運転手に行き先を告げた。
 勿論、向かう先は待ち人――――水瀬由香の自宅だ。
 彼女が【赤い絵本】と呼ばれる不思議な絵本を所有している事を彼が知ったのは5日ほど前の事である。それは人の生き血を啜ると言われる曰く付きの絵本だった。
 読書好きの彼としては以前から興味を抱いていた絵本である。とはいえ別段、探していたわけでもなかったが、その所在を知りえた以上は気にならない筈もない。これも何かの縁なのだろうと思われた。
 見せて頂いて、出来るなら譲り受けたい。
 そう思って、持ち主である彼女に連絡を取ったのだが。
 セレスティは後方へと流れていく車窓を見つめながら不安げに呟いた。
 果たしてそれは占い師としての勘だったのか。

「手遅れにならなければいいのですが・・・・・・」



   ***


 意図的に照明の落とされた薄暗い部屋には数多の蔵書が収められていた。
 都立図書館の一角。要申請特別閲覧図書と呼ばれる曰く付きの本が並んだその部屋で、突然一冊の本が……声をあげた。
『赤い絵本が開かれた』
 まるで閃いたような唐突さである。
 普通の人間なら腰を抜かしたであろう、本が突然喋ったのだ。
 しかし、その事には別段驚いた風もなく明らかに本が語った内容に驚いて、この都立図書館の司書を務める綾和泉汐耶は、その本を振り返った。
「何ですって?」
 ただ、いつもはクールな彼女にしては珍しく動揺した風である。
 【赤い絵本】が開いた。その言葉の意味するところを思えば当然と言えば当然だろう。何せ、人の血を啜るなどと言われている本なのだ。一度開けば血を求める本により殺戮が起こらないとも限らない。それは決してありえない事ではなく、そしてまた、彼女はその事をよく知っていた。
「すみません。何処で開かれたのか場所がわかる方はいらっしゃいませんか?」
 と、彼女が尋ねた先に人はいない。本棚には狭しと本が並んでいるだけだ。
 とはいえ本に話かけるほど彼女が取り乱している、というわけではなかった。ここに並んでいる本たちの方が普通ではないという事だ。
 ざわざわと、そこにいた本たちが騒ぎ出す。長き年月を経て霊魂の宿りし本。付喪神達だ。
 その内の1冊が名乗りをあげた。
『うち、わかりますのんえ』
 はんなりとした京都弁の付喪神が顔を出す。いや、顔を出すと言っても顔かたちが見えるわけではない。本が本棚から勝手に飛び出しただけである。
 汐耶はその本を手に取ると「お願いします」と声をかけて足早に部屋を出た。
 館長に事情を話して外出許可を貰うと、急いで【赤い絵本】の回収へと向かう。

「手遅れにならなければいいんだけど・・・・・・」



   ***


 警視庁超常現象対策班特殊強化服装着員、という長い肩書きをもってはいるが、勿論いつもいつも強化服を装着しているわけではない。警視庁勤務の葉月政人は、その日、濃紺のスーツの上下という至ってシンプルな、どちらかといえばどこにでもいそうなサラリーマンという佇まいで車を運転し、都立図書館に向かっていた。但しサラリーマンにしては隙がない。
 捜査に必要な資料を調べに訪れたのである。
 図書館に着くと彼は車を図書館専用の駐車場に回しかけて、ふと、そこでブレーキを踏んでいた。
 フロントガラスの向こうに見慣れたシルエットが見える。
 細身の長身に短い黒髪と、銀縁の眼鏡の向こうに見える知的な眼差しを見間違える筈はない。この図書館の司書、綾和泉汐耶だ。
 手には1冊の本を持って、どこか慌てたように走っている。
 政人は、後ろの車が鳴らすクラックションも無視して強引に車をUターンさせると、彼女の元へ走らせた。
「綾和泉さん!」
 運転席から顔を出し声をかけると彼女が足を止め振り返った。
『わや、えぇ男はんやぁ』
 と、突然どこからか声が聞こえてきて政人が面食らう。え? と辺りを見渡したが、通りには彼女しか見当たらない。一体、どこから声がしたのか首を傾げていると、汐耶がまるで頭痛をこらえるようにこめかみを押さえて言った。
「あぁ、気にしないで・・・・・・」
 よもや汐耶の手にしていた付喪神の黄色い歓声などとは気付かない政人は、ただただ首を傾げるばかりだ。
「それより葉月さん、こんなところでどうしたの?」
 汐耶がその場を取り繕うように尋ねた。
「それは、こっちのセリフですよ」
 政人が肩を竦める。
「僕は図書館に調べものがあって来ただけなんですけど……何かあったんですか?」
 図書館の司書が、こんな時間に図書館を飛び出してきたのだ。ただならぬ様子を感じて自然声は潜められた。
「え、えぇ……ちょっとまずい事に……」
 汐耶の語尾が曖昧に途切れた。恐らくは、こちらに気を遣っての事だろう。勿論、暇なわけではないが、急用ならわざわざ声をかけたりもしない。
「乗って下さい。僕の方はそんな急ぎの用でもありませんから」
 そう言って政人は助手席のドアを開けると彼女を促した。
 それで彼女が乗り込むと同時、政人は勢いよくアクセルを踏み込む。
「どちらへ?」
『次の通りを右えぇ』
 尋ねた政人に答えた声は汐耶とは違っていた。
 先程聞いた謎の声によく似ている。聞き慣れない、けれど耳に心地よいイントネーションだ。
 その声の出所が、彼女の手にしていた本らしいと気付いて政人はぎょっとして汐耶を見た。
「次を右にお願い」
 半ば脱力したように汐耶が指示を出す。
 言われた通り右にウィンカーを出して車を右に寄せながら政人が尋ねた。
「何かあったんですか?」
『赤い本が開いたんえぇ』
「…………」
 汐耶は溜息を一つ吐いて手にしていた本を指で小突くと、フロントガラスの向こうを見据えながら【赤い絵本】について話始めた。

「わかりました、急ぎましょう」



   ***


 セレスティと汐耶と政人がそれぞれに【赤い絵本】、或いはその持ち主である水瀬由香の元へ向かっていた頃、それより一足早くその家に訪れる者があった。
 名を、鹿沼デルフェス。黒く艶やかな髪を揺らし中世ヨーロッパを思わせるドレスを何の違和感もなく着こなした、楚々とした女性である。
 彼女の務めるアンティークショップの店長である碧摩蓮の使いで【赤い絵本】を譲り受ける交渉に訪れたのだった。かの本は一般の人が無造作に持っていていいものではない。
 デルフェスはインタフォンを押した。
 しかし応答はない。
 留守だろうかと首を傾げているとドアが開いた。
 透き通るような白い肌の、まるで蝋人形を思わせるような憔悴しきった女が顔を出す。年の頃は20歳前といったところか。
「すみません、わたくし――!?」
 自己紹介をしようとしてデルフェスは言葉を失った。
 女が【赤い絵本】を手にしている事に気づいたからだ。しかも、それは既に開かれている。
 咄嗟の対応に窮して息を呑むと、女の手がデルフェスの首を掴んだ。
 その細い腕のどこに、こんな力があるのか。
 彼女の首を掴む手に力がこもる。
 しかし、人ならざる者である彼女には効果がなかったろう。デルフェスはただ哀しげに目を伏せただけであった。
「由香さん……開いてしまったのですね……」
 血に飢えた【赤い絵本】を。
 と、女の手が緩んで、デルフェスの首を離した。まるで、何事か気付いたように。
「そうです。残念ながらわたくしには貴女に血を与える事は出来ません」
 真銀(ミスリル)製のゴーレムであるがゆえに。
 デルフェスは一歩退くと申し訳なさそうに頭を下げた。
 それで興を殺がれたのか、別なる獲物を探すように女が背を向ける。
「お待ちください。貴女にはこれ以上誰の血も奪わせるわけにはまいりませんわ」
 デルフェスは穏やかに、しかしきっぱりとした口調で告げた。
 さりげなく足をその家の庭の方へと向けながら。
 女はゆっくりと振り返る。
 【赤い絵本】を掲げて。
 赤い血の円を描きながら。
 全ての物体を石に換える錬金術――デルフェスの換石の術は、絵本の力によるものか、女を捕らえきれずに血で描かれた円を石に換えただけであった。
 刹那、石となった血が彼女を襲う。
「危ない!」

 誰とも知れない声と共にデルフェスの体は宙に浮いていた。



   ***


 知識の番人と異名を誇るエジプトの神獣スフィンクス。その一族に名を連ねるラクス・コスミオンは、三大図書館から紛失した書を探して日本に来ていた。
 とはいえ人見知り、口下手、男性恐怖症と3拍子揃えて、日本の中でも特に人ごみの多い大都会東京に住んでいるのだから、外出は億劫にならざるを得ない。これは人目を引いてしまう葡萄のように鮮やかなワインレッドの髪のせいでも、獅子のしなやかな肢体のせいでも、ましてや背中を覆う鷲の翼のせいでもなく、単純に人ごみが苦手な事に、より起因している。
 そしてこの日も彼女は、人通りの少ない閑静な住宅街を選んで書を捜し歩いていた。
 その途中、見知った人影を通りの向こうに見つける。
 中世風のドレスに身を包み、お嬢様然とした姿は遠目にもすぐにわかった。アンティークショップ・レンの店員、鹿沼デルフェスだ。
 彼女はこちらに気付いてない様子である。
 一瞬迷って、ラクスは声をかけようと手をあげたが、それよりわずか早く彼女は、すぐ傍の家の門に入って行ってしまった。
「あ、用事があったのか」
 残念そうに呟く。とはいえ仕方がない。
 そのまま彼女の入っていった門の前を通り過ぎかけて、ラクスはそのただならぬ気配に気付いた。
 門の奥、デルフェスと対峙している女性。その女性の持っている書が一体何であるのかはわからなかったが、ただ、はっきりとわかる事があった。
 女性の持つ書が暴走している。
 周囲への気遣いからだろう、デルフェスがさりげなくその女性を別の場所へ誘導しようとしていた。この通りを歩く者達から見えぬ場所へ。他者を巻き込まぬように。
 デルフェスが相手の女性に何かを仕掛けた。ラクスの持つ膨大な知識が、それが錬金術だと告げている。しかし彼女がそんな力を持っていた事に驚く暇もなく、ラクスは相手の女の動きに呟いていた。
「血界鏡……?」
 血の結界により術を跳ね返す術に似ている。
 デルフェスは気付いていないのか。
「危ない!」
 咄嗟にラクスは背の翼を広げデルフェスの体を上空へと抱き上げていた。
 彼女がいた場所を石が……いや、石は元の姿に戻り赤い血溜を作っていた。
 宙に浮く自分の体に驚いたように振り返るデルフェスに、ラクスは安堵の息を吐いて笑みを返す。
「良かった……大丈夫ですか?」
「……はい、わたくしは頑丈にできてますから。それよりコスミオン様、どうしてここに?」
 しかしその質問にラクスは答えられそうになかった。
 それより早く、本を手にした女が動いたからだ。
「美味しそうな血……」
 今にも舌なめずりしそうな笑みを浮かべてラクスを見上げている。
「いけませんわ。【赤い絵本】は血を啜る本なのです」
 【赤い絵本】、恐らくは女の持っている書の事だろう。
 ラクスは女の蒼白の顔を見つめて尋ねた。

「ラクスの……血が欲しいの?」





【起承転結の承】 頁捲れば物語進みて……



 水瀬由香の家の門の前でセレスティは車を降りた。
 その門を入りかけたところで彼の車の後ろにもう一台車が停車する。
 助手席から汐耶が飛び出した。
『あな、べっぴん(美人)さんやぁ』
 付喪神が感嘆の声をあげるのに脱力しつつ、彼女はセレスティに駆け寄った。幸いにも、彼には付喪神の気の抜けるような声は聞こえなかったらしい。
「カーニンガムさん」
 声をかけるとセレスティは振り返り見知った顔に相好を崩した。
「これは、綾和泉さん……と?」
 運転席から降りてきた男に視線を馳せてセレスティが首を傾げる。
 その秀麗な顔に気圧されつつ政人は右手を差し出した。
「警視庁の葉月といいます」
 政人の手を取りセレスティが応えた。
「セレスティ・カーニンガムです」
 その名前に聞き覚えのあったのか、政人は目を見開いて握手を交わす相手の顔を驚いたようにまじまじと見返していた。警視庁内でもVIPに名を連ねる御仁だ。
「……財閥の総帥が……」
 何ゆえこんな場所にSPも付けずにいるのか。
 しかし彼ははぐらかすように曖昧な苦笑を浮かべただけである。
「貴方も【赤い絵本】を?」
 汐耶が尋ねた。
「と、言いますと貴方がたも?」
 セレスティが汐耶と政人を交互に見やる。
『そうどすえ。赤い絵本が開きましたんえ』
 汐耶の手にしていた本が汐耶より先に答えた。
 微妙な沈黙が3人を襲い、一瞬固まったセレスティだったが、しかしその事には触れず、本に、ではなく2人に向かって尋ねる。
「何ですって?」
「【赤い絵本】が開いたのよ」
 汐耶が答えた。
『急いだはってください。このすぐ傍どすえ。血の匂いを感じますのんえ』
 急かしているわりには、おっとりとした口調の付喪神だ。
 政人が2人を促した。
「急ぎましょう」
 そうして3人は付喪神の案内で、その家の裏手に回った。
 車が2台ぐらい止められそうなスペースの庭には芝生が敷かれている。
「あっ……」
 そこには本を手にした白蝋の如き女と、それと対峙するようにデルフェスとラクスが立っていた。
「貴女達……」
 2人を見つけて汐耶が声をかける。
「綾和泉さん……とカーニンガムさん」
 振り返ったラクスが呟いた。汐耶とセレスティをラクスは見知っている。けれど後の1人は……。
「それに葉月様まで」
 突然の予期せぬ援軍に安堵の息を吐いてデルフェスが続けた。どうやらデルフェスの方は後の1人を知っていたらしい。
 それぞれに顔を見合わせた。
「どうして貴女達がここに?」
 これは、もしかしたらこの状況に於いては愚問であったかもしれない。キーワードは【赤い絵本】といったところか。
「それより由香さんを……」
 デルフェスが、皆の意識を由香と由香の手の中にある絵本へと促した。
 今はそちらを何とかする方が先決だろう、互いに自己紹介をしている暇も、ましてや再会の挨拶をしている暇もなさそうである。
「彼女の持ってるのが、問題の本ですか?」
 政人が尋ねた。
「えぇ」
 汐耶が頷く。
「彼女は本に操られています」
 デルフェスが言った。
「ならば、とりあえず動きを止めますか」
 そう言ってセレスティは由香に意識を集中させた。彼女の体内を流れる血を支配しようというのだ。しかしそれはすぐに中断を余儀なくされた。
 既に彼女が極度の貧血状態である事に気付いたからだ。これ以上血の流れを妨げるような事をすれば、脳へ流れる血量が減ってしまい、彼女自身の身がもつまい。
「血を……頂戴」
 由香は愛らしい声でそう言って、一歩彼らに近寄った。
「…………」
 5人は息を呑む。
 どうしたものか。
「あの本を彼女から取り上げる事が出来れば……」
「了解」
 政人は汐耶の言葉に応じると、相手を刺激しないようにゆっくりとした歩調で由香に近づいた。
 由香が【赤い絵本】を掲げる。
 走り出した彼女よりも更に素早い動きで彼女の腕を捕らえると、政人は足払いを仕掛けて見事な体捌きで彼女の動きを封じ込めた。
 そして【赤い絵本】を奪おうと、絵本に手をかける。
「!?」
 瞬間、強い重力のようなものを感じて、体中の体液が本に向かって一気に流れ出すような錯覚に襲われた。
「葉月さん!?」
 汐耶が彼の異変に気付いて声をかける。
 彼の指先からポタリと赤い血が滴り落ちた。
 その雫は開かれた絵本に染み、どす黒かったページを鮮血へと染めていた。
「なっ……!?」
 どこかに傷が出来ているわけでもない。しかし確かに血は零れ落ち、政人は貧血に襲われたような眩暈を覚えた。
 ともすれば気力で自分を支え、由香の体を離さなかったのは感嘆に値するだろう。
 彼の頭の奥で、何かが、早く手を離さなければと警告していた。
「いけませんわ。絵本は彼の血を……」
 デルフェスが慌てたように呟いた。
「何とかして絵本を止めなければ」
 セレスティが言葉を継ぐ。
「何か方法はないの?」
 汐耶が下唇を噛み締めつつ付喪神に詰め寄ったが、付喪神は沈黙を返すだけであった。
 そこへラクスが進み出る。
「ラクスがいきます」
 と彼女は言った。
「え?」
 驚いたように3人が彼女を振り返る。
「本は乾いているのです。でしたら血を差し上げるのが打倒であると」
 そう言ったラクスに汐耶が慌てた。
「ちょっ……何を言ってるのよ」
「いけませんわ。血はそのまま絵本の力の源になりますのよ」
 デルフェスも加勢する。
「ですが見てください。彼の血を吸った本はページをめくっている」
 ラクスが絵本を指した。
「なるほど」
 何事か気付いたようにセレスティが一つ頷く。
「それなら、微力ながら私も献血に協力しましょう」
「だから、なに?」
 動揺ゆえか、焦りゆえか、いつもの彼女にしては冷静さを欠いていたのかもしれない。汐耶にはラクスの血を絵本に与える理由が分からなくて。
 それにセレスティが謎かけのように尋ねた。
「綾和泉さん。貴女が本を閉じるのはどんな時ですか?」
「え……?」

 本を閉じる時、それは――――。





【起承転結の転】 かくて佳境を迎えたり



 本を閉じるのは、勿論本を読み終えた時だ。
 ――――その本が綴る物語が終わった時だ。

「あっ……」
 ならば物語を終わらせてやればいい。【赤い絵本】が綴るのは赤い血を啜る物語。
 神族に名を連ねるラクスの血は極上にして濃厚。
 であるが故に。
「水で薄めると仰るなら私にお任せください」
 セレスティが微笑んだ。
「わかったわ」
 汐耶は得心のいった顔でラクスに並ぶ。
 彼女の血で足りなかった時は自分の血を使ってでも止める覚悟を決めて。絵本が閉じたら、その時こそ本を封じてやる。2度と開かぬように。
「わたくしはどうしましょう?」
 デルフェスが尋ねた。
「葉月さんのフォローをお願いします」
 汐耶が言った。恐らく、その身に血を流す政人には分が悪すぎるだろう。由香の動きを止めるために。
「わかりましたわ」
 デルフェスは政人と由香に駆け寄ると、政人からも血を啜り始めた絵本と彼との間に割って入った。
 絵本から手が離れた政人は直接絵本に触れてはならないと悟り、自分のネクタイをはずすと絵本を持つ由香の手に巻きつけ、デルフェスと共に彼女の身柄を拘束する。
「ラクスの血をあげるね」
 そう言ってラクスが躊躇う事無く手首を切ってみせた。溢れ出す鮮血をセレスティが水で薄め、嵩を増して【赤い絵本】へと注ぎ込む。


 大量の血を吸って、どす黒かった絵本は鮮血のような赤に変わり、由香の手から落ちたそれ「げっぷ」と満足そうな音をたてて自らを閉じた。
 それはあっけないほど簡単に。
「…………」
 力が抜けたように頽れる由香の体を支えて政人が地面に横たえる。
 その政人自身も貧血に膝をついていた。
「由香さま、由香さま……」
 傍にいたデルフェスが、意識を失っているらしい由香の手を握って声をかけている。
 一方、汐耶も貧血で座り込むラクスの背を撫でていた。
「大丈夫?」
 声をかける汐耶にラクスが額に汗を滲ませつつ笑みを返して。
「はい。大丈夫です」
 ホッと安堵の息を吐く。
 束の間――――。
「なるほど」
 セレスティの声に顔をあげて汐耶が彼を振り返った。
 刹那、絶句する。
「!? な、何やってるのよ!?」
 その声に誰もが振り返った。
「カーニンガム様!?」
「おい!?」
「カーニンガムさん?」
 なんと、セレスティは拾い上げた赤い絵本を無造作にも開いていたのだ。
「満腹になると、もう血を欲しがらないみたいですね」
 慌てている風の3人にのんびりとした笑みを返して彼は軽く絵本を掲げて見せた。絵本が閉じた事で安堵してしまっていたが、よくよく考えてみれば、まだ完全に封じたわけではない絵本だ。
「…………」
 4人が半ば呆然とそれを見守っている。
 セレスティは開いた絵本に指を這わせそこに書かれた文字を追った。
 ――――と、
「!?」
 反射的にセレスティが地面に本を投げた。
「どうした……」
 の? と続く筈の汐耶の言葉は結局最後まで続けられなかった。
 絵本が血溜りを作ってそこに解けたからだ。
「……なっ……」
 一瞬の事だった。
 絶句する面々をよそに、その声は何とも気の抜けた声で、今の状況とは殊更不釣合いに響いた。

『逃げられはりましたなぁ……』





【起承転結の結】 なれば、本を閉じ物語が終わるも道理



 程なくして意識を取り戻した由香には【赤い絵本】を開いてからの記憶が残ってはいなかった。それを幸いに、絵本の危険性と事情を簡潔に話して【赤い絵本】は引き取らせて貰う旨を告げる。
 実際には、既に【赤い絵本】は消失しているわけだが……。
 彼女は何かを察したのか、絵本が既に見当たらない事には触れず快諾した。



   ***


「どういう事よ」
 政人の車の中で汐耶が納得のいかない面持ちで付喪神を睨みすえた。
 丁度通り道だし、と政人が声をかけたので車にはデルフェスも乗っている。
『さぁ?』
 付喪神はすっとぼけたような声をあげたっきり何も話さない。
 代わりにデルフェスが口を開いた。
「これは推測なのですが、絵本は持ち主を選ぶのかもしれません」
「持ち主?」
「綾和泉さまは、【白い絵本】をご存知ですか?」
「…………」
 その言葉に思い当たるところがあったのだろう汐耶は納得した。
「そういう事か……」
 呟く汐耶に政人が首を傾げる。
「白い絵本?」
 【白い絵本】は、神聖都学園高等部の図書室にあった。
 何度か汐耶が都立図書館の特別閲覧図書として封印しようとした本だ。しかし気づくとそれは高等部の図書室に舞い戻っていた。
 恐らくは、デルフェスの務めるアンティークショップでも同じような事が起こっていたのだろう。
 それを掻い摘んで話すと得心がいったように政人が頷いた。
「なるほど。とすると【赤い絵本】はまた、水瀬由香の元に?」
「可能性としては考えられますわ」
 デルフェスが答えた。絵本が選んだ持ち主が彼女ならそういう事も確かにありえる。しかし――。
「…………」
 汐耶は考え深げに俯いた。何かが引っかかる。
「【赤い絵本】はどのくらいの周期で乾くのかしら?」
 ささやかな疑問であった。
「…………」
 しかし、この場にそれに答えられる人間はいない。
「そういう事なら、僕が調べてみましょうか?」
 政人が言った。
「え?」
「吸血関係の事件を洗えば、もしかしたら次の【赤い絵本】の出現先も絞り込めるかもしれませんし」
 絵本が乾くたびに人の生き血を求めて徘徊しているのだとすれば、警視庁の過去の事件を洗えば、絵本が起こした事件が他にも出てくるかもしれない。勿論、今回のように警察が介入する事なく未然に防がれるケースもあるだろうが。
「確かに……」
「警視庁のデータバンクにアクセスしてみますよ」
「ですが、今回はコスミオン様がいてくださったから良かったでしたが……」
 不用意に絵本と対峙する事は避けなければならないだろう。何か対抗策を用意しておく必要がある。
「大人10人分の血液でしょ。次は、血液バンク経由で輸血用血液を持参してやるわ」
 汐耶が忌々しげに答えた。余程、かの絵本を取り逃がした事が悔やまれるのだろう。
「そうですわね」
 汐耶の言葉に頼もしさを感じてデルフェスは笑みを零した。
 流れる車窓に視線を馳せる。
 そうしてデルフェスは誰ともなしに小さく呟いた。

「ですが、次に絵本が現れるのは100年以上も後かもしれませんわね……」



   ***


 貧血がおさまるのを待ってラクスは水瀬家を後にした。
 と言ってもセレスティが体調を整えてくれたおかげで、そう長い時間がかかったわけではない。他の4人と殆ど変わらないぐらいである。
 通りを歩きながら彼女はぼんやり【赤い絵本】の事を思い出していた。
 絵本と対峙していた時は、それどころではなく落ち着いて考える暇もなかったので気付かなかったが、ラクス自身、不思議な色の絵本についてはどこかで聞いたことがあった。
 実際に対面して見れば、『不思議な絵本』などと可愛げのあるものでは到底なかったが。
 血界鏡のようなとんでもない力を使ったりする。血を啜るというだけでも、ただの絵本たりえない。
 血溜りに解けたが、かの付喪神の言う事が正しければあの絵本は逃げただけで、必ずいつか、再び現れるのだろう。調べておく必要がある。
 ラクスは足を止め、赤く染まった西の空を見上げた。
 何百年生きようとも、知らぬ事は数多ある。それ故に世界は不思議で満ちていた。



   ***


 走り出す車の後部座席にゆったりと背もたれて、セレスティは【赤い絵本】に手触れた時に読み取ったものを思い出すように目を閉じた。
 かの文字を反芻する。
「“緑の栞”」
 確かに絵本にはそう書かれていた。深緑を思わせる絵の中に3つの文字。あの短時間の中で何とか読み取った情報だった。
「気になりますね」
 栞は、どこまで読んだかを示すものだ。
 読みかけの本を閉じる時に。

 物語を終えなくても本を閉じることが出来るもの――――。





Fin.


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【1449/綾和泉・汐耶/女性/23歳/都立図書館司書】
【1855/葉月・政人/男性/25歳/警視庁超常現象対策班特殊強化服装着員】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1963/ラクス・コスミオン/女性/240歳/スフィンクス】
【2181/鹿沼・デルフェス/女性/463歳/アンティークショップ・レンの店員】

(*)整理番号順

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■         ライター通信          ■
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 はじめまして、斎藤晃です。
 お疲れ様でした。楽しんでいただけていれば幸いです。

 赤い絵本敵前逃亡で幕を閉じた今回の物語ですが、これはある意味作者の敵前逃亡を意味します。
 不思議な4冊の色の絵本。これらの個々の設定については考えてあったのですが、セレスティさんのプレイングにあったような、絵本同士の相関関係については全く考えてもいませんでした。(手落ち)
 つまりはリベンジしたく逃亡という形をとらせて頂いたわけです。勿論、それだけの理由ではありませんが。
 近い将来、赤い絵本リターンズとか、赤い絵本リローテッドなど(どこかで聞いたようなタイトルは使いませんが<苦笑)、何らかの形で復活したいなと思っております。
 機会が合えばまた、お手合わせ頂ければ幸いです。
 今しばらくは、その他の絵本が小さな事件(?)を巻き起こしているかと思われます。

 皆様の関係につきましては、過去の作品から拾わせて頂きました。殆どの方々が知り合いという設定で話を進めています。もしかしたら抜けもあるかもしれません。その時は、見なかった事にしていただければ幸いです。

 最近、新選組の影響か、京言葉(というより遊女)が熱く、キャラ設定がなかったのをいい事に付喪神を勝手に京言葉にして喋らせてしまった事を、最後に深くお詫びしつつ、お礼の言葉に返させて頂きます。

 ありがとうございました。

 斎藤晃拝