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<東京怪談ノベル(シングル)>


夏の短夜に海の音を

 書籍ばかりが壁を支配する空間に存在する音はと言えば、注ぐ陽によって熱せられた大気をシャットアウトするべく整えられた空調の幽かな機械音のみだ。それですら音と称する程の量はなく、生物よりも静物の方が圧倒的に多い空間に於いては、静寂こそが権力者であろう。
 セレスティ・カーニンガムは凪いだ湖水のような青く静かな瞳を、威圧するかのように天井まで届く本棚に向けた。瞳に多くの書籍が映り込もうと、セレスティがそれらの書籍を肉眼で捉える事はない。だが、書籍の、並ぶ本の群れのその一冊一冊の持つ「気配」はセレスティの身が感じている。
 文字を連ねる際に込められた思い、描かれた挿絵の持つ背景、多くの人々が読み愛した記憶、それらは決してこの紙の束を通り過ぎて消えるものではなく、触れた思いが強くあればある程、内に染み残っている――それを、知覚出来る者は決して多くはない。
 その、多くはない存在の内の一人がセレスティであった。
 書籍……本はセレスティにとって、永き人生に横たわる退屈を慰撫して来た友人の一人であり、好奇心や知識欲を満たす道具でもある。
 人あらざる劫の時を往く間に得た本は質、量共に国が管理する図書館に劣るものでは決してなく、稀覯本の類いを数えるならば、勝るを探す方が難しいと言えよう。好事家を招けば垂涎の的となるは必至である。とは言え、セレスティにとって本は飽くまでも読むものであり、集めて大事に仕舞い込み同好の士に披露し、又は恍惚と外面を眺めるものではない。
 本日も一人の時間を楽しむべく、セレスティは一冊の書籍を本日の孤独の友に選んだ。
 世に二冊と無い珍しくも興味深い、不思議な曰くを持つ書籍である。
 常にするような手順を追わず、直接書籍が収められた本棚へと移動すべく車椅子の車輪を廻した。き、と軋む音と共に椅子は部屋の隅に設けられた小さな棚の前で止まる。棚は、他に比べて背が低く収められた書籍の数も極端に少ない。白木で作られており、側面には細かな彫刻が施されている。その彫刻が表す意味は見る者が見れば気付く事が出来ただろう。
 彫られているのは魔術で使われる「呪」、そして「陣」である。
 放っておけば少々悪戯の過ぎる書籍に大人しくして貰う為に施したそれは、人を惑わす力を封じる為でありながら、また「彼等」を保護するものでもあった。ともすれば自らを滅亡に導く事もある力を封じ、眠らせておく為の術は半永久的に機能する。術者であるセレスティが朽ちぬ限りは。
「久しくお会いしていませんでしたね」
 あなたとは、とセレスティが呟いて触れた本は身に鎖を纏わせて重々しい雰囲気を醸していた。
 鎖は棚と繋がっており、棚に刻まれたものと同じく細かい「呪」が刻まれている。放てば逃れんとばかりに繋ぎ方は厳重であり、それだけでこの一冊が何処にでも売っている普通の本ではないことを物語っていた。
 だがセレスティの本に触れる手、その指先には愛しさすら宿るような。
 指が優しく鎖を辿り、鎖を戒める鍵に触れた。鍵には鍵穴が無く、表面にはやはり文字が刻まれており、一見してどう開けるのか判らない造りをしている。セレスティはその鍵に指先を触れさせると、文字をなぞるように動かした。
「守りよ、戒めを解き、私の手に言の葉を」
 小さく唱う声に応えるように、鍵は小さな金属音をあげて開いた。それとともに鎖が、意思を持つものであるかのように金属が擦り合わされる音をたてながら本から外れてゆき棚に収まって行く。
 鎖から解放された本を、セレスティは少しばかり苦労して膝の上に置いた。重さと大きさが、容易に動かす事が出来ぬ重しとなっているのだ。
 そして、膝の上で読むのにも難のあるそれの為に、セレスティは室に据えられた書架台に載せた。
 セレスティが先に呟いたように、この本との逢瀬は久方振りである。どれ程前であるのかを、年月で言えぬ程の隔たりが間にあった。時が空いたのは、存在を忘れ去り興味を失していたゆえでなく、本が持つ能力が故。この能力は、退屈な時を過ごすには良い刺激ではあるが、乱用すると少々困った事になる。
 ――久し振りですし、良いでしょう。
 己に確認するように、僅かに頷くとセレスティは表紙を開き、ページを繰る。古い紙の匂いがセレスティに本の歴史を告げる。そして、匂いは次第に紙のそれとは異なるものを運び始める。
 緑を濃く含んだ風の香りが、空気の流れと共にセレスティの頬を撫でる。空調は風を作らない。だが、室内には風が生じ始めようとしていた――本を中心に。強くはない、ゆるやかな風の手がセレスティの髪に触れて、室の端へ消えて行く。
 セレスティが手に入れた頃には既に色褪せていた、薄い鴇色の遊び紙がセレスティの指が触れたか触れないかといった所で勝手に揺れ、捲れた。
 続けてぱらぱらと頁が勝手が繰られて行く。それに呼応するように風も明らかに気のせいではない、匂いと感触をもって室内に生まれ来る。
 セレスティは瞳を閉じた。元より現実に溢れる色や形をはっきりと捕らえる事の出来ない弱い目だ。開いていても、今眼前で起ころうとしている現象を映像として識る事が出来るわけではない。
 瞳を閉じると、一層風の薫が増した。本棚と、並ぶ書籍、その他には殆ど存在しない室であるはずのない、あるべくもない匂い。陽に照らされる木々の匂い、土の匂い。そして気配。人の世界では薄くなったようにも思える、霊的なエネルギー。清浄で、陰鬱で、明快で、朧ろな……源であり終りである、その命の礎。
 人が世界から隔絶しようとしている、不思議と呼ばれる存在達の持つ、強い生命力。
 セレスティは、懐かしいような、心地よいようなその空気を生々しい程に肌に感じ、瞳を開いた。
 そこには、本来ある筈の図書室は存在しなかった。
 広がる草原は、膝迄埋る程の草草で埋まり、緑色の波を風にそよがせている。遠くに見えるのは緑豊かな山の稜線。緑を割るように山に向かって一筋通るのは青も鮮やかな川。せせらぎが涼しげにセレスティの耳に入る。
 光景が、はっきりと映し出さない筈の瞳に映る。陽の光は足下の細い草の線影さえくっきりと映し出しているが、光に弱い筈のセレスティを苦しめる事はない。かと言って、それらは紛い物とは思えぬ存在感を持つ。実際にそよぐ草に手を触れてみれば、冷たい葉の感触がしっかりと指に残った。
 ――これだから、貴方とはそうそう逢瀬を重ねられないのですよ。
 セレスティは思わず苦笑を浮かべた。だがその笑みには、頑是無い幼子に愛しさと共に向けるがごとき慈しみが仄見える。
 永き時を生き、人とは懸け離れた力を持つセレスティですら、御し難いこの力――。
 失われた――いや、存在したかどうかも判らない幻影の世界へと誘うこの力こそ、セレスティがこの本を手に取るを常と出来ない理由である。一度捕われれば、戻れるのは本の気紛れに任せる他に無い。世界に名立たるリンスターの総帥であるセレスティ・カーニンガムとしては、そうそうこの本の気紛れに身を任せているわけには行かない。時間の感覚も違うこの場では、たった一日が元の世界での一週間になる事もあるからだ。
 セレスティの天敵と言っても過言ではない強い日射しが続く夏だからこそ、ほんの少しだけ付き合ってみても良いか、と思え、そしてそれが赦される――長いようで短い夏のほんの一時の夢を見る事が。
 セレスティはしばし緑の波を見詰めていたが、ゆっくりと足を踏み出した。身を落ち着けていた筈の車椅子も今は傍に無い。そして車椅子でない時には必ず手にする杖もない。だが、セレスティの足は危うげもなく歩を進める。
 セレスティの弱点である弱い身体は、ここには存在しないのだ。
 かと言って、夢のように頼り無い感覚は一切無い。飽くまでもここにある空も草木も水も、そして自分の身体も夢のような不確かな感触は齎さない。
 一体どういった仕組みであるのか……異空間を持つか、五感を狂わせ騙すか、いずれの作用であるのかはセレスティをもってしても解き得ない謎である。
 だがセレスティは、謎を解きたいとは思っていなかった。この本を手にするのは、謎を解く旅を楽しむ為ではない。現実とも紛う、一時の夢を歩む為だ。
 ――そう、これは夢。
 いずれは目覚めねばならない。例え広がる光景がどれだけ立体感を、匂いを、リアルを持っていても、忘れてはならない。セレスティが立つのは、邸に在る図書室である。深く青い色の空の下、光を得て艶やかに揺れる草の上ではない。
 本に捕われている事を忘れ、帰還を忘れれば、捕われた者は二度と戻れなくなる。現を忘れ、夢に喰われ、いずれはどうなるのであろうか。この本の住人に? それとも消滅を? 
 セレスティは、草の海を歩き乍らくすりと微笑みを零した。己が踏み行く草の感触を楽しみ、想像する。最初は人であった、囚われ人達の行く末。
 例えば、ここに棲む者の食物になるだろうか。それとも上手く立ち行き、逆に捕らえる者があったろうか。それとも。
 その身を変えて、同じく異質に、異形に身を変えたであろうか。
 本の住人達の同胞へと、変わって行くだろうか。
 蹄が地を蹴る音が聞こえ、嘶きが聞こえ、次第に近付いて来るのに気付き、セレスティは足下に落としていた視線を上げた。振り向けばそこには一頭の馬……否、ただの馬ではない。その額には一本の角がある。清らかなる乙女にしかその姿を晒さぬと言われる、ユニコーン。
 海辺に転がる白い貝のような真直ぐな角を天に向け、見事な肢体を誇るように、優雅にセレスティの傍らで止まった。一息つくように嘶くと、セレスティを僅かに見、すぐに興味を失ったかのように彼を追い越し、駆け抜けて行く。それに続くようにして、何処から現れたか、数頭が姿を見せ、だが先の一頭と同じようにセレスティの傍を駆けて、緑の波間に消えて行った。
 彼等の様に幻想と言われる生き物、神話伝承の中にしか存在せぬと言われる者達がこの本の住人である。東西を問わぬ場所で語られ、伝えられて来た不思議の生き物達が、ここでは当たり前の顔をして生きている。焔を散らして飛ぶ鳥が、翅を生やした小さな人が、存在するのが当然の、世界。
 以前この本を開いた時の事をセレスティは思い描く。以前は何と出会ったろうか、と。いつも同じ住人と出会うわけではない、開く度に違う顔を見る。
 本の目次を探したが、何処にも存在せず、そしてこの本をただの本として、頁を最後迄繰り続けた事が無い故に、一体どれだけの種類が此処を住処としているのか、セレスティにも果てが見えなかった。
 それもまた、楽しみの一つである。
 出会う者達の中には、既知の存在もあった。大抵の人間は知らぬだろうが、伝承は作り物だけではない。実際に「現実」に存在する者もあるのだ。だが、今は人に駆逐され、または自らが常闇へと姿を消して、二度と会う事の叶わぬ者も多い。そんな者達と再び此処で出会う事もある。
 セレスティは、足下で揺れる草から目を離して、空を見上げた。青く青く広がる空。以前訪れた時には、人の身体に翼を生やす者達が空を行くのを見た……海へ向かって。
 海が、脳裏に広がった、と思った瞬間。膝をくすぐる草の感触が消えた。ゆっくりと空から視線を戻すと、足下は緑から白に色を変えていた……白い、砂に。
 ざわめく草の音は変わらないようだ、と思えばそれは草の擦れる歌でなく、海の波の音だった。
 輝く青い石のような水。穏やかな波頭は光を散らして、揺れる。
 セレスティは、惹かれるように水際へと歩む。如何ともしがたく、愛おしさが胸を満たす。水への思慕か、戻らない過去への、失った水の世界への郷愁か。
 セレスティは履いていた靴を脱いだ。陽に灼かれている筈の砂は暑くなく、ひんやりと足裏に馴染む。しっとりと水を含んだ砂を踏みしめ、辿り着く。波が、セレスティの白い肌を濡らした。柔らかな手が優しく撫でるように、触れては引く。
 セレスティはそのまま、波打ち際を歩いた。足下をひたす水の冷たさが、ここ暫く暑さに喘いでいた心を冷やし、潤して行くのが感じられた。砂に水が染み込むのに似て、枯渇していた身の内の水が蘇るような。ひたすのは足のみと言うのに、水に触れていない肌までもが水の感触を呼び覚まされる。抱かれる快さを。
 セレスティは、知らぬ内に自分の唇から歌が紡ぎ出されているのに気付く。セレスティが現在暮している日本の言葉ではない、異国の言葉。セレスティが生まれた海の、言葉。
 忘れたと思っていた歌が、身に水が満ちるように体内に満ちている。溢れて、唇から溢れている。
 誰に教わったか、何時の間にか知ってい、何時の頃からか歌っていた故郷を知る歌をセレスティは歌う。歌は波に乗り、水の寄せ返す音に混ざり、海も歌う……セレスティと共に。
 そして、歌は呼ぶ。海に在るセレスティの、同胞を。
 穏やかな波を乱す音が、セレスティの歌を一時遮る。
 音を立てたものは波間に姿を現しては消えた……それは大きな背中の尾鰭。幾度か波を叩いていたかと思うと、波に沈んだ。尾の沈んだ波を見詰めていれば、再び流れが乱れて、ぽかりと、それは姿を現した。
 セレスティに何処か似た整った顔、髪は光を撚ったかのような、金。白い肌は透けるようだ。ふくよかな胸が波間に見えかくれする……女。
 女は、セレスティを見つめる。視線には警戒も怖れもなく。好奇心の強さも窺えない。静かな瞳をひたとセレスティに据えた。
「……会えるかも知れないとは、思っていましたが」
 セレスティは、瞳を細めた。自分の表情が自然と和むのが判る。
 姿を現したのは、まさしく同胞……同族。セレスティの本来の姿である人魚。
 女は、セレスティの言葉にも反応は見せず、黙って波の間に佇んでいる。
 セレスティは、見詰めてくる視線を柔らかな微笑みで受け止めて、止めていた歌を再開した。
 本との逢瀬以上に、久しい出会いに、喜びを込めて。
 天上の歌と言うならこれがそうだろう、と聞く者が賛辞を捧げるであろうセレスティの歌が、再び海の音と響きあう。それに誘われるように、黙していた人魚が唇を開いた。セレスティより高い、だが美しい声音がセレスティの声に添う。
 人魚は、歌い乍らセレスティへと手を伸ばした。招くように揺らす。

 もどっておいで。

 人魚は歌を止めていない。だが、セレスティには聞こえた。海へ戻って来いと、囁く声。水へ還れと頼む声が。
 セレスティは同じように、手を伸ばした。彼女の呼び掛けに応えるように、彼女へと向けて。
 足が一歩、沖へと向けて踏み出された。

 そのまま、戻っておいで。

 声が、またセレスティを呼ぶ。
 セレスティはもう一歩を踏み出しかけ……止めた。
 歌が、止まる。
「私は確かに今でも水の友であり、子である事に変わりはない……けれど、水の中には」
 戻りません、と微笑む。
 自ら選んで水を出て、弱い乍らも両の足で土を踏み締める事を選んだ。それを捨てるつもりはない。水の世界は今でも愛おしい。だが、土の上にも愛おしいものを見付けた。愛したい者達が居る。セレスティが還りたいと願うなら、それは彼等の許だ。
「いずれまた、会いましょう。夏の気紛れが幻を生むその時に」
 セレスティの言葉と共に、視界が熱に揺らぐ陽炎のように揺らいだ。はっきりと輪郭を描いていた光景がぼやけてゆく。
 海が視界から姿を消し、セレスティは、元の場所に……図書室の書架台の前に立っていた。
「貴方ともいずれ、また」
 セレスティは『幻想動物図鑑』と書かれた本を閉じる。
 スーツの内側から懐中時計を取り出して見れば、時刻は夜を示していた。暑かった今日もあと数時間で終わる。
 セレスティの中に水の記憶と歌を、残して。