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在りし日の夢語り
特有の浮遊感に身を委ねて、その感覚をただ楽しんでいた。
辺りは静かなのか賑やかなのか、奥底から響きつづける大勢の人々の怒声のお陰で到底判りそうも無かった。飛鳥に判っているのは、それが夢なのだということだけだ。
そう―――ただの夢。いつか見た、夢。
飛鳥は夢と現実の狭間で、いつの日にか見た夢を、瞑った瞼の下の闇の中に再生していた。
それは、ある神社の境内だった。
神社という神聖な場所には似つかわしくない怒鳴り声が騒がしい。その中心にあるのは大勢の村人の姿だったが、飛鳥自身の視線は始終一頭の狼に集約されていた。一頭の、傷だらけの狼に。
狼は村人たちに囲まれ、恨みの言葉や怒号を次々に浴びせられていた。先程から飛鳥の頭の中に響き渡る声は、そんな村人たちのものだ。それらの声が集まれば単なる騒音に過ぎなかったが、ひとつひとつ注意して聞けば、それが狼に仲間を傷つけられた怒りや恨みの声であることが知れる。
然う斯うしているうちに、動物相手にただ言葉の刃を向けるだけでは気が済まないのか、とうとう村人たちは弓矢を番え、桑や鋤を手に狼に襲い掛かった。
(―――違うってのに)
狼は村人たちにどんなに傷つけられても、どんなに居抜かれても、構うことなく立ち上がり応戦していた。
どんなに獰猛そうな狼の爪でも、桑や鋤といった刃物には勝てるわけがない。それでも狼は構うことなく立ち上がる。
(彼は殺してなんかいないのに)
狼が攻撃を仕掛けに咆哮を上げる度、射抜かれた衝撃に叫び啼く度、痛々しい響きが辺りに拡がった。
まるで狼が泣いているかのようだ。
けれどそんな狼の様には構わず、村人たちは狼に襲い掛かる。そうして上げる狼の咆哮が、飛鳥にはますます痛々しいものに感ぜられた。
(彼は、ただ―――)
彼はただ、寂しかっただけなのに。
飛鳥には判っていた。狼は彼自身が傷つけられた痛みを、伝えるために。そのために、同じように村人たちを傷つける方法しか選び取れなかっただけなのだと、判っていた。
狼はただ、彼自身もまた傷ついていることを判って欲しかった、それだけなのだ。
しかし、狼がどんなに叫んでも、飛鳥がどんなに心の中で訴えても、村人たちには届きそうもない。それどころか行為はますます過熱していき、狼はその度に心身共に傷つきつづけている。
どうして皆この云い様もない寂しさに気付かないのだろう。
気付いてもらえぬまま刻まれつづける狼の傷を、どう癒せば良いのだろう。
そう、飛鳥が考えたときだった。
「止めて!」
狼以上に悲痛に満ちた甲高い声に、村人たちは手を止めて一斉に振り返った。
その視線の先に立っていたのは、赤い着物に身を包んだ一人の少女だった。少女の顔はあくまでも真剣で、それでいて哀しさに満ちている。そうして、もう一度「そんなことは止めて」と、今度ははっきりと訴えた。
だが、そんな少女の姿を目に留めた村人たちの機嫌は更に急降下した。
村人たちは少女を邪魔するな、と睨みつける。その顔付きには、子供が口を出すなという蔑みが含まれていた。
しかし少女はそんな大人たちの視線と制止を意に介さず、毅然とした態度で狼の元まで歩み寄った。
狼は最早傷つき果てていて、少女が自分に襲い掛かっていた村人たちを止めたということも何も関係なく、ただ自分に向かってくる少女に向かって牙を剥いた。
少女はいち早くその狼に反応して構えた村人さえも制して、構わずに狼の前へ進み出た。
そんな少女を、狼は警戒心を露わに睨み上げ唸っている。待ち構えているのだ。
少女が近くへ辿り着いた途端地を蹴って襲い掛かった狼に、しかし、少女は迷わず腕を差し出した。何の抵抗もなく狼の爪は少女を切り裂き、牙は腕に食い込む。村人たちは確かに一瞬赤い血が迸るのを見たが、少女自身は顔色ひとつ変えなかった。
その痛みは尋常ではないであろうに、少女は顔を顰めることもせず狼をそのまま抱き寄せて、もう片方の手で狼を撫でた。それはただ優しく、穏やかに。狼に腕を噛まれていることも悟らせないような、慈愛に満ちた表情だった。
村人たちも時を忘れ、穏やかながらに強い意志の感ぜられる少女の様子に動くことも出来ず、ただ狼と少女の様子を見守っていた。
辺りは先程までの騒がしさが嘘のように静寂に包まれていて、時折狼の唸り声が響き渡るばかりである。
どれほどの時間が経ち、少女がどれほどの血を流したかも判らないほどの時の果てに、狼の牙は緩んだ。そこから漏れる鳴き声は既に警戒の様子などなく、まるで泣いているようであった。
そんな狼に少女は表情を和らげて、血の流れる腕にも構わず狼を更に強く抱きしめた。狼がすっかり大人しくなった後も、ただ、強く強く、それでいて優しく抱きしめていた。
夢は其処で途切れている。
しかし、その中に溢れる優しさは夢の再生を終えた飛鳥の中にも留まりつづけていた。
END.
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