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想いは駆け巡れど
灼熱の太陽に焼かれて溶けた土瀝青が街の輪郭を仄揺らす季節。
暦の上では秋になるが、まだまだ全身に覆いかぶさるような重苦しい暑さが続く。
虚ろな瞳で満員電車に揺られ、無色の四角い箱に向かう無気力な群れ。
多種多様な人々がそれぞれの想いを秘めて暮らす、花の都・大東京。
空は建ち並ぶビルの隙間に淡い色を覗かせて、季節の花の代わりに無機質な看板が次々と目に飛び込んでくる。
いつしか偽りの色に染められた悲しい都会(まち)だ。
しかし、この都会には人の数だけの夢がある。
ほんの小さな願いから果てのない夢物語まで、途切れる事無く続くそれは“想い”それとも“祈り”
そのエネルギーがこの眠らない都会を動かしている。
どんなに姿を変えても、時代が動いても、決して変わらないモノがこの世にはあるから――。
コンクリートのジャングルで生き抜く覚悟はたった一つ。
それは“強くあること”だ。
誰に対してではなく自分自身に負けない為に。
守りたいものを守る、そう決めた時から。
どんな小さな手にも、時には物の怪の手にさえも求める“ぬくもり”がある。
それは向けられる笑顔であったり、握り返される手であったり、温泉であったりするのだが、とにかく安らげる場所だ。
自分が在るべき場所、在りたいと願う場所である。
思うのも願うのもたった一つ。
時が流れて色々なものが一つづつ形を変えても。
ずっと繋がっていくものだけが消える事無く残ってゆくのだ。
過去の自分も、今の自分も、必ず未来(みらい)に繋がっているから。
□■
強い静寂が満ちている。
決して音がないわけではない。むしろ、命の声に溢れている。
けれど一切の雑音がなく、感じるのは静寂なのだ。
ただ“生”の気に満ち溢れている。
ふと空を見上げれば低く浮かぶ岩のような白い雲の上に、砂を掃いたような薄い雲が爽やかに青の色を薄めている。
静かにゆっくりと音も立てずに、けれど確かに季節は巡っている。
精神を研ぎ澄ませて感応すれば、その呼吸が聞こえるようだ。
囲む緑は瑞々しく、本来の濃い色をその身に纏って佇む。
春先の柔らかい色も美しいが、この季節の色には力強さを感じる。
瞼を閉じていても鮮明に感じられるような、そんな存在感がある。
息を呑むような凄烈な生命の脈動、否、生命そのものとでも言うべきか。
御崎・月斗(みさき・つきと)の姿はそんな秘境の谷にあった。
辺りに人影はない。恐らく誰も踏み入れる事のない場所なのであろう。
だから月斗にとっても誰にも言えない、秘密の修行場所であった。
人の手の入らない山は本来の姿でいつもそこにある。
登って来る途中、山の裾ではススキを見かけたばかりだったから、夏も終りのこの季節に咲いているガクアジサイを発見した月斗は瞳を瞬かせた。
自然とはどこまでも神秘だと思う。
そんな事ですら、忘れてしまいそうな日常に小さく嘆息を漏らす。
十二歳の月斗は本来なら鼻水を垂らして無邪気に駆け回って遊ぶような年頃だ(いや、今時そんな小学生はまったく見掛けないのではあるが)
夢と希望を惜しみなくランドセルに詰め込んで輝かしい毎日を謳歌する、いわゆる“少年時代”というものだ。
が、彼の目の前には少々他の同年代の子供らとは違う道が用意されていた。
敢えて言葉を選ぶなら“宿命”である。
決して彼が望んだものでは無かったが、そこには本人の意思も何も通りはしない。
それこそが宿命なのであるから。
「……っ」
月斗は剥き出しにした足を清冽な水辺に差し入れて一瞬肩を震わせた。
まだまだ水遊びに快適な気候ではあるが、肌の奥まで痛みが走る水の冷たさは氷のようだ。
さすがに、いくら強がっても水遊びだなどとは言えない。
何者も居なかった空間に突如として顕現した青年が月斗の脱ぎ捨てた衣服を拾い上げて振り返り、そのまま木にもたれ掛かり瞳を閉じた。
寡黙なこの青年は、通常なら徒人(ただびと)には見えない月斗の式神の一人である。
普段は当然ながら主である月斗の命に従い行動をするが、時折このように頼んでもいないのに世話を焼いてくれるのだ。
修行の為、無防備になる月斗の護衛のつもりであろう。
「頼んでねぇのに……」
視認しなくても気配で感じ取れる月斗が背を向けたまま胡乱に呟いたが、当の式神は素知らぬフリだ。
月斗は平安から続く由緒正しい陰陽師の血筋で正当な後継者でもある。
それこそが彼を縛る宿命であり、逃れられない枷だ。
それを嫌い、弟達を連れ立って家を飛び出し、目下のところ叔父の許で居候中。
幼いながらも十二神将までも式神として扱う月斗は、紛れも無くこの年齢にして稀代の陰陽師である。
故に、様々な危険も伴うし、命を狙われる事も珍しくは無い。
式神が殊更に心配性なわけでも年端のいかない少年を甘やかしているわけでもないのだ。言うなれば、その懸念は当然のものである。
こんな秘境の地では、その危険とやらは熊とか猪とか、大方そんなものかも知れないのではあるが。
黒の双眸を、轟音を立て白い布のように落ちる滝へと向けて深呼吸を一つするとすっかり感覚の消えうせた足をザブザブと進めた。
滝へと向かう月斗の姿は褌一丁。
まるで水の流れに呑み込まれた木の葉のように元々小柄な身躯が一層頼りなく小さく感じられる。
眼前の滝は何だかちょっと凄い。スーパー銭湯にある打たせ湯とはわけが違う。当たり前だが。
身を叩き砕かれるような痛みと全ての感覚を奪う冷たさの中で月斗は静かに精神を統一した。
先程までの轟音も今はもう耳に届かない。
□■
ひょこ、ひょこ。ぺったし、ぺったし。
ぷかぁ、と煙の輪を吐き出して足を止めたぺんぎん・文太(―・ぶんた)は緩慢に首を振って周囲を見渡した。
はて。
毎度毎度、そりゃもう見事なまでにお馴染みであるが、ふと気付けば見知らぬ土地である。
そもそもこの日本においてぶらぶらと気侭に歩くペンギンがお馴染みなのは一体どうなのかって事はまぁ、置いておいて、だ。
銜えた煙管を手に取って、二つ目の煙を吐き出して再び見上げる。
何と言うか緑である。力の限り緑である。否定のしようもないくらい緑である。
何処をどう歩けば大都会東京からこのような場所まで無意識で歩いて来られるのか分からないが、疑いようも無く山奥だ。
仮に文太が意識して歩いていたとしても、恐らく三歩目には忘れるのであるから、当初に目的があったとしても覚えちゃいない。
兎に角、歩いてきたのだ。その事実だけで充分である。
どうりでちょっくら足が痛い。うんと短いけど痛い。まぁ、短いのは関係ないが。
そんなワケでこれはもう温泉しかない、と文太は思う。丁度、偶然にも檜の湯桶も小脇に抱えているし。
因みに、湯桶は片時も離さず持ち歩いているアイテムであるし、えぶりでー、ふるたいむ温泉気分のペンギンではあるが、本人が思うのだからそれでいいのだ。
再び歩を進めた文太の足元を小さな野うさぎが跳ねた。
これは珍しいものを見たと目を細めた文太だったが、実は野うさぎなんかよりも遥かに己の存在の方が珍しい事には気付いちゃいない。
考えてもみて欲しい。確かに、野生動物の宝庫、秘境の山奥だったとしても、だ。
熊や猪、カモシカに兎、狸にイタチ、様々な動物に巡り逢おうとも、ペンギンに出逢える山などはそうそうありはしない。
文太が迷い込まない限り。
ひょこ、ひょこ。ぺったし、ぺったし。
温泉を求めて山を彷徨うペンギンが足を止めた。
響いてくるのは水の音だ。
そう言えば喉が渇いた。音のする方へ身体の向きを変えて足を踏み出そうとして周囲を見渡す。
はて、ここは何処だろう――。
まぁ良い。とにかく水音のする方へ。
そんな事を繰り返しながら文太のお山散策は続く。
□■
かさかさと葉の擦れる音に気付いた式神が身を強張らせたが、滝業を終えた傍らの月斗はじっと様子を伺っていた。
がさがさ。
再び葉を揺らして登場したペンギンを見るや制するように片手を上げた月斗を一瞥すると一拍して式神の青年は姿を消した。
「お前、この前会ったペンギンじゃん」
月斗の言葉に首を傾げた文太だったが、そう言えば、長く伸ばした金の後ろ髪のこの少年に見覚えがある気がする。
何時だったか、何処だったか。
うーん、うーん。
暫く考えて、おぼろげな記憶があるような、ないような、はっきりとはしないが、とりあえず片手を上げて応えてみる。
ぺったんぺったんと歩いて水辺まで進み、湯桶を置いて水を飲む文太を眺めていた月斗がふと気付いて声を掛けた。
湯桶にタオル。なんつーか、間違いなく。
「……温泉、探してんのか? 俺が知ってるトコでいいなら行くか?」
バシャ。
温泉、の言葉に勢いよく振り返った文太が足を滑らせて、水の中で尻餅をついていたが手足をバタバタとさせて喜んでいるようだ。
「そっか。行きたいんだな?」
バシャバシャバシャ。
今すぐ行こう。何が何でも行こう。とっとと行こう。
そんな感じで水を跳ね上げる文太に思わず苦笑してしまった月斗だったが、どちらにせよ修行後にいつも浸かるお決まりコースである。
「俺のとっておきの場所だぞ」
移動しながら言った月斗に、こくこくと首を振った文太はほんわーと顔を緩めた。
きっとめくるめく妄想で胸が一杯なのであろう。
温泉、温泉……しかも奥地の野天。煙管を銜える口元も自然に綻ぶ。
温泉一つでここまで喜ぶペンギンも珍しい。いや、普通はいない。
まぁ、ペンギンと言っても文太は物の怪だ。陰陽師である月斗にはそれが分かる。
(「こいつと主従の契り交わしたら俺の式神になってくれたりするかな」)
ふと考えてぶんぶんと首を振った。
いや、もしなってくれても役に立たない。恐らく。
それどころか迷子の文太を探す労力に追われそうだ。首輪に迷子札は必需品であろう。そんな式神聞いた事がない。
コイツも気侭にこうしてるのがいいみたいだしな。うん。
「いいトモダチでいよう」
何故か脱力して呟いた月斗の背中を励ますようにトントンと叩いた文太が湯桶を鳴らす。
「はいはい。急ごうな」
月斗のとっておきの温泉は大盛況だった。
いや、辺りには人っ子一人居ない。小さな温泉を賑わしているのは野生動物である。
種を超えて、様々な動物がこの温泉を楽しんでいたが、それを誰も気にする様子はない。
それぞれに温泉を満喫している。まるで小さな楽園のようだ。
そこに新たに月斗と文太が加わってもそれは変わらなかった。月斗と文太にしてもそれは同じようで、気にする素振りは一切ない。
「あー、気持ちいい」
まるでオッサンのような台詞を吐いたのは勤労小学生、月斗。
十二歳という若い身空ではあるが、その苦労たるや半端ではない。
この年齢でありながら、退魔系のサイトを運営して弟達を養っているのである。
その隣では同じく極楽気分に浸る文太。目を閉じうっとりと温泉を味わっている。
沢山歩いた甲斐があったというものだ。
別に、この温泉を目的に歩いてきたわけではなく、言わば棚ボタであるが結果オーライだから良し。
つーか、そんな事すらもう本人覚えちゃいないので。
「俺さ、弟が二人いんだ」
ぽつりと口を開いた月斗にタオルを頭に乗せた文太が片目を開けて視線を向けた。
「俺はさ、あつらを守ってやんなくちゃって思ってんのに。なのにあつらときたらっ」
弟達の顔が頭を過ぎる。
「ぜんっぜん分かってなくてさ。危ない事にも首突っ込むし、いつまでも甘えてばっかで‥‥」
次第にふつふつと湧き上がる感情に声を荒げる。
頷いて文太は再び瞳を閉じた。
つまり、アレだ。これは、そう……一言で言うなら「心配でしょうがない」ってヤツだ。と思う。
文太に家族は居ない。大切な人と問われれば、恐らく忘れられない人や、共に過ごして楽しい仲間だろう。
心配してくれる人、心配する相手がいるというのは、恐らくそれだけでとても幸せな事なのだ。
「でさ、こないだだって寝る前に……って聞いてっか?」
走り出したら止まらないのは何も土曜の夜の天使だけじゃない。月斗も最早ノンストップ状態で捲し立てている。
こういうのは一旦スイッチが入ってしまえば気が済むまで止められないものだ。
暫く月斗に耳を傾け、頷いたり目を眇めたりしていた文太がふいに月斗の肩を叩いた。
「ん?」
手を天へと向ける。
「あ」
文太の手の先を見上げた月斗が声を上げる。
いつしか暮れた空に浮かぶのは満月だ。
一人の時はこんな時間まで温泉に浸かっていた事はない。この場所で初めて見る月だった。
文太の煙管から紫煙が立ち昇る。
「そろそろ帰るか。あいつら待ってるし」
頷いた文太がわしわしと月斗の髪をタオルで拭く。風邪を引くぞ、と言わんばかりの仕草だ。
「わっ。大丈夫だって。ちゃんと鍛えてんだからさ。っくしゅん」
そらみろ! と手(指は無かった、さすがに)を振り差す文太に、
「違うって。これはあいつらが噂してんだ。お前こそ風邪引くなよ。ペンギンなんだから」
タオルを突っ返して口を尖らせる。
ってか物の怪って風邪引くんだろうか。……腹は減るようだし、引くかもしれないな。
「ほら、帰ろうぜ。お前一人じゃまたどっか行っちゃうだろ?」
月斗は弟達の待つ叔父の家へ。文太も……とりあえず今日のところは無事に東京に帰れそうだ。
想いは駆け巡れど、戻る先はたった一つ。
自分が在るべき場所、在りたいと願う場所――。
=了=
■■□□
ライターより
御崎・月斗さま、ぺんぎん・文太さま、この度はご指名有難う御座いました。幸護です。
まずは、納品が遅くなってしまったことを深くお詫びさせて頂きます。
作成期間を長く頂戴しているにも関わらず本当に申し訳御座いませんでした。
月斗さんは初めましてですね。
設定を拝見させて頂いて、一人で心ときめかせておりました。
実は幸護、現在 空前の陰陽師ブームが到来しておりまして、発注を頂いて
「ィヤッホゥー!」と叫んだのは内緒です(笑)
陰陽師、少年、ぶっきらぼう、弟思い……幸護ノックダウンです。
幸護なりにではありますが、今回頑張って書かせていただきましたが
少しでもお気に召して頂けるでしょうか。
解釈が違う等、ありましたらお知らせ下さいませ。
また是非、機会がありましたら書かせて頂けると嬉しく思います。
文太さんは二度目になりますね。
そして幸護はやはり文太さんのファンです。
……しかし、幸護が書かせて頂くと、文太さんの記憶力が更に危険な事に
なっているような気がしないでもないですが(汗)
こんなでも宜しいのでしょうか。
「もうちったぁ、マシだ。コノヤロウ!」なんて事がありましたら
遠慮なくお申し付け下さいませ。善処します(笑)
今回は誠に有難う御座いました。
またいつかお二人にお逢い出来る事を願いまして、この辺で筆を置かせて頂きます。
幸護。
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