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紅夢の宴
カァテンを引いた薄暗い部屋に、マッチを擦る音が響く。僅かな間の後にひとすじの紫煙が立ち昇り、それはカァテンの隙間から洩れる明蘇芳の夕陽に照らされ、うつくしい色を以って部屋を彩った。
「さてと……もうそろそろ、良い時間かしらねぇ。」
紅蘇蘭は銀の煙管をくゆらせながら、静かな声で独り言ちる。彼女は華奢なつくりの電話の前でひとり、その時間が来るのを待っていたのであった。紅い瞳をつと動かして壁掛け時計を見ると、二本の針は丁度良い時を指しているようだ。蘇蘭は指先で耳にかかる髪の毛を払い、何桁かの番号を押して受話器を取る。すぐに呼び出し音が鳴り、きっかり3回分待ったところで相手が出た。そんな所だけは妙に人間染みているのだ、この男は。
「蘇蘭か、」
もしもしともはいとも言わず、開口一番に自分の名を呼ぶ彼に、蘇蘭は思わず口元を綻ばせる。
「……天禪、もう少し人間らしい応対が有ろうに? お前ほどになれば下々の事など解らなくなるのかも知れないけれど、世間では普通、電話を取ったらまずもしもしと言うものよ。」
揶揄うようにそう言ってやると、彼は低い声ですこし笑う。
「なに、俺たちに世間の常識も何も無いだろう。お前と喋るときにそんな常識を踏まえるほど、俺は世俗染みては居ないよ。」
「おや、しかし先刻の呼び出し音はどうしたことだい? 丁度3回待つなんて、それこそ世俗染みているじゃないか。」
「さあな。気紛れと言うことも有るだろう、」
道化たようにそう言って電話の向こうで笑うのは荒祇天禪、蘇蘭の古い友人であった。
「この電話が私だということ、如何して解ったのかしら。まさか電話相手を知るのにわざわざ能力を使う訳でもあるまいよ、」
「……こんな時間に掛けて来るのは、お前しか居ないだろう? 大天仙の紅瞳公主よ―――――」
「ふふ。そうね、」
言いながら蘇蘭は壁掛け時計を見る。針の指す時刻は、丁度逢魔ヶ時―――――人と妖の境界が薄れゆく、夕空の水紅色が心地良い時間。蘇蘭はカァテンを開けた。今日は空に雲が掛かっているが、ぼんやりと霞んだその色がまた何とも言えず雅やかで、薄っすらとたなびく雲も好ましく感ぜられた。
「今日はね―――――二人で酒でも呑まないかと思って電話をしたのよ、天禪。」
「お前のことだ、また今日これから来いなどと言うのだろう?……俺とて暇な身ではないのだがな、」
言葉面とは裏腹に、天禪はどこか愉快げに言う。
「天禪、東京でも指折りの美女の招待を蹴る程不粋でもあるまい?良い酒を良い友と嗜むのは我ら妖にも変わらぬ愉しみ。偶には人のふりの雑事をおいておいで、」
「そう言われては、断る言葉など俺には思い付かんな……。」
「おや心外ね、断る積もりだったのかい?」
天禪のひくい笑い声が、電話の向こうから聞えた。
「とんでもない、お前からの誘いだ。最初から断る積もりなどある訳が無かろうよ―――――幾ら忙しいと言っても所詮は『人のふりの雑事』、お前の誘いを断る理由にはならんよ。」
「ふふ、嬉しいこと。時間は……そうね、月が出たらにしましょうか。じゃあ、待ってるわ。」
あぁ、と頷く天禪の声を聞いてから、蘇蘭は電話を切った。窓の前に立ち煙管を咥え、ゆるやかな水流に似た紫煙をひといき吐くと、す、と眼を瞑る。長い睫毛が目許に影を落とした。眼を開いて空を眺めたが、天球には薄紅梅の曇り空が広がるばかりであった。まだ、月が出るには時間が早い。
「酒でも出して来ようかねぇ……。」
煙管から流れた紫煙がうねり、無言で並ぶ骨董たちに幽かな影を落としていった。
+ + + + +
天球を覆っていた雲は夕暮れと共に消え、藍錆色の夜に月が浮かんでいる。
蘇蘭は窓辺に座り、そのうつくしい夜闇を眺めていた。部屋には流線型のシェードを被った上品なランプが、ぽつりと明かりを灯している。情緒のある薄暗闇でひとり、蘇蘭がとりとめの無い思惟の海へ意識を沈めていたときだった。
こんこん、と控えめなノックの音がして、ツタの葉の飾りが付いている小さなドアが、きぃ、と僅かに軋む。次いでノブの下についた鍵穴から、すぅ、と煙のように使い魔が出てきた。
「荒祇さまが参られました、」
「そう。通して頂戴、」
蘇蘭がそう言うと、使い魔は鍵穴から消えていった。幾らもしないうちにドアが開かれ、待ち人が姿を現す。
「いらっしゃい、天禪。今日は月が綺麗ね―――――」
「あぁ、良い夜だ。さぞかし酒が旨いことだろうよ、」
蘇蘭は微笑んで、自分が座っている窓際のテーブル、もうひとつの椅子を手で示す。天禪が導かれるままに腰を下ろすと、蘇蘭がぱちんとひとつ、指を鳴らした。
―――――かちゃん、
幽かな音と共に、ふたつの杯と小さな徳利がテーブルの上に現れた。
「それじゃ、呑むことにしましょうかねぇ。」
蘇蘭はドレスの袖口を手で押さえ、天禪の酒杯へと酒を満たす。いつから焚いていたのか、数ある骨董品の中のひとつ、龍をかたどった青磁色の香炉からひとすじの煙が立ち昇っていた。すずやかな香の匂いは静かに空気を包み、部屋の中は清廉な雰囲気を醸し出しはじめる。
天禪は酒杯を口へ運ぶ前に青破璃の杯を顔の前まで持ち上げ、芳醇な香りをしばしの間楽しんだ。何年も熟成させた酒に特有の、透明で甘い香りがする。
「お前と酒を呑むのは久しぶりかもしれないねぇ、天禪。」
艶やかな笑みを浮かべながら言う蘇蘭を飾り立てるが如く、僅かに開いたカァテンから月光が射し込んだ。ひとを惹きつける紅瞳と同じ色をした髪の毛が、波立つように月光にひかる。
天禪は絵画を見ているようにうつくしいその景色に眼を細めながら、酒杯を傾けた。透き通った熱さが喉を通り、身体の中に染み渡っていく。
「……旨いな、」
「えぇ、でしょう?」
自分の酒杯を置き、天禪の酒盃へ酒を注ぎ足す蘇蘭の指先が、月光にしっとりと照らされる。彼女の瞳はその奥に幾許かの懐古のひかりを湛え、穏やかに燃える暖炉の火のように薄暗闇に煌めいた。
「良い酒じゃないか。何年寝かせて置いたんだ?」
「さあね、私も憶えて居ないよ。けれど随分前のものね…少なくとも、人の子の寿命よりはずっと長い間。」
徳利の表面を撫でるようにしてから、蘇蘭が懐かしそうに続ける。
「あぁ、しかし、ほんとうに随分と待たせてしまった。……天禪、お前を呼んだのも、実はそういうことからなのよ。」
「ふむ?俺は覚えなど無いがな……。」
桔梗に似たモチーフをあしらった上品な酒杯から一口呑むと、彼女はふと微笑する。
「大陸で娘が生まれると、酒を仕込んで婚礼の振舞酒に大事に育てる所があってねぇ―――――それは昔後宮に嫁いだ、田舎娘のものさ。」
闇の中でも解るうつくしい深紅の瞳が、伏し目がちに酒杯を見詰める。酒杯のなかを見詰めているのではなく、良い香りを漂わせる透明な酒を見詰めているのではなく、そこへ映る懐かしくも遠い昔を、彼女はじっと眺めているのであろう。
「皇帝に会わせてやると約束したんだが、帰った頃にゃ嫁いだ男を一目も見ずに娘は流行病で逝っていたよ。すっかり忘れていたが、何ぞ約束を果たせとせがまれた気がしてね。……ふふふ、人と妖に差はあれど王の中の王に変わるまいさ。まぁ、件の皇帝よりもお前の方が余程良い男だ、千年壷で微睡んでいた小娘の純情も満足だろうよ、」
「ほう、成程。ならばこれは祝い酒―――――か。」
武骨な指で酒杯を持ち、ランプの光にかざした。天禪の目の前で酒は静かにゆらめき、破璃を通してささやかなひかりがきらりと揺湯う。
「蘇蘭、」
「……何だい?」
雄々しく鋭い眼差しも今は穏やかに、天禪は酒杯をすこし掲げて笑みを浮かべた。
「鬼族は昔から祝い事が大の好物でね、少しでもそれと見られれば喜んで加わるのが俺達なのさ。上を下への大騒ぎも、こんな風に静かな宴も、な。……まして婚礼は目出度いことだ、祝わずにはいられんのだよ。」
「あぁ、………あぁそうだね、祝っておあげよ。喩え何年昔の事だったとしても、目出度さには変わりは無いだろうから。」
蘇蘭は嬉しそうに、笑った。
「遅かったかも知れないが、乾杯でもしよう。」
「うん、良いじゃないか。―――――ふふふ、乾杯の文句は、何にしようかね。」
細い指と武骨な指が、それぞれ酒杯を掲げる。
「儚い人の世に―――――」
「うつくしい、人の生に―――――」
「―――――乾杯、」
破璃の器を交わす音は、夜闇を越え、遥か極楽までもを透明な響きでつつみこむ。
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