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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


帳の中

 今年の夏は、記録的な猛暑だ。
「暑い……」
 ぽつりと呟き、守崎・啓斗(もりさき けいと)は昼間見たニュースを思い返した。洗濯物を畳みながらBGMのように耳に入ってきたキャスターの言葉は、今年が暑い夏だと強調するものであった。
『今日も本当に暑いですねぇ。ハンカチが一枚では足りないくらいです。皆さん、水分補給はしっかりとしてください……』
(そんな事、言われなくても実感している)
 啓斗は洗濯物を畳みながら、頬を流れる汗にそう思ったものだ。いっその事どこかクーラーのある場所に行って涼んでやろうかと、密やかに目論んでいたくらいなのだ。
 伝統的な日本家屋である守崎家は、全ての戸を開け放せば多少風が通るので、涼しいと言えなくも無い。だが、今年はそれをやったとしても暑いのだ。じっとしているだけで、じんわりと汗が滲んでくるほど。太陽の光と熱は、容赦なくふり注いでいる。
(いや、まだ昼はいい。だが……)
 啓斗はついに起き上がった。暑さの所為でかいた汗は、啓斗の茶色の髪をうっすらと湿らせている。着ている寝巻きの袖をまくってみるが、あまり効果は無いようだ。啓斗は緑の目をそっと開き、再び閉じてごしごしと擦った。眠気は有るのに、暑さがそれを阻む。
「暑い」
 再び啓斗が呟くと、隣で寝ていた守崎・北斗(もりさき ほくと)がそっと青の目を開く。こちらも汗の所為で、茶色の髪がうっすらと湿っている。北斗は首周りに滲んできていた汗を、手で拭う。
「……暑い」
 啓斗と同じように、北斗も呟いた。その声に、啓斗は北斗に目を向ける。北斗も寝転がったまま、じっと啓斗を見つめた。互いの目は互いに言い合っていた。
 暑くて眠れない、と。
 啓斗は小さく頷き、立ち上がった。押入れに向かい、大きな網の塊を取り出す。蚊帳だ。啓斗がそれを広げ始めたのを見て、北斗も「よっ」と小さく声を出して勢い良く起き上がる。そして、家中の襖、障子、雨戸等、遮るもの全てを解放した。すると、啓斗が無事蚊帳を設置し終わった頃には、守崎家に涼やかな風が通るようになった。
 啓斗と北斗は互いの仕事完了を確認すると、再び蚊帳の中の布団に寝転んだ。寝転ぶと、先程まであんなに暑くてたまらなかった布団の上が、少しだけ涼やかな感じがした。滲んで出てきそうな汗も、家を通る風に拭われるようであった。
「……涼しいな」
「……涼しい」
 ぽつりぽつりと二人は呟く。
 家を吹き抜ける涼しく柔らかな風の道。
 庭先のどこかで鳴く虫たちの囁き。
 風が吹く度にさわさわと揺れる草のさざめき。
 ちりんちりんと、風に体を揺らす風鈴の音。
「暑いけど、涼しい」
 ぽつりと啓斗が漏らした。北斗は小さく笑いながら「なんじゃそりゃ」と呟き、それから頷く。
「うん、でも分かる」
 家の中の匂いは変わらない。風が吹き抜けていったとしても。
 家の中の音は変わらない。どれだけ外から音が飛び込んできても。
「やっぱり、夏はこうして風を通さないと暑いよな」
 北斗が言うと、啓斗は「全くだ」と言って小さく溜息をつく。
「昼間、布団を涼しい所に置いていたんだが……」
「そっか。だから、布団の上に乗った時はちょっと気持ち良かったんだ」
「気持ち良かったか?」
「うん。気持ちよかった」
「そうか」
 白い布団の上に、二人でごろりと横になっている。ただ、それだけだ。時々風が吹き、上がっている室温を緩やかに下げる。熱を帯びた体を、柔らかく撫でていく。
「暑い時はさ、風呂をがーんと熱くしたら涼しく感じるんだよな」
「……だから、あんなに熱かったのか」
 ふと、寝る前に入った風呂の温度を思い出しながら啓斗は言った。北斗は誇らしそうに、にかっと笑う。
「おうよ。風呂を熱くしたら涼しく感じるんだから、なんかお徳じゃねぇ?」
「お前らしい」
 誇らしそうな北斗に向かって、啓斗は小さく笑った。少しだけ、呆れた笑みを含みながら。
「だろ?……って、兄貴あんまし俺のことを誉めてないよね?今」
「そうか?」
「うん。何となく馬鹿にしていた気がする」
「被害妄想は良くないな」
「兄貴……俺だって、傷つく時は傷つくんだぜ?」
「そうか」
「……兄貴……」
 大して気にもしてなさそうな啓斗の言葉に、北斗は小さく溜息をつく。そしてぐるりと目線を外に向ける。
「……兄貴。月、満月」
 北斗の言葉に、啓斗も目線を外に向ける。外の闇に浮かぶのは、辺りを照らす黄金の光、満月の光。周りの星達の光まで吸収したのではと思うほど、大きく輝かしい。
「新月とかの方が、蛍とか出てきそうなのにな」
 啓斗がぽつりと言うと、北斗は思わず小さく笑う。
「でもさ、満月も綺麗じゃん。昼間よりも、外のものがくっきり見える気がしねー?」
「くっきりと、か」
 二人とも、外の風景に目をやった。月の光に照らされる庭は、北斗の言う通り不思議な感覚を持ってくっきりとその輪郭を露にしていた。
 昼間の太陽の光よりも優しい月の光は、どこかしらものの本質をも照らし出すかのようだ。
「こうして、兄貴の顔もはっきり見えるしさ」
 北斗はそう言い、目線を外から啓斗に映した。月の光に照らされる啓斗の顔は、きょとんとしたまま北斗を見ていた。同じ顔の、だが違う存在。
「北斗の顔も、同じように見えるな」
「そりゃ、同じ場所にいるから見えるって」
「まあ、そうなんだよな……。同じ場所に、俺たちはいるから」
 黄色の光に照らされる、同じ顔の、同じ場所にいる、別の存在。
 北斗はそっと、啓斗の頭に手を伸ばす。くしゃりと、柔らかな髪を触る。自分と同じような髪の、だが違う髪。
「やっぱ、汗かいてる?」
「暑いからな」
「うん」
 啓斗の返答を得ても、北斗は髪を触りつづけた。
「お前だって、そうだろう?」
 啓斗は言うが、北斗の髪を触ろうとはしない。触らなくても、分かるというかのように。
「うん、俺もそう」
 北斗は、触りながら答えた。啓斗は触ってこないが、北斗は触りつづけた。何となく、安心感を覚えるから。
(あれは、いつのことだったっけ?)
 北斗はふと思い返す。桜が咲いていたから、薄紅色の花弁が舞っていたから、春の筈だ。墓参りに行った、その帰り道。
(風が……今吹いている風とはまた違った風が、ピンク色になっていて)
 風の中で、花弁の中で。下っていく坂道の中で。北斗が前を歩いていた。啓斗が後ろを歩いていた。
(洪水が起こったみたいだった。ぶわって、花弁が洪水のように押し寄せて)
 薄紅色の洪水は、啓斗を走り出させるのに充分であった。啓斗は北斗の袖を掴み、何も失いたくないと呟いたのだ。
(俺はさ、兄貴。あの時俺だって、本当は怖かったんだぜ?)
 髪を触り続ける北斗に、啓斗は何も言わない。何も言わず、北斗にされるがままだ。
(俺だってさ、怖いんだぜ?……時々、こうして兄貴は近くにいるのに、遠くにいる気がするからさ)
 手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、時々啓斗を遠く感じてしまう。それがどうしてなのかは北斗には分からない。漠然とした本能的な意識が、そうさせているのかもしれない。
(兄貴も、怖いのかもしんないけどさ。桜の中だからじゃなくて、怖いのかもしんないけど)
 あの時、不安に満ちた目をしていたのは啓斗。後ろから、何かから逃れようとしているかのように走ってきたのも啓斗。
 あの時、そんな啓斗を宥めたのは北斗。そうして少しだけ自らの胸の内を言ったのもまた、北斗であった。
(そうだ、俺も怖いんだ。俺も、一人になるのは……)
 北斗はふと気付く。いつもならば「暑苦しい」と言って触られるのを嫌がる啓斗が、未だに何も言ってこないのだ。
「兄貴」
「……ん?」
「兄貴は、暑苦しいのは嫌いんじゃねーの?」
 髪に触れたまま北斗が問い掛けると、啓斗は少しだけ間を置いてからそっと口を開く。
「何となく、だ」
「何となく?」
「うん、何となく」
「そか」
 何となく、北斗は笑みを浮かべた。何となく、笑いたくなってきていた。特に理由は無い。それこそ正に『何となく』だ。
「北斗は……」
「へ?」
「お前は、暑いのは平気だったな」
「平気と言うか……暑すぎたら寝れねーけどさ」
「そうか」
 今度は、啓斗が笑みを浮かべた。何となく、笑いたくなって。特に理由は無い、啓斗もまた『何となく』。
「便利な言葉だな」
 ぽつりと、啓斗は呟く。
「何が?」
 ぽつりと、北斗が尋ねる。
 互いに近しい距離にいる事が、妙に可笑しい。いつだってこうなのに、今までだってこうだった筈なのに、今更それに気付いて可笑しく思うことが、可笑しい。
「何となく、っていうのが」
「ああ、それはそうかもしんねー」
 顔を見合わせ、笑い合う。
 外から降り注ぐのは月の光。
 家の中を通り抜けるのは夏の涼やかな風。
 耳に聞こえてくるのは虫の囁きと風が撫でる草の葉の音。
 こうしている間も、時は流れている。止まる事なく、確実に。あの時感じた孤独感も、その後訪れた決意も、今は過去のものになってしまっていたけれど。
 しかし事実でもあった。ああいう事があったという出来事は、今もこうしてこの胸の中に存在しつづけているのだから。
 暑い夜に、薄く外と隔たれた蚊帳の中で、互いに同じ思いを抱きながら、同じ時を共有している、違う存在。
(暑いけど……涼しい……かな?)
 啓斗が呟いた一言を思い出しながら、北斗は小さく口元だけで笑った。だんだん重くなってくる瞼には逆らわずに。そうしていつしか、二人とも眠りに落ちていくのだった。
 互いの存在を確認するかのように、寄り添いながら。

<蚊帳の中がだんだん静かになってゆき・了>