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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


トロイの木馬

 時代は変わるのだ。それは分かっているつもりだが、それでもこの目でその変化を見届ける事だけはしたくなかった。それならいっそ、共に地の底へと這いずって消えてしまった方がどれだけ良かった事か。
 だがそれは、あくまでも己の自己満足に過ぎない。自己中心的な我侭なぞ、叶う訳がないのだ。…敵う訳がない。
 「…飲みにおいでって言ったのに、あの特攻隊長、来ないねぇ…あの男の帰る所なんぞ無かった筈だけどねぇ」
 窓の外から雨の降る街並みを眺めながら勾音が笑う。その笑みは、何かを知っているような、そしてそれを全て把握して、今はただの傍観者となっている事への優越感を現わしている、そんな余裕の笑みである。勾音は、街の何処かを当て所も無く彷徨っているだろう大きな背中を想像し、くすくすと忍び笑いで肩を揺らした。


 武臣・冨士雄がその組にいつまでも籍を置いていたのは、偏に先代組長の為である。侠気溢れる先代とこの組になら、この身を捧げても良いと真剣に思っていた。だから、先代が抗争の末に倒れ、二代目にとって変わった後でも、冨士雄は留まり続けて若頭として組を支え続けてきたのだ。経験も人望も知識も才覚も、何もかも全て足りない二代目の後始末も先手も全て賄ってきた。だが、そんな冨士雄にも対処し切れない事態が起こってしまったのだ。
 「何故、出来ない!おまえなら出来るだろ!」
 若い二代目の怒号が飛ぶ。先代の怒鳴り声は腹の底まで響いたが、それには到底及ばんな、と他事を考えつつ、冨士雄はしかし、と反論する。
 「お言葉ですが、二代目。俺らにも仁義と言うものがあります。そして、この世界には、決して触れてはならない領域と言うものが…」
 「御託はいい。結局はお前ら、昔っからのしきたりに従ってりゃ楽だからそう言ってるだけなんだろう?」
 そう言って子供のように、癇症に親指の爪を噛む二代目を見ながら、冨士雄は内心で苦笑いをした。二代目の言う事も尤もであり、新しい風を起こそうとするその心意気は立派だ。だが、今日を昨日に変える事が出来ぬよう、何をどう足掻いても抗えないものは確かに存在するのだ。そして、それを突付いてしまった事ももう取り返しはつかない。この組は、確実に破滅への道を、もう戻る事は決して叶わない坂道を辿り始めていた。
 そんなにお前らはあの女が恐いのか。そう息巻く二代目も、彼女の名前を口にしない所を見ると、それなりに恐怖は抱いているらしい。その名を口にする事さえ憚れる、朱束・勾音と言う、その女。その女の、興味を惹くだけでも充分に危険な行為なのに、二代目は勾音の怒りを買ってしまったのだ。それはもう、死刑の宣告と執行が同時に執り行われたのと同じぐらい、二代目とその周囲の運命は決まりきっていたのである。

 「私は別に、どっちだっていいんだけどねぇ。そんな雑魚なんざ、わざわざ私が手を下すまでも無く、いつかは自滅していくだろうからね。…ただ、よりにもよってこの私にちょっかい掛けて来たんだ。ようこそと私が直々に打って出てやらねば、失礼に値するだろう?」
 失礼だなんて事は露とも思っていない表情で、勾音が口端を持ち上げて笑った。

 有言実行。勾音が動き始めた。何故それが分かったかと言うと、瞬く間の間に、半数以上の組員達が姿を消していったからである。残りの組員の間にも不穏な空気は蔓延し、じきに潰される、全員皆殺しだ、との噂が蔓延り始めた。それでも組員達が、沈み掛けの船を見捨てて先に陸へと逃げなかったその訳は、冨士雄と言う優秀な航海士が、最後の最後までそこに居たからである。
 だがこれ以上は、如何な冨士雄でも保ちようが無かった。二代目は、組員達を捨て駒にするのみで、自らは一向に動こうとしない。常に冨士雄を傍らに置き、そんな若頭に背後から睨みを効かさせ、それを後光にしているだけだった。その大柄な体躯と醸し出す雰囲気、何よりもその身体能力、人望などから、冨士雄は、楯には丁度いい人材なのだ。…いや、楯と言うよりは鎧か、それとも動く要塞、敵陣に潜り込む為の箱。それを分かっていて尚、見限る事が出来なかった己自身を悔やみつつ、冨士雄は拳銃に弾を込めた。

 「万が一にも片付けられれば安泰、死んで本望。あの時は真剣にそう思っていた。勝算など元より皆無。だが、あれ以上、組をぼろぼろにされる訳にはいかんのだ。いずれかは誰も居なくなる。その前に、俺が出る。理由はともかく、頼りにされている事は分かっていた。引き止められもしたが、それでも俺が出る。自己満足とでも何とでも言うがいい。相手は朱束・勾音だ。その名が何を意味するのか、今更説明を聞かずとも、よく分かっていたさ」
 「分かっていて、それでも尚私に突っ掛かってきたのかい。剛毅と言うか、簡単に言うと馬鹿だね、お前」
 馬鹿だと言われても、退けないものは退けないのだ。

 勾音の行動を調べ、万が一、億が一の可能性に賭け、彼女の土地勘の無い場所で奇襲をかけた。周りに人は居ない。お付きの者の姿も無い。それでもチャンスだとは思えなかったが、せめて自分が敗北するみっともない所を他人に見られなくても済む、そう思って冨士雄は愛用の拳銃を構えた。
 「朱束・勾音ぇ!」
 呼んではならない名を、思いっ切り叫ぶ。まるで、冥土の土産だと言わんばかりに。その声に、勾音はゆっくりと首を捻って冨士雄の方を見た。その顔は、何か喜びに満ち満ちて輝き、総毛立つほどに美しかった。
 冨士雄は引き金を引く。込めた弾が切れるまで、息継ぐ間もなく撃ち続けた。冷静な冨士雄の射撃は、確実に勾音の顔面を貫いていた。が、それも一瞬の歓喜である事を冨士雄はすぐに知る事となる。拳銃の弾は、勾音の目前でぴたりとその動きを止め、目に見えない高熱の壁に触れてしまったかのよう、あっと言う間に融けて無くなってしまった。
 「本気で私を撃てるとでも思ったのかい」
 勾音が笑う。おいで、と挑発的に片手で冨士雄を招いた。それに乗る程、冨士雄は血気盛んではない。血の気は多いかもしれないが、それだけで突っ走れるほどの若気の至りは最早遠い昔の話だ。冨士雄は、勾音から視線を外さず、横方向に移動する。その体躯からは想像がつかないほどに軽やかで静かな動きだ。一方、勾音は、首を捻ってその動きにあわせるだけで、それ以上には何も自分からは動こうとしない。冨士雄は、鋭角に移動経路の角度を変え、勾音に向けてダッシュをする。勾音の目の前でもう一度急激な方向転換をし、背後から彼女を羽交い絞めにする事に成功した。
 勾音の身体は、冨士雄の半分も無いようなほっそりとしたものだ。力でなら何とかなる。そう思っての行動だったのだが、次の瞬間、冨士雄はその光景にまさに目を疑った。何故なら、肘で力任せに首を締め付けているのに、勾音の顔は楽しげな笑みを浮かべていたからだ。
 「イヤだねぇ、これだから無粋な男は。女を抱く時は、もっと優しくするもんさね」
 そう言うと勾音は笑い、自分の首を締め付けている冨士雄の腕を片手で掴む。そのまま、何気ない様子でそれをあっさりと引き剥がした。勿論、冨士雄の力が緩んだ訳ではない。寧ろ、勾音の長い爪の感触を感じた瞬間、冨士雄はその腕に更に強い力を籠めた。それでも、勾音はその腕を、まるで袖に付いた木の葉を取るぐらいの感覚で剥がしたのだ。その圧倒的な筋力の差に、冨士雄はいっそ感心して小さく口笛を吹いた。
 勾音は、引き剥がした冨士雄の腕を握ったまま、それを自分の前に投げ捨てるようにする。冨士雄の腕は、まだ冨士雄の肩に付いたままだから、当然、それは、冨士雄の身体を一本背負いのように投げ飛ばした事になった。自分の身体が宙を舞うのはいつ以来の事だろう、と冨士雄は、回転する視界の中で他人事のように思った。
 どぉん、と地響きを上げて冨士雄の大きな身体が地面に背中から叩き付けられる。咄嗟に受身を取ったので、衝撃に息を詰まらせるようなみっともない事はなかったが、その代わりに喉元に食い込む、勾音の爪に奥歯を噛み締める羽目になった。勾音は、冨士雄の喉元を片手で掴み、軽々とその巨躯を持ち上げる。喉にめり込む細い指、長い爪が皮膚に食い込んで破れ、血が滲み始めた。だがその痛みさえ、喉元を強烈な力で締め上げられる苦しみの前では、ささやかな刺激に過ぎない。呼吸が絶たれると目の前が真っ赤になると言うが、冨士雄の場合は、目の前の勾音そのものだけが、毒々しい深紅に染まって見えた。
 ぎり、とまた一回り、勾音の指が作る輪の幅が狭くなる。それに連れて冨士雄の首筋を滴り落ちる血の量も増えたようだ。砕けんばかりに奥歯を噛み締める。意地になって冨士雄は声を殺し、震えて強張る己が手を叱咤し、渾身の力でそれを動かし持ち上げる。そんな冨士雄の必死の努力を、勾音はただ笑って観察していた。この行為が効くかどうか、そんな事を考えて起こした行動ではなく、ある意味本能的な何かに突き動かされ、冨士雄の手は勾音の胸襟を掴んでいた。衣服の下で、豊かな乳房が撓むのを感じる。苦し紛れに力を籠めると、空いた襟元の隙間から、中が少しだけ覗けて見えた。
 「百年早いよ、お前」
 そう言うと勾音は、掴んでいた冨士雄の首を離し、足元の地面へと投げ捨てる。さっきよりは多少控え目な音を立てて倒れ込んだ冨士雄は、急に吸い込んだ呼気のせいで、激しく咳き込み、その大きな背中を丸めて悶絶した。

 「面白い男だね、訳有り特攻隊長。殺すのが惜しいぐらいだ」
 「…命乞いなぞせん。好きにしろ」
 「勿論、そうさせてもらうさ。元より、お前達に選択の余地など無かったのだしね」
 「………」
 「……お前。今度、うちの店に飲みにおいで」
 「…何を言っているのか、俺にはさっぱり分からんな」
 「そのうち分かるさ。お前にはもう帰る場所など無い事だし。一杯やってく時間ぐらいあるだろう?」

 「あの言葉の意味を、俺は後になって知った。帰る場所は無いだろう、ではなく、帰る場所はもう無くした、だったのだ。最初から分かっていた事だがな。あの女(ひと)を相手にして無事で済む訳がないのだ。二代目と組の者達全員は、あの女の伝説を、ひとつ増やしたに過ぎなかった。俺達は、あの人を彩るちっぽけな木目に過ぎなかったのだ」
 散らかり生きた人の気配のしない組事務所の真ん中で、冨士雄は来客用の大理石のテーブルに左手を置く。右手には、どこからか見つけてきた、出刃包丁。舌を噛まぬようにと口に布か何かを噛んだりもするが、この程度の事で歯が鳴る訳などない、と冨士雄は不敵な笑みで片頬を歪ませる。出刃包丁の刃先をテーブルに付け、そこを支点に梃子の原理で包丁の握り手に近い方を叩き降ろした。生きた肉と生きた骨を断つ、鈍くぬるい音。

 俺は生きているのかそうでないのか。全てを失うと、ヒトの真ん中はこんなにもぽっかりと大きな穴が空いてしまうものなのか。
 冨士雄は薄汚れた黒スーツの埃を払い、立ち上がる。適当な布を適当に巻きつけた左手を懐に隠し、身を守るものも装うものもなく、街へと彷徨い出た。


おわり。