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夜より尚暗い水辺で
風が、熱帯夜特有のとろりとした熱を帯びていた。星の瞬きと波の音だけが聞こえるその場所に、女が一人現れる。
ふらり、と。
危なげな足取り。
月明かりだけが、彼女を見ていた。女は―――少女とも呼べる年頃だ―――青い髪をしている。同色の瞳は、暗い海を反射して神秘的に輝いた。
「どうか―――………」
少女の乾いた唇から、声が漏れた。掠れた声は、それでも波に飲まれずに夜空へと溶けてゆく。
「どうか、お願いです………あたしの願いを………」
呟くと、倒れこむように砂浜に跪いた。祈るように、胸元で両手を組み合わせる。哀れなその少女は、他に方法を知らない。ただ、祈り、願い、請う。
けれど、決然と前を向く瞳は、強い意志を宿して。自分は間違っていないと、信じている。
暫く、月が傾くだけだった。それ以外、何も変わらなかった。
不意に。
それはまったく気配も見せず、本当に不意に、彼女の前に立っていた。
「どうか、なさいましたの?」
穏やかな声が、少女の上へそっと降り注いだ。少女は驚いたように顔を上げる。
海のような青い瞳と、切れ長な真の闇のような瞳が、一瞬だけ交わった。
しかしそれも刹那の事。少女は気がつく。目の前に立つ闇色の瞳は、自分を『見て』は居ないのだと。
漆黒の髪と黒衣が、潮の匂いの染み付いた風に広がった。まるでそこに闇が降りたのだと、彼女は錯覚する。
艶やかな体躯の、女性が立っていた。
「どうかなさいました?」
その女性の体の脇から、ちょこん、と銀色が現れた。漆黒と対照的な白銀は、肩辺りで揺れて、そして、真正面から彼女を見た。はっきりと彼女に視線を合わせたその銀色は、無邪気な双眸。
まるで対照的な二人だ、と彼女は思った。光と闇。静と動。けれど、その言葉では言い表せないような、不思議な二人だった。
「あたし、お願いが………」
頭が彼女たちを認識する前に、少女は咳き込んで声を紡ごうとした。その唇に、そっと、女性が人差し指を添える。
「解っていますわ………私の愛しいみなも」
闇の双眸がそっと和んで、薄い色の唇が弧を描いた。妖艶な、微笑み。
「お姉様……」
安心したように少女―――みなもは笑みを浮かべた。
「でも駄目なの。まだ、返してあげられない」
みなもの笑みが凍る。反対に、少女はくすくすと無邪気に笑った。
「ごめんね? みあお、意地悪したくないんだけどね? しょうがないの」
絶望的な宣言に、みなもの青い瞳が大きく見開かれる。
「みあお、それってどういう―――……」
「だって、みなもお姉さまがが悪いんだよ?」
無邪気な笑みは、必ずとも正しいわけではなくて。彼女の絶望を理解できないみあおは、また、笑った。
「あたし、何かお姉様の気の触る事をしましたか?」
ゆるゆると首を振って、みなもは呟いた。
「いいえ?」
艶やかな笑みを浮かべたまま、みそのはいとおしげにみなもの青い頭を見下ろしている。
「じゃぁ、どうして?」
「どうして、貴女をいじめるのかって仰りたいの?」
「はい」
「だって貴女が、あんまりにも可愛いんですもの」
うっとりと、夢見るように囁いたみその。その表情はまさしく『俺がルールブックだ』と豪語する審判員の如く。自分が間違っているなど、たとえ天変地異が起きても認めないと書いてある。
「だからって……」
みなもはがっくりと脱力した。この姉に、自分の間違いを認めさせる事はできない。彼女が正しいといえば、それが正しいのだ。
それがどんなに常識を逸したものであっても―――そして、みなもが苦悩する事であっても。
「夏休みの宿題を隠さなくても……」
青い瞳に、涙が浮かんだ。
事の始まりは、一体何であったかとみなもは振り返る。
夏休み最後の一日、八月三十一日の朝。みなもは翌日の始業式に向けて、通学鞄に持ち物をチェックしながら入れていっていた。今ならもしやり忘れていた宿題があったとしても間に合うし、今朝は早起きして気分が良かったというのもある。
この時期に宿題に追われる者。この時期から宿題をはじめる者。この二者に当然みなもは当てはまらない。真面目な彼女は夏休みが始まってから、毎日こつこつと宿題を仕上げている。計画表まで作るまじめっぷりだ。
その彼女はふと、ある事に気がついた。それは本当に偶然で、朝陽が眩しいこの時間帯に夏休みの宿題をチェックするプリントを見たから解ったとも言える。
「あれ? 修正テープで消してある……?」
小声で呟いたみなもは、首を傾げてそのテープを爪でかりかりと擦ってみた。別段消した覚えはないし、学校側がミスプリントをしたのかもしれない。それでも一応確認を、と。
全貌が現れた瞬間、みなもの全身に嫌な汗がどっさり流れた。
そこには、夏休み前からしつこく先生が言っていた、読書感想文が。
みなもの学校は夏休みの宿題から読書感想文がなくなって久しい。無理矢理本を読ませ、あらすじだけの感想文は意味がない、と国語の教師が満場一致で可決したとか。
が、今年は校長先生が本を出版したとかで、それが課題図書として生徒全員に読書感想文を強制した。別に課題図書を読まなくともいいのだが、出切れば読んで見てほしい、と授業の合間合間に国語の教師が言っていたのを、今になってみなもは鮮明に思い出す。
「忘れてましたっ」
衝撃を受け、みなもは机に備え付けの本棚から課題図書を探した。確かに、そこに入れたはずの本は見当たらない。
良く考えれば、この読書感想文のところに修正テープが貼ってあったのがそもそもの元凶である。
まさか、とみなもは夏休みの宿題が記されている全てのものをチェックしなおした。
そしてまた、愕然となる。
なんと、チェック用のプリント以外二枚のプリントと、自分で作った計画表までも読書感想文のところに修正テープが張ってあった。
明らかに意図的に、しかも彼女を貶める為の行為である。
こんな事をするのは二人しかいない。只今その内の一人はいないので、犯人はおのずと一人に絞られる。
そして、今この瞬間から課題図書を読み、感想文を書かなければ間に合わないという事に思い至る。
別に課題図書を読まなくていい、と先生は言ったが、できれば読んで欲しいといわれれば、みなもは当然課題図書を読む。
しかしその本は見当たらない。
宿題を隠された怒りより、焦りが逸って、みなもは犯人と思しき人物の寝室へと向かった。
礼儀正しくノックして、みなもは部屋へと踏み込む。
「お姉様、本を返してください!」
「ようやく気がつきましたわね、みなも」
犯人は隠す気もないらしく、あっさりと犯行を認めた。妖艶な笑みは、どこか愉しそうでもある。窓に腰掛けているその姿は朝陽を浴びて美しい。
「でも駄目ですわ。返してあげられませんのよ」
ふふふ、と殆んど視力を失った双眸を眇め、みそのは言う。
「追っていらっしゃい。案内はみあおに任せてありますの」
御機嫌よう。
自分で奈落まで突き落としておいて、彼女は笑った。
「あ、お姉様っ!」
みなもは反射的に姉に駆け寄る。が、時既に遅し。みそのは軽やかに窓から飛び降りた。 ―――バラバラバラバラ・・・・・
何事、と思う暇さえなかった。荒れ狂う風の本流に飲まれながら、みなもは青い髪を押さえて窓から空を見上げる。
全てが理解できたのは、その物体の影が雲に紛れてしまってからだった。
「お姉さまが、宿題をもって、ヘリで逃亡……?」
呆然と呟くみなもの手を、そっと握る小さな手。
「みなもお姉さま、みあおね、案内するよ!」
元気な笑みを浮かべる妹。その銀色を優しく撫でながら、みなもはなんとなく泣けてきた。
読書感想文の提出日は明日。そして、今からすればぎりぎり間に合うかどうか、という微妙なライン。その宿題を、ひたすら隠蔽しみなもから遠ざけていた姉。
それらが全て確信の上に成されていた、巧妙な計画犯であったと気がついた頃には、宿題はもう手の届かない所へと。
あぁ。
理不尽に涙が出る。
「どうしたの? どこか痛いの?」
よしよし、と慰めてくれるその手が、とても愛しく感じて。
みなもはみあおをひっしと抱きしめた。
この子だけは、あたしの見方ですよね。
心の中だけで呟いて。みなもは自身を慰めた。
「大丈夫だよ? みあお、迷ったりしないよ? ちゃんと案内できるからね? 心配しなくてもいいよ?」
「はい」
みなもは顔を上げて柔らかに微笑んだ。
にっこりと笑い返す無邪気な銀の双眸。
「夏休みになってから、何度もみそのみそのお姉さまと相談したから、間違えないよ!」
笑顔が、凍った。
あえてどちらの、とは書くまい。
場所は変わってスリランカ。
みあおは既にチャーターされていたジェット機に乗り込み、みなもをつれてスリランカの地へ降り立った。当然夏真っ盛りのその土地で、奇妙なほど歓迎されたがそれは忘れておくとして。
スリランカ首都、スリジャヤワルダナプラコッテは夜だった。深夜である。月光は神秘的なまでに美しく、みあおはふと、この夜空を飛んでみたいと思った。
今はみなもの案内があるためできないが。
「みあお? ここは?」
不安そうにみあおについてくるみなもの質問に、「スリランカだよ」と元気に答えて、空港から迎えの車に乗り、二人が向かった先は海岸だった。
「みなもお姉さま、この先に海岸があるの。そこの海岸では、人が真剣に祈ると、お願い事を叶えてくれる女神さまが現れるんだって」
「そうなんですか」
それがどうしたんだろう、と思っているだろうに真剣に頷いてくれるみなも。みあおはこの姉が大好きだった。
「だから、そこでお祈りしてね」
信号で止まった車からぴょん、と飛び降りたみあお。この直ぐ先の交差点で別の車が控えている手はずになっている。そこでみそのと合流して海岸でみなもを待つ、というのが現状の計画段階だ。
「みあおっ!?」
「大丈夫だよ! お姉さまも頑張ってお祈りしてねっ!」
心配そうな表情のみなもに大きく手を振ったみあおは、角を曲がって計画通り車に乗り込んだ。
既にそこにはみそのが控えている。
「みなもはどんな様子でした?」
「んっとね、何だかちょっと不安そうだったよ。泣いちゃったし。でも、うん。元気になったみたい。きっとお祈りに来てくれるよ」
いきなりスリランカに連れてこられれば誰でも不安になるだろうし、終ったと思っていた宿題が残っていて、それが罠なら泣きたくもなる。元気になったのは、多分、開き直りとみなも特有の現実主義が働いたものだろう。
しかし、みあおにその難しい感情はまだ読みきれなかった。
「みそのお姉さまの計画通りだね」
「ええ。でもそれだけではなくてよ。みあおが協力してくれたからですわ」
みそのの華奢な手が、みあおの銀の髪をやさしく梳いた。
計画は夏休み前から成されていた。きっちりと、網目を詰めるように一つずつ計画は進んでいて、そして遂に今日、成就するのだ。
楽しみではないわけはなかった。
「みなもお姉さま、喜ぶといいね」
「えぇ。本当に」
ふふ、と二人は笑みを交わして。
今頃車の中で不安に胸を押しつぶされそうになりながら、それでも妹の身を案じている、不憫な少女の未来をこの二人が握っていた。
そして、話は冒頭へと戻る。
「本当に、みなもは可愛らしくて……わたくし、時々困ってしまいますの」
頬に手を添えて憂い顔で、みそのは溜息を一つ。
「困る?」
きょとん、とみなもはみそのを見上げた。その青の瞳に自分の姿を映している事を気配で感じ、みそのは自身も膝をつく。
手を伸ばせば、愛しい妹の柔らかな肌。
頬に指を滑らせ、そのまま首を伝い鎖骨に触れた。びく、とみなもの過剰な反応を愉しみながら、みそのは微笑む。
その笑みが、みなもの心理にどういった影響を与えるのか、知り尽くして。
飛び切りの甘い笑み。
「超えてはならない一線を、越えてしまいそうで」
姉妹としての、大切な線を守れなくなりそうで。
とろける様な声で、囁く。
触れていた彼女の体温が上ったのが解った。けれどまだ、逃がさない。
「駄目ですわ。みなも………どうして、お逃げになるの?」
「だ……って、お姉様、少し変です」
「あら? そうかしら? わたくしはいつも、こんな感じではなくて?」
指をつ、と肌に伝わせ、すべらかな感触を味わえば、みなもがその手を取って必死で抵抗する。
「お、お姉さま………っ!」
みなもの真っ赤な顔が見えるようで、みそのは愉悦に浸った。そこへ、みあおがそっと割り込む。
「準備ができたよ、お姉さまたち」
「ありがとうございます、みあお。お願いしますね」
「うん」
答えたみあおの声が、艶っぽかったのは気のせいだろうか。
「な、何ですかっ!?」
「大人しくしててね、お姉さま」
「みあお? 何をっ!? ―――んっ」
みなもの声が途切れて、何かを流す音と、それを飲み下す音が聞こえる。酷く官能的に聞こえた。
「あ、あぁ………」
掠れた声。愛しの妹。ぐったりと力の抜けた体を抱き寄せ、みそのは微笑んだ。
「上手く行きそうだね、お姉さま」
みあおの気配に視線をむけ、みそのは尋ねる。
「みあお、わたくし、変かしら?」
少しだけ逡巡の間があり、やがて彼女の末の妹は首を振る。
「ううん。みあおも、時々そう思うもん」
「どう?」
隣にしゃがみこんだみあおが、優しい手つきでみなもの青い髪を梳いた。暫くそうしていて、ふと、思いついたようにみそのの黒髪を手にとって、青と黒を混ぜ合わせる。
「みあおも、みなもお姉さまが泣いてたり困ってたりすると、すっごく可愛い、って思うもん」
その幼い声に、みそのはふふ、と笑った。
「そうですわね。みなもは、本当に可愛くて困ってしまいますわね」
「うん」
二人の何か秘密を共有したような、密やかな笑い声が波の音に紛れて消えてゆく。
どくん―――と、いきなり体中が脈打った。
一体何が起こったか理解できずに、みなもは体をのけぞらせた。
熱かった。体が。
「な、何っ!?」
自分を支えていた手を振り解き、彼女は砂浜に身を投げ出した。
「始まりましたわね」
柔らかな姉の声が聞こえる。
「大丈夫。怖くないよ」
元気で無垢な妹の声。
それらが逆に不安を仰ぎ立て、みなもは軋む全身を酷使して顔を上げた。綺麗な銀色の目が、彼女を見ていた。
その瞳に移る、何かベツノイキモノを。
「え?」
慌ててみなもは自分の手を見る。
何の意識もしていないのに、その手はやがてゆっくりと拳になり、そして指と指の裂け目が毛に覆われだした。
「え?」
もう一度、声が漏れる。まさか、とみなもは息を呑んだ。
足元に目を落とすと、そこには予想を反して人魚の体があった。彼女自身は何も意識していないというのに、下半身は魚へと姿を変えている。
「やだ、何ですかっ!? どうなってるんですかっ!?」
次に視界に映ったのは、完全なひずめ備えた、何か動物の前足で。白い毛が両腕を覆っていた。
体毛の一本一本が伸びる感触。全身を走る悪寒。
「い、嫌、嫌ですっ! お姉様、助けて下さいっ!」
みなもは我知らずみそのに縋った、その真の闇の眼差しが写したのは、どう見ても自分とは―――人間とは反するもの。
細長い体毛に覆われた輪郭。青い瞳は草食動物特有の顔の横について。頭の上のほうに移動した垂れた耳の近くから、くるりと巻いた立派な角。
「ヤギ………?」
奇妙な感想だった。自分を見て、その姿に疑問を覚えなければならないのだから。
「や……た、助けて下さい……お姉様」
「大丈夫、貴女は可愛い私のみなもよ」
甘く微笑んだその笑みから目を離し、みなもは救いを求めて妹を探した。
「みあお、お願い、戻して……ください……」
そして、大きく開かれた銀の眼差しに、自身の全てを写してしまった。
見なければ良かった。そんな後悔は遅い。
「何ですか、これ……ぇ」
ヤギの口が、人の声を発している。銀の瞳の中には、ヤギとも魚ともつかぬ、不思議な生き物が居るだけだった。
ヤギの上半身に、魚の下肢。後頭部には、青い髪が流れてそのまま青いたてがみへと姿を変えていた。
みなもはその姿を隠そうと身じろいだが、純で無垢な銀の瞳はそれを許さない。
「羊飼いの守り神、パン。彼は怪物から逃れる為に河へと身を投げ込みました。そして彼が水面から姿を現すと、あんまりにも慌てていた為、上半身はヤギ、水につかっていた下半身は魚に姿を変えてしまったそうですわ」
ころころと、みそのが笑う。
「それを面白いって思ったゼウス様が、星座にしちゃったんだよね。みあお、知ってる。それが山羊座でしょ?」
「そう。みあおは物知りですわね」
陸にも水底にも住処のないその生き物は、夜空に追放されたのかもしれない。何故だか突然そんな事を思って、みなもは空を仰いだ。
全面に瞬く星。その内のどれが山羊座なのか、東京の汚い空になれた彼女の目には想像もつかない数の光。
「どうして……」
もう一度、みなもは尋ねた。もう、恐怖はなかった。姿を変えられた怒りも悲しみもない。宿題を、と思っていた焦りも何故だか綺麗に融解していた。
ただ、不思議だった。何故、ここまでしたのか。
「ふと、疑問に思う事がありましたの」
みそのの言葉にみあおが頷く。
「一緒に図鑑を見てて、ホントに不思議だったの」
何が、とみなもは首を傾げる。
みそのはにっこり笑って。
「山羊座のその恰好は、泳ぎにくいんじゃないかしら、って」
言ってのけた。
「そ、それだけですか?」
みなもが恐る恐る尋ねるにも。
「えぇ」
いっそ神々しいまでに微笑んで見せたものだ。
みあおが「みそのお姉様カッコいい!」と拍手しているのを見ない振りをして、みなもは全身から力が抜けていくのを感じる。
もしかしたらみそのは、自身が泳げないのでその恰好なら泳げるかもしれない、などという突発的な事を考えた挙句、みあおを巻き込んでみなもに実験台をさせようとしたのではないだろうか。
そのためだけに、夏休み前から計画を練り、虎視眈々とこのチャンスを狙っていた、と。
これで脱力するなというのが無理な話だ。
「それではみなも、わたくしに、泳いで見せてくださらないかしら?」
うっとりと、夢見るように言ったみその。その表情はまさしく『俺がルールブックだ』と豪語する審判員の如く。自分が間違っているなど、たとえ天変地異が起きても認めないと書いてある。
逆らう術が、この世界中のどこにあろう。
「はい、お姉様」
がっくりと項垂れたみなもは、肩を落として海に向かったのだった。
「みなもお姉様、寝ちゃった?」
みあおは自身も微かに揺れながら、みなもの部屋を覗き込んでみそのに尋ねた。
みそのはみなものベッドの傍に佇み、うっとりと彼女を見つめている。
「えぇ。やっぱり少し疲れてしまったみたいですわね」
宿題を拉致られ、スリランカまで入り組んだ挙句、別の動物に姿を変えさせられ、彼女たちの気の済むまで泳がされ、ようやくジェットに乗って帰ってきたのだ。
そりゃ疲れるだろ、という常識を言う人間はここには居ない。
「そっか。でも、すっごく楽しかったね」
にっこり、みあおは笑って。
「えぇ。またやりましょうね」
「うん。みなもお姉さまには内緒でね」
これも内緒ですわよ? 言いながら、みそのはそっと課題図書と原稿用紙を机のうえに置いた。
「書いてあげたの?」
「流石にこのままでは、可哀想でしょう?」
みそのお姉さまはやさしいなぁ、とみあおはちょっと感激し、それを見せてくれるように頼む。みそのはふんわりと頷いてそれを見せてくれた。
「題、くだらない本を読まされて。名前、海原みなも。えっと、まずこの本は表紙があまりにも見苦しいと思います。黄色に蛍光の青は頭が悪そうに見えますし、題字は派手すぎます。内容は当たり前の事でごくくだらなく、模範的な生徒であるあたしには必要ないと判断しました……………難しい漢字が多くて読めないよ」
「良いのですよ、高校生の宿題だから、そのくらいのレベルで」
「そっか。そうだよね」
笑い出した二人は、同時に口をつぐんでみなもを見やった。彼女は、今日の喜劇も―――明日の悲劇も知らずに眠っている。
小さく開いた唇が、深い寝息を漏らしていた。
「でましょうか」
「うん、起こしちゃったら可哀想だしね」
部屋のドアまで歩いて、不意にみあおは踵を返した。
「みあお?」
「ちょっと待ってね」
ととと、と子供らしい小走りで、みあおはみなものベッドの脇まで行く。そっとあどけない寝顔のみなもを覗き込んで。
「おやすみなさい」
唇の、一番近い頬にキスを落とした。
「おやすみなさいの挨拶、言えなかったから」
「ふふふ、わたくしも、同じところに口付けましたのよ」
ドアを閉めながら、秘密を打ち明けるようにみそのはみあおにいった。
「あ、じゃぁ、間接キスだね」
二人は忍び笑いを漏らして。
やがてそれぞれの寝室へと帰って行く。
夏休み最後の一日。
三姉妹の休日。
END
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