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草間くん、ハイ!
気弱な教師なら注意するのに声も出せない札付きの悪、ちょっとやんちゃでとっても活発な生徒たちから文句しか言われない伝説の男。その名は草間 武彦。彼の名前を知らない者はまぁいない。そういう意味ではものすごく有名で、面識のない生徒でさえ自分の妄想でどんどん凶悪なイメージを膨らませていく。そう、みんな正しい草間の姿を知っているわけではない。まぁ、学園の伝説なんてものはこうやって生まれていくものだ。
そんな伝説の男として学園生活を送らされる草間本人はたまったものではない。実際の草間はケンカの強さは並だし、確かに不良ではあるがそこまで悪いことはしていない。彼は噂が一人歩きしている状況に日々苦しんでいた。群れて行動する生徒たちにメンチ切られるのもそろそろ飽きてきた。これはある種の反抗期と言えるのかもしれない。
「俺、なんか違うキャラになりたいかもな。」
ふとそう考えた時だ。いきなり左手からぬっと女の子が現れる。彼女は自分のことを月神 詠子と名乗り、その一言を勝手に広げ始めた。そう、学園の生徒たちと同じように。
「キミ、もしかしたら変わりたいのかな?」
「一番いいのは俺が変わるんじゃなくて、周囲が変わることだけどな。だがその手間を考えると、俺が変わる方が早いっていうだけで。」
「ボク、キミのお手伝いをしてあげてもいいよ。」
月神の急な申し出に草間は驚いた表情を見せる。そしてすぐに心配そうな声で話した。
「そう言われて、いきなり屋上に呼び出されてケンカの相手をさせられたこととかあるからな……お前、そんなこと考えてるわけじゃないよな?」
「ケンカ? なんで? キミが変わるのに必要なら用意するけど。」
「いや、いらん。ケンカはもういい。なんか気晴らしになるようなことがやりたいというのが本音かな。」
「任せといてよ。ボクならキミを満足させられるようなことが用意できるんだから。さ、今からみんなと一緒に相談だね。」
「おいおい、まさかお前……他に人を呼ぼうってのか?」
「だってここはガッコウだよ? 友達になんとかしてもらうのは当たり前じゃない? ボク、間違ってないよね。」
どうやらとんでもない人物にお願いをしてしまったようだ。草間は額に手を当てて悩みだす。だがここで無下にするわけにもいかない。こういうタイプの女の子はいい加減なところで約束などを断ると手がつけられないくらいまでヘコむからだ。喧嘩上等に女殺しが入ったのでは、明日から学園を歩けない。とりあえずそこは月神に任せ、いい気晴らしの時間を提供してくれるようにお願いした。
「へへ、心配することなんてないから。じゃ、明日みんなと一緒にね。」
「しょうがないな。お前に任せるよ。」
「わかった。じゃあ、明日は早めにガッコウに来てね。準備が必要かもしれないし。」
「まったく何の準備だか……」
草間は呆れ顔で月神と別れた。彼女はあまり期待されていない顔をした草間を見返そうと躍起になって、手当たり次第生徒が残っている教室を回った。
「それでボク、草間クンのお手伝いがしたいんだけど、キミの力が必要なんだ。協力してくれないかな?」
真剣に話す月神の目の前に色白の少年がいた。彼は草間という名前を聞いただけで怪しく目を細めている。その表情からはとても『協力的』という言葉が連想できない。何か企んでいるようにしか見えないのだ。高校生でありながら自らを『探求者』と名乗る夢崎 英彦は、その話を聞きながらなぜか財布の中身を確認していた。
「違うキャラになりたい? ふっ……」
「彼、真剣だよ。何かおかしい?」
「いや、キミも草間も真剣なんだな。悪い悪い。草間とはクラスが違うが、ちょっとした知り合いなんだ。だからそんな噂を聞くのが実は密かな楽しみだったんだが……まぁ、多少のことをやってもそうは変わらんだろうし、ここはひとつ協力してやるか。」
英彦がそういうと月神が嬉しそうに何度か頷いた。そして実行が明日であることを彼女から伝えられる。
「放課後に頼むことじゃないな。もう少し考えさせろ。」
「でも〜、みんなはもう思いついたらしいよ?」
「……みんな?」
彼が首を捻ると同時に人気の少なくなった教室の中にふたりの女子生徒が入ってきた。彼女たちは英彦と同じ2年生で、両脇の教室に席がある。ひとりはまだ幼さ残る表情がかわいい銀色の髪と瞳を持つ少女、そしてもうひとりは大人びた雰囲気が印象的な眼鏡をかけた女性だった。月神が言うには彼女たちも協力者だという。英彦はまた笑った。ここまで話題性のある話だったとは少しも想像していなかったからだ。彼はふたりに話を聞こうと席を立ち、自己紹介を始める。
「俺は夢崎 英彦。月神から話は聞いた。まぁ、シュラインはいいとして、そこのキミは……もう事情を聞いてるのか?」
「あたし? あたしも聞いてるよ。あたしは海原 みあお。みあおでいいよ。こちらの方は?」
「私はシュライン・エマ。夢崎くんが呼んでるみたいにシュラインでいいわよ。ところであんた、ホントにチョコの手助けをしようと思ってるの? みあおちゃんは廊下で話したからいいんだけど、そっちはなんか企んでそうで怖いわ。」
「言うじゃないか。でも、明日になればわかるさ。」
シュラインがますます目を細める英彦の顔を見ながら、どんどん顔を曇らせていく。どうも彼女は英彦の企みが心配らしい。その辺のことを聞いたかどうか、シュラインは月神に確認した。
「ちょっとちょっと、あなたさっきこいつから計画聞いた?」
「まだだよ。ボク、彼に内容話したばっかりだし。」
「……そうなの。まぁ、私としては今の刃物のような評価を変えてくれたらそれでいいんだけど。」
「あれ、シュライン。それはもしかして真剣に心配してるのかな?」
「教師にまで卒倒されるような生徒は不幸としかいいようがないと思うんだけど、それって私だけかしら?」
「確かにそうよね〜。あたしもそう思う。だからまずは外見的な部分から変えていかないとって思ってるの。」
「おっ、キミは俺に似通った考えを持ってるな。どうせシュラインは立派なことを考えてるんだろうから、俺はみあおと一緒に草間のイメチェンに関して考えてみるか。」
「無理なこと押しつけちゃダメよ?」
みあおを後ろの椅子に座らせて、英彦は自分の椅子に馬乗りになって相談を始めようしたその時だった。あの不敵な笑みで再びシュラインの顔を見つめ、アイコンタクトで月神の方を見るように仕向けた。
「あの子のことだ、きっととんでもない人選してるぞ。シュライン、俺が一番使いづらいと思ってることはある意味で間違いなんじゃないか?」
「何よそれ……どういうこと?」
「明日になればわかるさ。さ、俺たちは明日の相談だ。キミ、日が暮れないうちに頼むぞ。」
「うん!」
一抹の不安がシュラインの胸をよぎった。何のことかと少し考えていると、目の前にふたりの相談を頬を緩ませながら見ている月神の姿が目に入ってきた……彼女はいったい誰に『チョコ』こと草間 武彦のイメチェンを依頼したのか。不安は大きくなるばかりだった。
不安と期待、そしてちょっとした陰謀が草間に襲いかかる運命の日。月神のお願い通り、作戦を決行する人間は朝早くから準備をしていた。まずは月神が校門前で草間を捕まえ、そのまま人気の少ない体育館の裏まで引っ張ってきた。そこには昨日熱心に相談していた英彦とみあおが待っているではないか。草間は英彦の顔を見るとすぐに表情を曇らせた。
「おまえ……英彦!」
「よぉ、草間クン。月神から話は聞いた。イメチェンに挑戦するらしいな。僭越ながら、俺も参加することにしたよ。ほら、さっそくだがこれを持て。」
「な、なんだ……これ。図書館にある一番重そうな本じゃないか。」
草間が手に取った黒い本……その背表紙には『総天然色・万物分析百科辞典』と書かれている。この太さなら叩いて人が殺せるだろう。それを持っただけで草間の印象が少し変わったのか、みあおは嬉しそうな顔をして説明をし始めた。
「まずは第一印象から変えていくのが大事かなって思って、まず朝はガリ勉スタイルで周囲を驚かせることをふたりで考えたんで〜す。それはうちの学校で一番難しそうな百科辞典。全部で28巻あるから飽きないですよ〜。はい、後はこれもつけてつけて。」
「なっ、なんだこの眼鏡……」
「昔で言うところの丸ブチ眼鏡だ。レンズの度は抜いてある。ただのガラスだから安心しろ。俗に言う牛乳ビンの底の形をした眼鏡というやつだ。一昔前ではガリ勉のオーソドックスなスタイルだったんだよ。ほら、制服のボタンも全部つけろ。」
英彦とみあおの小道具で、朝はガリ勉スタイルになった草間。百科辞典と黒ブチ眼鏡、短ランとシガレットチョコのアンバランスさが周囲の爆笑を誘う。提案者のふたりが出来映えを見て笑う横で、誰の断りもなく月神が持っていたインスタントカメラで草間のその姿を激写し始めた。
『カシャッ!』
「待て。それはおまえのアイデアじゃないな、誰に吹き込まれた?」
「えっ、これは……」
「言っておくが草間、俺じゃないぞ。」
「こういう場面で最初に動く奴が一番怪しいというのがセオリーだがな。」
「もし仮にそうだとしても、俺は自分からそんなことをして楽しむつもりはない。誰も思いつかなかったらやったかもしれんがな。」
「お前……」
イメチェン挑戦などどこ吹く風、英彦のあやふやな言動に怒った草間が空いた手で握り拳を作ろうとしたその時だった。英彦が予想もつかない言葉を発した。
「まぁまぁ落ちつけ、草間。そこまで怒るのなら……貸してた五千円、今すぐ耳揃えて返せ。」
「……………っ!」
「俺が指示したわけじゃないが、疑いがかかるのなら仕方がない。月神を止めてやる。ただし、借金を返したらな。ほら、出してみろ。」
「うう……今日は、手持ちが、ないんだよ。」
「だったら今日一日、素直に言うことを聞くんだな。他人の好意は素直に受け取っておくもんだ。」
「別に悪い方向に取らなくてもいいじゃないですか〜。この写真の印象が伝われば、あんまり困ったことも起きないですよ。まだ詠子ちゃんが構えてますよ。笑顔、笑顔♪」
「月神、もういい! 撮るな!」
英彦か誰かが月神に指示した記念撮影はなかなか終わりそうにない。実は彼女、ある人物から大量のインスタントカメラを用意されていたのだ。気がねなく記念撮影を楽しむ彼女はみあおに撮影を代わってもらったりして、自分も積極的に楽しんでいた。逆を言えば、楽しんでいないのは草間だけだった。
草間が教室の中に入るとざわめきが自然と発生した。すでにシュラインも教室の中にいたが、その出で立ちを見てズッコケそうな勢いで椅子の上を滑る。グルグル眼鏡に巨大な辞典を装備した草間は無言で自分の席に座り、おもむろに本の表紙を開いた。だが、目次が読めない。ふりがなも何もない、遠慮なしの文学書と初めて対峙する草間はそれでも表情ひとつ変えず内容を目で追う。シュラインは本の内容が気になったのか、音もなく草間の後ろに忍び寄り爪先立ちで中身を確認しようと必死になった。読書家のシュラインならまだしも、草間にはとうてい理解できそうにない内容や注釈だらけの本を見て、彼女はつい素直に声を出してしまう。
「ちょっとこの本を読むのには無理があるんじゃない、チョコ……」
「注釈に出てくる単語を説明する文章が欲しいな。」
「やっぱり……」
それでもうんうんと頷きながら本を読み進める姿が哀愁を誘う。その動作をするたびに眼鏡がわずかに光るが、知的なイメージの足しにもなっていないのが哀れだ。それでも彼は本を読むことに入りこもうと努力しているようで、興味のない内容は飛ばしながらも中身を懸命に読むという積極性を見せた。やってることがいくら無茶でもやる気になっているのを止めるわけにもいかず、黙って彼の席を離れていくシュライン。その視線は心配そうだった。
「なんだ、やればできるじゃないか……ふふふ。」
「変わったんじゃないの。ボク、なんか感じる。」
「でも、教室の風景からは浮いてるね。毎日やったら見る目も変わるのかなぁ……」
「どこまでがんばるかはあいつ次第だ。さ、一限目が終わったら様子でも見に行くか。みあお、教室に戻るぞ。」
「うん。」
月神を含めた3人は教室の様子だけ伺って、とりあえずは放置することに。
そして授業が始まった。運良く2−Aは国語から。担当教師が扉から入ってくるなり盛大にずっこけたらしく、廊下にまでその音が響き渡った。どうやら草間の異変に動揺したらしい。一方の草間は授業が始まっても百科辞典を熱心に読んでいた……
その後、教師は妙なテンションに心を支配されたらしく、授業をいつもの半分も進めることができないままフィニッシュしてしまった。教師がそんな状態だから、生徒も当然のように動揺する。いや、今回の場合は逆かもしれない。生徒が常に不安げな表情を教師に向けたからこそ、マジメな草間に目が行ってしまった可能性もある。お互いがお互いを貶め、あっさりと自滅していく状況にシュラインは黙っていられなかった。一限目が終わると、さっそく英彦とみあおの元へと走った。
「ちょっと、チョコなんとかならないの。今に教師から営業妨害で訴えられるわよ?」
「騒ぎが聞こえるたびに笑いをこらえるのが大変だったよ。いや、ある意味では大成功でいいじゃないか。」
「でも先生が一番動揺してるのには驚いたかも……イントネーションがずれる時あったし。驚いてたんだろうなー。」
「楽しんでないで、とりあえずなんとかしなさいよ。あれじゃ、周囲が持たないわ。」
シュラインの訴えもあって、ふたりは草間の元へと急いだ。しかし当の本人はすでに百科辞典を枕にうたたねしているではないか。いびきを掻いているところを見ると、どうやら本当に疲れたようだ。英彦は自分の上履きを手に持って、草間の頭にそれを振り下ろした!
ペタン!
「……んあ、なんだ英彦か。なかなか面白いな、百科辞典も。」
「キミさ、今しっかり寝てただろ。夢でも本を読んでるとは感心だな。」
「百科辞典はしばらくお休みした方がいいですよ。授業中まで読んでたんじゃ問題ありますから。でも、みあお的には眼鏡はそのままでもいいかなーなんて。」
「それは面白い。みあお、いいこと言うな。」
「えへへ。それほどでも。」
心配そうなシュラインはさておき、英彦とみあおは十分に草間で楽しんでいる。そんな風景を廊下から月神がある人物たちに紹介していた。ひとりは超美形で学園一のスタイルを誇る3年生の西王寺 莱眞、もうひとりは1年生で元気いっぱいの鈴森 鎮。ふたりとも月神から話を聞いて草間のイメチェンに力を貸そうとしている、いわばみあおたちの仲間だった。実は英彦よりも悪乗りしているのは鎮で、カメラを渡したのも鎮なのだ。今のマヌケな姿を月神に写真に収めるよう指示しているのも鎮である。
「実はシオン先輩に頼まれてたんだよね〜、いろんな草間先輩の写真を収めてほしいって。俺、手ブレしちゃうからあんまりうまく写せないんだ。だから詠子さんよろしくね。」
「ボク、カメラって使ったことないからどうなってるかわからないよ。いいの?」
「いいの、いいの♪」
「ああいうのも結構だが、やはり男はエレガントでなくては……その辺はシオンとともに矯正してあげよう。俺がいれば大丈夫だ。」
草間の受難はまだまだ続く……
そして昼休みを向かえた。また草間の目の前に月神が現れ、新たなる協力者を紹介する。もちろん朝から付き合っているシュライン、英彦、みあおも一緒だ。草間の顔は朝よりも怪訝そうな顔をしている。どこからともなく薔薇を出してウットリしてるナルシストと、明らかに今の状況を楽しんでいる少年……こんな取り合わせを見て不安にならない方がおかしい。さすがの草間も本音を口にした。
「こいつら、俺で遊ぼうとしてるだけだろ?」
「まーまー、センパ〜イ。そんなこと言わずに!」
今になって英彦とみあおが『序の口』だったことを知った草間の後悔は谷よりも深い。そしてシュラインもようやく英彦が言った言葉の意味を知って少し青ざめた。さらにその可能性を口にした英彦も目を釣り上げると同時に、眉間にしわを寄せている。どうやら彼が想像した以上にダメな助っ人だったらしく、どう接すればいいのか困っているようにも見えた。天然の月神とみあお以外の人間は奇妙な沈黙を保っていた。
「とにかく草間くん、キミは今までの自分を捨て去って生まれ変わりたいそうじゃないか……」
「そこまで重大な悩みだったの、草間さん?」
「チョコにそんな甲斐性があったら、もっと昔に変わってるわよ。」
「まぁまぁ。手取り足取りの伝授は心から辞退させてもらうが、今日は友の未来のため、この俺がびしばし指導してあげよう。ふっ……」
「……たしかおまえとは初対面だと思ったが、どこかで会ったか?」
周囲のツッコミなどお構いなしに、莱眞はどんどん話を進めていく。完全に話の主導権を握ってしまっている莱眞のセリフをニヤニヤしながら聞いているのは一年坊主の鎮だ。草間の予想通り、彼は物事が面白くなればそれでいい愉快犯のようだ。お互いの顔や動作を見ながら、とにかく楽しそうにしているところは無邪気な悪魔を連想させる。
「これまでのイメージを一新するなら、ずばりキミは『エレガントなフェミニスト』になるのが一番だ!」
莱眞にびしっと指差された草間は言葉を理解するのに首をひねり、みあおとシュラインはそんなことはありえないと首を振る。英彦と鎮は口と腹を押えて笑うのを必死に我慢すれば、月神は草間と同様に宙を見ながら言葉の意味を理解しようと必死に考える。だが共通して言えることは、どうしても草間のエレガント姿が想像できないことだった。
「武彦、キミの行動には優雅さが足りない。」
「足りない。センパイにはそれが足りない。」
「とにかく背筋はまっすぐ、視線は常にカメラ目線。そして西でレディが重い教材を運んでいれば、素早く賭けつけ代わりに運ぶ!」
「運ぶ!」
「東でレディが持ち物を落としたなら、即座に拾い跪いたまま『落としましたよ……』と微笑みながら渡す!」
「渡すぅ!」
「「これが大事。」」
いつのまにか意気投合した莱眞と鎮のコンビに絶句し続ける草間たち。あ然としたまま動かなくなった草間の身体を矯正しながら周囲を歩く英彦だが、背筋を伸ばしたりエレガントさを出すために制服をいじったりしている最中もおかしくて堪らないらしく、常に声を殺しながら笑っていた。しかしその細い肩は激しく上下しているものだから、草間も腹が立ってしょうがない。
だが、ここで怒っては元も子もない。珍しく周囲の目を気にしながら、莱眞の提案を受け入れる草間。いつもは両手をポケットに突っ込んでいるが、それを出してその辺を歩いてみる。背筋を伸ばし、前を向いて歩いてみるがどうも実感が沸かないらしく何度も首を傾げた。
「武彦、薔薇を持って。」
「そ、それでエレガントになるものなのか?」
「論より証拠と言うだろう。ほら、持ちたまえ。」
手渡された薔薇を持って歩くと、ぶらぶらと遊んでいた両手がコンパクトに収まり、多少はエレガントに近づいたようにも思える。薔薇一本でここまで印象が変わるのだから恐ろしいものだ。ただ草間は莱眞がターゲットにしている女性陣の反応がないのが気になっていた。男性陣の反応はどうでもいい。ふたりはただ笑いまくっているだけだから。そう、英彦と鎮はすでに誰にも遠慮することなく爆笑していたのだ。みあおたちが引いているのは、実はふたりが遠慮なく笑っているからなのだ。それに草間は気づいていなかった。
みんなのおもちゃになりつつある草間の元に美しい女性がやってきた。彼女は風になびくほど長い髪を揺らしてこちらに歩いてくる。莱眞は待ってましたとばかりに草間の背中を押す。
「ほら、エレガントに決めてくるんだ。ため息のひとつくらいつかせてきたまえ。」
「たったあれだけのレクチャーでやれっていうのか?」
「失敗してもいいじゃないですか〜。今は練習なんですし。」
「……みあおは本当に気楽でいいな。」
なんだかんだ揉めてるうちに、女性がやさしい微笑みを浮かべながら草間の方に向かってきた。結局、彼が何もしないうちに女性の方から喋りかけてきたではないか。これでは何の練習にもならないと呆れながら首を振る莱眞と鎮。彼女は相手の都合などお構いなしに話してくる。
「あ、あの……草間さん?」
「なんだ?」
「なんだじゃない。『どうかされましたか?』と答えないと。」
「センパ〜イ……エレガント、エレガント!」
「どうかされました、か……?」
戸惑いながらも仕方なしにレクチャー通りに受け答えする草間。そんな彼の腕をいきなりつかんで、女性はどこかへ連れていこうとする。いきなりの展開に思わずシュラインが噛みついた。
「な、何してるの、この人……!」
「お、おい、何してんだ?」
「皆さんとご一緒に食堂でランチがしたいんです……草間さんのおごりで。ダメですか?」
「ちょっと待て。なんでおごりになるんだ?」
「エ・レ・ガ・ン・ト!」
「莱眞、おごるのとエレガントは関係ないぞ。」
よくわからない展開に驚く草間の腕をぐいぐい引っ張る女性。その力はだんだん強くなり、あの草間が引っ張られていくではないか。さすがの草間も慌てて彼女を制止する。
「ちょ、ちょっと待て! おまえこのまま俺を食堂まで引っ張る気か!」
「……ダメですかぁ?」
「ダメとかどうとかの前に名を名乗れ。」
「武彦、『キミの名前を教えてくれないか』と瞳を見ながらやさしく聞」
「いいじゃないですか、莱眞さん。私は3年のシオンです。さ、皆さんで食堂に行きましょう。じゃないと……」
「じゃないと?」
「ここで泣いちゃうもんっ……ううっ。」
「おいおい、泣くなよ! わかったわかった、昼飯はおごるから泣くな!」
シオンの強引な手段で草間は首を縦に振るしかなかった。これでは何のレクチャーかわからない。しかも周囲も予想できない方向に話が進んでしまっており、すでに目的を見失いつつあった。そんな中、月神がシオンに向かって不思議な言葉を発した。
「準備、できたんだね。ずっと待ってたんだよ、キミを。」
「しっ……余計なこと言わないの! お母さんからもらった美貌でゲットしたせっかくのチャンスを逃すじゃない……ブツブツ。」
「ん、月神さん。あなた、シオンさんと知り合いなの?」
「いえいえ〜、そんなことないわよ。ささ、食堂に行きましょうよ!」
シュラインはそのやり取りに気づいて月神に問い質したが、それをまたシオンが遮った。彼女は何か腑に落ちない顔をしながらみんなと一緒に歩き出す……その時、周囲の反応を見たが、鎮が下を向いて笑っててやたら怪しい。さっきから莱眞にくっついて調子よく喋ってはいるが、その時の笑いと今の笑いはまったく違う。何か事情を知っているのだろうか。シュラインはあごに手を当てながら歩くのだった。
食堂に着くとシオンはさっそくおばちゃんに注文をする。
「食堂のメニュー、全部お願いします〜♪」
後ろに並んでいた草間が豪快にズッコケる。さすがの英彦も口が開きっぱなし、みあおはメニューを数え始め、鎮はただただ笑いまくるのみ。莱眞は一言だけ『エレガントですねぇ』とつぶやくだけ……だが、その中でもシュラインは冷静に周囲を見つめていた。
「待て! そんなに金持ってるわけないだろう! ちょっとは遠慮しろ!!」
「えっ……ダメ、ですかぁ?」
「うっ、すぐに瞳をうるわせやがって……!」
「心配するな、武彦。ここはこの西王寺 莱眞が用立ててやろう。もちろんお金は後日返したまえ。」
「はっはっはっは、ひーっひっひっひっ!!」
食堂のカウンターを豪快に叩きながら大爆笑する鎮。その後ろで必死にカメラを撮り続ける月神。シュラインから見て、このふたりだけは状況に流されていないように見えた。見た目がボンボンの莱眞が大金を準備よく持っているのも怪しいといえば怪しいが……
ともかくこの場は草間のおごりになったので、全員気がねなくごちそうになることにした。今日はみんなが草間のためにがんばっているのだから当然の報酬だという英彦の論理がみんなの背中を押したのだ。大量に食事が運ばれてくるシオンは端の方に座り、あとは適当に席に着く。次第にシオンの目の前にはメニューが徐々に揃い始める。文字で見るのと実物で見るとでは大きなギャップがあることにその場の人間は気づかされる。神聖都学園の食堂はラーメンだけでも数種類あるのだが、シオンはそんなことも考えずに全部注文しているのだ。実際に目の前に並ぶと恐ろしいものがある。みあおとシュラインはいくつかのラーメンを見ただけで気持ち悪くなってしまったようだ。
「う……ほ、本当にシオン先輩は全部食べるんですかぁ?」
「そうよ、次々食べないと間に合わないわ〜♪」
「…………………」
シオンは割り箸を懐から出してさっそく食事を始める。食べ方こそはおしとやかな女性だが、その速度と言ったらない。本当に噛んでいるのかどうかすら怪しいくらいの早食いを披露するのだ。あっという間にラーメン一杯平らげ、スープまで丁寧に飲み干す……
「……………草間、いい彼女だな。」
「英彦、エレガントに殴るぞ?」
「さ、さすがに気持ち悪くなってきた……っぷ。」
鎮もチャーハンを食べている手が止まった。怒涛の勢いでおしとやかに食べまくるシオンの姿に食欲が失せたらしい。他のメンバーは食欲はあるが、彼女に圧倒されて食事に手をつけられない。そんな中、シオンがいきなり草間を指差して喋り始めた。
「草間さんにはかわいさが足りないのです! びしっ!」
「俺はおまえにも足らないと思うがな。」
「私のことは関係ないのです! 皆さん、そう思いません?」
「かわいげがないのは確かだな。」
「英彦、おまえ……」
「五千」
「悪かった、俺が悪かった。」
そして箸と同じく胸からうさ耳バンドを取り出すと、それをおもむろに草間の頭につける。さらにいくつもの薔薇が咲き誇る掛け軸を彼の後ろに垂らし、かわいさをアピールするではないか! それを見た普通の学生も方々で口に含んだものを豪快に吹いた。
「ほら〜、かわいい♪」
「センパイ、かわいいかわいい! ほらほら、月神さん撮って撮って!」
「楽しいなー。ほら、こっち向いて。」
「……………やっぱり罠だったのか、月神?」
「そんなことないよ。シオンさんはキミのためを思ってやってるんだ。心配いらないよ。」
月神の言葉を聞いてシュラインは驚いた。エレガントの下りからどうもおかしいと思っていたが、案の定、彼らの間では最初からシナリオができていたのだ。彼女はさっそく莱眞たちに事情確認し始める。
「おかしいと思ったのよね。エレガントに立ち振る舞う話から都合よく美女が出て来たあたりから。別にそういう練習するんだったら私やみあおちゃんでやればよかったんじゃないかって思ってたら、こういう裏があったのね。さては莱眞さんは最初からシオンさんでチョコにエレガントの練習させるつもりだったんでしょ?」
「あーあ、バレちゃった。まぁいいや、この食事はセンパイのおごりになったから!」
「武彦も絶世の美女が相手なら発奮すると思って、昨日のうちから計画してたことなんだ。シュライン、そんなに怒らないでほしい。」
「こんなにかわいい草間さんが見れたんだからいいじゃない、ね。なんだったら今からでも草間さんにメイクしてあげるわよ?」
「いらん!」
シオンがそれを聞くとあっさりと掛け軸を片付け、目の前に並べられた食事に集中し始めた。さっきよりも速度をアップさせて食べ始めるその姿は再び周囲をあ然とさせる。草間もうさ耳をつけたまま、無意識にご飯を頬張っていた。さすがにその姿にエレガントさはない。
放課後はシュラインと鎮の出番だ。草間はみんなに連れられて誰もいない視聴覚室へと誘われた。西日が入って赤く染まったその部屋の真ん中で、シュラインはある仕事をしていた。手には針と糸を持っている。
「私ね、壁のヒビや剥げたところの破損修繕や雑用のお手伝いを時々してるの。雑草抜きとかって、意外と没頭するものよ。」
「ああ、あたしそれわかる気がする。最初はやりたくないんだけど、やってるうちになんか楽しいっていうか、中途半端で終わらせたくないっていうか……」
「そう、そんな感じね。それで今はカーテンのほつれを直してるの。特に視聴覚室のカーテンに穴が空いてたりすると不便だし。それに縫い終えた後に取りつける作業もひとりじゃ難しいの。チョコ、こんなことでもなけりゃ絶対にやらないでしょ? だから今回はこれをお願いしようと思って。」
「どうせだから全員でしよう。食堂では散々笑わせてやったんだ、莱眞もこれくらいは付き合えよ。」
「いいでしょう、私の裁縫の腕を見せてあげましょう。」
さっそく賑やかにカーテンの修繕が始まった。普段は何気なく見ているカーテンだが、改めてじっくり観察すると確かにほつれがあったり穴が空いていたりする。それを代わりの布で補強したりするのがシュラインの仕事なのだ。慣れない手つきで針を通すチョコこと草間は、シュラインの容赦ない指導を受ける。
「ちょっとチョコ。糸の後ろを玉結びしてる?」
「なんだ、それ?」
「いけないね、武彦。針を布に通しても糸が逃げていくのでは意味がないじゃないか。」
「ああ、そうか。そういう意味か。」
「その前に玉結びのやり方、知ってるの……?」
「知らないな……」
「もう、仕方ないわね……ほら、こうやるのよ。」
どうやら草間は家庭科が苦手らしい。まずはシュライン先生から基礎から習う草間は周囲を見渡すと……意外にも莱眞や鎮、そして英彦はカーテンを相手に器用にチクチクやっているではないか。みあおやシオンに至っては鼻歌混じりに余裕の仕事っぷりを見せている。しかも手が早い。完全に置いてきぼりを食った草間は真剣に話を聞き始めた。
「なんだ草間は家庭科もサボってるのか。困った奴だ。」
「センパイって調理実習の試食の時だけ帰ってきてるような印象あるんだけど。」
「そんなことないわよ。チョコは家庭科になると、とことんまでいないわ。」
「……それはフォローじゃないよな、シュライン。」
それでも指導の甲斐あってか、草間もなんとか小さな穴の修繕をすることができるようになった。その間もパシャパシャとシャッターを切る月神も実に嬉しそうだ。最後にカーテンを元に戻し、とりあえず今回はここでお開きになった。何度か指を刺した草間のために敢闘賞として冷やしておいたシガレットチョコと缶コーヒーを渡すシュライン。
「はい、ご褒美よ。」
「悪いな、やっぱ俺にはこれだな。」
「そこに戻ったらみんなの気持ちを無駄にしちゃうから、ちょっとずつでも変わっていけばいいのよ。」
「そーそー、そういうことでセンパ〜イ。今度はこれの修繕もお願いしま〜〜〜す!」
「なんだよ……これ女の子がままごとで使うお人形のドレスじゃないか。」
「近所の女の子から借りてきたんだよね。できたら新しいのも作ってほしいってさ。」
コーヒーを片手にまざまざとそれを見つめる草間は答える。
「ああ、ちょっとやってみるか。」
「ええっ、草間さんできるの〜?!」
「もちろんできは悪いと思うがな。その辺は鎮がちゃんと言ってくれるだろう。シュライン、みあお、悪いがまた協力してくれ。」
「そうそう、そういう姿勢が大事なのよ。」
こんな簡単に引き受けてくれるとは思っていなかった鎮は大いに驚いたが、それでまた楽しめるのならいいかと単純に納得した。そして草間を中心にしてシュライン、みあお、鎮が集まって賑やかにお裁縫が始まった。それを遠くで見るシオンは莱眞たちに耳打ちした。
「これって成功したのかしらね、イメチェン。」
「ふっ、エレガントさはまだまだだから後日指導するとしよう……」
「しかし、あいつの借金がまた増えたな。俺の五千円はまたしばらくお預けか。まぁ、これをネタにまたしばらくいじれるからいいだろう。」
それぞれの感想を述べた頃、月神がシオンの前に現れた。
「はい、カメラ。ボクの仕事はこれでよかったんだよね。」
「ありがとうね、月神さん。この写真を新聞部に売って食費の足しにしようっと。」
草間は知らなかった。月神が撮っていた写真こそ、史上最大のイメチェンの武器になるとは微塵も。後日、この風景は新聞部とシオンの暴走で大スクープとして全校に配られてしまうことを。そして彼が望んだ通り、周囲の見る目が変わってしまうことを……何も知らない草間はさっき得たテクニックを使ってお人形のドレスを修繕するのだった。
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号/ PC名 /性別/ クラス】
0086/シュライン・エマ /女性/2−A
3356/シオン・レ・ハイ /男性/3−C
2320/鈴森・鎮 /男性/1−A
0555/夢崎・英彦 /男性/2−B
1415/海原・みあお /女性/2−C
2441/西王寺・莱眞 /男性/3−B
(※登場人物の各種紹介は、受注の順番に掲載させて頂いております。)
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■ ライター通信 ■
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皆さんこんばんわ、市川 智彦です。今回は幻影学園奇譚ノベルをお送りします。
タイトル通り、草間 武彦を中心にしたドタバタコメディーになりました。
完成までに時間がかかってしまい、本当に申し訳ありませんでした。
ちょっとドタバタにするのに悩んでしまって……結果はノベルをご覧下さい。
シュラインさんはチョコこと草間くんと同じクラスなんですよね〜。
やっぱりツーカーなんだろうな〜と思い、こういう描写をさせて頂きました。
ライバルも出てきて、ちょっと焦ってるシーンが私は大好きです(笑)。
今回は本当にありがとうございました。また別の依頼やシチュノベでお会いしましょう!
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