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醒(めざめ)
その日は朝から曇天に覆われ、雨も降らぬままの湿り気を帯びた空気が、夕暮れまで屋敷を取り巻いていた。
実家で久々の教養をとる幸四郎にしてみれば鬱屈しそうな天候。はっきりとしないよりはいっそ雷雨でも良いから降ってしまえと…思わないでもない。自分には幸いというか、これといって外出の予定があったわけでもないのだし。
「ふぅ…」
小さく溜息じみたしぐさを零せば、自室の窓から外を眺める。
お隣さんなど存在しない、見渡す限り応仁守家の敷地が広がるばかりの風景。
由緒正しい――かどうかは兎も角としても、世間に広く知られる応仁守家、その名に恥じない豪邸振りである。長らく此処で育ち、懐かしい思い出も多いはず…が、何故か幸四郎はあまり落ち着けなかった。自室に居てさえも…心が浮ついているのを意識する。
理由は自分でも分かっている。
「話がある――か」
今朝方の朝食の後…姉の前で自分を書斎に呼びつけ、改まった口調と態度でそう言った祖父の言葉を思い出す。
幸四郎にとっては姉同様に久しく敬愛している祖父だったが、密かに畏怖の念も抱いてもいる相手。話自体がその場ででは無く、詳しくは今夜とのことらしいということが、一層の緊張を伝えてくる。祖父の話の内容が、その態度からも余程に重要なことなのだろうと想像に難くなかった。
故に落ち着かない――。
自衛隊の資格試験でもこれほど緊張することはない幸四郎なのだが…。
そっと窓のカーテンを引くと、自分のベッドの上に腰をおろした。
何となしに長椅子へと眼差しを向けると、其処に放られたままのブックカバー付きの本が目にとまった。幸四郎の気を紛らわす役目を担えなかった本は、レトロな栞を挟んだまま静かに横たわっていた。
「…そろそろ時間かな?」
彼が部屋の時計に視線を流すと、丁度肯定するように指定時刻の針を指したアナログ時計。
幸四郎はすっと、ベッドから立ち上がった。
祖父が自分を呼んだのは書斎ではなく――庭はずれにある離れ。
予感と――運命を感じて。
幸四郎は自室を後にした。
***
普段あまり着ることのない浴衣に身を包み、瑠璃子は縁側にひっそりと腰を下ろしていた。
「はっきりとしない天気ね」
手をかざし、頭上を仰いでそんな感想を零す。
天上を見上げる瑠璃子の眼差し――奥には、何かを思い出すような影がある。
「幸四郎…」
労わる様な声とともに視線は「離れ」の方へ流れた。
其処からほのかに灯る明かりは、今夜祖父が弟の幸四郎と大事な話し合いをしているからだと、瑠璃子は十分に心得ている。
湿った空気を運ぶ風が、手入れの行き届いた彼女の髪を撫で過ぎていく。
時刻はもう黄昏どきを過ぎて――空は灰色を多分に含む黒へと染まっていた。
(鬼神党の秘密か…あの子はどう思うのかしらね?)
祖父が明かす応仁守の家の真の姿。
大和国に征服された山神の子孫の国が、祖神を鬼と貶められ秘密結社を作成し、其の血筋を守り大和国の転覆を目指した…。
「祖父様からそう言われて、あの子…今頃唖然としているのでしょうけど」
自分がその秘密を知った時を回想するように眼差しを閉ざす瑠璃子。
そっと、首を傾げれば、束ねた長い黒髪が肩へと流れる。
風に煽られて風鈴も鳴った。
「そりゃ、悩むわよね…」
過去の回想に何を思い出したのか、ふと苦笑にも似た表情を浮かべ瞳を開けた。
(私が選んだような道を、やはりあの子も選ぶのだろうか?)
幸四郎のことは理解しているつもりの自分も、正直この選択に彼がどのような答えを出すのか分からない。多分…と――想像は付くが。
どちらを選んだとしても幸四郎が、自分にとって愛すべき弟であることには変わりはないのだ。
そして瑠璃子に分かっていることは、彼があの「離れ」からどんな表情で姿を見せるかということであり。
ふと、頬に冷たい雫を感じて顔を上げた。
さらさらと、小雨が降り出していた。
「雨…降ってきたわね」
溜息一つ、瑠璃子は何処かほっとしたような表情で縁側から腰を上げたのだった。
***
気づくと祖父との大事な話し合いは何時の間にか終わっていた。
決して短い時間ではなかったはずだが――短く感じたのは語られた内容の仕業だろうか?
ほぼ無意識で後ろ手に「離れ」の扉を閉めた幸四郎。
終始呆然とした表情でそのまま歩き出すことも出来ず、暫く背をもたれるようにして佇んでいると、ふと耳に雨降る音色が聴こえ我に返った。
「雨…? 降ってきていたのか…」
ほっと安心したような声音。
自分自身のそれを聴いて、表情にもようやく赤みが差すのを感じた。
背中を起こして、ぐっと背筋を伸ばし、気持ちを整理するために深呼吸を一つ。
「鬼神党…僕の決断か」
もう一度、祖父に言われた言葉を反芻する。
鬼の末裔として日本支配を企む秘密結社『鬼神党』の存在。
語られた数々の秘密――少なくとも幸四郎を唖然とさせるに足る驚くべき内容であった。
無論、祖父からこういう形で直に話されなければ、到底信じられる類の話でもなかった。
話の末、幸四郎は一年後の決断を迫られた。超法規的で危険な活動に身を置くか…それとも。
俯くように自身の掌へと目を落とす。
「あらあら、やっぱり深刻そうな顔ね?」
「――!?」
聴き慣れたその声、はっとして顔を上げる幸四郎。
見上げた視線の先に浴衣姿の姉を捉えると、風情ある彼女の姿に別の意味で呆然とする。
「そんなに驚かなくても良いわよ。――で、いつまでそうして雨の中で立尽くしているつもりなのかしら?」
驚愕の眼差しに柔らかい微笑で応え返す瑠璃子。手には古風な傘を広げて、首を振るようにしてそっと幸四郎を促した。
「ね、義姉さん…」
「ほら、傘の中に入りなさい。そのままだと雨に濡れて風邪を引くわ」
促されれば、幸四郎は少々はにかむように姉の言う通りにした。
慕ってやまない義姉との相合傘――肩の触れる感覚に少し顔を赤くするも、先ほどまでの胸中の動揺はすぅと軽くなっていくのが不思議だった。
「離れ」から続く二連作りの飛石を歩けば、左右には年季の入った灯篭が立つ。かつては夜間に灯をともし、幻想的な美しさで夜を彩ったらしい。
「色々と混乱するのは分かるわ…」
「―――…」
「祖父様の言う日本支配は建前…」
言葉のない幸四郎をちらっと見やり、瑠璃子がゆっくり話し始めた。
支配達成の目前で体制が壊れてきた歴史。
この前の敗戦で、日本生存と社会安定への貢献に方針転換したのが祖父であるということ。
そうして今や鬼神を信仰しても問題の無い時代であり、周りが変わり過ぎ去ったことで、逆に本来の大和族的になった一族。
「父様は婿入りまで外に居て鬼神党自体が戯画と知るからこそ、あんな奇矯な行動をとっているのかもね」
「そう…なのかな?」
「多分――…まあ本当のところは、ああいう人だし、好きにしているだけだと思うけど」
傘を廻しながら雨を弾き、珍しく悪戯っぽく笑う瑠璃子。
幸四郎が何かを言おうと口を開きかけると、蹲踞(つくばい)がストン、と雅な音を鳴らした。
すると再び口を閉ざした幸四郎。彼が誤魔化すように自宅の庭を見渡せば、広大な敷地には幾重にも張り巡らせた四季折々が楽しめる木々、花々の数々。かつて愛でる者の嗜好を満たすため、恐ろしい程の費用をかけて造られ、長い年月と共に熟練の職人の手によって手直されてきたそれらを眺めながらも、姉が聞かせてくれた言葉を考えてみた。
「あら――?」
矢先に瑠璃子の声。
「え?」
直ぐに幸四郎は我に返った。
「雨…もう上がったみたい」
ぱらぱらと降っていた其れは、気が付けばもう降り止んでいた。
瑠璃子はすっと傘を降ろし、水を切るとそれを畳んだ。
「義姉さんは…その――」
先ほど口に出しかけた言葉をもう一度出そうとして幸四郎が紡いだ。
対して瑠璃子の言葉もまた澱みないものであった。
「私は…鬼神党の活動に誇りがあるわよ。超法規的で危険な活動だけどね。――…幸四郎、本音を言えばあなたを巻き込みたくないわ。でもね、これはあなた自身の問題あり、自分で向かい合わなければ成らない運命。――時間はあるのだから、あなたの道をゆっくりと探しなさい」
「――…」
「あっ、ただ…どんな選択をするにしても秘密だけは守って欲しいわ」
幸四郎を信頼している瑠璃子だが、鬼神党の一員としてそう言葉にしておくのも忘れなかった。
「それは…勿論、分かっているよ義姉さん」
少し笑いながら、それでも真剣に頷き返す幸四郎。
「それならば良し」
瑠璃子は両手を弟の肩に廻す。
柔らかく抱き寄せて頬に軽くキスをした。
「―――!!?」
途端、赤面する幸四郎。
微笑みながら彼を解放した瑠璃子は、浴衣の袖を揺らし雲晴れた夜空を眺める。
遥か遠く――十六夜の月が浩々と輝いていた。
***
其れから幾日かの時が過ぎ。
肌にかかる暑さに薄っすらと瞳を細める幸四郎。
眼差しの先には――「草間興信所」。
新たなる決意と共に、彼は一歩踏み出す。
人々との出会いを通して自分を見つめ直す為に。
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