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鬼の居る間に、肝試し
………。…………。
…。…。……。
…。……。……………。………。
……。……。
キャ――――――――――――ッ!
「五月蝿いわね! いい加減にしなさいよあなたたち! わー! ガーッ!」
ひいいっ、と声を上げて逃げていくのは、もはや手を伸ばしても掴めない、声持つ靄のようなものたち。しかし、田中緋玻のその、するどい爪をそなえた鬼の手は、むんずと女の髪を捕まえた。
「早くどっかに行きなさい! でないと、閻魔に突き出すわよ! あの世にも行かないでこんなとこでダラダラして、それってこっちで言う犯罪なのよ、わかる?!」
があッ、と凄んだ緋玻の口の中には、ずらりと牙が並んでいた。
『ひいぃぃぃ……ごめんなさぁあぁぁぁぁいぃぃぃぃ……』
あうあー、とご丁寧に余韻まで残しながら、長い髪の幽霊は逃げていった。
緋玻は恐ろしい形相のままくるりとモニタに向き直り、再びキーを叩き始めた。キーボードに意思があれば、「もっとやさしく」と抗議するであろう、凄まじい叩きぶりだ。
…。……………。……。
……。……。
………。
たぁすけてくれぇぇぇぇええーぇーぇー!
「あー! 五月蝿い五月蝿い五月蝿い! みんな地獄に落ちなさい! ぬぉアー!!」
話は半日前にさかのぼる。
緋玻はその出版社を、数ヶ月前から避けるようにしていた。というのも、以前厄介な「曰くつき」の本を押しつけられ、ひどい目に遭わされたからだ。本当に、大変だった。緋玻が人間であったなら、すとんと命を落としていただろう。幸か不幸か、田中緋玻というものは人間ではなかった。彼女自身、どうしたら自分は死ぬのか見当もつかないくらい、身体と精神は頑丈だった。
彼女がアクション映画のヒーローばりに頑丈で、殺しても死なないアンブレイカブルであることは、その出版社の関係者も知ってしまったようだ。以来、メールなり電話なりで実にさまざまな「曰くつき」を緋玻に委ねようとしてきている。
実際彼女は頑丈だった。
今現在彼女は(マニアの中では)有名な配給会社から出される新作ゴアもの映画の仕事が舞いこんできており、すでに翻訳作業に入っていた。締切はべらぼうに近く、緋玻は無謀なスケジュールを組む日本人を呪い殺してやりたい気分に駆られていた。彼女はその体力と精神力のおかげで、四日間ほど不眠不休だったが、少し肩と目が重くなったと感じる程度にしか疲れていなかった。
しかし――その多忙な中にあっても、電話越しでしくしく泣きながら懇願されては、緋玻も重い腰を上げざるを得なかった。
「大の男が泣かないでちょうだい」
「ほんと助けてください。助けてください。成仏させてください」
編集部に入るなり緋玻にすがりついてきた担当者は、彼自身が幽霊なのではないかと見紛うほどにやつれていた。
いや、やつれているというよりは実際に憑かれているようだが。
担当者の背にまとわりついている老人の霊をしっしと追い払い、緋玻は溜息をつきながら話を促した。
幽鬼のようにやつれた担当者の話は単純なものだったため、緋玻は聞いた端から忘れてしまった。ともかく、緋玻が押しつけられたのは『死者の晩餐』なるタイトルの洋書であった。触るのもはばかられるほど、本はじっとりと湿っていた。それは湿気で湿っているのではない。何か、この世のものではないような湿り具合だ――緋玻はげんなりした。この湿り具合は前にも体感したことがある。
「お寺に預けたら? これ、人間にはちょっと荷が重いわ」
「面白い内容なんですようぅぅ」
「……まったく、商魂たくましいってこのことね。わかったわ。ただし、翻訳したら原書はお寺に直送よ。いいわね?」
「どうにでもしてくださいぃぃぃ」
ずるずると這いずる担当者を背に、緋玻は湿った本を鞄に詰め込むと、ツカツカ歩き出した。彼女のあとを、すでに動く靄が追い始めていた。編集部の人間たちは、皆青い顔で拝んでいた。南無阿弥陀仏。
緋玻が診たところ、『死者の晩餐』にかけられた呪いは大したものではないようだった。彼女があまり詳しくはない「舶来もの」だったが、呪いというのは表情のようなものだ。笑っているか、泣いているか――異国の人間でも、喜怒哀楽の表情は変わらない。
本が、周辺の浮遊霊を引き寄せ、声と姿を与えるだけにすぎないものだという見解に落ち着いた。幽霊は幽霊のままであり、怨念を増幅させるわけでも、深刻な危害をもたらせるほどの実体を与えるわけでもなかった。要するにこの本は、所有者の霊感を強めているだけのようなものだ。幽霊などそこら中に、四季を問わずふらふらしているし、通りすがりの人間に囁き続けている。それが、鈍感なものにも見えるようになり、驚かされ、怖がらせられるようになるだけの話だ。
緋玻は『死者の晩餐』をデスクの一番上の引き出しに突っ込み、現在進行中の仕事をまいず片付けようと、パソコンの電源を入れた。
キャ―――――――――――ッ!!
「ぃえッ!?」
OSが立ち上がるや否や響き渡る女性の悲鳴。いつの間にウイルスにやられたのかと戦々恐々とした緋玻だったが、原因は『死者の晩餐』に引き寄せられた自殺者の霊に過ぎなかった。――過ぎなかった、と思えるだけ緋玻は経験が豊富だ。
「どきなさい! ヘンな声出しちゃったじゃないの! 今はあなたよりウイルスの方がよっぽど怖いわ」
しっしっと霊を追い払うと、緋玻はテキストエディタを開いた。
ギャ―――――――――――ッ!!
「今度は男?!」
やはり人間なんかに同情するべきではなかった、と緋玻は後悔し始めていた。
暗闇の中、モニタに照らし出される緋玻の蒼眸は今や血走り、爛々と光り輝いている。その彼女の周囲を、身をよじり、血を撒き散らし、喘ぎながら、浮遊霊たちが飛び交っていた。――どちらの方がより恐ろしいか、判断は分かれるところだろう。
モニタをすり抜け、這いずるようにして現れる髪の長い女。
「あー、そのネタはもう古いのよ!」
天井からさかさまにぶら下がって現れる、やはり髪の長い女。
「その映画ももう観たわよ。携帯、電源切ってるんですけど」
壁からぬうっと現れる女は、真っ白い肌の男の子を連れている。
「何の映画?」
男の子が、にゃあおと泣いた。
「ああ、アレね」
「って、ほんと喰い殺すわよ、あなたたち!!」
があッ、と牙を剥いて凄めば、幽霊たちは尻尾を巻いて逃げ出した。
しかし、数分後にはまた新手の霊が引き寄せられてくるのである――。
「死神は何やってんのよ、ちゃんと魂回収しなさいよね!」
『……すいません』
緋玻は、頭を抱えた。
死神まで引き寄せられているようだ。
「あー、だめだだめだ。こうなったらモバイル持って喫茶店で……ああでもデータ移すの面倒だし……ちょっと、締切もう16時間後? ああ、最悪! 寝てやりたいわ! フテ寝よ!」
しかし、振り返った先の布団には、ぶつぶつと孫の進路について悩み事を打ち明けつづける老婆の霊が座っているのだった。
…………。
キャ―――ッ。
午前4時、パソコンデスクに突っ伏して穏やかに眠る田中緋玻の姿がある。
電源が入りっぱなしのパソコンとモニタがある。モニタ上に浮かび上がるテキストエディタの入力欄には、<了>の文字があった。
彼女はやり遂げたのだ。
さまよう靄が彼女の髪や肌を撫ぜ、ぞっと鳥肌を誘おうとも、その耳元で凄惨な叫び声が上がろうとも、緋玻はすやすやと眠りに落ちている。時折、蚊でも振り払うかのように浮遊霊をしっしと追いやるのも、鬼の無意識がなせる技なのか。
「えんまさま……こいつら……針の山に……」
彼女は寝たままにやりと微笑む。
「はい……やっぱり映画はホラーが最高です……うふふふふふふふふふふふふふふ」
その笑い声にすくみ上がった霊が何体か、彼女のそばから離れていった。
<了>
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