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<東京怪談ノベル(シングル)>


歯音


 身体のどこかがおかしくなりそうな暑さが東京を襲っていた。
 盆を過ぎても、暑さはあまりおさまる気配を見せない。
 骨董品屋『櫻月堂』には、時折暑さにあてられた妖が転がりこんでくる始末だ。店主は医者ではなかったし――そもそも、人体の医療知識があったとして、妖たちを診るのに役立つかと言えるかどうかは疑問だ――彼自身、この暑さには参っているところだったのだが、困っている者は人間だろうが妖怪だろうが無碍に出来ないたちだった。
 ――こりゃ、身体のどこかがおかしくなってるな。
 猛暑を報じるニュース番組を見ていた店主武神一樹は、そうぼんやり考えて、唐突におのれの健康状態が知りたくなった。そう言えば、昨日上がりこんできたぬらりひょんに「顔色が悪い」だの「頬が少しこけた」だのとぐだぐだけちをつけられたのだ。ぬらりひょんには言われたくなかった。確かに今年は暑いし、忙しい盆も過ぎたばかりだったが、あのあつかましい妖怪にまで心配されるほど容姿が変わってしまっているのか。
 一樹は黒電話に手を伸ばしていた。

 病院の中は、かえって容態を悪くしそうなほどに暑かった。
 確かに冷房は身体に悪いと聞く。しかし、待合室や宿泊施設にまで冷房がないとは――。
 比較的古い病院で、壁や曲がり角には、暗い黒い沁みが目立つところだった。一泊二日でのんびり健康診断でも、と思っていた一樹は、「思い立ったが吉日」に基づく行動を少し改めようとも考えていた。知人は多いのだから、評判がいい人間ドックを調べてまわるべきだった。
 盆が過ぎたばかりでも、この病院には死と病がはびこっている。一樹は、半開きになった扉の奥で、枯れ枝のようにベッドに横たわる老人を見た。その老人を掴み、ずるずるとベッドの影の中に引きずり込もうとしている『影』も見た。一樹が血相を変えてその病室に飛びこむと、影は怯えた様子で引っ込んだ。
 影と沁みはしかし、至るところにあり、この世のものではない息を殺し、一樹をじっと見つめているのだった。
「あ……あああ、かんごふさん……」
 ベッドの枯れ枝が、不意に呻き声を上げた。古びたナースコールに手を伸ばそうとしていたが、目測が定まらないらしい。一樹は急いでその老人の手助けをした。代わりにナースコールを押したのだ。
 すぐに、看護師がとんできた。
 一樹は息を呑んだ。
 この世のものではない美しさを見てしまった。

 血液検査と胃透視が終わり、CTの準備を待つ間に、一樹は色々と耳にした。一樹がこそこそと嗅ぎまわらずとも、望みの話は舞いこんできた。そんなものだ。一樹は情報には常に恵まれる星のもとにあった。
 一樹が出会ったあの美しい看護師は、この病院のアイドル――というよりは、天使なのであるらしい。ナイチンゲールの生まれ変わりなのだと信じて疑わない老人もいたし、いやいやあの方は天使そのものなのだと拝む老人もいる始末だ。強い薬で髪が抜け落ちてしまったらしい青年も、夢見心地で彼女を語った。
 ――美しい薔薇には……。
 一樹は反射的にそう考え、すぐにその不吉な思いを振り払った。
 この黒い沁みに犯された病院の中、彼女が光であるのなら、それでいいではないか。地獄の中に、蜘蛛の糸が降ろされているなものなのだ。
 ――俺はここに入院しているわけじゃない……この健康診断で、癌が見つかったとしても……俺はきっとここには入らない。俺と彼女は、すれ違っただけのようなものだ。


「ナースコール、押して下さったんですね。ありがとうございます」
 彼女は一樹を見て、ふうわりと微笑んだ。
「おかげで助かりました。気がつくのがあと少しでも遅かったら……危ないところでした」
 彼女はそれきり、一樹には目もくれなかった。
 まるで我が子を扱うかのように老人の頬を撫で、穏やかな微笑を投げかけていた。
 天使ではなかった。
 聖母であった。


 ――すれ違っただけ、だ。


 明日は尿検査から始まるらしい。
 小学校の頃も、そう言えば朝一番のを採ったもんだった――束の間、一樹は懐かしい思いに駆られた。
 しかしその深夜、どうしてもいま用を足したくなってしまった。
「……まいった」
 時刻は午前2時。とても朝まで辛抱出来そうにない。しかしここで出してしまったら……いや我慢すると明日他のところで異常が見つかることになるかもしれない……。
 結局、用を足したあとに水を一杯飲もうということで、一樹の葛藤は落ち着いた。
 深夜の病院には、常人にはわからぬ危険と恐怖が潜んでいる。影と沁みは闇に溶け、天井と窓すら侵食し、声をたて、手を伸ばす。形亡き爪がかりかりと床を掻いていた。
 用を足し、一樹はそそくさと宿泊施設に戻ろうとした。あすこは、もとより健康状態を知りたい健康な人間が寝泊まりするところで、影も沁みも目立たない。暑いが、この病院本棟で寝泊まりするよりは何倍もましだ。
 一樹は足を止めた。
 何か――。
 いや、気のせいだ。
 しかし――。
「……」
 一樹の足は、宿泊施設とは真逆の方向に向けられた。
 足音と気配があったのだ。

 闇の中を歩いているのは、あの美しい看護師だった。この闇の中を、慣れた足取りで進んでいく。彼女がまとっているものは、もはや聖母と天使のヴェールではない。
 一樹はうっすらと自嘲した。
 ――結局俺は、この『病』から逃れられない。
 彼女がちりりと鍵を出し、あるドアを開け、中に消えていった。
 霊安室であった。


 彼女は癌で痩せ細った骸を抱きしめ、微笑み、その舌を首筋に這わせた。それは口付けのように見えた。老人の骸は、若く美しい看護師の子のようだ。
 ピエタのようだ。
 上弦の月を背景にしたオブジェであり、油彩画だ。
 がり・り、
 そうして、芸術は昇華する。
 作者自身の手が振り下ろすハンマーが、彫像をより高みのものへと変えていく――打ち壊されていく。
 がり・り・り、
 ぱき・ぽき・
 じゅる……ぅじゅる……
 彼女は、痩せた骸を慈しみながら腹のうちにおさめていった。乾いた血も、冷たい肉も、彼女にとってはパンと葡萄酒。

 一樹は、話を思い出す。
 美しい看護師に心を奪われ、心を救われていたのは、みな老人や死相が浮き出た病人だった。彼女は死に行くものを愛でていた。その物腰は、一樹のような健康な人間(おそらく、健康だ。夏バテ気味だという結果に落ち着くのが関の山だ――自分はなぜ、健康診断などをしなければならないと考えたのか)に対しても、さほど変わるものではなかった。
 死に行く患者たちが彼女に惹かれたのは、彼女に未来を感じたからだ。
 美しく……恐ろしい……第二の生を……見たのだ。
 彼女はいま、目玉をしゃぶっている。

「全部喰う気か」

 はた、と音がやんだ。
 さすがに驚いた顔をして、屍食鬼は一樹に目をやる。
「全部なくなってしまったら、そのご老人の墓は、どうしたらいいんだ」
 彼女が、月を背にして立ち上がる。
 月――。
 月など、ないはずだ。ここは地下なのだから。しかし、一樹は彼女の背後に、それは美しい光を見てしまった。一樹はその事実に息を呑み、そして、彼女を逃がしてしまった。


「夏バテ気味だね」
 医者は結果を見て、事も無げに一樹にそう告げた。
「他は健康そのものだ。身体年齢も25歳前後のものだね。最近、ここまで健康な人は珍しいかもしれないな。何と言っても、食事がいいんだろうね」
 医者は誉めているらしい。普段の一樹なら、それを喜んだだろう。
「そうですか」
 今の一樹は、そう言って、自嘲じみた微笑みを浮かべただけだった。
 ――俺は当分、彼女に喰われはしないのだ。
 彼は、身震いをした。こんなに、診察室の中も、むっとするほど暑いのだが――彼は寒気を感じたのだ。
 月と、骸と、あの鬼、物の怪に魅入られてしまう自分の性に。




<了>