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刻み込まれた感情
まるでそれは昨日のことのようにも思い出されて
ずくずくと傷むのは腕に残った痕ではなく、記憶と心
今でもずっと残っている
腕にも心にも記憶にも…
内に秘めた激情が燃え上がり、まるでそれを忘れてはいけないとでもいうように自らに刻み込んだ烙印
それは今でも消えはしない
今でもこうして胸に残っているのだから
昨日のことのように思い出されるのだから
◆◇◆
昼までは秋晴れの空が広がっていたはずなのに、突然降り出した雨が地面を叩き付けていた。
楷巽はもう夜10時を回ったというのに、未だ大学に残っている。
なんだかんだと雑用を終わらせている間に時間が経ってしまっていたのだ。
そして今から帰ろうと思っていたのだが、その気持ちが失せてしまいそうな程に強い雨。
真っ暗な夜空から吹き付ける負の想い。
まるで空が感情のままに雨を降らせているかのように感じてしまう。
激情を叩き付ける空の涙。
慟哭というものに似ているかもしれない。
感情を表に表すことの出来ない巽は、思うがままに荒れる空が少しだけ羨ましく思えた。
空に憧れを抱くなど馬鹿げているかも知れないが、自分の感情というものを表現する術を持つものが羨ましかった。
表に出さないからといって、そこに全く感情が無いわけではない。
感情の表し方を知らないだけで、内には誰よりも秘めた想いがある。
外に出さずに内に溜め込んでいることで、それが爆発的な想いを生むことがあるのだ。
ぎゅっ、と巽は無意識のうちに左腕の古傷を握りしめる。
そこには巽が自ら刻み込んだ傷痕があった。
それは巽の思いが一度だけ爆発した時のもの。
その時の想いは今でも忘れることがない。
とても腹立たしくて、そして無性に悔しかったのだ。
あの時のことはしっかりと腕に胸に刻み込み忘れることがない。
きっとこれからもずっと…
◆◇◆
中学二年の美術の授業。
巽の想いを爆発させてしまう出来事が起こった。
出された課題は、二人一組になり相手の顔をデッサンするというものだった。そしてその絵を元に版画を作ると美術教師は言っていた。
特に難しい課題ではない。
さっさと終わらせてしまおうと巽はもくもくとペンを走らせていた。
その時だった。
向かい側で巽を描いていたクラスメイトの一人が言った。
「あいつは人間そっくりにできたロボットなんだぜ。さっきから全然表情かわんねーの」
だからすっげー楽、とけたけたと笑ったのだ。
別に面白くもないのだから表情は変わらなくても良いだろう。
無意識のうちにロボットには感情がないと巽は思っていたのかもしれない。
だからあそこまで腹が立ったのだろう。
巽には感情が無いわけではない。
ただ表現する術を知らないだけなのだ。
ずっと自分の中に閉じこもり、全ての想いを殺し必死に生きてきたのだから。
表現することは相手に更なる想いを抱かせてしまうと幼き頃に知っていたから、それをすることが出来なくなっていた。
ただ向けられた感情を流してやればいい。そして自分の感情を全てを閉じ込めてしまえば良かった。
そうすることで巽は自分自身という存在を守ってきた。
今はそうする必要がないことも分かっていたが、無意識に身に付けてしまったそれは簡単に消えるわけではない。
自分でも一気に頭に血が上ったのが分かった。
しかしそれでも表情は変わらない。
だが心の中は煮えたぎっているのに、何処か冷静な自分が居た。
『何を考えているのか分からない』
『怖くて近寄りがたい』
そのような事を言われるのには慣れている。
それは見た目での判断で、それ以上でもそれ以下でもない。
しかし先ほどの言葉は違う。
自分はそこに生きていないと言われたような気がしたのだ。
それだけは許せなかった。
巽はそのままそのクラスメイトの前へと近づいた。
手には版画を彫るのに持ってきていた彫刻刀がある。
振り上げた彫刻刀を見て、そのクラスメイトは思わず後ずさり告げる。
「な……なっ、なんだよっ……」
声が上擦っている。ごくりと唾を飲む音が聞こえた。
その音を聞きながら巽は自らの腕に彫刻刀を突き刺し、深く切った。
ざっくりと刺さる痛みを感じるが表情は動かない。
あちこちから、キャー、ワーッ、という悲鳴が上がる。
傷口からぼたぼたと血が滴り落ち、床にあっという間に血溜まりを作っていく。
その溢れ出る血を見せながら巽はクラスメイトに近づいた。
巽が一歩近づけばクラスメイトは二歩下がり、そのまますぐに壁へと追い込まれ逃げ場を失う。
「やっ……なんだよっお前。気色悪ぃんだよっ……何やってんだかわかんねーし!!!」
まるで自分が出血多量であるかのように血の気の失せた表情。
「これでも…俺がロボットだって言うのか…?俺は…俺は生身の人間だ…!」
そう呟いた巽の声には、僅かながら怒りが籠もっていた。
声に感情を昇らせることもない巽の様子にクラスメイトはそのまま言葉を失う。
血の滴る音だけが美術室に響く。
こうして感情も流れ出していけばいいのに、と巽は思う。
巽の行動を気味悪がり、他のクラスメイト達は遠巻きに見ているだけだった。
そして余りの緊急事態に美術教師は呆然と流れる血を見ていた。
そんな美術教師に巽は歩み寄る。
「保健室に行きます…」
そう一言告げると、何事もなかったかのように巽は美術室を後にしたのだった。
◆◇◆
まだ雨は止む気配を見せない。
ただ激しい音を立てて地面を叩き付ける雨を巽はただ静かに見つめていた。
音が五月蝿ければ五月蝿いほど、心の中は静かな湖面を湛えている。
静かに時間だけが過ぎていく。
今でもその傷痕は巽の左腕に残っている。
消すことを許されない烙印のように。
しかし烙印というよりそれはまるで…
――――――自分の中にも感情があることを忘れさせない刻印のように思われた。
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