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<東京怪談・PCゲームノベル>


【 閑話休題 - 名も知らぬ想い - 】


「ねぇー、ノイ。実は、兄さんの風邪って、関係ないでしょ」
『え? 何が?』
 朝の準備はほとんど終わっていて、後は店内の清掃をどの程度までやっておくかというだけで、大した仕事は残っていない。
 つい先ほどまで、一緒に店の作業をしていた血のつながらない兄は、飛び出していってしまったし、今日は夏休みも後半に差し掛かって、学生にとっては「いろいろな意味で」忙しい時期だ。
 客がそんなに多い日とは、予想されない。だから今も、のんびり、ノイと話をしているのだ。
「だって、兄さんの風邪の騒ぎから、一週間とまで言わないけど……ずいぶんたってるもんね」
『……でも、あれからずっと、ってか、少し調子おかしかったんだよ。縁樹のやつ』
「風邪で?」
『と、いうよりも、悩んでますー、って感じだな。難しい顔するかと思ったら、突然うなずいたり、首振ったり』
「……縁樹さん、百面相……?」
『それそれ。そんな感じだよ』
 磨きすぎで照明を反射し始めたカウンターテーブルを見て、少々焦りを覚えた永久は手を止めてカウンターの中に入った。ドアのプレートは「OPEN」に変えてあるから、そろそろ客も入ってくるころだろう。
 そろそろと言えば――
「あ……そろそろ兄さん、駅前までつくころじゃない?」
『そうだね。ファーの足だったら、そんなことかもしれない』
 ノイに怒鳴り込まれて、大慌てで店を飛び出していった兄の背中。はじめてみたあんな姿に対して、思わず微笑ましい気持ちが沸き起こってくると同時に、嫉妬する気持ちが起こったのも嘘ではないし、隠そうとも思わない。
 日は浅いけれど、自分は彼の唯一の妹だ。だから、自分に見せない姿があると、ちょっと嫉妬心を覚える。
「ねー、ノイ」
『なに?』
「もし、看病に行ったついでに、兄さんが縁樹さん襲ってたら、どうする?」
『☆▼●○★△◎◆□ッッッッ!』
「はははははははっ! 冗談だって! ノイ、わかる言葉でしゃべってよ!」
 でも、平気。
 あの背中が見つめる先の「特別」という存在の中に、自分も含まれているとわかっているから。
 家族という特別な意味で。

 ◇  ◇  ◇

 紅茶館「浅葱」で永久がとんでもない発言をして、ノイを脅しているのとちょうど同じころ。
 二人の予想通り、ファーは駅前のマンションにたどり着いていた。
「……ここにくるのも……二回目か」
 以前、自分が追われているときにかくまってもらったのもここだった。あれは、縁樹とノイが自分にとってかけがえのない存在となった、大切な思い出の一つ。あの事件で二人と出会わなければ、今頃自分はここにいなかっただろう。
 つい、この前の話なのに、懐かしささえ感じるのはなぜだろう。あまりに、自分のそばに縁樹とノイがいることが当たり前になっていて、時間を感じさせていないからだろうか。
 縁樹とノイが暮らしている部屋のドアの前にたどり着き、一息つくと、インターフォンを押す。
 ピンポーン。 
 意外にも大きく響いた音に、少々驚きながら返事を待つが、返ってこない。
 まさか、返事もできないほどの風邪で、倒れているのではないか。
 心配が胸をよぎる。
「縁樹……? 縁樹?」
 何度かインターフォンを押し、返事を待つが結果は同じ。ドアを叩いても見たがやはり、返事はない。かくなる上は。
「……悪い」
 ドアノブに手をかけ、回してみるとすんなり回った。鍵はかかっていないようだ。悪いとは思ったが、そのままファーは中に入らせてもらうことにした。
「……縁樹? いるか?」
 玄関先に入り、靴を脱いでいると聞こえてくる「ごー、ごー」という音。聞きなれない音だが、確かこの音は……
「掃除機……?」
 店で大掛かりな掃除をするときに使う、便利な機械。ものすごい音がするから、誰かに呼びかけられても気づかなかったりする、あの機械ではないだろうか。
 ファーの中に立てられた仮説。しかし、それを動かしているのは誰だ?
 この部屋にはノイが紅茶館「浅葱」に行ってしまっているのだから、縁樹しか居ないはず。しかも、彼女は風邪を引いていて、寝込んでいるのだから掃除機なんて使える状況ではない。
 リビングに入るためのドアを開け、警戒しながら覗き込んで見た先にいたのは――
「あれ? ファーさん?」
 パジャマに黒い薄手のカーディガンを羽織った縁樹が、いつもよりもうんと弱々しい雰囲気をかもしだしながら、掃除機をかけていた。
 思わず、動きを止めるファー。そんな彼に合わせてか、掃除機を止めて、ファーをじっと見つめる縁樹。
 数秒後。
「何をしてるんだ、お前はっ! 風邪を引いたんだろうっ!」
 めずらしく声を荒上げたファーは、大またで縁樹に近づくと、彼女を横抱きに抱き上げて寝室へ連れて行く。
「ちょちょちょ……ファーさん?」
「病人は病人らしく、しっかり寝てろ」
 ベッドまで運ぶと丁寧におろし、カーディガンを脱ぐように言って、代わりに布団をかける。
「……あ、の……もしかして、ノイ、お店に行きましたか?」
「ああ……それで、飛んできた」
 素直にベッドに横になった縁樹が、すまなそうに微笑み「ごめんなさい。迷惑かけて」と弱々しくつぶやいた。
 ファーはそんな彼女を安心させるために、かぶりを振る。
「何か食べられそうか?」
「あ……でも……」
「病人には、粥だったか? 消化がいいものだったらうどんもありだが……」
「お昼、用意しちゃいました」
「――え?」
 縁樹の言葉に目を丸くするファー。
「掃除の傍ら、お昼……作っちゃったんです。さっき」
「……風邪は、そんなに動いても大丈夫なものなのか?」
 自分が縁樹に看病をしてもらったときも風邪だったが、とても動けるような状態じゃなかった。身体の節々が痛くて、変な寒気を感じて、それはもう最悪な気分で。
 でもそれは、縁樹とノイが店に着てからだった。
 それまでは、なぜかしっかり動けたし、しっかり店をやることだってできると、自負していた。永久一人に任せるわけにはいかないという意識が、自分を立たせていたのかもしれない。しかし、縁樹とノイが店を訪れてからというもの、とたんに足に力が入らなくなって、緊張で張り詰めた糸が緩んだ感覚を覚えた。
「今はもう……無理だと思います……」
「縁樹?」
「一人でいたときは、自分でなんとかしなきゃって思ってたんですけど、ファーさん見たとたん、力、入らなくなっちゃって……」
 多分、今の縁樹も同じなのではないか。ファーがここにきたことで、張り詰めていた緊張の糸をほぐして、どっと疲れがでてきた。
 それは、自分が風邪を引いたときに縁樹を頼ってしまったのと同じで。
「……だったら、来たかいがあるな」
「ファーさん……喜んでますか? もしかして」
「この前の礼もしたかったし、何より……」
 縁樹が自分を頼ってくれている、ということの表れなのだろう。それが、嬉しくて思わず表情が緩んでしまった。
「ファーさん?」
 言葉を濁したファーを不思議に思って首をかしげる。ファーはファーで、「頼ってくれてありがとう」というのもおかしいような気がして、言葉をつまらせてしまう。
 しばしの沈黙の後。
「……昼食、何を食べるつもりだったんだ?」
「あ、リゾット作ったんです。ミルクの」
「それなら、食べられそうか? もし、食べられないのなら、何か他のものを作りなおすが」
「もったいないので、食べます」
「いや……食べられなければ、俺が縁樹の作ったリゾットを食べればいいだろう。お前の分は別に、粥でもなんでも作ればいいことだ」
 ファーのその言葉を聞いて、ふと縁樹の中に沸きこる一つの考え。
「それじゃ、ファーさんにリゾット食べてほしいです」
 思いついたことをそのまま口にしてしまったが、何かがおかしい気がするこの発言。
 自分が食べられないからではなく、自分が作ったものをファーに食べてほしいような意味合いにも取れるし、ファーが作ったものを自分が食べたいから、ファーに自分のリゾットを食べてほしいという意味合いにももちろん取れる。そうでなければ――と、考えたらきりがない。
 しかしファーはそんなこと気づきもせず、「わかった」と納得すると、寝室を後にしてしまう。
 なにが……わかったのか。
 いろいろな意味で取れてしまう縁樹の先ほどの一言を、一体どういう意味でファーが受け取ったのか。そしてどういう意味で「わかった」なのか。
 問題発言をした張本人は、身体を休めるどころか、脳内をぐるぐる巡りながら悩まされる羽目になった。

 ◇  ◇  ◇

 一方そのころ。
「たまご粥なら……食べやすいだろうか……」
 キッチンにたったファーは、冷蔵庫の中身とにらめっこをしながら、電気の無駄になると思い一度ドアを閉める。コンロの上に置かれていた鍋の中には、ミルクのリゾットがしっかり入っていた。
 しかし、これでは食べられそうにない、と言った縁樹。
 ミルクのリゾットも消化にいいものには変わりないし、味も濃いものではない。それを食べられそうにないと言われてしまったら、他に食べやすいものというと何があるだろうか。悩んだ末、結局ファーはたまごを取った。
「……これしか、思いつかない」
 ただの粥では食べにくい。少々味がついているほうが、喉を通りやすいだろう。粥ではなく、おじや風にして、薄味に作ろう。そうだ。それがいい。
 自分の中で妙に納得をすると、ファーは意気揚々と料理を始めた。
 誰かのために作る料理。それは、いつもファーが店でやっていること。いつもと変わりない行動のはずなのに、どうしてこんなにも力が入るのだろう。なんだかいつもよりも、「うまいものを作らなきゃ」という気持ちが大きい。
 理由は一つしかない。
 縁樹のための料理だから。
 店にきて、甘いものを注文されても、軽食を注文されてもそうだ。縁樹とノイのために作ると思うと、どこか熱が入る。その熱が空回りしないか、いつもひやひやしてしまうのだが、抑える術を知らないのだ。
 むしろ、料理に対してじゃないと、二人が来てくれて嬉しいという感情を表わせなくて。
 今も、きっとそうだ。
 早くよくなってほしいとか、心配しているとか、そういう感情が奥に眠っているのはわかっていても、表わす術がわからないファーにとって、作った料理に想いを込めるのが一番の方法。
 縁樹が自分の作った料理を食べて、身体を休めて、元気になってくれれば何より嬉しい。
 心配もなくなる。
「……味、こんなもんでいいか……」
 何度か味見して、よさそうな加減になったおじや風のたまご粥。適当に食器棚から器を借りて、箸では食べにくいだろうかられんげも一緒に持って、ファーは再び寝室へ向かおうとした。
 が、その前に気になるものが一つ。リビングにおきっぱなしにしてしまっている、掃除機。
「片付けるか……」
 その間に、たまご粥もいい具合に冷めてくれるのではないか。多分眠っていないであろう縁樹に対し、寝室に顔を覗かせ「掃除機は、どこへ片付ければいい?」と声をかける。
 予想した通りに眠っていなかった縁樹は、眠った体制のまま答えた。
「物置です」
「そっちの部屋の?」
「あ、はい」
「わかった。片付けておくな」
「ごめんなさい。お願いします」
 ファーは掃除機を手にし、物置として使っているという部屋に運んだ。中はきちんと整理整頓されていて、いかにも縁樹の性格を感じさせる。
 家の中もそうだ。
 ものがどこにおいてあるかもわかりやすいし、シンプルな上、清潔感をひしひしと感じる。本当に、縁樹らしいな、と思う。
 だから、掃除機だってどこに置いてあったのか容易に予想がついた。多分ここだろうと思われる場所に掃除機を置くと、ファーは物置を出ようとする。
 ふと、そんなとき。
「……ん? 縁樹……それに、ノイ」
 壁にかけてある一枚の絵に気がつく。普段の動きやすさを重視した格好ではなく、どちらかというと正装、ドレスアップを意識した――でも、シンプルな――姿の縁樹。それに、帽子を取り、こちらもしっかりと正装を意識している服に身を包んだノイ。
 はじめてみるそんな二人の姿に、一瞬誰だかわからなかったが、間違いなく縁樹とノイだ。その絵がかもし出している雰囲気は、とても優しくて、縁樹が浮かべている表情も見たことがないぐらいやわらかいものだ。
 むしろ、無防備、という表現のほうがあっているかもしれない。心から信頼を置いている相手に見せた表情なのだろう。
 縁樹にとって、この絵を描いた人物がどれほど大切だったのか、思い知らされる一枚。ファーはしばらく黙ってその絵を見つめると、物置を後にした。

 縁樹が大切と思う人物の描いた一枚の絵。
 見た瞬間に、その絵のかもし出す雰囲気に飲まれた。
 いつも縁樹がくれる優しさを、あの絵からも感じる。
 魂がこもった――「本物」の絵。
 自分には見せたことのない表情が閉じ込められた……一枚の絵。

 俺のいない――空間。

「な……」
 いつの間にか強く拳を握り締めていたらしく、ツメの後が手のひらについてしまった。そんなにツメがのびていた覚えはないため、とんでもない力で握ってしまったのだろう。
「……なに、やっているんだ。俺は……」
 完全に無意識のうちの行動で、思わず嘲笑が漏れた。
 そんなことよりも、早く縁樹にたまご粥を渡して、薬を飲ませて、身体を休ませなければ。
 ファーはテーブルの上に置いたまま、もう十分冷めたたまご粥を持つと、寝室に入った。
 
 ◇  ◇  ◇

「縁樹、これなら食べられそうか?」
「あ……はい。ごめんなさい、作ってもらっちゃって……」
「ミルクのリゾットより食べやすいものをと、思ったんだが、思いつかなくて、結局似たようなものしか作れなかった。食べやすければいいが……」
 その言葉を聞いて、縁樹はきょとんとする。そして知る。ファーが先ほどの縁樹の問題発言を、どう受け取ったかを。
「どうした? 食べられなさそうか?」
「そ、そんなことないです。食べれます」
 寝かしていた身体を起こし、ベッドに座ると、ファーからたまご粥を受け取った。
 一口運び、口の中にほのかに広がるしょうゆの香りを感じる。色を見た限りでは、そんなにしょうゆが入っているようには見えないが、本当に隠し味程度に入っている香りが、ちょうどいいし、食欲をそそられる。
「おいしいです」
 素直に答えるが、ファーからの返答はない。
 いつもなら、店で出てきた甘いものや、軽食に「おいしい」というと、嬉しそうに微笑んで「そうか」と答えてくれるファーだが、なんだか今日は様子がおかしい。
「ファーさん?」
「……え? あ……すまない、ぼーっとしてしまって……」
「風邪、うつしちゃったとかそういうこと、ないですか?」
「いや、そうじゃない。少し、考え事を……」
「考え事……ですか?」
「ああ」
 じっと遠くを見つめる瞳。そこに映るものがなんなのか、縁樹には予想もつかなかった。少なくても、自分ではない。今のファーには、縁樹の姿が映っていない。
「……俺が風邪を引いたとき……縁樹が、そばにいてくれて、とても安心した。でも、それと同時に……恐れる気持ちが沸き起こった」
 おもむろに口を開いたファーが、語りだす心境。
「恐れる……気持ち?」
「ああ。お前にすがり、甘えることをどこかで……拒もうとしている自分がいた。結局、そんなものよりも、もっと大きな不安に駆られて、お前にそばにいてもらって……風邪をうつしてしまって」
「こ、これはファーさんの風邪じゃないですよ! 多分」
「そうなのか?」
「はい」
「……よかった……」
 たまご粥を少しずつ食べながら、ファーをしっかり瞳に捕らえてうなずいてみせると、嘘ではないとファーもわかったのか、肩の荷が下りたように安心した表情を見せた。
「その、ファーさんが感じた恐れる気持ちって、一体なんなんでしょうね……」
 自分の風邪なんかよりも、ぽつりとファーが語ってくれたことの方が気になる。
「実は、同じような恐れる気持ちを、さっきも感じた」
「え? さっき?」
「ああ……物置に、絵が飾ってあるだろう? お前と、ノイの」
 ドキッ。
 突然胸の鼓動が早くなる。なぜだかわからないが、あの絵について聞かれることを、とても「嫌だ」と感じた。同時に、なぜだか、ファーに見られたという事実に慌てる心があった。
「それを見たときに、俺には入り込めない雰囲気を感じ取って、胸が痛くなる気持ちを感じた。なぜだかはわからない。でも、どうしてそんな風に思うのか考えようとしたら、とたんに怖くなった」
 あの絵を見て、自分の中に産まれた「嫉妬」の意味を考えようとしたら、考えてはいけないと、脅しをかけられている感じだった。
 その意味を見つけてはいけない。
「……知らない感情。捨ててしまった、封じてしまった感情なのだろうな……。だから、思い出すことに臆病になっている」
「それは……僕に対する感情、なんですか?」
「たぶん、そうだと思う。そばにいたいと思うし、お前はとても大切な奴だ。永久に対するものとは違うし、ノイに対するものともどこか違う。でも……その意味を考えようとすると、怖くなる」
 ファーは自分の両手を見た。
「思い出したら……人に害をくわえるような存在に……過去の俺に戻ってしまうのだろうか……」
 震えているのがよくわかる。それは本人だけではなく、ファーと同じようにその両手を見つめる縁樹にもよくわかった。
 縁樹はすぐに、持っていた器を膝の上に置き、ファーの両手を同じもので強く握り締めた。驚いたように顔をあげるファー。微笑んだ縁樹と目が合う。
「大丈夫です。ファーさんは昔に戻ったりしません。僕が保障します」
「……縁樹」
「ファーさんが昔に戻らないように、しっかり見てます。今のファーさんを知ってる僕が、ちゃんとそばでファーさんを見てます」
 どうしてこんなにも――縁樹は自分を包み込むのだろう。
 いつだってそうだ。出会ったときからずっと変わらない、この小さな身体から発される大きな包容力が、何度自分を包み込んだことだろう。
 今は、風邪を引いてしまった縁樹を、ファーが支えなければいけないはずなのに、まだ、ファーが支えられている。
「恐ろしいと思うことを、無理矢理に思い出そうとしなくてもいいと思います」
「だがそれでは、俺が納得できないっ!」
「――僕も今、探しているんです。今まで知らなかった気持ちが心の中にあって、その気持ちがなんていう名前のものなのか、探しているんです」
「……探して……?」
「はい。でも、誰の力も借りないで、自分で見つけようと思ってます。ゆっくりでいいから」
 少しずつでいいから、近づきたい。近づいて、近づいて、ときにほんの少しだけ遠ざかって、でもまた近づいて。
 いつか、この気持ちの名前を見つけられると信じている。
「ファーさんも、自分のペースで、ゆっくりゆっくり、恐ろしいと思う気持ちを取り除いていけばいいんだと思います。そうすればきっと、ファーさんの中にある気持ちの名前、見つかりますよ」
「……そう、だな……焦るから、いけないんだな」
「はい。ノイが言ってました。ごちゃごちゃ考えてることに限って、結構シンプルなんだって」
「……ああ。あいつらしい」

 自分のいない空間に見えた、やわらかな雰囲気への嫉妬。
 知らない姿への沸き起こった、感情。

 作った料理を食べてほしいと思った気持ち。
 大切な思い出であるあの「絵」を見られたことへの焦り。

 その全てへの答えを。
 胸の中に眠る気持ちの名前を。
 いつか――見つけられると、信じている。
 
 ◇  ◇  ◇

 縁樹はたまご粥を全部食べ終え、ファーが風邪を引いたときに飲ませてくれたあの薬を飲むと、すっと眠りについた。
 本当だったら、あんな話、今日するべきではなかった。風邪を引いたときに、どれだけ心が気弱になって、不安が沸き起こってくるかは自分が体験してよくわかっていたはずなのに。
 心に負担をかけてしまうような話をしてしまった。
 けれど縁樹は微笑みながら、強く、まっすぐに前を向いていた。芯がしっかりと彼女の中心を支え、決して曲がらない意志を持っていた。
 それに支えられてばかりの自分。
 思い出してはいけないと、身体が、危険信号を出している感情への恐れ。それとは裏腹に、思い出したいと、理解したいと願う本能。矛盾していく心の中で、大きく揺らいでいる決心。
 わけがわからなくなったところを、優しく支えてくれる――縁樹。
「……世話に、なりっぱなしだ……」
 今日こそ、彼女の世話をし、今までの礼をつくせると思ったのに。
 結局、支えられたのはファーだった。
「……すまない……だが――」
 ファーがそっと、縁樹の額に落ちる前髪を、右手で払う。アッシュグレイの髪がファーの手をくすぐる。
 起こさないように、まるで壊れものに触れるかのように、ファーが縁樹の額に同じものを触れ合わせると、静かにまぶたを下ろした。
「……お前へのこの感情の名前、必ず見つけると――誓う」
 ほぼ、無意識の行動だったのだろう。その行動の意味も、名前も知らない。
 けれど勝手に、身体がそうしろと動いていた。

 ――唇を重ねろ――

 脳が命令を下す。ファーはゆっくりと、その命令に従おうと行動を起こす。
 あと数ミリでも動けば唇が触れ合うと思った刹那。
『なぁぁぁぁにやってんだ、こらぁぁぁぁっ!』
 罵声と共に無数のナイフが飛んできて、ファーが死にそうな目にあったことを――すっかり眠ってしまっていた縁樹は知らない。
『おい、ファー!』
 いつからそこにいたのか。大声を轟かせるノイに「しっ」と人差し指を立て、口元に持っていくと、とたんにノイが「うっ」と言葉を詰まらせる。
「ノイ……本気で投げただろう?」
 ノイを掴んで肩の上に乗せながら、寝室を出ると、リビングのテーブルに腰をおろした。
『当たり前だ』
「……一体どうして……?」
『ど、ど、ど……どうしてってお前! それはお前が、縁樹に……きき、き……』
 キス、しようとしてたから。
 紡ごうと思った言葉がうまく声にならない。なんだか、恥ずかしくて。
『と、とにかく、手ぇだしたらゆるさねぇからなっ!』
「……手をだす……? 俺が、縁樹に?」
『そうだよ! たった今、出そうとしてただろうが!』
「は……?」
 目を点にして、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているファー。むしろ、そんな態度のファーに対して、目が丸くなるノイ。
『……お、お前まさか……自覚ないのか? さっきの行動』
「ぼーっとしていて、気がついたら突然、ノイのナイフが飛んできていて……」
『無意識……』
 ノイが大きくため息をつきながらがっくり肩を落とす姿を見て、首をかしげる。
『だから余計に、性質が悪いんだよ! まったく……』
 そのあともずっとぶつぶつ言っていたノイだったが、ファーが準備をした、縁樹のミルクのリゾットを口にしたら、とたんに静かになった。ファーも味わって、リゾットを食べる。
「俺、縁樹が起きるまでいてもいいか?」
『勝手にしろよ』
「……言わなきゃいけないことが、あるから」
『何言うんだよ?』
 もしかしたら、本人を前にしたら素直に出てこないかもしれないけど、これだけはどうしても言いたい。
 ミルクのリゾットを全部食べ終えて、ファーはめずらしく、表情を緩ませながら一言。

「……うまかった。ごちそうさま……と」

 そんな言葉をつぶやいて、ノイを大層驚かせた。



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■       ○ 登場人物一覧 ○       ■
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 ‖如月・縁樹‖整理番号:1431 │ 性別:女性 │ 年齢:19歳 │ 職業:旅人
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■       ○ ライター通信 ○       ■
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この度は、NPC「ファー」との一日を描くゲームノベル、「閑話休題」の発注あ
りがとうございました!
縁樹さんの風邪の看病にいったはずが、うちのバカファーがまたもや、縁樹さん
に支えられてしまった……という話でした(汗)本能ではわかっているけど、理
解しようとすると怖くなるファーと、まだその気持ちの名前はわからないけれど、
何となくファーを意識している縁樹さんの雰囲気を出せていたら嬉しいです。
最後はやっぱり、ノイのお邪魔が入るという落ちで(^^
それでは失礼いたします。この度は本当にありがとうございました!
また、ぜひ紅茶館「浅葱」にお越しください。お待ちしております。

                           あすな 拝