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<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


クリムゾン・キングの塔 【7】永い別れ







 かれが進むたびに、踏みしだかれた瓦礫が真鍮に変わっていく。
 腐りつづけるブリキの山を背にした天使が、のろのろと歩き出す。
 かれの頭の中に、目的というものはきっと、ない。

 かれをとめておくれ――。

 こころのひとつが、幾人かに囁きかけた。
 それは、人類の願いそのものだ。
 人類は、かれをころせ、とは言わなかった。人類は、かれとともに生きることを望んでいるのか――。

 崩壊した東京の中で、人間たちはたたずむ。
 見えなくなってしまった墓碑銘、風、月から生まれた者とともに、未だに見える狂気と対峙する。

 だというのに、いま別れを告げていくのは、誰だというのだろう。



「あ、あ、あ、お、おおお」
 ずしん、と真鍮天使が一歩前に踏み出す。びしりと地面が真鍮いろに凍りつく。ずしん、とまた一歩。その繰り返しだ。何もかもが崩れ去ってしまった東京であったから、実に多くの人間が、かつて東京タワーと『塔』があり、ブリキのドラゴンが現れた、その場に集まっているのだった。
 狂える天使にあてはないらしい。ただ、ふらふらと危うい足取りで、ただ前へ前へと進むだけだ。彼の背後に、真鍮いろの道が出来ていく。人々は、天使から距離を取った。
「がんが、にの、なとり、おやゆび――」
 呟いていたかと思えば、
「アバラバーン!!」
 喉も裂けよとばかりに叫ぶ。
 だが、何故か、誰しもが逃げずに、天使を見つめていた。
 ――とめなくちゃ。
 ――とめないと。
 何かに囁きかけられて、彼らはその使命感を強く抱くばかりなのだ。

『かれをとめておくれ。かれは、狂気そのものだ。僕らが、恐ろしいものや嫌なことから逃げるために蓄えてある、狂気なんだよ』

「とめなくちゃ」
 消え入りそうなほどに小さな声で、頼りない足取りの羽澄が言った。その身体を支えたのは、シュラインだ。羽澄を支えながらも、シュラインの目は動く真鍮天使を見つめていた。その目は素早く周囲を検めた。倒れている者がある――志賀哲生だ。
「大変! 怪我してるわ。九尾さん! 志賀さんが怪我してるのよ!」
「見えてます」
 哲生はまだ生きているようだったが、立ち上がらない。桐伯はある意味で冷徹だった――一歩たりとも動かず、真鍮天使の背を見つめているばかりだ。シュラインは羽澄を支えているために動けず、哲生の脇腹からは今も血が流れ続けている。
「かれをとめないと……!」
 言ってから、シュラインはハッとした。
 つい一秒前まで哲生の身を案じていたのに、なぜ、それをも優先して、天使をとめろと自分は言ってしまったのか?
 ――私の言葉は? 私の本当の言葉は、また失われたの?

「みんな言ってる……みんなが……<鬼鮫>さんをとめる気だよ」
「俺はそんな義務感は感じねンだが、それってやっぱり、人外の証なのかね」
「左様」
 天使と人間を遠巻きに見つめるのは、月弥と和馬。
 和馬の疑問に答えたのは、アラミサキだ。魅咲と名乗る神の一柱だ――。
 てん、てん、と深紅の手毬をつきながら、彼女は現れるようで、消えていた。
「時が移ろえども、ヒトのこころはさほども変わらぬ。だが今は違う。魂どもは惑い、恐れ、狂気を忘れようとしている。狂気なきヒトは、目を隠された猪よ」
「手伝おう」
 月弥は、魅咲の深紅の袖を掴んだ。振り払われなかったことに安心すると、月弥はその神の小さな手を強く握って、深紅の目を覗きこんだ。
「ヒトが迷わないように、進むのを手伝ってあげたいんだ、おれ。もう1回だけ手伝って!」
「……」
 魅咲の表情が曇った。神には似合わぬ、迷いと翳りであった。
 その彼女の傍らに立ち、すっかりスーツもよれた和馬が、これもまた彼らしくもなく――いつにない真剣な眼差しで――魅咲を見下ろす。
「俺からも頼むわ。俺も手伝うつもりなんでよ。つっきーにも見破られちまった。……俺は人間がいる世界が好きだ。だからダラダラ生きてるのさ」
 和馬はそこで、にやりと照れ笑いをしてみせた。
「1回手伝うのも2回手伝うのも同じだろ。あんたの唄を聴いたよ」
 魅咲がまっすぐに前を見た。
 狂気が横切ろうとしていた。

 血。
 血。
 血。
 血。
 ――痛ェ。
 血。
 ――俺の、血だ。
 哲生の手が、じり、と動いた。真鍮の骨は、哲生の脇腹に刺さったままだ。それでも、傷は致命傷というほどのものでもないこと、しかし長いこと放っておけば確実に死に至る程度のものであること、すぐに然るべき場所で治療を受ける必要がありそうだということは、医者ではない哲生にもわかった。
「あぅ、ぐ」
 ハリウッド映画の中の呻き声だ。
 ――俺はあの俳優に似てる。
 真鍮の匂いに混じって、哲生の鼻腔をくすぐる香りがあった。
 死。
 死、
 死。
 ――なんだ、この匂い。
 死。
 ――俺の……匂いなのか?
 動く異様な影に、哲生は目を見開き、身体を起こして、獣のような咆哮を上げた。死と血の匂いに酔いかけた自分がひどく恐ろしく、醜い存在に思えたのだ。つい昨日まで、死体の写真とホルマリン漬けの目玉に見惚れていた自分が、自分に恐怖していた。
 ――狂気だ。俺からも、狂気が取っ払われちまってる。あの旦那が……旦那だったやつが……全部抱えて、ひとり歩きしてるからだ。
 哲生は何気なく、自分の手を見た。いつか王の血で汚れていた自分の手が、今は、自分の血に染まっている。
「俺が殺して……俺が助け出した……俺がやったことなんだ……俺の、責任、か……」
「少しでも悔いているというのなら」
 傷ついた哲生に、桐伯の声が降りかかり、追い討ちをかけた。
「少しでも現状を改善するために、動いていただきたいものです」
「……わかってる。償いを……」
「あなたがしたことは、あなたの意思なのかもしれないし、私たちすべての意思なのかもしれないのです。償う相手はいませんよ。私たちはよく失敗し、終わってから後悔する。しかしまだ何も終わってはいないのです、志賀さん。まだ間に合います」
「……怪我人に……結構シビアだな、にいさん……」
「ただあの<鬼鮫>さんに、同情の余地はないと思っているだけですよ。あなたの怪我も、運良く内臓までは傷ついていないようですから、心配するのはかえって失礼かと」
「いいや……やっぱり、シビアだ――」
「とめましょう」
「ああ、とめる」
 ふたりは人間だった。

「どうすればいいの?」
 シュラインは何故か、羽澄に尋ねていた。自分で考えても答えは出せるかもしれないとわかっていたのに、羽澄のほうが簡単に真実に辿り着けそうな気がしたのだ。
 羽澄は疲れた目で最後の真鍮天使を見つめていた。今なお、シュラインに支えられたままだ。風が吹いたが、真鍮の匂いが混じっていて、胸と鼻が焼けつくようだった。
「うたうの……」
 羽澄は喘ぐようにして事も無げに答え、胸ポケットから鈴を取り出した。
 ちりりり、
 その音は、いつも響いていたようで、今は優しく耳をくすぐった。
「それだけじゃ、きっと駄目よ」
 シュラインの中で、答えがするすると姿を変えていく。進化していくのだ。自らの疑問が羽澄の答えを産み、やがて成長し、進化し、光明をつれて来た。
「人類全部の狂気を、たったひとりの人間が背負いきれるわけがない。あれは人類すべてに必要なものよ。九尾さんは嫌がるかもしれないけど、人間はときどき逃げるべきなのよ。だって、とても弱い存在だもの」
「狂気なき人間は、目隠しをされた猪なのですね」
「そう。何にだって飛び込んでいくわ。行ってはいけないところまで」
「無防備こそ、最大の防御――」
「狂気も、背負っていかなきゃならないの。真鍮の翼なのよ。私たちの、翼なのよ! 返してもらわなくちゃ! 徳治のオジさんから、剥がして、私たちが受け取るの!」
「――それから、うたえばいいんだわ!」


「どぅるるるるアアアアア! プリンタドライバ、ホイル焼きィイイイイ!!」


「あ!」
 声を上げたのは、月弥だった。
 真鍮天使が一際大きな声を上げ、何の目的もないまま走り出したのだ。すでに人間の足の速さではなくなっていた。踊りながら走る天使は、ばきばきと瓦礫や道を真鍮に変え、避けきれずにぶつかった人間をも狂気の真鍮のオブジェに変えた。
「ラスボスが本気出しやがった」
 和馬が獣じみた唸り声を上げた。
 ――そう言えば、俺がログインするべき世界の方は、どうなっちまったんだろうか。滅びちまったのか。魔王復活イベントは来月だったってのに。
「触ったら置物になっちまうぞ。つっきー、おまえ、ドラゴンとおんなじ方法は使えそうにないぜ」
「おれは人間じゃないし、おれが持ってるこころは普通のものじゃないよ。気合で時間を稼げると思う」
「思う、で行動すんな! 地面見ろ! こころがあろうがなかろうが、あのニイさんは全部ガラクタにしちまうんだ!」
「おれはおまえも裏切らないよ、和馬」
 振り返った月弥の蒼の目に、和馬は文句を飲み込んだ。
 強い光がある。
 月だ。
 和馬の中の狼の血を呼び覚ます、美しい光があった。
 ――こいつは、月の落とし子だ。『月の子』だ……。
 和馬が束の間言葉を失ったそのとき、駆けずり回る真鍮天使がもんどり打って倒れた。


 ぢゃらりぢゃらりと音が鳴る――
 ちりんちりんと、音が重なる――
 哲生の手から伸びた漆黒の鎖が、天使の足を捕らえたのだ。天使は倒れたが、たちまちその足を拘束している哲生の鎖も、くすんだ黄金色に変わり始めた。
「うおぅっ!」
 哲生は人並みに驚き、悲鳴を上げた。真鍮いろに変わった部分は、もはや彼の意思に従わなかった。桐伯がほとんど反射的に鋼糸を繰り出し、変色した鎖を断ち切った。桐伯は、使った鋼糸を惜しげもなく使い捨てた。鋼糸もまた、役目を終えると同時に真鍮に変わってしまったからだ。
 真鍮の鎖に足を絡め取られ、天使はしばらくもがいていたが、すぐにむくりと起き上がった。狂気に満ちた視線は、哲生や桐伯、シュラインや羽澄をとらえていた。
「おぅ、あ、あ、あ」
 見つけたぞ、と言いたげであったか。
 天使は一歩踏み出し、かつての<深紅の王>に近づいた。かつての王たちは、一歩も動かない。
「大学ノートが……火の海に……しましまの豚だ……ば、ば、ば、化物!」
「!」
「化物め!!」
 その瞬間、天使は<鬼鮫>の狂気を露わにした。

「ソウル・ボマー!!」

 怒鳴りながら<鬼鮫>に近づく影があった。獣のように牙を剥き、蒼く光る飾り物を握り締めたその男は、藍原和馬だ。<鬼鮫>が――いや、真鍮天使が――背を向けている。だが、首だけは振り向き、視界の中に和馬をとらえていた。
「ソウル・ボマー! こいつを喰ってみろ! こいつはイガグリの光なんだ!!」
 彼のその手の爪が長くするどく伸びていたことに、気がついたものはないだろう。
 和馬の呼びかけに、確かに天使が答えたのだ。
 天使が大きく口を開けて吼え、和馬が渾身の力をこめて投擲した飾り物が、ムーンストーンのピンブローチが、銀の矢のように黄昏を貫いた。
 ブローチは甲高い音を立て、天使の背に突き刺さった。
「よっしゃ!」
「ぼおおおおおお!」
「のぁア?! なんでこっち来んだ!」
 背に刺さった異物をものともせず、狂気が走る。和馬は一目散に逃げ出した。素晴らしい速さだ。
「つっきー! エピタフ、月の子、オウムに船乗り! 皆の衆! 俺のことは気にするな、しっかりやれよーッ!!」
 和馬はハードルを飛び越えるかの如く、横転したワゴン車をひらりと跳び越えた。それを追う天使はカートゥーンのネコのように、ワゴン車に激突してひっくり返った。倒れた拍子に、背に刺さっていたピンブローチがぐさりとその肉にめりこんだ。彼は体内のうちに石神月弥をおさめたのだ。

 エピタフ。
 月の子。
 オウムと船乗り。

「お願い、みんな……うたって」
 羽澄がシュラインの腕から離れた。
 その手が、虚空に差し伸べられる。タクトを手にした指揮者のようだ。
 その手を取った天使の姿を、シュラインは見た気がした。彼女は、自分が涙もろいことを忘れていた。ぶあっ、と視界が涙で歪む。
「エピタフ。月の子。ストレートマンに、レイトマン……居るのね。居てくれるのね」

「さあ、返していただきましょうか」
 桐伯の赤い視線が、冷徹に<鬼鮫>を貫く。
「それから、あなたが何から逃げ、何を成したかを知るとよいでしょう」

「うたって」







 静かな、歌詞さえも不確かな唄は、確かに、『ひとの唄』なのである。
 羽澄の歌声が人々や月弥を先導した。がくん、と真鍮天使の身体が跳ねた。
「返して」

「お願い、返して――」


 ――ひどいこころの中だ。おれも頭がおかしくなりそうだよ。
 真鍮の肉の中で、月弥は思わず咳き込んだ。唄は聞こえるが、脳裏に蘇るのは和馬の言葉だ。確かに、気合だけで何とかなるものではなかった。銀の身体が、ぱりぱりと金色に変わろうとしているのがわかった。<鬼鮫>はありとあらゆるものを喰うつもりだ。ひとつになるつもりなのだ。狂気に侵され、本能の塊になってしまった。
 見えるのは、<鬼鮫>が積み重ねてきた惨劇と、ほとばしる怒りに、絶望だ。『塔』から自分を救い出した志賀哲生にさえ、八つ当たりじみた憎悪を向けていた。真鍮をくすませているのは、このどす黒い狂気じみたこころなのだ。
 月弥は、かすかに聞こえる羽澄の唄をうたいながら、遠のく意識の中で哀願した。
 ――手伝ってよ、魅咲。


 紅い目がぎらりと光った。
「唄は、確かに我も聞き届けた。愚かな魂どもよ、愚かであればこそ、我はお主らを導き、或いは慈しむのだ。手伝おう。天使なるものに我が力は及ばねど、ヒトの肉と血、魂は、我が手中にあるのだ。ゆめゆめ忘るるな」

 ばりり、
 ばりっ……

 美しい唄の中で、天使の姿が醜く歪んだ。叫び声を上げる肉塊から、真鍮の部品が音を立てて剥がれていく。真鍮との融合は体内にまで及んでいたようだ。或いは魂にまで及んでいたのかもしれない。
 唄の中で震えるのは、血塗れの天使の骨組と、鬼の遺伝子を持つ人間の肉塊だ。夕刻に響く唄があればこそなのか、深夜に目の当たりにしたら卒倒しそうなその惨状も、ひどく美しくみえるのだった。
 天使の骨格は、獣のように四足で地面にしがみつき、のろのろと前に進み始めた。人間じみた骨格ではあったが、肩甲骨からは狂気の翼が生えていた。ぼたぼたと血と肉片を滴らせながら、天使は四足で歩く。
 それから、不意にその口を開けて、銀色のものを吐き出した。
 かちんと跳ねたそのピンブローチに、目の前の哲生は気がつかなかった。哲生は震えるふたつの存在に、見とれていたのである。
 ――俺もああいう風になれるのか。
 真鍮骨格の眼窩は、眼球もない、漆黒そのもの。その漆黒の中に星々を見た。見つめられているうちに、哲生の中に、狂おしいほどの愛情が戻ってきた。死体に頬ずりをし、そのうなじを撫でて、朝まで一緒に眠るのだ。
 ――なんて綺麗なんだ……。

 ぼぉぉぉぉおおおおおおおぉぉう!

 真鍮天使が、声帯も肺もない喉でそう吼えた。いや、それは、あくびであったらしいのだ。
「戻ってきて」
 シュラインが手を差し伸べた。
「お願い、そうすれば、また一緒にお酒を飲めるわ」
 そうして、シュラインの声が、羽澄のものになった。


  おねがい もどってきて
  わたしはぼくにはなれない
  わたしがぼくであるから
  おねがい もどってきて
  ぼくのすべてが わたしたちの ものなのよ

  一緒に、歩きましょう。


 もはやそこに、真鍮の『塔』はない。
 変革までの間、『塔』留め置かれるはずだったこころ。『塔』なき今、こころはもとあるべき場所へと還るだけだ。
 骨は眠りにつき、崩れ落ちた。翼が砕け、まばゆくおそろしい金の光が爆発した。何の脈略もない言葉の羅列が、人類の脳裏を駆け巡る――。
 それこそが、21世紀の精神爆破魔の、挨拶であったらしいのだ。
 天使たちは、戻ってきた。目には見えない姿こそが、彼らの本当の姿であるから、今は声は聞こえても、どこにもその姿を見出せない。
 羽澄はがくりと膝をついた。
 徐々に暗くなり始めた夕暮れの空は、深い橙と蒼が入り混じっている。


「シュラインさん、光月さんをお願いします」
 桐伯が一歩前に踏み出した。
「え?」
「旦那はまだ生きてる……」
 呟いた哲生が、それきり意識を失った。
 桐伯が冷静に見据える中、骨と翼を失った肉塊が、再生を始めていた。<鬼鮫>はもはや、殺しても死なない化物であったから。

「なんてこった……ありゃ、プリーストのターンアンデッドでなきゃ倒せないんじゃないか?」
 横転したワゴン車の上に乗っていた和馬が、呆れた声を出す。
 彼の眼前で、ぼろぼろのコートと壊れたサングラスのヤクザじみた男が、すでにその身体を取り戻して、のろりと立ち上がりさえしていた。
 <鬼鮫>はその辺りに落ちていた曲がった鉄パイプを手にとると、刀のように振り回しながら、ふたつの女の名前を叫んでいた。
「しかも、すっかりイカレちまってる」
 狂気に侵された『人間』ほど、厄介で人間らしいものはない。
 和馬は、ハッと視線を動かした。<鬼鮫>の前には、見慣れた人影がある。九尾桐伯、シュライン・エマ、光月羽澄――倒れているのは、志賀哲生だ。哲生の前で青白く光っている小さなものは、石神月弥であるに違いない。
 紅い振袖の彼女は、もういなくなってしまった。あとは、自分たちで何とかしろと言っている。
「ぅお、ぅぉ、うおおおおおぉぉう!!」
 ついに名前らしきものも喋らなくなった人間が、立ち尽くしたままの影たちに向かって突進した。
「やめろ! バケモンが!!」
 牙を剥いた和馬は、ワゴン車から飛び降り、凄まじい勢いで突進して<鬼鮫>に組み付いた。鉄パイプは、まさに桐伯の頭をかち割る寸前だった。
「化物」
 桐伯が、蔑みをこめた視線を<鬼鮫>に下す。
「あなたがこれまで行ってきた『お仕事』は、あなたにとっても、世界にとっても、何の意味もないものなのです。あなたは復讐でも享楽でもなく、ただ破壊していただけだ。あなたはそれに気がついても、償おうともせずに逃げようとしましたね」
 桐伯の目がぎらりと赤い光を放ったのを見たのは、和馬と<鬼鮫>。
 和馬は悲鳴のような気合とともに、<鬼鮫>から離れた。
「き、九尾さ――」
 鉄パイプを振り上げた<鬼鮫>が、一息で燃え上がった。生きた肉が焼け、溶けていく臭いが周囲を焦がす。シュラインは呆然と、火の男のダンスを見つめていることしか出来なかった。桐伯もまた、今やただ見つめているばかりなのだ。

「その魂で、償うがよい」

 霧嶋、の表札。
 ――ん?
 何故自分は、仕事着のまま居間でゆっくりしているのだろう。サングラスまでかけて、ロングコートも脱がず、白木の鞘の長ドスまで携えて――。
 無意識に抜き放った白刃には、べっとりと血と髪がこびりついていた。徳治は眉をひそめた。斬った後は、血も脂も念入りに拭い取ってから、鞘に収めることにしているはずなのに。
 ぷん、と血の匂いが鼻をつく。
 いい香りだ。
 徳治はその匂いを辿ってみた。どうやら、台所に臭気のもとがあるらしい。
「――」
 長ドスを取り落としそうになった。名前も叫び声も喉に張りつく。頭を割られてそこに倒れているのは、彼の妻と娘に他ならない。
 ――俺が殺したのか。そんなはずはない。ふたりは、化物に殺された――
 磨き上げられた食器棚のガラス戸に、忌むべき化物はしっかり映りこんでいた。
 サングラスをかけ、ロングコートを着た、牙を剥く化物だ。
「化物!」
 よくも!
 よくも!
 よくも!
 彼の怒りが火をつけたのか、ガスコンロが唐突に爆発した。徳治の身体はたちまち炎に呑まれた。よろめき、手をついた食器棚のガラス戸が粉々に砕けた。
 ――化物……化物め。殺してやる……殺してやる……殺してやる!
 見つめた燃える手のひら、その指の先の爪は、オウガのようにするどく尖っていた。
「銅メダルを、電話ボックスの、横に置いていけ」
 炎の中から、どこかの国の軍人が現れた。彼は怒りと狂気に満ちた顔でそう言うと、徳治の喉元にがぶりと噛みついたのだった。
 軍人の背には、真鍮の翼が生えていた。
 ちりん、ちりん――
 燃える霧嶋家の中で、紅い手毬だけが平然としていた。


 <鬼鮫>は燃え尽きた。灰も残さず、溶けてしまったのだ。煤けた鉄パイプとサングラスが、桐伯の足元に落ちた。
「狂気――」
 なるほど、今自分を駆り立てたのも、狂気の片鱗なのだろうと、桐伯は鉄パイプを見つめながら自嘲した。
「IO2に引き渡した方がよかったんじゃない?」
 シュラインが桐伯に言う。しかし、彼女は桐伯を特に責めるつもりもなかった。<鬼鮫>は桐伯に襲いかかっていたし、この場にいる誰が、いまの炎を呼んだのが九尾桐伯であることを知っているというのか。
「IO2?」
 シュラインを見た桐伯が苦笑する。
「この空の下では、いかなる組織も無力なのですよ」
「そのうち何もかも復興するわ。東京も広島も長崎も、生き返ったんだもの。今回だってきっと大丈夫」
「しかしそのときまで、彼を野放しにしろと?」
「――それは、無理ね」
「にしても、燃やすんならちゃんと最初に断ってくれ」
 尻餅をついた体勢のまま、渋面の和馬が焦げた前髪を整えていた。
「あんなオッサンでも、なるべくなら助けたいって思ってたやつもいるんだし」
「それは、失礼しました。その方に謝らなければ」
「こいつだよ」
 和馬はブルームーンストーンのピンブローチを拾い上げた。
 金の夕暮れの光を浴びて、ブローチは真鍮いろに輝いて見えた。
「それと、あっちで倒れてるあのにいさんに、あのお嬢ちゃんもだ」

『石ちゃん、石ちゃん、キャベツがいっぱい。ずっと冷たく洗ってくれる?』
『うん。一緒だ。おれは絶対に裏切らないよ』
『でも、ばいばい』
『……うん。先に挨拶してから行ってくれるなら……それは、裏切りじゃないよ』


『また唄ってくれたんだね、羽澄君』
 彼女の耳元で、天使が囁いた。
『ありがとう。もう一度聴きたいと思っていたから』


  そう わたしはわかっているの
  いつまでもあなたはそばにいる
  わすれようとしてもきっと
  そう わたしはわかっているの
  あなたをわすれることなんて……

  そう わたしはわかっているの


「愛してた、なんて言うのは、私にはまだ早いかしら」
 金色の空を見つめてまばたきをすると、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「だから、せめて、――『好き』だったわ、エピタフ、月の子、ストリートマンにレイトマン……ソウル・ボマー」
 ――でも、愛しながら憎んでいたの。わかる? わかる? ……わかる?

『一緒に行こう』
「ええ」
 彼女は今や、しゃくりあげていた。
 子供のようにだ。
「ずっと傍にいて。寂しいの」
 ぼぉぉぉぉおおおおおおおぉぉう!
 汽笛は、こころを打つ。
 びりびりと空気さえ震わせているような錯覚を覚えたのは、人間たちだけだ。犬も鳥も狼男も、けっして首を傾げたりはしなかった。
「……行ってしまうのね。行ってしまうのは、だれ?」

 ――俺に、もう、罰は与えないのか。
 見えない闇に、哲生は笑いかけた。
 ――何なら、このまま、真鍮の置物にでもしちまえばいい。こんな頭のおかしい探偵がひとりいなくなって、真鍮の置物がひとつ増えたところで、人間たちは困らないさ。
『真鍮になってしまったら、きみから死臭が消えてしまうよ』
 ――ああ、そうだな。
『きみはどこにも居なくなってしまうよ』
 ――……それは、勘弁だ。
『きみはもっと死を見つめていたいんだろう?』
 ――ああ。最後の人間の最期まで見届けてやる。
『それなら、罰は、これだ。
「きみは志賀哲生」』
 哲生は目を開けて、港区を見つめた。
 名物の東京タワーは、結局帰ってこなかった。ときどき、目障りだと思っていたものがそこにない。
 それはそれで、奇妙なほどに寂しいものだ――
 殺風景になってしまった――
「つまらなくなったな……」
 哲生は呟いてから、自分はなんとわがままなのだろうと、呆れて笑った。
 ――俺は結局、救われやしないんだ。
 それから、再び意識を失った。







 戦後の根性を、日本人はまだ忘れていなかった。
 数ヶ月も経つと、都市機能は異変前の八割程度にまで回復していた。
 草間興信所とアトラス編集部は営業を再開していたし、神聖都学園に生徒は何事もなかったかのように登校し、本当に何事もなかったかのように、アンティークショップ・レンと高峰研究所は異能者たちを吸い寄せている。ゴーストネットOFFも、更新が再開されたようだ。
 シュライン・エマは、微笑みながら買ってきたばかりのCDを取り出し、興信所の古びたCDプレイヤーにおさめた。情報交換しあっていた草間と志賀哲生が、結構な音量でかかった曲に首を傾げる。
「これ、なんだ?」
「新曲」


  金の音色
  それは真鍮の香炉から立ちのぼるのでしょう
  子守唄は
  永遠の子を永久の眠りに誘うのでしょう
  わたしたちはここにいて
  ぼくたちは船に乗り/旅立ってしまった
  燃える血
  それはひとの脳裏を焦がすのでしょう
  雄叫びは
  狂える神父を葬るのでしょう

  粉々になってしまった血の王は
  わたしたちが殺して
  ぼくたちが埋めた
  ばらばらになってしまった天使たちは
  わたしたちが殺して
  ぼくたちが食べた

  罪は深紅
  罰は黄金
  わたしたちは/ぼくたちは
  真っ白な道を深紅に染めていく。

  けれど、鳥は飛んでいくの
  鹿は草原を走っていくの
  石は輝いていて
  太陽と月は見下ろしているの

  寂しがり屋のわたしたちは/ぼくたちは
  きっと忘れることはないのでしょう
  愛すべきものは/憎むべきものは
  きっといつでもそばにいてくれるのでしょう


「魅咲と、月の子と、みんなと、一緒に歌った唄だ!」
 石神月弥が昇る満月に手を広げ、大きく笑った。
「絶対、来週のチャート1位だ! そう思うだろ、みんな!」
 かたかたと瓦が頷いた。ひょっとすると、風で震えただけなのかもしれないが。

 lirvaの唄が街を包んでいる。
 藍原和馬は、ぼんやりとその唄が終わるまで仕事の手を休めていた。
「聞いた声だな――」
 ――CD、買っとくかな。タイトルは……そうだ、『クリムゾン・キングの塔』だ。
 その日の仕事も日払いだ。
 和馬は足元の一際大きな瓦礫を持ち上げた。瓦礫の下から、ブリキの翼が出てきた。和馬は思わずつるはしを投げ出すと、ブリキの翼を拾い上げた。
 ――CDの前に……ラムだ。ラムを買って、ここで、ぐいっと一杯だ。『ケイオス・シーカー』であのにいさんのカクテル一杯やるってのもいいけど、やっぱり、今夜は――
 和馬が掴み上げた途端、ブリキはぐずぐずと腐り、指の間からこぼれ落ちていった。1分後の和馬は、何も掴んではいなかった。
「……」


  寂しがり屋のわたしたちは/ぼくたちは
  きっと忘れることはないのでしょう
  愛すべきものは/憎むべきものは
  きっといつでもそばにいてくれるのでしょう


 銀の月は沈み、金の太陽が昇った。
 そして、人類の歴史が始まる。





<了>


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   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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【0332/九尾・桐伯/男/27/バーテンダー】
【0086/シュライン・エマ/女/26/翻訳家&幽霊作家+時々草間興信所でバイト】
【1282/光月・羽澄/女/18/高校生・歌手・調達屋胡弓堂バイト店員】
【1533/藍原・和馬/男/920/フリーター(何でも屋)】
【2269/石神・月弥/男?/100/付喪神】
【1943/九耀・魅咲/女/999/小学生(ミサキ神?)】
【2151/志賀・哲生/男/30/私立探偵(元・刑事)】

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               ライター通信
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 モロクっちです。大変お待たせしました。わたしの都合でこのお話を完結させずにしばらくお休みしたことをお詫びいたします。これで、『クリムゾン・キングの塔』という物語は幕となりました。皆様、本当にありがとうございました。
 だいぶ長くなりましたが、今回も分割はしておりません。
 この作品のテーマは、わたしのような若造が描くにはまだまだおこがましいものでした。20年後にでも、また同じテーマとシナリオで、『クリムゾン・キングの塔』を書こうと思っています。
 いまの時点の『クリムゾン・キングの塔』でも、少しでも皆様のこころに残るようなものであれば、これ以上の喜びはありません。

 また、一緒にお話を作っていただけたら幸いです。
 それでは、この辺で。

 タシマイザゴウトガリア。