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『桜の咲く頃』
●オープニング
「ちょっと、さんした君!」
と碇麗香の声に呼ばれて、デスクへと向う。彼女がこの口調で自分を呼ぶ時には、無理難題を吹っかけられる時と決まっている。
「これ、読んで頂戴」
と言って渡された手紙の文面だけを見て、三下は絶句した。
「Hello my name is jakoburefu」
何だ、これは?
「へ、ヘロウ……。いや、ハロウ。まいねーむいずじゃこぶれす?」
目を白黒させて汗を流しながら、流暢とは程遠い発音で三下は最初の一文を読み上げる。 「ヤコブレフでしょ? 何、読めないの?」
鋭い視線が突き刺さる。三下忠雄は汗を拭きながら、恐る恐る頷いた。
「む、無理です。英語なんて読めませんよ。勘弁してください」
「まったく、何やらせても役に立たない奴ね」
碇麗香本人は呟いたつもりであろうが、どうひいき目に見ても聞こえないように言っている風には思えない。
すがる様な目つきで上目遣いに自分を見る部下に、碇麗香は溜息をついた。
「いいわ。誰か英語の出来る人間を連れて行きなさい」
「へ?」
と三下忠雄は鳩が豆鉄砲を食らったような間抜けな顔をした。
「だから、チャンスを上げるからこの依頼をきちんとこなして見せろと言ってるの。誰でもいいわ、さんした君、あなたがアシストするの。分かっているわね?」
「……はい」
という事は、やはりこき使われるのだろうか?
「もう、アポイントメントは取ってあるから、時間通りにその場所に行きなさい
分かったわね?」
情けない表情のままの三下忠雄は、恐る恐る、聞く。
「あの……怖い事は起きませんよね?」
碇編集長はにっこりと笑った。
「ええ。この依頼を失敗させたりしたら、保証の限りじゃないけれどね」
彼女の笑顔は、間違いなく女神の贈り物だった。ただし機嫌を損ねたら最後、悪魔とは比較にならない罰を受ける羽目になるだろう。
三下忠雄は冷汗を拭いながら、同行者を探す為に碇編集長の前を後にした。
●花を愛でる心
「わざわざ呼び立てれるから、こうやって来て見たのだが。花見とはまた変わった趣向だな、蘇蘭。……しかし、この場所は何だ?」
プロレスラーを思わせる巨躯を高級なスーツに包んだ壮年の男性、荒祇天禪は空港のロビーにどっかりと腰を下ろしながら、溢れ返る人を眺めている。花見と聞いてやってきたのだが、どうもここはそんな場所ではないような気がする。
「そう慌てるでないよ、天禪。私がただの花見にわざわざあんたを呼ぶと思うかい?」
艶然とした笑みを浮かべて、紅蘇蘭は手にしたキセルをふかした。白磁の肌と衣服の赤。白と赤のコントラストが妖しいまでの美しさの妙齢の女性である。胸元が大きく開いたセクシーな赤いチャイナドレスを着こなし、高く結い上げた発色の良い長く赤い髪がそれを飾る。手にした長キセルが彼女の妖艶さに粋なアクセントを与えていた。
「まあ、そうだがな。それで、いったい何だ?」
「あれさね」
言いながら、蘇蘭はキセルを口から離して指し示す。
ちょうどこちらへ向けて一人の老紳士が歩いてくるところだった。
「あれ、ヤコブレフさんだろ?」
そう言ったのは、二人の隣で会話を聞いていた新村稔だ。三人の中ではとりわけ歳若く見える青年である。むろん見かけだ。短く赤い頭髪が、彼の勢いを象徴するかのようである。シックな黒いジャケットを着こなしてはいるが、固さは感じられない。自由なまでの軽快さが窺えるだけだ。稔は鼻にかけた淡いグレーのサングラスを指で支え上げながら老紳士を指差した。
「よくわからんな。どういう意味だ、蘇蘭?」
「だからさ、花は花でも、心の中に咲く花さね」
「心の中に……?」
やはりまだ合点がいかないという風に、天禪は太い眉を片方だけ吊り上げた。
実はまだこの依頼の内容を天禪は聞いていない。稔の方が納得するのは早かった。
「へぇ〜。そういう事。なかなかしゃれてるね」
と稔が口元を緩める。
一人事情を飲み込めない天禪は「おいおい。説明してくれないのか」とにやりと笑った。 空港のロビーの中で、蘇蘭、天禪、稔はひと際目立っていた。三人とも長身である事も一つだが、何よりもその組み合わせだ。
一人一人なら威風漂うだけだが、三人が一緒になっていると異彩を放っている感じがする。周りに人がよりつかないのも多分そのせいだろう。
老紳士にとってはわかり易くて良かったのかもしれない。
「はじめまして。ヤコブレフと申します」と老紳士は手を差し出した。その手を取ったのは天禪だ。他の二人にはそういう挨拶の慣わしがない。
天禪は大企業の会長ともあってその手の挨拶には場慣れというものがある。
「遠い所から来たそうだな。疲れただろう。後は我々に任せて置けばよい。大船に乗った気でいるんだな」
一番事情を知らない天禪が言える台詞ではないが、その内容に間違いはない。少なくとも老紳士の手を取った瞬間に、天禪には事の真相が手に取るように見えている。
天禪の正体は千年近い時を生きている鬼だ。呪術を初めとする能力も他に並ぶ者がないほどに卓越している。となれば、老紳士の言葉の中から記憶を読み取るなど容易い事だった。
「……はあ、そうですか。それは有難い事ですが」
とヤコブレフ氏はやや驚いたように言葉を濁らせた。自分自身ですら夢の正体もろ、事件の真実もわからない状態なのだ。にもかかわらず初対面の天禪にこれほどの自身のある態度をされてしまうと、戸惑いすら覚えてしまう。
「なに、御心配なされまするな、御老体。依頼は既に解決済み故、後はあなたを御案内するのみ」
赤い瞳に妖しくさえ映る光を湛えて、蘇蘭は優雅な振る舞いで腰を上げた。
「解決済み……?」
天禪の態度の意味も、蘇蘭の言葉の意味もヤコブレフにはわからないし理解も出来ない。たった今会ったばかりではないかという困惑の表情にしかし、二人から説明はない。
そのヤコブレフを置いて、二人は先を歩き始める。唖然とするヤコブレフの横にたった若者が彼の横顔をサングラスの隙間から覗かせた視線で見る。
「ま、よく分からないけどそういう事だ。深刻な顔してないで着いて来いってことさ」
銀色の瞳を薄く細めて、稔はそう告げた。
●千年の時を越えて
「それで、どうするつもりだ?」
並んで歩く蘇蘭に天禪は訊いた。
「何の事をかねぇ?」
と済ました顔で答えながら、本来はちらりと後ろを流し見る。
「何の事だと? さっきお前は解決済みだと言っていただろうが」
「事実を言ったまでさね。今更何を説明しろと言うんだい、天禪。さっきので全てわかったんだろう?」
その言質に天禪は口元をニヤリと歪めた。
「フフフ。ハハハ、そういう事か蘇蘭。お前、この俺を使おうというのだな? まったく食えぬ奴だ」
「お膳立ては整えたんだからねぇ。後は良きに計らっておくれでないかい」
突然笑い始めた天禪の傍に、やや後ろを歩いていた稔が寄って来る。
「なあ、二人で何話してんだよ? それよりも、どうするんだ、これから? 情報なら、俺が掴んであるぜ。必要なら、いくらでも簡単に調べがつく」
既に知り合いの情報屋に頼んで大方の事はわかっているつもりだった。天禪と蘇蘭がどの程度、何を知っているのかは知らない。それでも何らかの役には立つ筈だった。
「情報か。何かひとつでも不明な点があれば必要なものかもしれんがな」
「……どういう意味だ?」
「言ったままの意味さね。言っただろう、既に解決済みなのさ」
天禪と蘇蘭、表情一つ変えずにそう言ってのける二人の言葉の意味が分からず、稔は眉根を潜めた。
「お前も後二百年もすればわかるようになる。今回は我らの趣向に付き合うがいい。なあ、蘇蘭よ」
「ま、そういう事さね」
片や豪胆な笑み。片や妖艶な微笑み。二人のいう事に、稔は唖然とした。見た目はともかく稔はこれでも五百年を生きる身だ。
「あんたら、何者だ?」
二人にはまったく普通の人間以外の気配を感じない。確かに常人離れしたものを感じさせはするが、この自分を子供扱いするほどの存在とはとても思えなかった。少なくともそんなものは欠片も感じられなかった。
「わからぬものを知ろうとする事が楽しみでなくて、何だという? 教えられるのではつまらなかろう。答えは自分自身で探すがいい」
と声を立てて笑い、天禪は先を行く。
「この旅の最中に片鱗が見つかるといいねえ」
蘇蘭も稔の問いかけに答えるつもりはないようだった。
二人の背中に稔は念を集中してみる。
しかしやはり何もわからない。ただの人間に思える。……はったりか? そうも考えたが首を振る。とにかく事の成り行きを見守ろう。
「どうかされましたか?」
立ち止まった仁を見て、ヤコブレフは心配そうに顔を覗き込んだ。ヤコブレフにしてみれば、どこか超然とした態度の二人に比べてこの若者の方が遥かに接しやすさと親しみを覚えるのだ。
「いや、何でも……」
姿形は十代の若者でも、実際は数百年を生きた異能の存在だ。自分より遥かに若い人間の老人などには心配されたくはない。
「あの二人は何処へと向っているのでしょう。あなたは御存知ですか?」
それに答えるのは自分の負けを認めるような気がして嫌だったが、かといって事実を言わなかったとしてもやはり負けは負けだ。
「それが教えてくれなくてさぁ」と稔は困った顔をして頭を掻いた。
「ま、大丈夫だって。いざとなったら俺だって何とかできるしさ」
それも事実だ。ヤコブレフ氏の事は調べがついている。I県にいた事、その収容所が現在は自衛隊の駐屯地になっていると言う事。だから、いざとなればそこへこの老人を連れて行けばいい。基地内へ入る手筈も既に整えてある。
老人がなぜ桜の樹を夢に見たかまではわからないが、少なくともたどり着くべき場所だけは掴んでいるのだ。そういう意味でも確かにこの依頼は既に解決しているといえるだろう。
……まさか、それすらも知っていてさっきのような事を言ったのだろうか。
稔は二人の意味ありげな言葉に自分が翻弄されてしまっている事を内心歯がゆく思っていたが、真実の一部ですら垣間見えないのではどうしようもない。
●背後にあるもの
「それでどう見たんだい、天禪?」
天禪の送り迎えの為に用意されていた大型のリムジンに三人が乗り込んで座っている。稔は自分のバイクがあるというので、後ろから二人を追っている。車の中の会話には気を使っているつもりだが、三人の会話は一向聞こえる様子はなかった。
「何の事だ?」
「決まっているじゃないか。あのご老人の事だよ」
蘇蘭は瞳だけを動かして、ヤコブレフ氏を見た。
「回りくどい言い方は止せ。老人ではなくて、取り憑いているのは何かと訊いているのだろうが」
二人の会話はヤコブレフ氏には届いていない。むろん外で聞き耳ならぬこの車の中の空間を覗いている稔にもだ。テレパシー、或いはそんなものとも違う別の次元を通してのやり取りといってもいい。この二人なればこそ可能な手段だった。
「あれは樹の精だな。ならばむしろお前の領分ではないか。まったく、人を使いおって」
丸太のような腕を組んだままで、天禪はじろりと蘇蘭を見下ろした。彼女自身も長身だが、仮の姿とはいえども天禪の方が背は高い。
「古今、桜の樹というのは人身を惑わす術を心得ているからねえ。その精ともなれば……」
言葉の最後を言わずともわかる。
「ましてや、樹とはもともと大地と大気の精を吸う存在だからな」
「人の心に根付いても不思議はないねえ」
「純粋な想いを吸って咲く花か。さぞかし見物だろうな」
天禪は口元を緩ませる。
彼らの様に長き刻を生きる種族には無いものを人間は持っている。それを見る事は、何よりもいい退屈しのぎになるのだ。
目の前に不安げな顔をして座っている人間の老人は、自分の事に気がついてはいないだろう。桜の樹に魅入られた事も、自分の身に何が起こっているのかも。
「さて、一応話を聞いておこうか」
とようやく天禪が口に出して言葉を発する。ずっと押し黙ったままの様に思えていたヤコブレフ氏の表情が少しだけ安堵の色を見せた。
「まず、戦争というのは一次大戦の事だな?」
「はい、そうです」
「収容所の場所はI県。現在はその場所は自衛隊の駐屯地になっている。残念ながら、ミスター。あんたの見た桜の樹は既に存在していないな」
事実だけをゆっくりとした口調で述べて、天禪は蘇蘭を見て話を譲った。
「そうですか」と、やや落胆の表情でヤコブレフ氏は言う。
「他に桜の樹を眺めたという覚えはございませんか、ミスター?」
「いえ……」
蘇蘭の問いに、老紳士は首を振った。
「私が見たのは収容所の中での桜の樹だけです。苦しかった収容所の中で、あの桜の樹だけが我々の救いだった」
沢山の仲間が収容所で死んでいく中、誇らしげに花を咲かせる桜の樹だけがヤコブレフ氏達に生きる希望と苦痛に耐える勇気を与えてくれていた。
苦しい労役の中で見上げた桜の樹。一年に経った一度だけ美しい花を咲かせるこの樹を見た時に、「耐えて生き残る」と意思を強くもてたのだとヤコブレフは語った。
「当時は、六十人ほどが収容所にいましたね。確か帰国できたのは十数人ほどでしたか」
蘇蘭の言葉に、ヤコブレフは驚いたようにして目を見開いた。
「後の対外的な圧力を怖れて、実在数よりかなり少ない人数を捕虜として発表していたようですね」
「……何処でその事を調べたんです?」
「方法は、いろいろとありますよ」
と蘇蘭は微笑む。
その容姿からすれば、ヤコブレフはまさか彼女が千年を生きているなどとは思いもよらなかっただろう。当時の事は目にしたようにわかる。それが自分自身の記憶を覗かれた結果である事なども知る由もない。
天禪も、蘇蘭も姿形は人間だが本質も、実質もまったく人間とは異なるものだ。
「いいだろう。事情は飲み込めた」
と天禪が言う。ヤコブレフの言葉の中から天禪もまた記憶を読み取り、事態の全容を悟った。
「それで。今日はこれから何処へ?」
「まずはお休み下さいな。今夜夜半過ぎにお迎えに上がります故」
「何故、夜に?」
「いろいろと準備がな」
と答えたのは天禪だった。
ホテルのロビーで老紳士を見送って、稔は天禪の背中に声をかけた。
「あんたら、一体何をやろうってんだ?」
「最初に話しただろう、花見だ。聞いていたな。ちゃんと準備をして来るんだな」
車の中での会話が全てとは思えないが、この二人の考えている事が稔にはどうにも理解が出来なかった。
「I県には行かなくてもいいのか?」
「聞いていただろう。既に収容所は無い。老人の探す樹も無い。だったらわざわざ行く必要があるのか?」
「じゃあ、どうしようってんだよ?」
別に憤りがあるわけではない。ただ、何をしようとしているのかを知りたいだけだ。普段は人を食ったような態度を取る事の多いだけに、こういう状況は嬉しくない。
「そう、慌てるでないよ。状況を楽しむ事を覚えた方がいいねえ」
何を聞こうとしても、どうしても話をそらされてしまう。向こうの方が役者は上であるらしかった。
●夢幻の旅路
バイクではなく一緒の車に乗れというので、稔はバイクをホテルに停めたままにして天禪の車へと乗り込んだ。
時間は深夜に近い。人通りも少なく、もちろん車の通りも僅かだ。
車窓に映る街頭の灯が忙しなく流れていく。
行き先を告げられぬまま車に乗り込んだヤコブレフはいささか不安な気持ちになっていた。その理由はわからない。
もう一人、稔も不安とは違うが奇妙な感じを抱いてシートに背を預けていた。まったく口を開かない天禪と蘇蘭だが、二人の間で何らかのやり取りが行われている事ぐらいはわかる。しかし稔の能力ではその二人の会話に入り込む事が出来なかった。
車に乗って小一時間。何処へ行くわけでもなく走り続ける車の中から窓の外を眺めた稔は首を傾げた。
「さっきと同じ所を走っているぞ……」
口に出しては言わなかったが、同じく窓の外を眺める老人にもそろそろわかる頃ではないかと思う。
「オオ……そんな事が……」
やや大袈裟過ぎる驚きの表情を浮かべてヤコブレフが漏らした時、稔は「やっぱりな」と内心思う。
「これは、いったい……?」
説明を求めるヤコブレフの視線が天禪と蘇蘭とを交互に見つめた。
「御覧の通りさね。覚えのある光景ではありませぬか?」
「そうです……その通りですが……何故?」
「理由よりも現実だ。それを望んでわざわざこの国まで来たのだろう」
と天禪に促され、ヤコブレフは「ああ、はい……」と再び窓の外を見る。
何が起こったのかを理解できない稔は、ヤコブレフと同じように説明を求める意を込めた視線を二人に送ったが、直ぐに諦めた。おそらくは何も返って来ないだろうと思えたからだった。それならばこの目で確かめた方がいい。
窓の外を見る。
その光景に、稔は目を細めた。
ここは何処だ?
窓の外に広がる光景は間違っても都心の気色などではなかった。
広がる田園と日の光。
遠くに見える連峰は、街中から望める景色ではない。
「この風景は、あの時の……」と言ったきり、ヤコブレフは口を閉ざしてしまった。
なるほど、どうやら窓の外に広がるのはヤコブレフ氏がこの国に居た頃の風景らしい。
「時間の流れは、止まっていては見えないものさね」
「こういう状況なら、見せるのも容易いな」
意外にも二人から説明があって、稔は驚いたように顔を向ける。
「現在は存在しないものでも、こうすれば見られるからな。見たいというのなら、見せてやろう」
稔の脳裏に、ヤコブレフ氏のかつて見たものが次から次へと流れ込んでくる。
痛みと苦しみ、そして悲しみ。人間が行う戦争というものを稔はこういう形で追体験するのは初めてだった。
「そろそろだな」と天禪が言う。
車窓の追憶のスクリーンには収容所が映し出され、中庭に聳える桜の樹を見つめる若い頃のヤコブレフ氏の姿があった。
塀に囲まれた収容所。しかし蒼穹の空には壁は無くただただ青が広がるばかり。
その空に無数に腕を伸ばし、薄紅色の花弁を纏い、風に揺らし、虚空に散りばめる姿をヤコブレフ氏は見上げていた。
痩せこけ、生気の無い瞳に鮮やかな色が広がっていく。
枯れかかった命の器に、新たな生命の水が湧き出るように、ヤコブレフの瞳に力が戻る。
「なるほど、見事な桜だね」
「人間の命を吸って咲いたか。さすがの妖華だな」
いつの間にか取り出した杯に酒を満たし、天禪は一気に呷る。
「あんたら、何を……?」
酒を酌み交わす天禪と蘇蘭に、稔は呆れたように訊いた。
「言っただろうが? 花見だ、花見。お前もどうだ。これほど見事な桜はなかなかに無いぞ? 人の心に咲く花だ」
「命を吸って咲く花は、刹那的なまでの美しさがあるとは、思わぬかえ?」
確かに花見とはきいていたが、本当にそういう意味だったとは思っていなかった。
しかし、命を吸ってとは、どういうことなのだろう。
「よく見てみるがいいさ。あれはただの桜じゃあないよ」
言われて、稔は窓の外を見る。ただの虚像ではないのか?
「記憶を遡る事と、時間を遡る事は同義だと覚えておくのだな。そうすれば、今のような出来事も楽しめるようになる」
「あれはね、樹の精なのさ。樹が大地に根付くように、人間の心の中に根付いて命を吸って咲く妖華さね」
事も無げに涼しげな顔で言いながら、蘇蘭も杯を呷る。
人の命を吸う妖華。
だとしたなら、この老人の命が危ないという事だろう。こんな悠長な事をしている場合じゃない。
それを口にした稔を見て、蘇蘭が笑う。
「そんなに慌てる事はないだろう? しばらくは楽しませてもらってからでもいいんじゃないかい?」
「別に、放って置こうというわけじゃない。それに元はといえば、この爺さんが自ら招いた事だ」
「自分自身で?」
「そうだ。正確には一人じゃないがな。生への欲望が呼び寄せた事は間違いがない」
「……そんな事をどうやって調べたんだ」
と訊かれて、天禪が笑う。
「調べてなんかいないさ。ただ、わかるだけさね」
と頬を僅かに紅色に染めて、蘇蘭が言う。
「さて、これではなかなかに酔う事も出来んな。片付けてしまうか、蘇蘭よ?」
やや諦めにも似た酒の香りのする吐息を吐いて、天禪は立ち上がった。
ふと気がつくと、いつの間にか車が消えている。
ヤコブレフ氏は桜の樹の下にいて、それを三人で見ている形になっていた。
まさか、全てが幻か?
──いや、違う。
稔は自分の感覚が幻影に惑わされたものでない事とを確認した。
「人間は我らと違って命短き存在故、生き方もまた激しい。人と共に暮らせば、否応なしに引きずられてしまおうぞ。時に楽しむくらいでちょうど良い。そう心得よ」
と悠々とした足取りで蘇蘭は桜の樹の元へと歩み寄る。
「悪気は無いとはいえ、あまり悪戯に人界に干渉するのは感心せぬぞよ、桜の樹の精。ここいらで手をお引き」
手にした長キセルをプカリとふかして紫煙を桜の樹に吹きかけると、風も無いのにざわりと枝葉が鳴った。
「もう充分に生気を吸っただろう。欲張る事はせぬ事だ。それとも、我らの手を煩わせるのか?」
横に立った天禪が口元を大きく歪める。
その二人の様子を稔はじっと見守った。少しでもこの二人の正体を見極めたかった。
自分にすら得体の知れない大きな存在だ。力の片鱗を見たといえども、出来れば本質をも知って置きたい。
再びざわりと枝葉が鳴った。
風景の中では昼間で在ったはずが、いつの間にか空には月が懸かり、淡い光を地上に投げかける。
その光が二人の影を大地に映す。
はっきりとした形は結ばなかった。
しかし、天禪に垣間見たのは鬼の姿で在ったようだ。
そして蘇蘭に至っては、稔の預かり知らぬ姿であった。確認できたのは人間のものではない四肢、六臂を従えた上半身。
真実の一部を見てなお、稔には二人の正体がわからなかった。
●祭りの後
放心しているヤコブレフ氏を引っ張り上げるようにして立ち上がらせると、天禪は一足先に車へと戻る。
大きな公園の側に止まった車から、稔はまったく降りた覚えが無い。おそらく天禪か蘇蘭の術中に自分もはまっていたのだろう。
「さて、今宵の宴はこれにて終了だよ。桜の精も聞き分けが良かったからねえ」
後は──
翌日の夕方。
新村稔はアトラス編集部の碇麗香の前に事の顛末を話していた。
紅蘇蘭が最後に稔に託したのは後始末の事だった。
「何度も訊くけど、あんた達何者だ?」
質問に答える前に、蘇蘭はキセルを口にして紫煙を吐き出す。そして艶やかな笑みを惜しげもなく見せて、「少しは垣間見たんじゃないのかい?」と目を細める。
先ほどの影はわざと見せたとでも言うのだろうか。
「長く生きればわかる事もあるってことさね。さあ、好奇心には答えてあげたんだから、後始末は任せてもいいだろう?」
優雅な振る舞いで背を向ける蘇蘭に、稔は黙って頷いた。
まったくもって常軌を逸した一日だった。人間からすれば稔だって十分に尋常でない存在なのだが、その稔をもってしてもあの二人は異質な存在の様に思えてならない。
だが、麗香にはそこのところは話さなかった。
ただヤコブレフ氏が体験したであろう事実と、事件の背景を説明しただけだ。
「なるほど、人の心に根付いた桜の樹ね……」
腕を組みながら、麗香は感心したように何度か首を縦に揺すった。
「ところで、うちの役立たずはどうしたのかしら?」
一瞬何を聞かれたのかわからずに、稔は面食らった。
しかし直ぐにひとつの事を思い出す。
「ああ、そう言えば……」
最初に集まった時に、蘇蘭と稔に「事件の詳しい場所と事実関係を調べて来い」と言われて泣きそうな顔で飛び出ていった三下忠雄は、それ以来音沙汰が無い。
大方どこかの図書館か何かで困っている事だろう。
ヤコブレフ氏の居た収容所一つだけにしても、普通に調べたなら場所の特定など簡単にはできないはずだった。調べろという方が無理がある。
体よく厄介払いされてしまった三下だった。
「……そう。帰って来たら焼き入れてやらないとね」
頬の辺りをひくつかせながら、碇麗香は表面上穏やかにそう言った。
〜了〜
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
0284/荒祇 天禪/男性/980/会社会長
0908/紅 蘇蘭/女性/999/骨董店主・闇ブローカー
3842/新村 稔/男性/518/掃除屋
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■ ライター通信 ■
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こんにちわ。とらむです。
まずは、荒祇天禪様、紅蘇蘭様、作品の完成が遅れました事をお詫びいたします。申し訳ございませんでした。
言い訳は敢えていたしません。環境の変化に対応が遅れてこの有様です。真に申し訳ありませんでした。
今回は今までとはちょっと違った形で『桜の咲く頃』を書かせていただきました。
天禪様、蘇蘭様のキャラクターが際立っていた事がその理由です。
あまりにも強大でかつ不変の存在であられるお二人の持ち味を何とか活かそうと四苦八苦しました。結果このような物語となりました。
ご満足いただければ幸いなのですが……。
新村稔様。初の御依頼ありがとうございます。
稔様も大変強い異能の持ち主であられますが、今回は何せ倍の年月を生きているお二人との共演ともあって、どちらかというと若者を演じていただきました。
この出会いが元で、稔様のこれからが大きく変わって行くと面白いなと。
自分より強大なもの、自分の知らない出来事に飛び込んでいくような、そんな活発さが似合うお人柄だと感じました。
真面目だけど、クール。それをちょっと活かしきれなかったのが心残りではあります。
また機会がありましたら、お願いいたします。
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