|
桃の実
------<オープニング>--------------------------------------
真夏の十二時。今年最高の真夏日を迎えたというのに、因幡・恵美(十六歳)はあやかし荘の玄関前で懸命に箒を動かしていた。
「やっぱり、夏休みといったら掃除よね」
なにが「やっぱり」で「夏休み」や「掃除」に繋がるのか。
趣味に没頭している者の姿は、同好の士以外からは理解されないものだが、同じ嗜好を持つ者であったとしてもこの場合、一緒にして欲しくはないと言うかもしれない。
額に汗を浮かべながら、うっとりとつぶやく恵美の姿には鬼気迫るものがあった。
確かにあやかし荘はうっそうとした森に囲まれており、地面から陽炎が昇りたつ都市部よりは五度ほど涼しいが、それでもじっとりとした湿気を含んだ暑さは変わらない。
日射病を心配した嬉璃が、強引に麦わら帽子をかぶらせてはいたが効果のほどは怪しいと言わざるをえない。
「掃除、お掃除……」
瞳がうつろになり、足元もおぼつかなくなってきた頃。恵美の足元に桃色の物体が転がってきた。
「はいっ! ……えっと?」
熱気にぼんやりしていた感覚が呼び戻される。恵美が視線を落とすと、そこには産地でも見かけないだろうというほど立派な大きさの桃が転がっていた。
「なんでこんなと……きゃ!」
近所に桃の木はなかったはずだと考えながら、恵美はそれを拾い上げた。しかしそれはすぐさま地面に落下することになる。
「えぇっ? なんで?」
恵美の視線の先。道は桃色の球体で埋めつくされていた。
------<本編>--------------------------------------
今日の運勢は最悪だったんだろうかと、橘都昏は朝のテレビ番組を思い返した。でなければ夏休みの登校日に、こんな場所でこんな状況に巻き込まれてはいないだろう。
しかし番組自体に少しの思い入れもない都昏の脳には、記憶の一片も残されてはいなかった。視線の到達する夏の濃い青空に、のどかな飛行機雲が描かれていくのが見える。
「ちょっと、聞いてんの?」
思考が怒声に遮られた。焦点を戻すと、赤い髪をポニーテールにした花瀬祀が、きつい瞳を向けているのが分かった。
「……聞いてない」
「失礼ね!」
正直に言うと、祀は薔薇の棘のようになった視線をカラタチのそれに変え、声を荒げる。
「夏の青が濃い空の下。帰ったら友達と遊びに行こうかな? それともおばあちゃんと買い物でも……」
都昏に向けていた視線を前に戻して腕組みをすると、芝居がかった調子で言葉をつなぐ。
「……そんなあたしの”本日のパピネス計画”気分を都昏! アンタが台無しにしたんでしょーが!」
道で偶然会っただけで全く根拠のない言いがかりだが、言葉とともに突きつけられた指は断罪の意思に満ちている。
どちらかというと、下校時の静かな時間を壊されたと非難の声を上げたいのは都昏のほうだったが、ここで言い返すのは火に油を注ぐようなものだ。家族ぐるみの腐れ縁のせいで、祀の男嫌いがどんなに徹底しているのかを、うんざりするほど理解している都昏は、沈黙を返答に選んだ。
「なにシカトしてんのよ! そんな可哀相なあたしに謝罪の言葉は無いっての?」
傍観者を決め込んでいる地面を、祀の靴が力の限り踏みしめる。
いわれのない謝罪要求に従うつもりは毛頭ないが、このまま無言でいても良い結果は得られそうにない。どうしようかと考えを巡らせる都昏の目が坂の上で止まった。
「なんか言ったら……ん?」
都昏の視線に射抜かれた物に祀も気がついたようだ。それは緩やかな坂道をぽてぽてと転がると、仲裁をするように二人の間に着地した。
「えっと、桃?」
怒りを散らせた声で祀が首をかしげると、彼女のカバンがぴくりと震えた。
『んー桃? あっ、ほんとーだ』
もこもこと布カバンの口を押し上げて、一匹の妖怪が顔を出す。
「チビ助。アンタなんでここにいるのよ?」
『うんとね? 寝ちゃった』
祀の問いに、チビ助と呼ばれた妖怪はまだ寝ぼけているのか、素直すぎる返事をした。
「ま、そのことは帰ってからゆっくり聞くとして……都昏、なに怖い顔してんの?」
「この辺りに桃の樹って自生してた?」
質問に質問で返すと、都昏は桃に向けていた視線を射るように細めた。
「えっと? 知らない」
すっかり毒気を抜かれた祀はチビ助と顔を見合わせる。いつもこんな風なら苦労はないのにと思いながら、都昏は「だろうね」という言葉を飲み込んだ。この土地で生まれ育ったが、そんな話は一度も聞いたことがない。
いっそ牙でもむいてくれたら異常事態として受け入れられるだろう。しかし何の変哲もない果実は、都昏の思惑を受け流すように静かに鎮座している。
「それがどうし……」
「まってぇ。くださぁい」
桃を見つめたまま動けない都昏の耳に、二種類の声が届いた。一つは祀。もう一つは桃が転がってきた坂の上から聞こえた。
聞き覚えのある声に、別の意味で動けなくなる。祀だけでもやっかいだというのに、こんな状況で彼女に会うなんて……やはり今日の運勢は良くないようだ。都昏は小さく息を吐くと表情を引き締めた。
■
あやかし荘の玄関から道を挟んで広がる森は、入ってみると結構深い。昼過ぎの温度が一番高い時間帯だというのに、枝が直射日光を遮っているせいか、外の道よりも空気はひんやりとしているようだ。肌触りのいい風が吹いて、木漏れ日を揺らせた。
「アンタ、なんか感じる?」
花瀬祀はカバンから顔を出し鼻をヒクつかせているチビ助に聞いた。外の道にはあれほど転がっていたというのに、森の中には残り香が漂っているだけで、桃は一つも落ちていなかった。
『うん……あっち、かな』
「本当に判ってんの?」
頼りない返答に祀は肩を落とす。
チビ助は家に憑いている妖怪なのだから、当たり前といえば当たり前だ。テリトリー外のことを聞いてもこんなものだろう。祀は少しあきらめモードになった。
ちらちらと視界の端をよぎる森の妖怪達に聞けば、もう少しマシな答えが返ってくるだろうが、警戒心の強い彼らは様子をうかがいながらも、一定の距離を保って近寄ってくることはなかった。
いくら妖怪に好かれる体質の祀とはいえ、見ず知らずの物の怪が相手では、自宅に住んでいるモノと話をするようにはいかない。
「やはり、奥の森で何かがあったみたいですね」
真っ直ぐな黒髪を踵のあたりまで伸ばした数藤明日奈は、樹木の一本から手を離すと真剣な表情を浮かべた。
「この子がなにか話してくれるといいんですが……痛かった? ごめんなさい」
片手に収めた実に視線を注ぐと、その表皮をいたわるように撫でる。祀の前に転がってきた桃だ。明日奈の南の海を思わせる瞳が不安のためか翳った。
「えっと、大丈夫だよ。原因を解決したら、うるさいほど喋ってくれるって、ね?」
明日奈の眉が寄せられていくのを見た祀は、わざと明るい声を上げてその手を取った。
「それに、落っことしちゃったのはあわてたからだし、この子に傷とかついてないし、他の子も元気そうだったし……だから、とにかく行こう!」
あやかし荘の前にひしめいていた桃の大群は、管理人と名のる女の子が庭に運び入れていたから、車が通ったとしても万が一にも轢かれたりすることはない。もっとも騒ぎを聞きつけた住人達の表情を見た限りでは、人災は免れないかもしれないが、そこはあえて黙っておいた。とにかく今は、こうなった原因を突き止めるのが先だ。
祀達が周辺を調べてみると、桃は道から少し森に入った所に数個あっただけで、他の場所にはなかった。もちろん祀が歩いてきた住宅地には一つも見あたらない。となれば、森の奥に変異があったと考えるのは自然な流れだろう。
「そうですね花瀬さん。がんばらないとですよね」
明日奈の瞳が同意するように輝く。
桃の実に起こった出来事に心を痛めているはずなのに、悲しみに沈み込んで他を拒絶するでもなく、周囲を思いやったり、協力を惜しまない前向きさは明日奈の良さだと祀は思う。雪の中から一番はじめに顔を出す黄色の小さな花のような強さ。
蕾がほころぶような微笑みに、誰が言うより先に「行きます」と宣言した姿が重なった。
そんな彼女だから植物は心を開くのかもしれない。声を伝えるのかもしれない。こんな優しい人が自分の姉だったら。そう思って頭に浮かべた顔は、明日奈とは正反対の印象を持つ女性だった。
その人のことが嫌いだと、天の邪鬼な心が騒ぐ。都昏が明日奈と出会えたように、自分も彼女と間違えずにちゃんと出会えていたら、そう思うと心の底がチリと火花を散らした。
「祀って呼んで。あたしも明日奈さんって呼ぶし……ちょっと! 来るならとっとと歩きなさいよ!」
少し離れて後ろを歩く影に、勢いよく振り返った祀は声を投げた。並ぶのは嫌だが、だからといって置いて先に進むのも今は悪い気がする。横を伺うと、明日奈はやわらかな視線を都昏に向けていた。
どうやら二人が顔見知りらしいというのは、坂を駆け下りてきた明日奈の表情で判ったが、それに触れない所をみると、なにか訳でもあるのだろう。もっとも祀にとっては都昏の理由なんてどうでもいいことだった。
ただ都昏にとって、明日奈が特別な人なのかもしれないとは思った。祀が知っている彼は他人に対して距離をとり、馴れ合うのを好まないはずだ。
「明日奈さんとあたしの”謎の桃・追跡チーム”に加えてあげたんだから、足引っ張らないでよね!」
曇り空のようなはっきりしない気持ちが、祀の声を険のあるものにする。都昏の表情は変わらないが、無駄に長い付き合いのせいで気分を害したらしいのは判った。
「お二人は、本当に仲良しなんですね」
春風のような声を響かせて明日奈が笑う。
「そんなこと!」
合わせたつもりもないのに声がハモった。都昏を睨むと、心外だというように強い目を向けられた。
「ほら、やっぱり……はい、どうしたんですか?」
祀達のやりとりに小さな笑い声を零していた明日奈が、ふと呼ばれたように視線を落とす。
「ええ、そうなんです。それで、桃さんがこちらから転がって……」
祀には聞こえない声と明日奈が話し出す。視線をたどると小さな青い花が風にそよいでいるのが見えた。どうやら会話の相手はこの子らしい。
かがみ込んだ明日奈の指が花の上を横切るたびに、淡く燐光のような光が散っているような気がした。
『……』
何か新しい情報を教えてくれるかもしれない。
邪魔をしないようにと一歩体を引いた祀の耳に、木々のざわめきに混ざって何かの声が聞こえた。仰ぐと上の方の枝が不自然に揺れ、妖怪の頭がひょっこりと現れた。それは探るような気配を全身に漂わせ、すぐ先の鬱蒼とした茂みを見つめている。
「ねぇ?」
控えめな祀の呼びかけに目だけで答えると、妖怪は一声も上げず姿を消した。どうやら、この森に住んでいる物の怪は極端に寡黙な性質らしい。
『祀ちゃん?』
「……アンタが五月蠅すぎるってこともあるかも、なんだけどね」
チビ助の頭を指先でつついていると、明日奈の話も終わったようだ。
「祀さん。どうやらこの先に泉があるみたいです」
人差し指を心持ち曲げて顎に当てると、明日奈は言葉の意味を吟味するように目を伏せた。
「明日奈さん。”さん”いらないってば、照れるし……で、泉? ね。そんなもんあったっけ?」
祀が同意を求めると、チビ助は知らないと言うように首をかしげた。
「ある日、突然湧き出したらしいんですけど、よくは判らないみたいで……」
明日奈の瞳に不安の色が広がった。桃のことは心配だが、どんな泉かも判らないのに祀達を連れて行っていいのかと迷っているようだ。
「そっか、じゃあ行こう。なんか危ない感じしないし」
明日奈の背を押すように、笑いながら祀が言った。先ほど姿を現した妖怪からは、怯えたような意識は伝わってこなかったから、きっと危険はないだろう。それに、この先に待っているのが恐怖を感じるモノであったなら、森はこんなにも静かではないはずだ。
「そうですか? じゃあ行きましょう……都昏君もうすぐですよ!」
明日奈が安堵したような表情を浮かべ、都昏に声をかける。しかし祀は振り返らなかった。
「よぉし!」
気合いを入れるように息を強く吐き出すと、祀は背筋を伸ばし茂みに向かって歩き出した。
■
茂みを抜けるとそこは桃源郷だった。
行く手を遮るように重なり合う枝葉を手で払いのけると、昔の文豪が書いた小説の出だしそのままに風景が一変する。
「……まぁ」
祀の後に続いて茂みを抜けた明日奈は、思わず感嘆の声を漏らした。
そこには、背丈より少し高いくらいのものから、見上げても上部が見えないものまで、個性豊かな桃の樹が並んでいた。枝は空に向かって広がるように伸び、太い根は力強く地面を捉えている。森に桃の樹はないという話だったが、とても昨日今日で成長したとは思えない堂々としたものだ。
その真ん中には、花が言っていた泉がある。三人の大人が手を繋いで作った輪より少し大きい位の泉の縁は、長い年月を感じさせる苔で覆われ、青く澄んだ泉の面には陽光が反射していた。
夢のような世界という表現があるが、それはきっとこんな風景なのかもしれない。桃の甘い香りに満たされた空間は、歩いてきた森の中とは違った涼やかさが漂っていた。
「……元気そうですね」
その内の一本に触れると、樹皮をとおして水が勢いよく吸い上げられていくのが判った。
「では、どうしてなんでしょう?」
仰ぎ見る空は夏の色をしてその温度に溶けている。平和な光景のどこにも悪意は落ちていないというのに、明日奈の抱えている桃の実からも、手を添えた幹からも、未だに植物の思念は響いてこなかった。
「ここに何かあると思ったんですが……え?」
大きな考え違いでもしていたかと明日奈が思った瞬間、声が聞こえた。
「ねぇ、聞こえる! しっかりして!」
それは思念ではなく、直接鼓膜を刺激する叫びだった。
「祀ちゃん!」
声のする方角に反射で振り向くと、ひときわ大きな樹の根元にポニーテールの後ろ姿が見えた。慌てて明日奈が駆け寄ると、気配に気づいた祀が振り返った。
「明日奈さん。大変! どうしよう」
祀の手の中に小さい人形のようなモノがぐったりとしている。きっとこの子が異変の原因に違いない。何故気がつかなかったんだろう。明日奈の全身から血の気が引いた。
「大丈夫だよ、数藤さん……祀、カバンにお菓子くらい持ってるだろ、出して」
様々な考えが巡り、動くこともできない明日奈の隣に立った都昏が、理性的な声で言う。
「何よ! 呑気にピクニック気分ってわけ?」
感情のままに祀が都昏を罵倒する。彼女もかなり混乱しているようだ。
「そうじゃなくて……」
『……腹、へった』
ため息混じりの言葉を肯定するように、祀の手の中にいるモノが呟いた。
■
どこに消えていくのだろう。開けたばかりのクッキーの小箱は、もうほとんど空っぽになっていた。人体には宇宙があると言う学者もいるが、それならこの生物の中にあるのは、きっと底なしのブラックホールだ。
泉のそばに座った三人が見守る中で、欠食児童のように食べ続けている手のひらサイズのそいつは、ボール状の頭に筒のような胴体を持ち、細い枝のような手足を持った生き物だった。顔にあたる部分は単純な点と線でできている。じっとして動かなければ、見た目は幼い子供の粘土細工と大差なかった。
そいつに名前は無いらしく、聞いても不思議そうな顔をするだけなので、祀と明日奈は便宜上この生物を”桃”と呼ぶことにした。
「……調子にのってんじゃないの」
顔をつっこんで一心不乱に食べ続ける”桃”をつまんで引き離すと、祀は菓子箱を避難させるようにカバンへしまった。
『おいしかった』
「よかったですね。皆さんも喜んでらっしゃいますよ」
食べ物を取り上げられたことに不満を漏らすでもなく、満足そうにくつろぐ”桃”に明日奈が笑いかける。”桃”が元気を取り戻すのと同じくして、彼女の耳には桃の樹達の声が聞こえるようになっていた。
「で、この状態はアンタのせいなんでしょ?」
お菓子を”桃”に遠慮なく食べられた祀は明日奈と違い、不機嫌そうに片手をついて”桃”に顔を近づけた。
『うん、引っ越ししてきたんだ』
なんでもないことのように言う”桃”に、祀と明日奈の目が丸くなる。都昏は興味がないのか、相変わらずの無表情で黙っている。
「引っ越しって、どーして?」
好奇心の強い祀が真っ先に口を開く。一瞬前の不機嫌は嘘のように表情から抜けていた。
『……前の所は住めなくなったから……難しいよね』
”桃”の顔が潰れたようにゆがむ。絞り出すような声には先ほどまでの明るさはない。
無関心に視線を泳がせていた都昏の眉が反応した。黄金色の瞳が言葉にある真実を形として知覚する。
年を重ねるごとに劣悪になっていく地球の空は、澄んでいるようにみえても、含まれる成分の配分は10年前とは確実に違ってきている。ここの環境も優良とは言い難いが、”桃”の居た場所よりはきっとマシなのだろう。
『それで色々探して、ここを見つけて……急いで皆を根づかせようとしたら力の加減を間違えちゃった』
乾いた風が吹くように”桃”は笑った。大量な桃の実の原因は、急激な生育による副産物だったのか。明日奈の耳に、流浪の旅を語る樹の唄が届く。
『夏が終わったら力も使えなくなるから……それにしてもここは静かでいいね。人も来ないし』
どこか遠くを懐かしむような声だ。近くにいるのに、三人と”桃”の居場所には大きな隔たりがあった。
「そんなこと言わないでください、きっと! きっと……」
悲壮な声を上げて顔を上げたところで、明日奈の勇気は使い果たされたようだった。大丈夫だとはとても続けられない。生物学的には、彼女は”桃”を住処から追い出した側にいる存在だ。
中空を見ていた都昏の視線が、明日奈の上に止まる。
静かに木々が慰めの唄を歌い始めた。氷の固まりが明日奈の胸につかえて溶けない。どんな時でも優しいこの命達にしてあげられることの少なさに改めて唇をかむ。
やるせないほどの無力感に、明日奈は都昏と初めて会った時のことを思い出した。
「……あたし、この子と仲いいんだ!」
硬化した空気を壊すように祀が言った。カバンから顔を出したチビ助を抱き上げると、スカートの上に座らせる。正面から”桃”を捕らえた瞳が、決意を燃やして赤い炎のように揺れていた。
「始めは鬱陶しいとか思ってたんだけどね……だからそんなに難しいことじゃないんだよ」
何がとは言わない。”桃”の越えてきた悲しみを理解する事は、どんなに時間を費やしても、きっと不可能だ。
他者の決心に水を差すのが、どんなに無作法な事かということぐらい祀にも判っている。それでも。と感情を堅く握った拳が膝の上で震えていた。
森の奥の誰にも知られない桃源郷。その光景は死んだように静かで冷たい気が祀にはした。
「祀ちゃん……」
希望へ向いた眼差しに、明日奈の胸につかえていた氷が溶ける。
「ここは近所の皆も優しいし……そうだ、やな奴が来たらあたしが追っ払ってあげる!」
言葉が無力で嘘つきだけれど、必要な場面もある。祀は空に向かって拳を振り上げると、力強くそう宣言した。
その隣にいる明日奈は、都昏の視線を柔かく受け止めていた。その唇が密かに言葉を紡ぐ。花のほころびよりも静かな声の意味を、青い瞳が真っ直ぐに伝えた。返事の代りか、都昏の頬が微かに上気する。
『……そっか、それは頼もしいね』
つたない言葉は飾りがないからこそ本質を伝え、前進の力を与えるのだろう。明るさを取り戻した声で”桃”は言うと、約束を交わすように片手を差し出した。
■
夕方といっても夏の日は長く、周囲が橙色に染まるにはまだ時間があった。空気は相変わらずの温度と湿度で地表を覆っている。
「落ちてたのでも良かったんだけど。こんなのくれるなんてね」
家路を急ぐ祀の腕には、桃の実がついた数本の枝が抱えられていた。知り合った記念にと”桃”が帰り際に持たせてくれたものだ。
人の手で育てられたものとは違い、一本ごとに大きな実が幾つも揺れている。
『いっぱい貰っちゃったね。甘い匂い……嬉しいなぁ』
カバンのから顔を出したチビ助が笑った。その手にも桃の実が一つ。
「こっちはおばあちゃんにお土産よ。アンタの分は持ってるでしょ」
『えぇ……?』
明らかに落胆した声に祀は、これは他の子達の分でもあるんだからねと笑う。真っ直ぐな道の先で、空の端が赤く滲み始めた。今日ももう暮れる。
『”桃”だけじゃなく別のモノも来たらいいのにね……スイカとか』
「面白いんだけどね……大変だよ」
あやかし荘の道にゴロゴロ転がるスイカを想像して、祀は苦笑した。
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
【2575/花瀬・祀(はなせ・まつり)/女性/17歳/女子高生】
【3199/数藤・明日奈(すどう・あすな)/女性/24歳/花屋の店員】
【2576/橘・都昏(たちばな・つぐれ)/男性/14歳/中学生、淫魔】
以上、参加登録順
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
参加ありがとうございます、お疲れ様でした祀ちゃん。庚ゆりです。
今回参加してくださったのが繋がりのある方達だったので、当初の予定を変更してゲームというよりはシチュノベのように書いてみましたがいかがだったでしょうか? ってきっと「普段と同じ」ですね。
話をぐいぐい引っ張っていってくれる祀ちゃんのおかげで、ちゃんと最後まで書ききれました。ありがとうございます。個人的には都昏君とのかけあいが楽しかったです。
あいも変らずゆっくり目の執筆ですが、またお付き合いいただけると幸いです。ではまたどこかで……
|
|
|