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護りびと
―――…
雨が、降る。
身体の中へと染み通りそうな、冷たい雨が――
全身濡れそぼった体は不自然な角度に曲がり、冷たい雨にもかかわらずその体からは湯気が立ち昇っている。
ふぅぅぅぅ…
ふぅぅぅぅぅ…
その瞳は赤。
それは――目の前に延々と広がる色と同じ。
そして、唇が愉悦の表情を刻む――。
殺。
滅。
――ナニモカモホロボシテヤル
『お前は忌まわしい子なのだ』
『いつか鬼になり、滅ぼされるのが運命なのだ』
ああ、いやだイヤダ。言うな言うな見るな見るなミルナ――
囁かれたその唇を力任せに剥ぎ、凝視し続けるその目を潰し。
自分を知る者を全て――全て、その魂すら消してしまえば。
きっと…心の底から眠りに落ちる事が出来るのだろう。
そうすればきっと――
***
「――っ」
ひゅぅ、と喉から大きく息を吐き出して、
操は『夢』から目覚めた。
…そして、自分の世界を、思い出す。
自分を抱きしめてくれる母の腕はとうに無く、忌まわしき者と一族からは見て見ぬふりをされているこの世界のことを。
禁忌を犯した母の罪をこの身に浴びて。
天井を凝視したまま布団に横になっていた操の両手首に巻かれたブレスレットが、ほんのりと温かく感じられた。
***
「いただきます」
もう慣れたひとりきりの食事。文句を言う者はいないが、既に習慣付いているその言葉は彼女が朝起きて一番初めに発するものだった。
質素ながら、丁寧に作った食事をゆっくり咀嚼しながら、空いている頭の中で母の事を思う。
母は、一族の中でも掛け値無しの『天才』だった。
ありとあらゆる結果が彼女の思うままに帰依し、それはまるで彼女自身に世界そのものが味方しているような…いや、彼女が『世界』のような。それ程の力量を持ち合わせていた、伝説の使い手だった。
何れは遥か過去より連綿と続いた水上家を束ねる者であると誰もが信じて疑わなかったのだが――彼女が操をその身に宿らせた時より、全ての歯車が狂ってしまった――そう、心無い者は噂する。幼い彼女がどう思うかなど、意に介す事無く。
――お前は忌み子なのだよ――
――あれは、鬼の子を宿したのだ――
憎しみの元がその父…鬼だと。その血を引く操までもが鬼の血を引く忌み子だと、母が禁忌を破って堕ろさずに産んだのだと。
あれほどの力を持つ母をあたら死なせてしまったのは、鬼とその血を引くお前のせいだと。
それでも操が今まで無事で来れたのは、ひとえに鬼の力が発露する事が無かったと言う事。――それに、母には遠く及ばないながらも、それでも一族の中で抜きん出たその能力の故…そして、ある人物のお陰でもある。それは、現在の環境に操を置いてくれた。感謝してもしきれないものがある、と操は今でも思う。
***
「こんなもので悪いのだけど、おすそ分け。操さんにはいつもうちの子達がお世話になってるからね」
「まあ、ありがとうございます。あら、美味しそう。おばさんが作られたんですか?」
「なに、誰にだってこれくらい作れるわよ。悪いけどまたうちの子が来たら宜しくね」
「ええ…喜んで」
野菜の煮付けを持って来てくれた近所の女性に対しても、時々遊びに来る子供達に対しても、いつもにこやかで人当たりの良い操の評判は良い。
ただ、それは。
操の目に映るそれら全ては、『日常』というスクリーンを通したモノでしかなかったのだけれど。
その中では穏やかで、大人しくて…あまり友達もいないけれど近所の評判は良く、毎日熱心に社を清めている巫女…それを演じているだけで良かった。
――そう…演じているだけ。周囲の温かな言葉も、笑顔も、それらは全て操の中にまで届く事は無かった。
***
―――…
雨が、降る。
目の前でだらしなく転げている『それ』へ向けられている操の目は、何の感情も浮かんではいない。ただ、見知らぬモノを見る、ただそれだけの目。
「ひ…っ、い、あ…タスケ…」
最早抵抗する術も無いそれが、操へと懇願する。何の罪を犯したのか、操には知らされていなかったのだが――。
闇に属するモノがこの場に居る事…それだけで、退治るには十分だった。
「この世に在らざる者よ――速やかに還れ」
さくりと、何の抵抗も無く刀がそれの中へと潜り込んだ。げえぇっ、と断末魔の声を上げたそれが、刀が触れた位置からさあ…っと、細かな霧状になって消えて行く。
「…ご苦労様、前鬼、後鬼」
「はー、しんど」
「前鬼はもう年やてー。次から使わんとこぉな、操」
ふ、とほんの僅か…見て分からない程度表情を緩めた操が、手の中にある二振りの刀へと言葉をかけ…そして次の瞬間、それらは操の手首へと吸い込まれるように消えた。後に残るのは、2つのブレスレットのみ。
そこでようやく、操が顔を空へ向ける。
まるで…初めて雨が降っていたことに気づいたかのように。
***
「ごちそうさま」
ことり、と箸を箸置きに置いた操が小さな声で言葉を紡いだ。…いつもなら、その日最後の言葉になる所だったのだが、後片付けにも行かず、テーブルの前に静かに座ったまま何か考え込んでいる様子で。
「…前鬼、後鬼」
ふいに。
両の手首に巻かれたブレスレットへと…操が声をかける。
「私ね…夢を、見たの」
その目は何処を見ているのか。もしかしたら、本人も意識していないのかもしれない。
「私ね――」
…夢の中で、鬼になったの――
続く言葉は音にならず。それでも手首で静かにしている『2人』には確実に聞こえているだろうと、言い直さず。
「いつか…そんな時が、来るのかな…」
――いつか、その血に目覚めたら。
深紅に染まる地面。吸い込む間もなく次々と流される、命の証。
それは――人の、もの。
「あほな事言わんといてや。なるワケないやんけ」
「そやそや。そないな事したらボクらあのひとに怒られてまうわ」
「いやや〜おしおきじゃーって頭からばりばり喰われんのだけはいやや〜」
「安心せい、絶対にお前なんか食わん」
「なんやとー!」
慰めているつもりなのだろう。あからさまにテンション高い漫才に微苦笑を漏らし、
「そうね」
…ありがとう。
なかなか収まりそうに無い漫才を今度は宥める役に回り、食事の片付けをするために食器を持って立ち上がった。
***
「…よぉ寝とるわ」
「今日は疲れたやろしな。ゆっくり寝かしとこ」
「そやな」
小声…というのか、操の耳には届かない『声』で、両の手首に巻いてある前鬼と後鬼が言葉を交わす。
「――夢か」
「何でそんなん見るん…ボクら抑えとるやん」
「力と想いは別物やしな」
「そんなん…ずるいわ。いやや。嫌な夢も見せたない」
「オレだって同じや。けどなぁ」
現在、自らの力のほとんどを封じ、その上で操の持つ鬼の血を抑えている2人。
それ以上の能力を常に行使し続けるのは、操の魂を喰らう事にも等しかった。それは、術者の力を吸う事でその能力を発露させる…そんな能力を授けられた故に。
「けどな…仕方ないやろ。そこまでやってもうたらオレら過保護過ぎやねんで」
託されたのは、鬼の力を抑えるための力だけではない。――見守る事。操の両親には決して出来ない、愛娘の成長を見守る事…そして、そのための手助けは最小限で良い、と。
そう、全ては…操のために。
禁忌を犯すしかなかった程魂で結びついてしまったひとつがいに、世界中の誰よりも望まれて、祝福されて生まれて来た愛児のために。
それ故に命を縮めざるを得なかった事も、あの日まで慣れないながらこれ以上無い位愛情を注いでいた事も、命を与えられたその日から、主の成す事は全て記憶の中に刻み込んできたのだから。
――操に話した事は無かったのだけれど。きっとこれからも…許された日に至るまでは決して。
それまでは、道化で良い。
傍らに居るだけで良い。
「いい夢見るように子守唄でも歌おか」
「あほ、かえって悪夢見るわ」
愛した者の角から作り出された二振りの刀は、
今でも『真の主人』の命を守り続けている。
-END-
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