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<東京怪談ノベル(シングル)>


新月、青く輝く月光の。

 コドモが夜遅くまで遊んでちゃいけません。そんな親の叱り文句は、夜遊びと言う楽しい事を子供に知られまいとする、大人の都合のいい言い訳かと思っていたけど。
 でも、たまにはそうでもない事もあるのね、と透華はしみじみと思った。

 尤も、透華の家庭は母親が居ず父親と二人暮しなので、その辺りは他の家庭よりは幾分寛大かもしれない。十六歳にして既に家事一般を完璧にこなしている娘に対し、父親も多少の事は大目に見ようと思ってくれている部分もあるだろう。
 勿論それは、娘の事を信用しているからこそであるし、その信頼を裏切る事の無いように、透華も気に掛けていた。だからこそ、友達と遊んでいて夜遅くなった帰り道、敢えて人気の無い道を選んで足早に歩いていたのだった。
 「…あーあ、つい夢中になっちゃったー……ホントはもっと早く帰ってくるつもりだったんだけどなぁ…」
 誰に聞かせるとも無く、つい言い訳がましい言葉が口をついて出る。その事に気付いて透華はひとり苦笑をし、誤魔化すように小さな舌をぺろりと出した。早く帰らなきゃ、と付け足して呟き、透華は更に歩みを速めた。静かな夜の道に、軽快な足音だけが小さく響いた。
 次の角を曲がれば、細く更に人気の無い裏道だ。こんな、月も出ていない暗闇の夜は足元も覚束なくて恐いのだが、背に腹は替えられない。ごくりと唾液と一緒に吐息を飲み込むと、透華は飛び込む勢いで、裏通りへの角を曲がる。えい!と掛け声を掛けて通りに躍り出、真ん中で仁王立ちになる。…が、当然と言うか、そこには誰も居ず、遠くでは犬の遠吠えなども聞こえてくるが、透華の周囲はしーんと静まり返っているだけだ。透華は、ほっとすると同時に、そうよねぇ、とひとり納得して頷き、安堵の笑みを浮かべる。さて、と気を取り直して腕を振って歩き出す、そんな意気揚々とした透華の背後へと忍び寄る不穏な陰の存在には、その時は気付く事は無かった。


 こつこつ、と自分の靴音を追い掛けるように、透華の歩みはテンポ良く続いていく。今宵の月は新月。きっと、見上げるこの空のどこかには姿を現わしているのだろうが、ただ、透華の目には見えないだけなのだ。そんな事を思いながら、空を見上げた透華の視界の端を、何かの影が一瞬掠めた。
 「…何?……ネコ…な訳ないよね。だってホントに一瞬だったんだもん」
 空耳ならぬ空目ねっ、とひとり笑い、透華は再び歩き出す。その時。どこから飛び出してきたのかも分からない、高い位置から何か大きなものが降って来て、透華の行く手を遮るよう、どぉんと地響きを立てて立ち塞がった。ただでさえ暗い周辺が、その大きな身体に影にされて透華の周囲は一層の漆黒になる。最初、透華はそれが何者であるか分からなかった。呆けたように小さく口を開けてそれを見上げ、瞳の中に捉えるが、それでもそれが何か分からない。何故なら、今時分の目の前に居る『それ』は、今までの彼女の人生に於いて掠りもしなかった得体の知れないものだったからだ。
 「……ぁ、―――……」
 透華の唇から掠れた声が漏れる。『それ』が何かは分からない。ただ、自分の知識を総動員して考えてみるに、ごつい身体と筋肉で盛り上がった肩、耳の辺りまで裂けて黄ばんだ牙を覗かせる口、額の真ん中からにょっきり生えた角など、それらの情報からそれは『鬼』であるようだ。だが、透華にとっては鬼は架空の化け物。物語や昔話の中にしか存在しない筈の生き物だったのに。
 青ざめた透華の喉がひゅっと鳴る。吸い込んだ息を必死の思いで吐き出すと、それは自分でも思いも寄らぬような、悲鳴になって出た。
 「いっ、…いやぁあぁ―――……!!」
 その悲鳴に背中を押されたかのよう、透華は凄い勢いで今来た道を走って戻り始めた。綺麗な銀色の髪が、後ろへと長く尾を引く程の速度で走って逃げるが、人智を越えた鬼の身体能力は尋常ではない。まるでスキップでもするかのような気軽さで透華に追い着き、さっきと同じように彼女の行く手を遮る。急ブレーキを掛けた透華は思わず足が縺れて転んでしまい、その場でへたり込んでしまう。そんな彼女を見下ろす鬼の表情は、久し振りに見つけた最高級の獲物を追い詰める悦びに醜く歪んでいる。透華の意識が恐怖からすっと遠退きかけたその時だった。
 ザシュッ!!
 地面の砂を蹴る踵の擦れた音と共に、何か煌くものが透華の目の前を過ぎる。鬼と透華の間に、また別の何者かが、割って入った。また新たな鬼か、と思って透華はへたり込んだままその影を見上げるが、それは余りに予想外の姿で、透華は思わず目を瞬いてしまう。
 「……え?」
 「大丈夫?」
 透華を鬼から庇うように立ちはだかるその姿は、意外過ぎる程にほっそりとしていた。片手に剣を持ち、きっと勇ましく鬼を睨み付けているその人は、昼間に街で擦れ違っても何の違和感も持たないぐらい、ごく普通の女性だったのである。
 「あ、あの…」
 「いいから早く逃げなさい。私が鬼を食い止めるから」
 女性は、鬼から目を一瞬たりとも離す事無く、透華にそう告げる。透華も了解して頷くが、今になってようやく、腰が抜けて立ち上がれなくなっている事に気付いたのだ。
 「駄目…どうしよう、私、立てない……」
 泣き出しかねない表情でそう訴える透華に、女性は諌める事も無く目線だけで振り返り、安心しなさいと頷く。頑張って横に退いてて。そんな女性退魔師の期待には応えるべく、透華は痺れて自分の物じゃないような気がする足を引き摺りながら、通りの端へと移動する。身を小さく縮めて息を潜め、女性と鬼の睨み合いを見詰めた。
 化け物にも臆する事無く、真っ直ぐに立つ女性が、手にしていた剣を構え直す。暗い中、その刃だけが自ら光を発しているかのようにきらりと神々しく煌いた。刃先が、女性の身体よりも後ろへと向けられる。それを前へと返す勢いで女性は鬼に向かって走り出し、繰り出した剣は確実に鬼の腹を狙って閃いた。
 普通に鬼が女性を相手にしていれば、女性の剣は深々とその脇腹を抉っていただろう。それ程、女性の攻撃は冷静で的確だった。が、人型である分、鬼には姑息な知恵が備わっていたらしい。退魔師を正面から相手にしても分が悪いと踏んだか、鬼は女性にではなく、よりによって、道路の端で座り込んでいる透華に向かってきたのだ。
 『……え、…どういう……』
 女性が軽く舌打ちをするのが遠くに聞こえる。透華はどこかぼんやりとした目で、自分の方へと向かってくる鬼の血走った目を見つめていた。ここに居ては危ない、と透華の本能が警鐘を鳴らす。だが彼女の身体は凍り付いたようにぴくりとも動かない。私もう駄目かな…、他人事のようにそう思った。
 だが、退魔師の女性は諦めなかった。片足を踏ん張って向きを変え、剣を構え直して鬼の後を追う。鬼の長い右手の爪が透華の喉を狙っているのを知り、そこに狙いをつけて剣を繰り出す。女性は、無防備な透華を救う事に必死だった。その思いは、女性の視界を狭くしたようだ。鬼が、透華を狙っている筈の鬼が、背後に迫る女性の気配に、ニヤリと笑った事に退魔師は気付けなかった。もう少しで女性の切っ先が鬼の右手を切り落とす、そんな時、女性が気にも留めていなかった鬼の左手が閃き、小刀のように伸びた爪が、深々と女性の脇腹に突き刺さったのだ。
 「……ッぁ、あ…………」
 透華は、女性の柔らかそうな腹を鬼の爪が抉るのを目の前で目撃する。見開いたままのその瞳に、鬼の爪を伝って赤い血が滴る光景が生々しく映った。女性は、ぐっと奥歯を噛み締めてその衝撃と痛みに耐えている。鬼が、狡猾にも、透華を出汁にして己の注意を散漫にしたのだと気付き、それを見抜けなかった己の浅はかさに砕けんばかりに強く歯を噛み締めた。
 鬼は、退魔師を捉えた事で悦に入っている。そこに、今度は鬼の方に油断が生じた。それを見逃さず、女性は握ったままだった手の中の剣の切っ先を、手首を反す要領で円を描く。その刃先は鬼の首根っこを捉え、鬼が苦痛を感じる間もなく、鬼の首は身体と永遠の別れを告げた。


 ごろり、と目を剥いた鬼の首が転がる横に、脇腹から爪を引き抜いた女性の身体がもんどり打って倒れ込む。荒い息で、細い身体が苦しげに上下するのを見て、呪縛の融けた透華が駆け寄り、女性の身体を抱え起こした。
 「だっ、大丈夫!?しっかりしてくださいっ!」
 「………」
 女性は薄目を開け、大丈夫だと言うように浅く頷く。が、その顔は髪のように白く、唇も大量の出血の所為で細かく痙攣して震えている。脇腹からは脈拍に合わせてどくどくと赤い血が流れ出続けているし、さっきまで強い意志を感じさせたその瞳も、次第にどろりと濁り始めていた。
 「こ、このままでは……」
 この人、死んじゃう。そう感じた途端、透華の身体を戦慄が走った。
 透華は、女性の脇腹に片手を翳す。数センチ離した所で動きを止め、そこに意識を集中した。すると、透華の手の平がぼうっと明るく暖かく光を放ち始め、その光の粒子が少しずつ女性の傷口に染み込んで行く様子が見て取れた。透華の、治癒の能力である。
 だが。女性の傷は余りに深かった。透華の癒しの光よりも、傷口の悪化の速度の方が早いのだ。傷を塞ぐ事が出来ず、透華の瞳に焦りの色が浮かぶ。少しずつ、抱き上げた彼女の身体から、生命のぬくもりが消えていくのを感じ、再び透華は戦慄する。間近に感じる生々しい死の感触に、胸の奥からこみ上げてくる何かを感じた。
 「待って…まだ駄目……死なないで、……死んじゃ駄目…―――……!」
 私を助けてくれたのに、あなたが助からないなんて事、あっちゃ駄目!!

 この人だけは、私が必ず助ける!!

 天空の月が、太陽を背に従え人の目に映らない月が、空の切れ間からその輝かしい姿を垣間見せた。透華の表情が自愛に満ちる。自らの生命力を対外的に変換させた、聖なる光を身に纏い、透華は瞼をゆっくりと閉じた。さっき透華の手の平に浮かんだ癒しの光が、その細い全身から滲み出て、たゆとう。それが女性の傷口に吸い寄せられるよう、潮の流れに従って流れ始め、全てがそこから女性の体内に吸い込まれていくと、彼女の傷が完治しただけでなく、血の気の全く無かったその顔には、健康的な頬の赤味を取り戻していたのだった。
 「……良かったぁ…」
 ほっと安堵の吐息を吐き、透華は笑顔を浮かべる。と、その途端、電池が切れた人形のように、透華は意識を失ってその場にくたりと倒れ込んでしまった。

 「……これ、は…?」
 意識を取り戻した退魔師の女性が、傍らで倒れ込んでいる透華の身体を抱き起こす。死に直面したと思われた己の深手は、まるで夢の中の出来事だったかのよう、その名残さえ全く無かった。だが、傍にある、徐々に融解していく鬼の首を見ればそれが夢ではなかった事は明白だ。だとすると、自分の傷をこの少女が全て癒してくれた事になる。癒しの力を持っているだけでも驚きだが、少女の秘めた能力は、これだけでは無いと言う計り知れない予感も感じ、女性はまじまじと透華の顔を見詰めた。
 「…鬼はもしかして、この事を気付いてて………?」
 女性は改めて透華の顔を見る。目を閉じた透華の呼吸は浅く、その顔色は冴え冴えとした月よりも青かった。


おわり。