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第三地獄・腸抜き
一
聖人達の像が、教会の堅牢な扉を守っている。
が、今その扉は、来るものすべてを迎え入れるように開かれていた。
たとえその来訪者が、聖堂の静謐な空気を壊す忌々しい存在でしかないとしても、だ――
「また事件でござるか」
適度に鍛えられた細身の長身に黒い装束を纏った女は、野次馬の後ろで教会を遠巻きに眺めながら、ぽつりとそうつぶやいた。
警察車両が路上を占拠し、教会の敷地は封鎖されている。教会の門戸は開かれているというのに、警察の人間は何人も立ち入らせぬというような厳つい顔つきで周囲を見張っていた。
立ち入り禁止のロープと野次馬のせいで、現場に近づくことはできない。が、修行で培われた勘とでもいうのか――教会の内部で起こったらしい何某かの事件が単純なものではないということを、半ば直感的に彼女は悟っていた。
ここのところ奇怪な惨殺事件がつづいているのは偶然ではあるまい。
殺害方法も現場も異なる猟奇事件。
その裏に潜む巨大な影を察知しているのは、何も彼女――夜切陽炎だけではないはずだ。「こちら側」の世界に一旦足を踏み込んだ者ならば……。
陽炎は拳を固く握り締める。
彼女の脳裏に浮かぶのは、ある「男」の圧倒的な死を引き連れた影。
もしもこの事件が、あの男の手によるものであるならば。
「拙者にはそれは確かめる義務があるでござる」
夜切陽炎は、誰にともなく言う。
教会の裏手、比較的警備が手薄な場所に回り込むと、陽炎は軽く跳躍して塀や建物の壁伝いに屋根に上った。西洋建築の切妻屋根はバランスが悪くて足下が覚束ない。陽炎は小さく悪態をつく。
そのままそろそろと屋根の上を移動し、手頃な天窓を見つけた。
陽炎は目を閉じて、精神を統一した。一瞬の後、彼女の右手には鋭利な刃を持ったクナイが現れていた。
無限創造。
想像力と集中力を以てして、陽炎は武器を具現化することができる。
クナイを器用に操って窓の鍵を壊すと、陽炎は教会の内部へ降り立った。
着地の衝撃を完璧に殺したため、警察の人間には気づかれなかった。
こういうとき、幻なら存在を遮断して堂々と正面から侵入するのだろうなと陽炎は思う。その幻は、未だ目を覚まさぬままではあるが――。
西洋式の教会堂には、伊賀上忍の彼女の姿は少々不釣合いだった。黒装束に口布は一種異様な出で立ちと言える。しかしぞろぞろと警察の人間がなだれ込んだ聖堂に、どんな人種が相応しいも相応しくもないもなかった。警察の人間を大量に招き入れている時点で日常は壊されてしまっている。
本来なら神聖なはずの聖堂は、一人の男の死によって狂気に満たされた空間と化していた。
降り立った瞬間に陽炎を襲った不穏な気配は、実際に死体を目にすることで、はっきりと形を持って彼女の前に現れた。
ステンドグラスを通した斜光の下に、黒い神父服が波のように広がっている。
鎖の切れた十字架には血が飛び散っており、キリストの極刑を思わせる。
絶命した神父の目は見開かれ、虚空を凝視している。
そして服と共に腹が真一文字に切り裂かれ、そこから臓物が零れ落ちていた。
直視に耐えない、惨たらしい遺体。
さすがに慣れてしまった感はあるが、腸を引きずり出された遺体を前に、そこにいた幾許かの人間は顔をしかめている。陽炎もできることなら目を逸らしたかった。
鑑識の人間達が、黙々と聖職者の成れの果てをフィルムに収めていた。フラッシュが陽炎の目を灼(や)く――
「なっ……おまえ、どこから!?」
そこに至ってようやく陽炎の侵入に気づいた間抜けな警察官が、動転したような声を上げた。
「もっと警備を強化すべきでござるな」
陽炎は素っ気無く言い、死体に近づく。飛び散った血痕を踏まないように、死体の脇に膝をついた。
「こら、部外者は――」
陽炎は片手を上げて、ぴたりと警察官を制止した。
彼女の気迫に呑まれたのか、その場にいた誰もが黙り込む。
陽炎の視線は、神父の身体から引きずり出された内臓に留められていた。
直視できないなどと言っている場合ではない。
腸に、文字が刻まれているのだ。
先の事件で発見された女性の焼死体の、背中に書かれていた奇妙な文字とまったく同様。
これは――
「また、この呪文……」
警察官は、不審そうに陽炎の視線の先を追った。
内臓に書かれた不気味な文様に首を捻る警官。
「なんだ、これは――?」
陽炎はすっくと立ち上がる。
もはや疑いようはない。
一連の猟奇事件には、すべて何者かの意志が働いている。
警察はじめ、幻も、陽炎もつかめないでいたその「何者」かの正体を、今彼女は確信していた。
『ゴースト事件』に関わった医師達を溝底に沈め、女の全身を炙り、そして神父の身体から腸を抜き出し、そこに呪文を残した人物。
その名を『貴炎』。
不老不死を求める人形師――。
二
無音の世界の只中に幻はいた。
そこは、自分の指先すら見えない漆黒の闇のようであり、かつ目映く輝く白銀のようでもある。
生き物の体内のように激しく蠢くようであり、かつ微動だにしていない。
あるいは、
鎖されていながら開かれている。
無のようであり、有。
相反する要素を矛盾なく含有する世界。
終わりはなく、境界もない。
人の感覚では捉えることは不可能なはずのその世界を、幻は醒めた目で見つめていた。
感覚的に、そこに「いる」ことを理解している。五感はこの場においてあまり役に立たない。頼れるものは第六感のみ。全身の神経という神経が未だかつてないほど鋭敏になっており、幻は「それ」が近づいてくるのを感じている。
この秩序と混沌を同時に体現したような領域で、唯一絶対と知覚に覚えさせる圧倒的な“死”の気配を。
重い闇と影を引き連れたようなその存在を、
幻は確かに感じ取っていた。
視線を前方へ投げると、男が色濃い闇の気配を連れてやって来る。
男の周囲の空間が歪められ、足下が闇に侵食されていく。底のない井戸を覗き込むような気分だった。
が、不思議と恐怖はない。
当たり前と言えば当たり前だろう。
なぜなら、彼は死を既に体験している。
我が身は単なる能力(ちから)の残滓。
今更、無慈悲な“死”の何を恐れる必要があろう?
「……皮肉なものだ」
闇色の男の口から低い声が漏れる。
「……貴方は」
幻は男を見上げる。男はゆっくりと幻に歩み寄った。
厚い雨雲が上空を覆うように、異常なまでの死の気配が幻を包み込む。
一度大雨が降り始めれば、屋根の下に駆け込まない限りどうあっても濡れるのを避けられないように――闇色の男が振りかざすその“死”も、避けることはできないだろう。
闇色の男は唇の端をくっと笑みの形に持ち上げる。
「――貴炎。名乗るのは初めてだな、道化よ」
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