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月夜に祈る
人気のない夜道を歩く、ちいさな影がひとつ、ある。
子どもの背丈。白い肌はぬめりさえおびているかのように輝き、それを引き立てる黒い髪は、ぷっつりと切り揃えられた、かむろの形をなす。
赤い振袖の、あざやかな牡丹柄が、遠目にはゆらゆら揺れる鬼火のようだった。
それは、雇い主に言いつかった仕事を終えて、帰途につかんとする四宮灯火である。
まぼろしのように消え失せたかと思えば、別の場所にあらわれる神出鬼没さが本領の灯火である。にもかかわらず、わざわざ夜道を歩いて帰ろうというのは、その彷徨い歩く性ゆえか。
そう……、四宮灯火は彷徨える人形だ。
あの金の瞳の女主人に、日々、遣われながらも、灯火はいまだ彷徨い続けているのだ。
あの方は何処へ――。もういちど、逢いたいと、ただその想いだけを抱えて。
「……」
見上げれば、おぼろな月が雲間から顔を出すところだった。
ぼんやりとした月光が、古ぼけた電柱を照らし出し、蒼い影が道路に落ちる。
さほど真夜中というわけでもないが、人通りはまったくない。猫の子一匹見当たらぬ夜の町並みは、どこか非現実な絵画めいていて、灯火にふさわしく思われた。
「――?」
彼女は、小鳥のように首を傾げる。
誰かに呼ばれた――、そんな気がしたからだった。
否、気のせいではない。
ぐるりと首をめぐらせてみれば、電柱の天辺近くに、赤いものが揺れるのが見えた。
――小さな人形さん。
その呼び掛けは、声や言葉によってなされたものではない。灯火だけが感じることのできる、生命なき物が持つ意思なのである。人が人の気持ちを思い遣るように、人につくられた物である灯火は、物の気持ちを思うのだった。
――すまないが。頼まれてくれないか。
とことこと歩み寄った。古い電柱である。だからその“声”も……云うなれば、“しわがれて”いる。電柱は老人なのである。
そしてその老人の電柱にまとわりついて揺れているもの。
それは一個の風船だった。
誰かの手を離れ、風に乗った風船がここで電柱に絡まったのだろう。ときおり夜風が吹けば揺れはするけれど、どうこじれてしまったものか、電柱からは離れようとしなかった。
灯火の深い藍色の瞳が、じっと、風船と電柱を見上げた。
――昼間からずっとこれなのさ。わしもむず痒いが、この子も、風に乗れないのでは不憫というもの……。
灯火は、もうひとつの、かすかな声を聞いた。
――おねがい……。
すすり泣くような、かぼそい声は、風船のものに違いない。
彼女は電柱の意図するところを理解すると、そっと、白い小さな手で、彼に触れた。
……トクン。
人につくられた物に、かりそめの力を与える灯火の能力……、それが注ぎ込まれる。
力を得て、電柱はぶるり……とひとつ、身震いをした。
風船は解き放たれて、ふわふわと空へ昇りはじめる。
――やあ、これですっきりした。
――ありがとう。
電柱がそう呟き、風船の声が風の彼方にささやくのを、灯火は感じ取ることができた。
――お礼をしないといけないね。小さな人形さん。
物が心を持たないと誰が決めただろう。路傍に黙して佇む電柱は、通りすがりの人形にこうして礼を云っているのだ。
「そのようなことは」
――いやいやそれはいかん。とはいえ、おいぼれの電信柱に出来ることなど限られているが。ふむ。
電柱は考え込んだようだった。
手があったなら腕組みをしたことだろう。
――よし。いいものを見せてあげよう。
「いいもの……でございますか」
――いいものだよ。わしがお嬢ちゃんと違うのはこの背丈さ。わしの高さから見えるものを、お嬢ちゃんは見たことがないだろう。さ、こちらへおいで。
そう云って電柱は灯火を差し招いた……ようだった。
ふっ――、と、瞬きの間に、灯火の姿が地上から消え失せ、あらわれたのは電柱の天辺である。
――しっかり掴まって。
電柱は伸び上がった。童話の豆の木のように、月へ届けとばかりに夜空へと伸びていった。その頂点に、ちょこんと腰掛けた、ジャックならぬ、赤い振袖の日本人形――灯火。
――ほら、見てごらん。
「あ…………」
灯火は小さく声をあげた。
夜景だ。
見渡す限り、果てしなく広がる東京の夜景――。
闇を背景に浮かび上がる、人間が築き上げた光の不夜城。
地上に降りた銀河のように、街の灯はまたたいているのだった。
――どうだい。綺麗だろう。
「…………」
感情をあらわすことのない灯火のおもてに、差したゆらぎは何だったろうか。
――人がつくった物は綺麗でないと云う輩もいる。
――山や海や、野や原のほうが美しいと。だがそうではないのだよ。
――人の街には、人の街の美しさがある。
――お嬢ちゃんもそうさ。小さな人形さん。
――人はこんなにも綺麗な物をつくることができる。
――そして、つくりだした美しい物を、愛おしみ、慈しむんだ。
灯火は、ゆっくりと頷いた。
(この街の何処かに……)
こうして、遠く夜景として眺めたことなどなかったが、この長い歳月を、灯火が彷徨い続けた街である。
(あの方もいらっしゃるのでしょうか――)
灯火は思った。
あの窓や車の明りのどれかひとつが、かの人かもしれない。
それを見分けて、ひと思いに跳んでゆくことができたなら――
あの懐かしい、やさしい手が、もういちど灯火を抱いて、その髪を梳ってくれるだろうか。
(でも……)
何千何万という人間がひしめいて暮らす中から、たったひとりの人間を見つけることなど――、砂漠の砂粒を選り分けるような話だった。
(それでもいつか……)
(この街の何処かで)
(あの方にお逢いできたなら)
たなびく雲をしたがえた月が冴える夜空に、小さな小さなしみのような点がひとつ。
風船はとうにあんなところまで昇っていってしまった。
灯火も、人の手を離れた風船と同じだ。
この光の粒が集まったような夜景から、ぽろりとたったひとつ零れ落ちた小さな光のひとかけらなのだ。
あの赤い風船は、どこかの露店か遊園地ででも、配られたものだったのだろうか。おそらく子どもの手にわたり、その子はしっかりと紐を握っていたはずだ。けれども何かの拍子に――風船は空へと放たれてしまった。
あとは風のなすまま、漂うままに。
ふわりふわりと彷徨うばかり。寄る辺のない身の上だった。
風船を失くした子は泣いただろうか。哀しんだだろうか。
しかし、そのとき、同じ程、風船もまた哀しんだかもしれないのである。
今は遠い記憶の中にしかない、あの屋敷の中で、大切にされた日々を経て――
新たな持ち主の手に売り渡され、やがて流転の日々へ。そして女神のように、あるいは悪魔のようにあらわれた金の瞳の女主人のもとに身を寄せた。
この彷徨える時の向こうに、終わりは来るのだろうか。
風船は見えないほどに小さくなってゆく。
そうだ、それでも――
彷徨の果てに、いつかあの風船が天の果てまで達するというのなら。灯火がかの人のもとに還り、再びまみえるときもやってくるだろう。
人形の少女はそっと目を閉じた。長い睫毛が白い頬に影を落とす。
彼女は祈った。
物が心を持たぬと、誰が決めたのだろう。
持ち主が人形を愛するように、人形も持ち主を愛するのである。
そして月夜の晩に、祈りさえするのである。
再び、目を開いたときにはもう、与えられた時はおわりであった。
電柱は元通りの高さであり、もはや黙して語ることはない。
おぼろな月が雲間に隠れる。
だぁれもいない夜道を、ひたりひたり、と。
赤い振袖の人形が往く。
灯火も今夜も、彷徨っているのだった。
(了)
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