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<東京怪談ノベル(シングル)>


少女の視線の情報戦線



「どうだい? お安くしとくよ。見てってちょうだい」
 そんな言葉に誘われて、ラクス・コスミオンは足を止めた。
 夕焼けが近くのビルに反射し、彼女の長く艶やかな紫に近い色の髪を、赤く照らし出している。その髪を風に遊ばせ、母なるナイルをはめ込んだ鮮やかな緑色の瞳をわきに流す仕種は、優美そのもの。
 異性どころか、同性の視線まで釘付けにしてしまいそうな姿は、けれど人ではありえない。
 首筋から胸にかけては女性の豊満な体つきだが、そこから下はなんとも力強そうな獅子。そしてその背中には、高原を行く鷲の翼。
 古代エジプトから人間たちに神獣とあがめられたスフィンクスというのが、彼女を表す上で最も簡単な説明である。
 今、彼女は商店街を、情報収集のために散歩中であった。その存在を『あたりまえ』と認識させているにもかかわらず寄せられる視線に、やや戸惑いつつも。
「いいキャベツだろ。葉っぱ一枚ずつがみずみずしいんだよ」
 好意的なおばさんの言葉に促され、ラクスは八百屋を覗き込んだ。確かに、どの野菜もスーパーで見るよりはおいしそうに見える。市場調査まではしていない為、詳しい値段については解らないが。
「とても美味しそうですね」
 思わず呟くと、八百屋のおばさんは笑み崩れた。
「だろう?」
 まるで自分が、最高級の誉め言葉で賛美されたような、そんな誇らしげな顔。つられてラクスまで嬉しくなった。
「そのキャベツを見せていただいてよろしいでしょうか?」
 最近、野菜を扱う店は多い。スーパーやコンビニ。果ては百円ショップまで。それら全てから同じ野菜を買って、鮮度の違いを調べ、レポートにするのも悪くない、とラクスが思ったのは一瞬。
 直ぐにそれが不可能に近い事を思い知った。
 何気なく伸ばした前足。そこには、商品を掴もうという意思から、鋭い鉤爪が姿を見せていた。
 ざっくり、とキャベツは易々と切り裂かれる。
 暫く、商店街事体に沈黙が落ちたのは、彼女の気のせいではない。





 そんなわけで、買って来た野菜を平謝りに家主に渡して今夜の晩御飯を確保してから、ラクスはある実験を行う事にした。
 前々から―――人間世界に紛れ込む事になった時から―――この体は、情報収集にはむかないのではないか、と思っていたが、まさかこれほどとは。
 この『野菜切り裂き事件』は彼女の決意を固めた。
 そう、この体が不自由ならば、別の体を作ればよいのだ。幸いにして、人工生命体製作にも慣れてきたし、手に入れた技術もある。何より今日のあの沈黙を二度と体験しないためにも、人間社会の情報収集用擬態を作り出す事は必須だと彼女は思った。
 いつも通り実験場所は自室。今回は魂の練成はしないので、魔方陣は描かないで置こうと決める。何より場所がない。
 まずは基盤となる細胞を培養しなくてはならない。これには自分の細胞を使用。魔術を扱う特性を込めるには、自分と殆んど同じ体質であるのが望ましい。そして、人間としての因子は友人のものを使用する。常々実験台として協力してくれる彼女には、本当に頭が下がる想いだ。
 擬似体の為の白いワンピースを用意してから、ラクスは練成にかかった。
 まずは、細胞を培養し増殖させる。非常に不安定な作業のために、空中ではなく、専用の液体を満たしたガラスの容器の中で行う。その容器は擬似体にラクスが”入った”後に、今の体を保管する為のものだ。部屋のゆうに半分は占拠している。
 ガラスに額を当てて、彼女は意識を高めた。集中し、思いを落としてゆく。
 空白が始まり、そしてそれが無ではないと気がつく。
 練成の事以外、何も考えられなくしてから、ゆっくりと、確実に細胞を増殖させていく。
 作る体は、十歳位の少女。情報収集のために、異性からの関心を持たれにくい年齢を選んだのは、彼女の男性恐怖症ゆえ。髪の色も瞳の色も全て同じだ。ただ、その体には空を飛ぶ為の翼も無ければ、地を力強く踏みしめる四肢もない。頼りない華奢な手足。細い首筋。
 何だか不安になるような、少しだけ好奇心が沸く、不思議な感覚。それに”入った”時のイメージを作りつつ、より細部まで意識して作ってゆく。
 腕を動かす感覚。手が、少し短い。
 指の先一本まで、桜色の柔な爪まで意識をみなぎらせて。
 念入りに。
 注意深く。
 魔力を帯びるその細胞を、人の形に繋ぎ合わせるのには、結構な反発があった。しかし、友人の因子を用意した事が事体を好転させ、やがて、パーツは人形をとる。
 いつの間にか閉じていた瞳を、そっと開いて、現実がイメージどおりに出来ている事を確認する。微かに色づいた水溶液の中には、少女の姿が浮かんでいた。
 まだ。
 ラクスは自分に言い聞かせる。
 まだ、です。
 ここからが執念場。
 少女の体を睨みつけるようにしながら、更なる細部までを詰めていく。
 一つ一つの細胞を再確認し、新陳代謝を組み込み、血流の流れまでに気を配った。内蔵すべてを個々に始動させてみて、不備がない事をチェック。
 外面だけではなく、人間として存在する為に、内側までも完璧に仕上げていく。


 窓の外では、自動車がタイヤを軋ませて走っている。
 庭に集っていた雀が逃げ出す気配がした。
 誰かが廊下を歩く音。
 街から感じる、あやかしと人ならざる者の気配。
 誰かの、井戸端会議が聞こえる。
 風は緩やかに夏の終わりを告げていた。
 高く澄みだした空には、しかし、まだ夏の雲が浮かんでいる。
 

 どれくらいの時が過ぎたのか。
 睫の一本にまでチェックが終ってから、ラクスは放出していた魔力をその身に収めだした。
 街角は黄昏が始まっている。
 窓の外を眺めて、ラクスはようやく過ぎた時間に気がついた。これでは、直ぐに情報収集と行くわけには行かない。
 だが、折角作った体に”入って”みたくてラクスはうずうずしていた。何せいい出来だ。自負できる。
 そう思い出したら止められないのが、行き過ぎた研究熱心だと彼女は気付いているのか、いないのか。
 逡巡を一蹴し、ラクスは早速擬似体の性能を調べる事にした。今はとりあえず性能だけを確認して、情報収集は明日の朝からすればいい。
「それでは、さっそく」
 思わず声に出るほどに、彼女は浮かれている。小麦色の頬は紅潮し、瞳は活き活きと輝きを秘めた。
 独自の趣味を持つ人間にありがちな、他人に理解されない愉悦であり、他人の理解を求めないその姿は、第三者が見ていたなら滑稽に映った事だろう。しかし、幸い―――果たしてそれは幸いかどうか―――にも目撃者は居なかった。
 スフィンクスの体を容器に沈めてから、ラクスは意識と記憶、つまり魂を擬似体へと移動させる。
 もし、擬似体に生命体としての欠陥があったとしたら、それは即、魂を通じてラクスへと跳ね返るだろう。
 恐怖は、ないわけではなかった。
 だが、それを上回る錬金術師としての自信。
 人の形を取る事への、純然たる知的好奇心が、彼女から躊躇いを取り払う。
 心を決めれば、移動は一瞬だった。
 そして、何より先に感じたのは――――息苦しさだった。
「がはっ!?」
 何か言おうとして大量の空気を吐き出し、ラクスは瞳を白黒させる。そういえばこの水溶液に受給される酸素は、全て自分の体に回したんだった、と彼女が冷静に考えられたのは慣れない四肢をフルに使って、何とか水槽から顔を出しその端にへばり付いてからだった。
 荒い息を繰り返し、その度に薄い肩が上下に動く。
 額から流れてくる水溶液を手で拭い―――その手に華奢な指が五本生えている事を確認した。意識してみれば、爪を出し入れするように一本ずつ動かす事ができる。
 まだ複雑な動きは出来ないが、取り合えず、彼女は水槽から這い出す事に成功した。
 どうせ体は濡れているだろうから、と畳を濡らさない為に引いたバスタオル。そこへ飛び降り―――意外な高さからの転落に、彼女は強かに額を打つ。
 良く考えれば翼もないし、着地に必要なバランスも、この体では不自由する。
 痛む額をさすりながら、ラクスはこれが人の体か、と実感を新たにした。
 気をつけなければ、この手のミスを何度も繰り返しそうだ。
 しかし、どうにも視線が低い。このままではタオルで体を拭う事も大変だ、と彼女は思った。思ってから、自分が四本足で立っている事に気がつく。
 普通、殆んどの人間は直立二足歩行というやつである。それが人間が栄えたもっとも大きな理由だという学説も成り立っている。
 そこに気がついたラクスは、恐る恐る畳から手を離してみた。すると、案外簡単に足だけでしゃがみこむ事が出来た。そのまま立ち上がってみると、視線が高くなる。それでもいつもよりは低いが、それほど不自由は無さそうだ。
 右足を上げて、一歩踏み出した。
 ラクス・コスミオン、その年二百四十歳。生涯初の直立二足歩行の瞬間であった。
 背景には後光が差し、「じーん」とふと文字で書いてありそうなノリである。感動に浸っている場合ではなく、正気に返ったラクスはいそいそとタオルの傍まで行った。
 そこに身を投げ出して全身をなすりつけよう、と至極当たり前に思考してから、それでは駄目だと自身に言い聞かせる。
 生涯初の直立二足歩行に成功した自分が、そんな事でいいのか? 否、良くない。
「ここは一つ、人間らしくタオルをもって体を拭いてみるべきですね……っ!」
 決意を新たに、彼女はむんず、とやや不要な力を込めてタオルを握った。彼女の指は、すんなりとその行動をする。
 持ったそのタオルでとりあえず、顔を拭ってみた。前足で毛づくろいをするときの要領だ。今度は体に張り付いて少しこそばゆい髪。それが大体乾いたら、全身をくまなく拭いてみる。
 一通りすんで、今度は服を着る事にした。
「これこそ、人間らしい行動です……っ!」
 服を何とか身に纏ったラクスは、感極まり涙を浮かべる。無意識に握った拳が、彼女の感動を体現していた。
 そんなこんなで何時間か、ラクスは人間の体に慣れるために色々としてみた。もちろん部屋の中なのでできる事は限られているが、それでも色々な事が解った。
 例えば逆立ち。
 これは、手が痛い上に頭に血が上る。さらに転んだら痛かった。
 何故そんな事をしたのか、と彼女に問いただしても多分、まともな返事は返ってこないだろう。
 ともかく、ラクスは一応人の体に順応した。元々順応性は高い。そこで、今度は外に出てみる事にした。
「情報収集に外出は欠かせません」
 と、のたまう彼女を、止める人間は居なかった。家主が起きていれば止めたであろう。しかし、日々深夜までごたごたとなにやらやっているラクスを気にしているようでは、同居などできはしない。
 また、今日の実験には立会人も居なかった。
 もう黄昏の時間は終わり、夜が闇のビロードを広げて久しい時間だ。一般的には深夜と呼ばれる。
 擬似体の体が二十歳前後の年頃の娘であれば、とりあえず問題はないだろう。が、彼女が作ったのは十歳前後の少女の姿。
 当然、そんな時間に一人でうろうろしていれば、良くて補導。悪ければ柄のよろしくない人に連れ去られたって文句は言えない。
 それは一般常識で、わざわざラクスに行って聞かせる人間など居なかった。
 そして、一般常識こそ、彼女がもっとも調べたい事だったのである。
 用意周到に靴まで用意しているが、どこか抜けているラクス。礼儀正しく、暗い玄関で、
「いってまいります」
 と挨拶をして、少女は夜の街へと繰り出したのだった。







 視線の低い町並みは、どこか印象が違った。
 ライトで真昼と変わらない明るさを保つ、日本の首都。どれ程の電力がこの町だけで消費されているのか、定かではない。
 人と人ならざるものが同居するこの摩訶不思議な町は、難なくラクスを受け入れた。しかし、あの姿ではやはり、不自由もある。
 この恰好だからこそ、出来る事があるに違いない。
 ラクスは意気込んで、辺りをきょろきょろと見回す。
 その姿は、冷静に第三者的に見れば、迷子の子供に相違ない。
 おまけにラクスは、人の形だから、と周囲へ普段は使っている魔術を怠った。当然、赤紫の髪に緑の瞳の日本人が存在する可能性は窮めて低いから、どうしても人目をひく。
 しかし、新鮮な町並みに釘付けのラクスは、自分の失態に気がつかない。
「そうです。どこかお店に入ってみましょう」
 などと呟くものだから、迷子決定である。
 本人としては、羽に引っ掛けて商品を落としてしまったり、うっかり爪を立てて床を傷つけてしまったり、という恐怖のないショッピング、という体験をしてみたかっただけなのだが、それは周りには伝わらない。
 おまけに恰好は真っ白なワンピースに、白のシューズ。小麦色の肌に映えて、とても似合っているのだが、時間帯と彼女の世間からの評価をあわせると、寝巻きに見えないこともない。
 外国人で世間知らずの女の子が迷子になっている、と周りから囁かれている事も気にせず、ラクスは意気揚々と道を進んだ。
 確かこの辺に、パフェの美味しそうな喫茶店があったはず、とその目は輝いている。良く考えれば、研究に夢中になって夕食にありつけなかった。
 今更ながらに思い出し、自然、ラクスの足取りも速くなる。
「この角を曲がった所に……」
 笑顔が固まった。
 この時間に営業している喫茶店というほうが珍しい。こんな時間帯は、バーだとか、二四時間営業のレストランとかコンビにが主流である。これもまた、ラクスの苦手な一般常識である。
 営業時間をまじまじと見詰め、ラクスはがっくりと肩を落とした。
 こんな事なら、普段から真面目に営業時間も確認して置けばよかった。次はこの街の全ての喫茶店の営業時間をまとめたレポートでも作るか、彼女は項垂れ、すきっ腹を抱えた。思い出したら、急におなかが鳴り出したのだから仕方ない。
「人の形でも、ひもじいものはひもじいです」
 淋しい呟きを発しつつ、打って変わった足取りでとぼとぼと歩き出す。
 と、急に頭から影が被さった。人の気配に弾かれたようにラクスが振り向くと、そこには笑顔の綺麗な三十代と思われる女性が立っていた。
「あの、ラクスになにか御用でしょうか?」
 おずおずと話しかけると、女性はさらに微笑む。
「ラクスちゃんって言うの? 可愛いわね」
 ラクスちゃん、などと呼ばれることなど殆んどない彼女、それだけで思わず一歩引く。人見知りの激しさは、少女の姿をとっていても変わらない。
 否、この数時間でこの体の貧弱さを思い知っているから余計、人見知りに輪がかかった。
 不用意に名前を知られてしまった事に反省しながら、いつでも走り出せるように体を撓める。
「警戒しないで。おなかが減っているんでしょう? お姉さんが、美味しいもの食べさせてあげましょうか?」
 今度の笑顔は、綺麗というより優しげ。お姉さんというには口元の皺が気になったが、ラクスよりはずっと年下のはずである。それを今、この姿で言ったところで意味はない。懸命にもラクスは口を噤んだままだった。
「大丈夫よ。ちょっと姪に似ていたから、声をかけただけなの。それとも、ご両親が一緒?」
 日本人である以上、ラクスに似ている人間は限りなくゼロに近いだろう。その不審な言い回しに、しかし、ラクスは気がつかなかった。
「いえ、両親は……」
 素直に質問に答える。
「じゃぁ、お兄さんか誰か?」
「そういった者も一緒ではありませんが」
 こんな場合は嘘でも、親が近くで待っているというべきだ。十歳の子供にはそう教えるだろう。大抵の親が。それもまた、一般常識。
「だったら、おなか減るの辛いでしょう? ちょっとだけ、ご飯を食べさせてあげる。ね?」
 相手が男性だったなら、魔術で吹き飛ばしてでも遠慮しただろうが、女性であるということと、空腹には敵わなかった。
 小さく頷くと、本当に嬉しそうに女性は微笑む。
「じゃぁ、近くにいいお店があるの」
 そっと押し付けがましくも無く、けれど抵抗する暇を与えずに手を握ったその女性は、ラクスの歩調に合わせて歩き出した。
 何だか、話が上手すぎる、とラクスがようやく帰ってきた思考回路を働かせ出した頃、女性が立ち上がって、店を指す。
 小粋なつくりのその店から丁度、二人の客が出てきた。男と女の二人ずれで、いずれも酷く酔っていた。
 はっと気がついたラクスが身をひこうとした瞬間、思いもかけない強い力で手を引っ張られた。
「駄目よ、今更逃がさない」
 綺麗な笑顔でそういわれ、ラクスは総毛立つのを感じる。そして見た。その女性―――だと思っていた人物―――の喉元の、立派な喉仏を。
 後はもう条件反射だった。
 掌に集めた空気を一気に衝撃波として送り込み、相手が怯んだ瞬間に身を翻して走り出す。
「何よ!? あたしが男だからって、男だからって、差別するわけ!? 法律に男がスカートはいちゃいけないって書いてあるの!? ちょっと、待ってよっ!」
 取り乱したように見えるが、それでも言葉遣いが女性らしく、声まで高めなのが余計にラクスの恐怖をあおる。
「待ってって言ってるでしょう! 大人の言う事を聞きなさいっ! 悪いようにはしないから!」
 言いながらピンヒールで追いかけてくるその姿は、それだけで既に十分心臓に悪い。
 恐怖のあまり涙が溢れた。ラクスは人型の足の遅さを呪つつ、全力疾走で追跡を振り切ったのだった。







 あの後道に迷い、何とか家に帰り着いたのは、空が白み始めてからだった。
『魔術の発動に問題なし』
『全力疾走は体への負荷が大きすぎる』
『深夜の街は、人間にとって危険』
 とメモ帳に書き付けて。
 翌日、寝過ごしたラクスを起こしにきた家主がその姿に驚き、さらに、彼女にいくつかの一般常識を伝授したのだった。
 そして、人の体に慣れる為に、まずは、家の中で家主の細々としたお手伝いからはじめてはどうか、と言ってくれた。
 昨日の行動が無謀であった事を知ったラクス。
 その温かい心遣いに、昨日の晩とは違った涙が、その小麦色の頬を伝った。




END