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おーだーめいど・ぱらだいす
神聖都学園の近くにあるマンションの三階。そこにある経営が傾きかけた某派遣会社。自分が登録しているわけではないそこに顔をだしたのは、時間がちょっとあったから。
「こんにちは」
「あ、いらっしゃい」
出迎えたのは事務員アルバイトの狗神だけで、他には誰の姿もない。
「今日は狗神さんだけなんですか?」
「うん、いつみさん、仕事で出ているから。ちょっといつ戻って来るかわからないんだけど……」
「あ、いえ。べつに特別な用件があったわけではないですから」
みなもはにこやかな表情で軽く横に手を振った。
「とりあえず、どうぞ。ゆっくりしていってね。……あ、そうだ」
そんな言葉を投げかけた狗神は、ふと思い出したようにみなもを見つめる。
「?」
「三十三魔法陣って知ってる?」
「……ちょっとわかりませんけど……」
少し考えたあと、そう答えた。すると、狗神はそうだよねとにこりと笑う。そう答えたことに安堵している節がうかがえた。
「なんなんですか、それ?」
「うん、実はね……」
そう言って狗神は話し始めた。
『資料』とシールが貼られたダンボール箱を開けてみると、見るからに胡散臭い、怪しげな装丁の分厚い本が入っていたから、とりあえず今日も机でため息をついているいつみさんを呼んでみたんだ。
「……。いつみさーん」
「なんだい?」
呼ぶとすぐにいつみさんはやって来た。そこで、本を指さし、問うてみたんだ。
「これ、なんの『資料』ですか?」
「……あ」
本を見たいつみさんは小さく声をあげると、本を手に取り、ぱらぱらとページをめくった。中身がくり抜かれて鍵やメダルが入っていてもおかしくはないような本だったけど、そういう仕掛けは残念ながらなかった。
「こんなところにあったのか……懐かしいな……ああ、これはあれだ、三十三魔法陣の本だよ」
懐かしげにいつみさんは言うんだけど、そんな本は聞いたことがない。三十三魔法陣の本だよとさも誰でも知っていそうな口ぶりで話されても……。そこで、訊ねてみたんだ。
「で、それってなんですか?」
「え? だから、三十三魔法陣だよ。とある悪魔がある錬金術師の夢のなかへ現れ、書かせたと言われている有名な本じゃないか」
「……有名……ですか」
そうですか、たぶん、有名なのはいつみさんのなかだけです……心のなかでそうツッコミをいれておいたよ。だって、聞いたことがないし。
「和哉くん、そんな顔をしなくても……。有名じゃなかったのかな……祖父も母も当たり前のように話していたから、てっきり。うーん、そうだよな、あの人たち、ちょっと普通じゃなかったし……有名じゃないのかも……」
「まあ、それはともかく……三十三魔法陣とはなんなんですか?」
僕自身、怪奇現象や怪談についてはそれなりだとは思っているけど、悪魔とか魔法陣とかそういった方向にはあまり興味がないんだよね。僕の興味の対象はあくまで、怖い話や呪い、祟りだから。ああ、話がそれたね。
「生活に役立つ陣形……魔法陣が三十三種類掲載されている本だよ」
「そのまんまですね」
あっさりといつみさんは言ったけど、でも、生活に役に立つ魔法陣って……。それも、悪魔が書かせたとか言われている代物だよ? 本当に役に立つことが書いてあるようにはとても思えないよね。一見、便利そうで、実は落とし穴がある……とか。でも、内容が気になったのも事実。訊ねてみた。
「例えば、どういうものがあるんですか?」
「そうだね、大願成就とか……無病息災、家内安全というのもあったかな」
「商売繁盛とかもあったりして」
もちろん、冗談で言ったんだけど。でも、いつみさんは頷いた。
「ああ、あったんじゃないかな?」
「……神社に売っているお守りや御札と一緒ではないですか……」
「そんなようなものだよ。護符の書き方が載っていると思ってくれれば。……そうだ、和哉くんにも護符を作ってあげるよ」
「え、いいですよ……」
そんな胡散臭いものは受け取れないって遠慮したんだけど……。
「遠慮しなくてもいいよ。普段のお礼だから……どれにしようかなー」
「普段のお礼だというなら、むしろ作らないで下さい……」
「え? 何か言った?」
僕は本当のことを言えなかった。ああ、言えなかったよ……にこにこと珍しく上機嫌ないつみさんを前に、そんな胡散臭いものはいらないなんて。
「……うん、これにしよう。夢魔の力を借りて夢界に干渉をする魔法陣」
「魔界ですか……?」
ムカイ? いや、マカイの聞き間違い? ……どちらにしても、胡散臭いことにはかわらないんだけど。
「いや魔界ではなくて、夢界。夢の世界だと思えばいいよ。護符を枕の下にいれる。そして、眠る前に自分の叶えたい夢や理想の世界を思い浮かべるんだ。そうすると、夢でそれが再現される」
「見たい夢が見られるんですね」
「ただの夢だと思ってはいけないよ。現実と変わらない質感を再現してくれる。味覚や痛覚も再現されるんだ。……俺は幼い頃、この魔法陣でお菓子の家を食べたり、童話の主人公になったりしたもんさ」
「なるほど……そういう使い方をすればいいんですね」
「そう。自分の夢だから、なんだって思いどおりだよ」
狗神は小さく息をつくと、確かに魔法陣を思わせるような図形が描かれた紙を取り出した。
「……と、にこりといつみさんは笑い、そして、ここにその魔法陣が描かれた護符があるというわけなんだ」
「三十三魔法陣というのは、生活に役立つ三十三の魔法陣のことなんですね」
みなもはうんと頷いた。
「らしいんだけどね。本当にそうなのか怪しいと僕には思えるよ。でも、とりあえず、作ってくれちゃったし……どうかな、海原さん、これ、使ってみない?」
「え? でも……いいんですか?」
「いいよ、いいよ。さっきも来訪記念に一枚贈呈したんだ。はい、どうぞ」
狗神はそう言って護符を差し出す。その口ぶりからすると、護符は一枚しかないというわけではなさそうだし、狗神の分もあるのだろう。
「それじゃあ……いただきます」
みなもは素直に護符を受け取った。
狗神の話では、枕の下に護符を入れ、眠る前に夢に見たいことを思い浮かべるということだった。
夢に見たいこと。
それは、人魚姫とスキュラのおはなし。ふたつの似て異なった物語は、ともに人魚が登場する。王子に恋をし、泡と消えるのが人魚姫。最近ではめでたく王子と結ばれるパターンがあるらしいものの、定番としては泡として消えるもの。スキュラも同じく王子に恋をし、ただ、こちらは王子に魔女が恋をしていたから大変。嫉妬を買って、スキュラという下半身がいくつもの大蛇の頭という怪物に変えられてしまい、遠くから王子を見守るというもの。スキュラの話はもともとはギリシア神話で、本当は王子ではなく海神に恋をされる海のニンフの名がスキュラであるらしい。世にでまわっている絵本や童話では海のニンフは人魚、海神は馴染みやすく王子とされ、女心をくすぐる設定(?)となっている。
確かめてみたいのは、どちらが幸せだったのかということ。
もちろん、結ばれるのが一番だとは思っている。だが、同じ人魚同士、その心、思いが気になる。夢であるならば、実害もなく、現実にはなかなか確かめられそうにないそれが確かめられる。
そう、夢であるのだし。
みなもはついこの間手に入れたマイナスイオンを発するという枕の下に護符を置き、横になった。
気がつくと、南洋緑海の波間を漂っていた。
陽光を受けて輝く透明度の高い海のなかを鮮やかな色彩の小さな魚たちが泳ぎまわる。
「これが……夢?」
現実としか思えない質感、色彩、音。自分の下半身は人魚のそれ。水中を自由自在に舞うことができる。本来の目的を忘れ、海底を埋め尽くす珊瑚と水と陽光がおりなす幻想的な空間を楽しみ、小さな魚たちと戯れていると一匹の亀が泳いできた。
『みなも姫、みなも姫、洞窟の魔女が呼んでいるよ』
「え? 洞窟の魔女さん……?」
『そうだよ。洞窟の魔女に何かをお願いしたんでしょ?』
どうやら、人魚姫の話であるらしい。すでに王子と出会い、人間になりたいと魔女に願ったあとなのかもしれない。
「ありがとう。すぐにいきます」
みなもはにこりと笑顔で答えた。そういえば、洞窟の魔女の棲家はどこだろう……と思ったが、よく見ると海底に『あなたのお願い、よろず相談事引き受けます。魔女の洞窟は大珊瑚を左折(50メートル先)』という看板が立っている。
「……」
雰囲気を壊す妙な看板だが、とりあえず方向はわかった。行くなとみなもの周りを漂い、長い髪をつんつんとつっつく小さな魚たちに別れを告げ、看板が告げる場所へと向かう。見えてきた大珊瑚を左に曲がり、さらに進むと看板があった。『魔女の洞窟』と書いてある。
ぽっかりと口を開けている岩場の間をするりと抜け、少々狭い空間を進む。やがて、軽く傾斜してきた岩場の間を上へ上へと進んでいくと海面が見えてきた。水中から顔を出すと、どうやらどこかの洞窟のなからしい。いかにも魔女を思わせるような大きな釜があり、それをかきまわしている黒いローブをまとった背中が見えた。
「あの……」
声をかけるとその動きが止まる。
「きましたわね、みなも姫」
張りのある厳かな女声が響き渡る。魔女は老婆ではないらしい。
「は、はい。あの、あたしを呼んでいると亀さんに聞いて……」
「人間になりたいのでしょう? 薬ができましたわ。それを飲めば人間の足を手に入れることができますわ」
魔女は振り向かずにとある場所を指差した。顔を向けるとそこには小さな瓶がある。
「それじゃ、あの……声……でしたっけ? 髪の毛……でしたっけ?」
「礼などいりませんわ。さっさと王子を口説き落としてしまいなさい」
「え? あれ、いいんですか? えーと、正体を明かしてはいけないとかありませんでしたっけ?」
「明かしていいですわ。あの日、おまえを救ったのは自分だと告白し、さっさと結ばれてしまうのです」
「え、でも……」
「行くのです!」
「は、はいっ」
なかば追い出されるようなかたちで小さな瓶を手に洞窟をあとにする。
なんだか話の細部が違っているような気がする。だが、ともかく、小さな瓶は手に入れた。話の展開として、人魚姫はこれを口にし、人間の足を手に入れる。自分もそれにならおう。みなもは海上へと向かい、顔をだす。周囲を確認すると、近くに島が見えた。とりあえずそこまで泳ぎ、砂浜で小さな瓶を口にする。
「あ……う……」
あまりに不味い。苦くて死にそう。これはもしや毒薬だったのでは……みなもは喉に手をあて、小さくうめいたあとに気を失った。
気がつくとベッドの上にいた。ただし、それは自分のものではない。
「ここは……」
身体を起こし、周囲を確認する。とりあえず、身につけているものは、大きめの男物と思われるシャツのみ。あらわとなっている足は人間のもの。
「人間に……なれた……?」
しかし、ここはどこなのか。質素で落ちついた物が少ない部屋。開け放してある窓からはあたたかな光が射しこみ、風がカーテンを揺らしている。ぼんやりと風に揺れるカーテンを眺めていると扉が開いた。そこから姿を現したのは、東海堂だった。
「え……東海堂さん?」
「気がつかれたようですね」
「東海堂さんが助けてくれたんですか……でも、どうして……」
みなもは東海堂を見つめ、眉を顰めた。
「どうして、そんな格好をしているんですか……? 東海堂さんもコスプレというか、そういう趣味が……?」
その姿はやけにゴージャスとでも言おうか。中世の貴族を思わせる服装に小首を傾げたくなる。いや、傾げてしまっている。
「なにを仰っているのか。それに、私は東海堂ではありません。グラウコスです。あなたに思いを寄せている海神です。名前すら、憶えていただけていなかったのですね……」
「え? ……あれ? ちょっと待ってください、これ、人魚姫ですよね?」
これは夢だから、自分が知っている相手が配役となることはわからないことではない。しかし、その言葉は理解できない。人魚姫の話のはずが、スキュラの話になってしまっているような気がする。
「なんのことです?」
「あ、いえ……」
「あなたが隣の国の王子に思いを寄せていることはわかっています。ですが、私もあなたを一目見たそのときから……!」
「あの、ちょっと待ってください、なにがなんだか……ちょっと考えさせてください」
「あなたはあなたのままが美しいというのに。王子のために人の足を得てしまった……」
「え?」
「いえ、なんでもありません。……近くに泉があります。そこでゆっくりと考えてみてはいかがですか?」
東海堂……ではなく、グラウコスは何故か複雑な表情でそう言った。
言われたとおりに進むと、森のなかに泉があった。澄んだ水をたたえたそこへと近づき、服を脱ぐと足を踏み入れる。
冷たい。
そのままゆっくりと泉のなかへとつかる。目が醒めるような水の冷たさに頭が冴えてくる。どうやら、順番に人魚姫とスキュラの話を体験してみたかったのに、両方が混ざっている話になっているらしい。
人魚姫は隣国の王子に恋をし、スキュラの話に登場する王子、つまりは海神が人魚姫に恋をしている。つまり、三角関係……?
でも、待って。
魔女は海神に恋をしているはず……。
「……え? いやっ、蛇っ?!」
ふと気がつくと水中に大蛇が蠢いている。かなり驚いたものの、ふとスキュラのことを思い出した。はっとして下半身を見やると、複数の大蛇の頭へと変わっている。
「……!」
「かかりましたわね、みなも姫!」
魔女の声だった。見れば高笑いをしている黒いローブをまとい、フードを目深にかぶった魔女がいる。
「隣国の王子に思いを寄せていると思ったら、グラウコス様にも手をだして! おまえのような二股女にはその姿がお似合いですわ」
「何を言っているんですか! 誤解です、間違いです、とんでもないです!」
「その姿では、もはや誰にも相手にされないでしょう。グラウコス様はあなたに魚の下半身が戻ると思っていたでしょうけど……そうはいきませんわ。あなたにはその姿がお似合い。もう誰にも相手にされませんわね」
「そんなのはどうでもいいんです。だけど、あたし、二股なんてかけていません! 聞いているんですか? あたしは……あたしは……」
しかし、魔女はまるでみなもの言葉など聞かず、自分の言いたいことだけを言って去ってしまった。
「あたしは……」
二股なんかじゃないのに。
人の話は聞いてくれないし。
しかもご丁寧に服まで持っていってくれるし。
みなもが哀しさと悔しさでしくしくと泣きだし、どれだけの時間が過ぎたか。
「どうしました?」
背後からそんな声がした。
「あたし……」
みなもは震える声で呟く。
「あたし、二股なんかじゃありません……!」
そう言ってみなもは振り向いた。それと同時に泉が大きくうねり、水面から大蛇が勢いよく飛び出した。襲いかかるつもりなどなかった。だが、感情に反応し、大蛇たちは一斉に声をかけた相手に向かって襲いかかる。だが、不意に現れた水の壁によって大蛇は弾かれるようにあらぬ方向へと首を向けた。が、すぐに態勢を立て直し、襲いかかる機会をうかがっている。
「二股なんかじゃないんです……!」
みなもは言葉を続ける。
「違うんです、確かめてみたかっただけで……」
「ともかく、落ちついてください……おや、君は……」
そこで初めてお互いの視線が交差する。自分がはっとしたように、相手もまたはっとした。
「あなたは……」
そこにいたのは、セレスティ=カーニンガムだった。
「なぜ……」
お互いの唇が異口同音に言葉を発する。
「あたしの夢に?」
同じ言葉を自分も口にしていた。東海堂と同じようになんらかの配役としての登場なのだろうか。
「あなたも、護符を……?」
セレスティは問う。こくりとみなもは頷いた。どうやらセレスティは自分と同じく護符を使ったらしい。つまり、自分の夢の配役として登場しているわけではなさそうだ。
「そうでしたか……自身が思い浮かべる夢を見るとのことでしたが、どうやら同じ護符を使っている同士の夢がつながっているようですね……」
そう言いながらセレスティは上着を脱ぎ、みなもの肩にかけようとしたが、そこで大蛇に噛みつかれそうになった。
「あ、ダメ! ……ごめんなさい、ちょっと気を緩めるとすぐに何か食べようとしちゃうんです、蛇さんたち……」
みなもは困ったような顔で言う。自分には襲いかからないが、それ以外のものに対しての攻撃意欲は高い。気を緩めるとすぐに襲いかかろうとする。
「定番ですが、言っておきます。……私を食べても美味しくはありませんよ」
セレスティは笑みを浮かべてそう言うが、その笑みは少しひきつっているような気がする。
「上着をどうぞ。それにしても……その……どうして泣いていたのですか?」
「狗神さんから護符をいただいて……人魚姫とスキュラの、似ているけれど微妙に違うそのおはなしのヒロインは、どちらが幸せだったんだろうって、夢なら実害なしで試せるかなと思ったんです。そうしたら、ふたつのおはなしが混ざっていて……人魚姫の王子さまとスキュラの王子さまの両方に二股をかけたって因縁をつけられてしまったんです……でも、二股なんかじゃないんです!」
「ともかく、これは夢ですから、夢から醒めればもとの姿なのでしょうが……」
「いつ醒めるんでしょうか……」
その言葉にお互いが無言になる。が、やがてセレスティは言った。
「ともかく、ここでこうしているのもなんですし、もしかしたら他にも人がいるかもしれません」
セレスティとともに泉を離れる。しばらく歩くと近代都市のような場所へ出た。しかし、そこは建築途中のまま放置されたような荒れ果てた廃墟で、壁は崩れ、剥き出しになった鉄部分は赤く錆びている。人の気配はない。
「これは、また……すさまじい雰囲気の場所にでましたね……」
「あたしの夢ではなさそうなんですけど……」
「私の夢でもなさそうです」
錆びた看板や外れた扉、割れた窓ガラスを見ながら通りを歩く。
からんからん。
崩れかけたビルとビルの間から、空き缶が転がるような物音がした。反射的に顔を向けると暗い影のなかで何かが動いた。自分の膝の高さくらいまでしかないそれは、どうやら人の形をしているようだった。左右の足の長さがあわないのか、関節がおかしいのか、妙にぎこちない動きでゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「人形……?」
通りへ現れたのは、ぼろぼろのドレスをまとった人形だった。口のまわりには赤錆がついているのか、妙に汚れている。かなり長い間雨ざらしにされていたような状態のそれはセレスティとみなもを見つめると動きを止めた。が、それも一瞬。急に両手を突き出し、すたすたと歩みよってくる。
「!」
人形の顎がかくんと外れ、ほんの少し首が傾げられた。今にも噛みつこうというその瞬間、みなもは小さく悲鳴をあげる。その声とほぼ同時に大蛇が動き、人形をばくりと丸のみにする。べつに丸のみにしようと思ったわけではない。近づいてきてほしくないと思った瞬間に大蛇が動いたのだ。
大蛇はしばらく人形を呑みこんでいたが、やがてそれは自分が食べるべきものではないと気がついたのか、ぺっと吐き出した。錆びで赤茶けた路面に人形がごろりと転がる。
「た、助かりました……」
と言うセレスティの顔は青ざめているようにも思える。
「い、いえ……あ……」
みなもは小さく声をあげた。何か自然ならざる音が聞こえる。耳を澄ましてみると、シャキンシャキンというような音だとわかった。
「……」
お互いに顔をみあわせたあと、人形が歩いてきた路地裏へと身をひそめる。次第に音は大きくなり、こちらに近づいてきていることがわかる。息をひそめていると、錆びついた大きな鉄のハサミを手にし、目の部分だけ穴をあけている麻の袋をかぶった男が周囲をうかがいながら目の前を通りすぎていった。
シャキンシャキンという音が遠くなっていき、やがて聞こえなくなった。
「な、なんでしょう、あれ……?」
「よくはわかりませんが、とりあえず友好的ではないようです……」
セレスティが言うとおり、友好的ではなさそうだ。見つかり次第、あの大きなハサミで身を裂かれそうな気がする。
「これからどうしましょうか……」
ため息をついていると、通りを歩く靴音と話をしているらしい声が聞こえてきた。
「だからさ、次に出てきたときは三人がかりでやっつけようよ」
「ですが、あのシャキンシャキンという音を聞くと身が竦みます〜」
「躊躇いなく突っ込んでくるものね。あの勢いには負けるわ、確かに。反射的に逃げたくなるもん」
会話から判断して、あのハサミ男の仲間というわけではなさそうだ。セレスティとみなもは顔をみあわせると通りへと出た。そこには、中年の男と子供と若い娘がいる。セレスティとみなもが姿を現すと、動きを止めた。
「あ」
お互いに小さく声をあげる。が、みなもの下半身に目がいった途端、それは悲鳴となった。
事情を説明し、ここまでの経緯を話し合う。
とりあえず誰もが狗神から受け取った護符を使って、夢を楽しんでいたことがわかった。が、それもハサミ男が現れるまで。追われ、逃げるうちにここへ辿り着いたのだという。
中年の男はシオン・レ・ハイ、小学生くらいの少年は鈴森鎮、若い娘はティナ・リーとそれぞれが名乗る。シオンとティナとは安眠枕の件でわりと最近に顔をあわせている。
「結局は、ハサミを持っている男、本気を出せば勝てそうな気もするのですが、あの迫力には負けるのです」
腕をくみ、シオンはうーんと唸る。
「何が怖いかってあの大きなハサミだよ。必殺くーちゃんすぺしゃるをやろうとしても、くーちゃん、怖がっちゃうし」
鎮は連れている小動物の頭を撫でる。リスではないし、ネズミでもない。かといって猫でもないし、犬でもない。フェレットというわけでもない。謎の生き物だった。
「とてもじゃないけど、あんなのに立ち向かえないわよ」
はぁとティナはため息をつく。
「なるほど、話に聞いているとかなり迫力がある相手らしいですね……」
「迫力があるなんてもんじゃないわよ。両手に持った大きなハサミをジャキン、ジャキン、ジャキンって交差させながら、躊躇わず真っ直ぐに向かってくるんだから。あの勢いに反射的に逃げ出すってもんよ」
確かにそれは怖いとは思う。だが、それ以上に気になることがある。みなもはそれを口にした。
「でも……それ、誰の夢の登場人物なんですか?」
「……」
お互いに無言で顔をみあわせる。そして、指をさしては滅相もないと横に首を振った。結果、誰でもないことがわかる。
「他にも護符をもらった人がいるということでしょうか……」
「私、たぶん、最後に護符をもらったんだけど、あいつ、五人の人に渡したって言っていたような気がする。私を含めて」
場にいる人数は五人。そうなると、護符を描いた東海堂か、護符を配った狗神の夢というように考えられる。
「じゃあ、狗神さんの夢ということですか? ……誰か狗神さんに会った人はいますか?」
みなもが問うと、ティナが小さく手をあげた。
「はい、私。会ったわよ。ハサミ男に追いかけられて、しばらく一緒に逃げていたんだけど……」
「……」
「すでに、ハサミ男の餌食になってたりして……」
誰もが思っていて口にしなかったことを鎮が呟く。
「とりあえず、あのハサミ男をなんとかしないとゆっくりできないわ。あいつはこっちを見つければハサミを振りまわして追いかけてくるし、夢から醒める方法もわからないし」
「五人いればどうにかなるでしょうか……しかし、あの迫力には参ります〜と噂をすれば、あの音が……」
遠くから再びシャキンシャキンという音が聞こえてきた。
「生理的にくるものがある音ですね」
セレスティは苦笑いを浮かべるが、まさにそのとおり。シャキンという音が周囲に響き渡るその余韻がまたなんとも言えない。
「みつかるとこちらへまっしぐら、さらにくるものがあります」
うんうんとシオンは感慨深く頷いた。そうしている間にも音は近づいてきている。
「それで、どうするんですか?」
「もちろん、やるわよ。狗神の敵討ちよ!」
拳をぐっと握りしめ、ティナは言う。
「え、でも狗神さんはやられたというわけでは……」
というみなもの呟きがティナに届いた様子はなかった。
作戦といえるほどのものを考える時間はなかったが、相手はひとり、自分たちは五人。数の上では勝っているので最悪、人海戦術というものが使える。
相手は突撃してくるというので、回避能力が高そうな人間が前衛に立ち、回避能力が低そうな人間は後衛という配置をとる。前衛は、自分、そして、シオンと鎮。後衛はセレスティとティナということになった。
シャキンシャキンという音がさらに近くなり、通りにハサミ男が姿を現した。こちらに気がつくと、終始動かしていたハサミの動きを一瞬、止める。そして、シャキンシャキンとハサミを動かしながら、すさまじい勢いで走りこんできた。……なるほど、あの勢いならば相手がどうあれ反射的に逃げたくなるかもしれない。
「それじゃあ、必殺くーちゃんすぺしゃるを……え? やだ? しょうがないなぁ……とりあえず!」
鎮はすさまじい勢いで走りこんでくるハサミ男に対して腕を向ける。周囲を揺るがすような突風が吹きぬけ、ハサミ男は転倒するが、風は一瞬でおさまってしまう。すぐに立ちあがった。が、くらくらしているらしく、動きが止まっている。
「それでは!」
続くシオンが駆け寄ると、ハサミ男は即座に反応した。ジャキンとハサミを大きく開く。が、それでも転倒の衝撃からか動きにキレがみられない。シオンはハサミの一撃を屈んで避けるとハサミ男の側面に一撃を与える。勢いにハサミ男の手からハサミが離れた。
「シオンさん、右に避けてください!」
みなもの声に同調し、吹っ飛びかけるハサミ男に大蛇が牙を剥き、襲いかかった。ハサミ男は大蛇によって全身を締め付けられる。しばらくは動いていたものの、やがてがくりと力を失った。
「やりました……か?」
大蛇がハサミ男から離れる。地面に投げ出されたハサミ男は微かに動いた。
「あ、まだ、動いていますね……」
そのうち意識をはっきりさせてまた襲いかかってくるに違いない。縄があれば縛っておけるのだが、そういった道具は、ない。
「とどめ、さす……?」
どうしようかと顔をみあわせていると、セレスティの声が響き渡った。
「ああ、とどめはちょっと待ってください!」
「なんで? また起きあがってきちゃうよ?」
「その麻袋をとってみてください」
鎮はなんでという顔をしたあと、恐る恐るといった感じに手をのばし、麻袋を取り去る。
「え?!」
あらわとなった顔は、狗神のものだった。
「狗神さん……そういう趣味が……」
様子を見守っていると、狗神は小さく呻き、やがて瞼をあけた。身体を起こしたあとこめかみに手をやり、軽く横に首を振る。
「あれ、みなさんおそろいでどうしたんですか……?」
寝ぼけたような、なんともはっきりしない表情で狗神は言う。
「どうしたんですか、じゃないわよ。なんであなたがハサミ男になってんの?」
「え? ハサミ……?」
「そうです、このハサミですよ」
シオンは近くに転がっていたハサミを拾いあげる。そして、ジャキジャキと軽く動かした。
「ハサミ……ああ! そうだ、思い出した……ハサミ男に追われて、どうにか倒したんだ……それで、落ちていたハサミを拾って……そうだ、ハサミだ、ハサミを手にしちゃいけないんだ!」
シャキンシャキン。狗神の最後の言葉にハサミの音が重なる。ふと顔を向ければ、ハサミを手に少しばかり怖い顔をしている(いっちゃっているとも言う)シオンがいた。
「もう遅いみたいですね……」
護符と同じ魔法陣に触れることで、夢から戻ることができると聞き、それぞれに別れを告げたあと、夢の世界をあとにする。
目覚めると当然のことながら、下半身がいくつもの大蛇ということはなかった。ほっと安心し、次の日、某派遣会社を訪ねてみる。
「いらっしゃい、海原さん」
出迎えたのは東海堂だった。狗神の姿は見えない。
「あ、グラウコスさん……」
「え?」
「あ、いえ、違いました。あの、狗神さんは?」
「ああ、それがね、打撲だとかで……入院しているんだ」
東海堂は苦笑いを浮かべながら言う。
「入院……なにかあったんですか……?」
「目が醒めたら、全身が痛くて動けなかったんだって。病院に行ったら、全身打撲というか、すさまじい力で締め付けられたか身体を打ちつけたかとかでとりあえず検査もかねて入院、今日は顔を出せないって連絡があったよ」
どういう寝方をしているんだろうねと東海堂は言った。
が。
それというのは……。
「どうしたの?」
「あ、いえ、入院先、どこですか?」
とりあえず、お見舞いには行っておくことにした。
−完−
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■ 登場人物(この物語に登場した人物の一覧) ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】
【1883/セレスティ・カーニンガム(せれすてぃ・かーにんがむ)/男/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【1252/海原・みなも(うなばら・みなも)/女/13歳/中学生】
【2320/鈴森・鎮(すずもり・しず)/男/497歳/鎌鼬参番手】
【3356/シオン・レ・ハイ(しおん・れ・はい)/男/42歳/びんぼーにん(食住) +α】
【3358/ティナ・リー(てぃな・りー)/女/118歳/コンビニ店員(アルバイト)】
(以上、受注順)
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■ ライター通信 ■
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依頼を受けてくださってありがとうございます。
納品が大幅に遅れてしまい、申し訳ありません。
相関図、プレイング内容、キャラクターデータに沿うように、皆様のイメージを壊さないよう気をつけたつもりですが、どうなのか……曲解していたら、すみません。口調ちがうよ、こういうとき、こう行動するよ等がありましたら、遠慮なく仰ってください。次回、努力いたします。楽しんでいただけたら……是幸いです。苦情は真摯に、感想は喜んで受け止めますので、よろしくお願いします。
こんにちは、海原さま。
人魚姫とスキュラのおはなしだったのですが……気持ちは確かめられたのかどうなのか……スキュラは体感したのですが(それもどうか)
願わくば、この事件が思い出の1ページとなりますように。
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