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光ふる月夜
―――――かつん、
高らかな靴音を響かせて、背の高い女がひとり、豪奢なつくりをしたホテルのエントランス・ホールに立った。開け放したドアからの控えめな冷房で、紅の長い髪の毛が清水のような流れを作る。通りを行く人々が思わず振り返ってしまうほどの美貌に愉快げな笑みを浮かべて、彼女―――――紅蘇蘭は、硝子張りの大きなドアをくぐった。
きびきびと客を案内しているボーイに声を掛け、蘇蘭は目的の会場の場所を聞く。ボーイに案内されたとおり、至るところに煌びやかな装飾が施されたホテルの廊下を抜けて、それ以上に煌びやかなレセプション会場へ歩いた。招待券を入口に立つ会計係に渡して中に入ると、毛足の長い絨毯がやわらかに靴を押しかえす。中々好い部屋じゃない、と独り言ちてから、首を巡らせて彼を探した。
レセプション会場の丁度中央―――――目的の人物は、すぐに見つかる。荒祇天禪は重役然とした人間達に囲まれて、財閥会長というその肩書きに相応しい、正に悠然とした態度でそこに立っていた。天禪は先のボーイの如くきびきびとした働きで、客の応対に勤しんでいるようだ。何とも人間らしい彼のその姿に蘇蘭はくすりと微笑を零し、後ろの壁に凭れ掛かってのんびりとその景色を傍観することにした。
大財閥のレセプションなのだから仕方が無いのだろうが、実に多くの客が居るものである。
何事かを頻りに熱っぽく語る者や、身振り手振りを交えながら説明をする者、二言三言話して握手を求めるだけの者など、枚挙に暇がない。天禪は愛想好く口元に微笑を浮かべ、しかし威厳のある雰囲気はいつものままで、それら総てを会長らしく上手に捌いていた。
「……本当に飽きもせず頑張る事。まぁ、そういう所も面白いのだけど。」
蘇蘭は滅多に見られぬ天禪の姿を愉しむように一頻り眺め、呟いた。会場に幾つか設置されている中の手近なバー・カウンタからシャンパンを取り、華奢なグラスを唇に運ぶ。炭酸の心地良い刺激が喉を過ぎていった。
丁度一口呑んだ所で、ふと、天禪の金の瞳が蘇蘭のほうを向く。こちらに気付いたのだろう。蘇蘭は軽く手を振り、微笑んで首を傾げてみせた。彼女がこのようなところに居るのが珍しかったのだろう、すこし驚いていたようだが、あちらも笑みを返してくれた。しかしすぐに次の客に話しかけられ、そちらに向き直る。忙しいことだ。
(幾ら久遠を生きる剛毅な鬼であろうと、人間界に降りてしまえば何かしらのしがらみが在るものだね―――――)
面白がって暫くの間そうして眺めていると、何時の間にか流麗な音楽が流れ始めていた。見れば会場のあちこちで男女が手を取り合い、ダンスのステップを踏んでいる。
「お綺麗な方、」
声を掛けられて振り向くと、高価そうな服に身を包んだ男が微笑んでいた。
「おや……、私のこと?」
シャンパングラスを傾けながら聞く蘇蘭に、男は頷いて手を差し伸べる。
「もし良ければ―――――私と踊って頂けませんか、」
「……ご免なさい、私は連れが居るもので。あちらにも綺麗なご婦人がいらっしゃるわ、手を取って差し上げたら如何?」
そう言うと男は残念そうな笑みを浮かべ、会釈をしてから何処かへ行ってしまった。新しい女性を探しに行ったのだろう。天禪のほうを見ると、彼はまだダンスに参加せず、重役達の話に耳を傾けているようだった。ああ囲まれていては、ダンスの相手を探そうとしても探せないのではないか。
「もし、」
再び声を掛けられ振り向くと、先程天禪と話し込んでいた重役のひとりがこちらに手を伸べていた。
「ダンスはなさらないのですか?折角のパーティだ、宜しければ是非ご一緒して頂きたいのですが。」
「済みませんけれど、今は人待ちなのよ。もう少し独りにしておいて頂けないかしら、」
言いながら、蘇蘭は微笑みをむける。先刻と同じように男は残念そうな笑みを浮かべて去ったが、暫くしてもちらちらとこちらに向けられている視線を感じた。よくよく探ってみれば、彼以外にも多数の視線が蘇蘭へ向けられている。
やれやれ―――――と思い、蘇蘭は自分と同じ姿の影を残してその場を辞するとにした。後は影が上手くあしらってくれるだろう。
廊下からつづくバルコニイに出ると、眼下に広がる暗さを孕んだ街とは対照的に、淡黄色の光を振りまく月がぽかりと空に浮かんでいた。下弦の三日月である。
「良い、月だこと―――――。」
蘇蘭は何処からとも無く愛用の長煙管を取り出し、火をつける。バルコニイの手すりに背中を凭れさせて、夜気と一緒に煙を吸い込んだ。香草の香りが肺腑にふわりと流れ込み、それを味わうように暫く呼吸を止めてからゆっくりと吐き出す。青藍色の夜の帳に、煙は白く漂って消えた。
……天禪はまだ客の応対に追われているのだろうか?
使い魔でも走らせればすぐにでも解ることだが、蘇蘭はそれをしなかった。そこまでして気に掛けるのは、忙しく働いている彼に対して失礼であろう。自分はここでこうして煙草を吸っているのが一番良い。迷惑も掛けぬし、人間達の誘いを一々丁重に断る労力も要らぬ。そう思ったから、蘇蘭はただバルコニイに寄りかかって煙管をくゆらせることにした。瞼を閉じて夜のつめたい風を感じ、瞼を開いて紫煙の行方をつらりと追う。レセプションの会場からは、相変わらずダンスのための音楽が流れてきていた。
クラシックに耳を傾けながら何度か紫煙を吐き出したところで、思わぬ人物がバルコニイへ姿を現した。
「―――――おや?主賓が抜け出して来て良いのかね?天禪。」
レセプション会場で見ていたままの会長姿で、天禪は笑う。そのまま歩いて蘇蘭の横に並び、手すりに手を置いた。
「東京で屈指の美女を1人で放っておく程、俺は野暮では無いよ。……蘇蘭こそ、何処へ行ったかと思ったよ。今会場に居るのは、お前の影だろう?」
えぇ、と答え、蘇蘭は煙管を吸う。吐き出した紫煙が空へ昇り、月のかたちを白くぼやけさせた。その薄い色彩を眺め、朧にかげる月もうつくしいと思った。
「私はお前程辛抱強くないゆえ、儀礼は退屈でねぇ。それに御覧よ。こんな月夜に籠るなぞ勿体なくはないかい?」
言われ、天禪も空を仰ぐ。金色の眼を細めてすこしの間月を眺めると、良い月だ、と呟くように言った。
「またと無い美しい夜じゃないか。この光、冷えているのに―――――不思議だな、お前のその紅の眼に、良く映える。大昔に何処かで見た、水晶に炎を閉じ込めた宝玉のようだ。」
「ふふ、お前は褒めるのが上手いねぇ、天禪。」
「俺は思ったことを口にしただけだ。それだけ、お前が美しいということだろうさ。そうで無くば俺とて、このようなことは言えぬだろうよ、」
会場から流れ出る音楽は鳴り止まない。次から次へと新しい音楽が響き、楽しげに話す声や笑う声がここまで聞こえてくる。蘇蘭は何時の間にか煙管を仕舞い、手すりに凭れかかっていた背中を起こして、バルコニイの白い床にすっと立った。斜に差し込む月光を浴びて紅の虹彩は紅玉の輝きを発し、わずかずつ吹き込む風でドレスの裾や髪の毛がうつくしくはためき、白い肌には掛かった髪の毛が細い影をおとしてゆく。それら総てが夜闇のなかで、絵画のような一瞬をかたどる。
「漏れ響く音色も中々オツじゃないか……小夜曲、次はワルツか。―――――おや?手をとってはくれないのかい?こんな時、殿方は気を利かせるものであろう。」
背景の三日月のように冴え冴えと、しかし熟れた椿の香りのように妖艶に、蘇蘭は笑う。肩にかかる髪の毛を払うと、はためく服を指先で抑えとめた。
「あぁ……、」
天禪は頷いたが、どこか夢うつつのような顔をしてこちらへ身体を向けた。
「おや……何だい、如何かしたかい。まさかとは思うが、人に酔ったなどとは言うまい?」
「いいや、まさか。もっと違うことだ。……そうだな、柄にも無く、お前のその姿に見惚れていたと言ったら―――――お前は笑うかな、」
一瞬きょとんとしてしまったが、一拍置いて天禪の言葉を理解し、あははッ、と思わず笑い声を零した。
「あぁ、ひょっとしたら―――――笑うかも、しれないね。」
「そうだな……、それで良い。そのままずっと、笑って居てくれ。」
韜晦もなく微笑みながらそう言い、手を差し伸べる天禪に、蘇蘭も笑い返しながら手のひらを重ねる。白く硬いバルコニイの床に靴音が響き、幽かに流れる音楽を背に、二人だけのダンスが始まる。
「良い眺めだな。月下美人とはまさにお前の事を言うのだろう、」
蘇蘭は答えることをせず、ただ天禪に微笑みかけた。重ねた手のひらはおおきく武骨だったけれど、あたたかい体温が蘇蘭の手のひらへと流れるように伝わってきた。
気付かぬうちに空には霞がかり、まぼろしのように薄くけぶる三日月だけが、二人の上にひかりの祝福を与えていた。
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