|
黒い悪魔との遭遇
「先輩ー、今日は涼しくて過ごしやすいですねー」
綾峰・透華は、お茶をすすりながら平和そうな顔をして言った。透華は足を崩し胡坐を掻いて畳の上に座っていた。
「そうね」
透華の目の前に正座をしている水上・操は、普段どおり無愛想な表情を浮べているように見えるが、親しい人間ならば、そのわずかな表情の差異に気づくはずである。
二人は操の実家、八代神社の社務所にいた。社務を終えた二人は、お茶を入れ、お茶菓子を準備して、至福の時間を過ごしているのだった。
「はー」
透華が熱いお茶を喉に通し目を細めた。操は羊羹を楊枝で丁寧に切りそろえていた。一口サイズに切ってから一気に食べるつもりなのだ。
しかし、そんな平和な日常は脆くも崩れ去る。
二人に迫る黒い影。と言うよりも本体自体が黒い。寧ろ黒すぎる。そしてグロすぎる。その黒い昆虫は『G』・『¥』・『アレ』・『奴』なんて呼称で呼ばれることが多々ある。
体は扁平で幅広く、光沢があり、触角は糸状で非常に長く、前ばねは革質、後ろばねは膜状で、通常は腹部の上にたたまれる。夜行性ですばやく走り、狭いすき間に好んでもぐるという恐ろしい生物。恐ろしすぎる。
この世が滅んでもなお生き続けるであろう――とまで言われている、『世界しつこいランキング』トップに輝く実力者なのだ。
「せ、せんぱい……っ!」
透華が金切り声に叫んだ。
「ど、どうしたの?」
さすがの操もたじろく。
「う、うしろれす!」
透華は舌足らずにも『です』と言うところを『れす』と発音していた。よほど慌てていたのだろう。
「――なっ!」
操は『G』の姿を確認すると即座に部屋の隅に跳躍した。
「わっ、先輩〜、逃げないでくださいよ〜」カサカサカサ。
「透華ちゃん、早くこっちに」カサカサカサ。
「うわ〜、天井を!」カサカサカサ。
「ダメよ、そっちに逃げては!」カサカサカサ。
「きゃあ! 落ちてきた〜!」カサカサカサ。
天井に張り付いていた『¥』が重力に身を委ね、落下してきた。
そして社務所の畳の上に着地――せずに羽を広げて低空飛行を見せ、透華の頬を掠め取って反対側の壁まで飛んでいった。
「ありえない……」
透華は低い声でそう呟き、卒倒しかけたところを操に救助された。操は透華の頬をペシペシと叩いて正気を取り戻させた。
「……あれ? 先輩、私一体?」
どうやら透華は『奴』の記憶を半ば失っているようだ。便利な脳味噌である。
「透華ちゃん、とにかくありったけの武器を持ってきてちょうだい」
「え? 武器ですか? あ、そうでした――黒いのが天井から降ってきて……」
ふらつく透華。再び頬を叩く操。
――カサカサカサ!
『アレ』が一瞬の隙をついて移動を開始し、畳の上を高速で駆け抜けていった。そうして部屋の隅にあった戸棚の裏に身を隠した。『奴』は夜行性なので薄暗い場所が大好きなのだった。
「今のうちよ」
「は、はい!」
二人は急いで戦の準備を行なった。
そうして集まった頼もしい武器――箒、スリッパ、殺虫剤、新聞紙、蝿叩き、洗剤、熱湯、それから刀、槍、サバイバルナイフなんて物騒なものまで多種多様な道具が揃った。これだけあればさすがの『¥』も――
――カサカサカサ!
「で、で、で、出たぁ〜」
透華は箒を持ったままガクガクと震えている。彼女には自ら動き出す勇気がないようだった。そんな透華とは対照的に、操はスリッパを片手に、先手必勝と言わんばかりに高速でスリッパを振り下ろした。
――パシーン!
カサカサカサ。
『G』様は操の攻撃を嘲笑うかのごとく華麗に避けてくれた。末恐ろしい。
「逃がさない!」
操の勇気ある行動に触発されたのか、透華が箒を振り回しながら『アレ』に立ち向かっていった――が、箒は『奴』にかすりもせず、というか社務所の障子に穴が空いた。
「ゆるさない」
普段は穏やかな操もついに本気になった。
「ひえ〜、ご、ごめんなさい〜」
透華は障子を破ってしまった事が操の怒りに触れてしまったのだと勘違いしていた。
「この世から消えうせなさい!」
操が畳の上を走り回る『¥』に向かって殺虫剤を発射した。しかし、余裕で飛んで逃げやがった。ふざけている。
「殺す」
操が物騒極まりない台詞を吐くと、
「殺さないで〜」
またもや勘違いする透華は部屋の片隅で頭を抱えていた。「あの野郎……」と、低い声で呟いた操は、完全に頭に血が昇っているようだった。いつもならば絶対に使わないような単語を口から平気に吐き出している。
操は新聞紙を振りかざした。
「これで終わりよ!」カサカサカサ(逃げられた)。
今度は洗剤を――
「その薄気味悪い光沢を溶かしてあげるわ!」カサカサカサ(逃げられた)。
熱湯を――
「悶え苦しみなさい!」カサカサカサ(逃げられた)。
あざとくも回避を成功させる『G』は、しかし操の狡猾な攻めによって徐々に追い詰められつつあった。
「……せ、せんぱい。とうとう追い詰めましたね」
ようやく落ち着きを取り戻した透華が操の肩越しに『アレ』の様子を窺う。『¥』は身動きの一つもせずに部屋の隅で固まっていた。
「ええ、袋のネズミとはこのことね」
もはや人格さえも変貌してしまった操は最終兵器である刀を持ち出した。傍から見れば「何やってんの、君ら」という状況だが、二人はいたって本気である。
薄気味悪い『G』の触角が揺れていた。黒光りするボディーは吐き気さえ引き起こす。異常な足の速さも気持ち悪さを醸し出している要因の一つだ。ほら、何一つとして良い所がない。短所ばかりの生き物だ。
「先輩〜、やっちゃってください!」
透華が拳を振り上げながら叫んだ。後ろに隠れたまま。
「もらった――って!」
操が刀を突き刺そうとした瞬間――事態は急変した。
壁の隙間から援軍が登場したのだ。
「ありえない……」
透華は操の腰にぶら下がったまま気絶した。
操は突如、出現した黒いうねりを前に茫然自失。
カサカサカサ×100ぐらいの耳障りな足音を響かせながら『¥』たちは、壁を覆い尽くすほどの勢いで、しかも足並みそろえて(それも、ものすごいスピード)二人の目前を通り過ぎていった。
ほどなくして『G』らは完全に姿を消してしまった。
静謐に包まれた社務所内には真っ白に燃え尽きた操と、白目を剥いてなおも気絶している透華だけが残されたのだった――
−終−
|
|
|