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『 Umbrella 』
雨が降り出してきた。
喫茶店の窓側の席にいた私の耳には、雨が窓を叩く音が音色となって聴こえてくる。
その音色をつい音符にして頭の中で楽譜を描いてしまうのは一種の職業病であろうか?
私は苦笑を浮かべながら鞄から取り出した携帯電話を開いて、メールを送った。
雨が降り出してきてしまいましたが、傘は持っていますか?
テレビの天気予報では今日は午後から雨が降ると言っていたが、悠宇君は果たしてその天気予報を見ているだろうか?
「見ていない方に千点」
私はぽつりと呟いてくすくすと笑った。
雨の音色を聴きながら私はストローの口をつけるところに指をあてて、それでスポイトの要領でストローで吸い取った水をストローが入っていた紙袋で作った芋虫にかけてやる。そうすればそれは本当に芋虫のように動いて、私はそれに笑ってしまう。
こうやってひとりで過ごす時間は別に嫌いではない。
本を読んだり、楽器の練習をするのも好きだが、こんな風にとりとめもない本当に他愛も無い事をやったりするのは好きだ。
そうする事ができる自分に喜びを感じてしまう。
だけど本当に楽しい時間は…
テーブルががたがたと揺れた。マナーモードにしてある携帯電話がメールの着信を報せたのだ。
私はくすりと微笑んでテーブルの隅に置いておいた携帯電話を手に取って、それを開いた。
そして素早くメールを呼び出す。無論、悠宇君から来たメールだ。
や、実は傘を持っていたんだけど、電車の中に忘れて、駅から動けないでいる。
私は溜息を吐いた。
「電車の中に忘れるなんて」
腕時計を見るとその時刻は15時32分。
見たい映画は17時からで、待ち合わせはこの喫茶店で16時に。
駅からこの喫茶店までは普通に歩いて20分ほど。走ったとしても10数分はかかる。どちらにしろ駅から出て数秒でずぶ濡れの勢いで雨が降っているから駅からは動けないのであろう。
私はもう一度、手首にはめた腕時計の文字盤を見る。ただいまの時間15時36分。それを頭に叩き込んで素早く今後の予定を立ててみる。
私の足でここから駅まで歩いていって到着するのは16時。それで二人で傘をさして映画館まで歩いていって16時半ぐらい。充分に映画の上演時間に間に合う。それに…
「ひとつの傘をさして二人で歩くというのは魅力的かな」
くすりと笑いながら私はメールを送った。
+
点けっ放しのテレビから流れてきたのは天気予報だった。
机に突っ伏したままいつの間にか寝ていた俺はその天気予報を起きているのと寝ているのとの境界線を彷徨う意識で聞いていた。
今日は昼過ぎから雨か。
―――――ぼんやりとそんな事を想いながら、俺は意識を浮上させる。
「つぅ。腹筋が痛い」
どんなに鍛えていてもやっぱり長時間でのこの恰好は腹筋にえらく負担がかかるようで、凄まじい痛みに堪えながらも俺は上半身を伸ばした。
そして昨日の深夜にやっていた映画を見ていたままいつの間にか眠ってしまった俺は点けっ放しだったテレビを消した。
「今日は昼過ぎから雨か。参ったな。今日は昼過ぎから日和に会うってのに」
日和という名前を出すと、俺のベッドの上で丸まっていたイヅナが顔をあげて俺を見た。そのイヅナに俺は苦笑する。果たしてこいつが反応したのは日和にであろうか、それとも日和が飼っているこいつの仲間にであろうか?
そのまま俺はシャワーを浴びて、朝食を摂ると家を出た。
もちろん、傘を持って。
「そういう事ではテレビを点けっ放しにしておいた事には感謝しておかないとな」
そして隣街へと駅で電車に乗ってそのまま移動する。
そこかで簡単な用事を済ませて昼食をし、そして昼食を摂った喫茶店が入っているビルに同じく入っている店屋で暇つぶしをして、
そうして駅に行って電車に乗った。
有意義に時間を過ごし、そして余裕を持って日和と待ち合わせをしていている喫茶店に行くためだ。
駅に降り立った俺は改札口を抜けてそのまま傘をさして喫茶店に向おうとしたんだが、その時に視界に傘が無くって困っている老婆が目に入った。俺は頭を掻きながら自分の手の中にある傘と老婆とを見比べて溜息を吐くと、彼女に傘を差し出した。
「よかったらこれをどうぞ」
「あれ、でも私に傘を差したらあなたが雨に濡れてしまいますよ」
「や、大丈夫。ここで母と待ち合わせをしていて、母は車なので」
「そうですか?」
「ええ」
すまなさそうな顔をする彼女に俺は笑顔で頷き、そして彼女は傘を受け取ると、俺に何度も頭を下げて、傘を差して家路についた。俺は溜息を吐く。
「しょうがないよな」
時代の流れなのか俺が小さい時に見ていたこの駅に置かれていた公衆電話は無くなっている。しかしいくら携帯電話が普及したからといって老人が携帯電話をもっているわけではない。
「まったくもう少し考えろよな」
俺は駅員を睨むと溜息を吐いて、取り出した携帯電話を開いた。するとメールの着信を報せるランプが点滅していた。
「日和からだ」
俺は携帯電話を開いて、彼女からのメールを呼び出す。
雨が降り出してきてしまいましたが、傘は持っていますか?
傘は持っていたけど、貸してしまったので無い、そうメールを送るのがなんだか恥ずかしかったので、俺は彼女に違う事を言った。
や、実は傘を持っていたんだけど、電車の中に忘れて、駅から動けないでいる。
そう打ったメールを送る。
そしてそれにて電池を代えろ、というメッセージが液晶画面に出て、それで携帯電話の電池は切れた。
「ご臨終しやがった」
そう言えば、昨夜携帯電話の電池残量を示す棒が一つになっていたから充電をしなくっちゃと想っていて、それでそのままだったのだ。
「あ〜ぁ。どうやって喫茶店まで行こう?」
俺は激しく降る雨を恨みがましく見ながら溜息を吐いた。
体の弱い日和にここまで迎えにきてもらうという選択肢は頭には無かった。
+
悠宇君の携帯電話に送ったメールは返ってきてしまった。
駅にいるのだから電波が届かない場所に居るとは考えられない。
ならおそらくは………
「やれやれ、しょうがないな」
歩きながら私は溜息を吐いた。
どうしようか? イヅナを飛ばす?
「うーん、まあ、いいか」
きっと彼はこのすごい土砂降りのせいで動けないのだから、わざわざイヅナを使いにやる事は無い。それに報せずに行ってびっくりとさせるのもいい。
そう想い、私は気持ち歩くスピードを早くして、駅を目指した。
+
「しょうがない。走るか」
と、言っても喫茶店まででは無い。車が走る駅の前の道路をだ。この道路を渡りきれればそこにはコンビニがあって、そのコンビニで傘が買える。それで問題は済むのだ。
赤い車が通り過ぎたその次の瞬間に俺はコンビニを目指して、道路を走って渡った。
+
こちらへやってくる車がたった今通過した場所をコンビニへと向って走るその人影はなんだか悠宇君に見えた。
何分にも距離が遠いので確信は持てないのだが………
――――――どうなのだろう?
10mぐらい先にあるコンビニの前に行き着いたその人の顔を見ようと目を凝らすがちょうど私の横を通り過ぎた車が突然クラクションを鳴らしたので私はびっくりしてしまってそれどころではなくなってしまった。
どうやら道路の真ん中を歩いていた野良犬に向って鳴らしたらしいその車は乱暴な運転で私の横を通り過ぎていった。
「ふぅー」
げんなりと溜息を漏らしながら私は再び視線をコンビニに向けたがしかしさすがにもうその人は中に入ってしまったようだった。
私は駅へと入って、改札口の周りを見回してみる。
しかしそこにはやっぱり悠宇君はいなくって、あの人影が悠宇君だったのだと確信した。だって私がここまで来るのに彼と擦れ違わなかったのだから悠宇君は喫茶店に走って向ったわけではないと簡単に推測できるし。
それで私はコンビニへと向った。
+
コンビニに入ると、そこのレジには見知った顔があった。
「あれ、羽角」
「おう」
同じクラスのそいつは人懐っこい笑みを浮かべて俺に手をあげ、そして少し雨に濡れてしまった俺を見てニヤニヤとした意地悪な表情を浮かべた。
「何だよ、羽角、おまえ、傘を持って出なかったのかよ?」
説明するのが面倒なので頷いておく。
「ああ」
「それで傘を買いに来た?」
「ご名答」
「ドジだな」
「ほっとけ」
俺がそう言うとそいつはけらけらと笑って、
「いいよ、俺の傘を貸しちゃる」
「はい?」
「いやな、俺、前のバイトの時に傘をここに忘れてきてさ、で、それをすっかりと忘れて今日も傘を持ってやってきたから、俺は傘を二本持ってる訳なのよ」
「なるほど。あ、だけどいいのかよ? バイトが店の売り上げを妨害してさ」
俺が意地悪にそう言ってやると、そいつはあっ、という顔をして、隣で苦笑いを浮かべている店長を見やる。
「君、今日でこのバイト、クビ」
「店長〜」
情けない声を出したそいつに俺はけらけらと笑い、続いて店長も笑った。
「うそうそ。友達に傘を貸してあげなさい」
「あ、はい。んじゃ、羽角、こっち」
「おう」
俺は店長さんに頭を下げて、コンビニのレジカウンターの向こうにある控え所に一緒に入っていった。
+
「いらっしゃいませー」
中年の店長さんに私はぺこりと頭を下げてコンビニの中を見回すが、しかしそこには悠宇君は居なかった。
「見間違いだった?」
そしてそう想ったら一気に不安になった。
そうだ、駅の前にはタクシー乗り場がある。ひょっとしたら悠宇君はそのタクシー乗り場からタクシーに乗って喫茶店に向ったのかも。
私はコンビニを出て、傘もささずに喫茶店に向って走った。
+
「サンキューな」
「ああ、明日の昼飯奢れよ」
「ああ、幻の焼きそばパンを奢っちゃる」
そして俺は傘をさし、喫茶店に向かった。
+
「いら、っしゃいま、せ」
ずぶ濡れになった私を見てそのウェイトレスはびっくりとした顔をしていた(しかもさっきまで居た客がそうなっていたのだから本当にびっくりとしただろう)。
しかし私はそれにはかまわずに店内をそこから見回した。だがそこには悠宇君の姿は見えない。
なんだか私はものすごく不安になった。このまま一生悠宇君には逢えないような気がして。そしてそのままそこに私は座り込んで泣いてしまうのだ。
「っと、おまえ、初瀬? なに、泣いているんだ?」
「あ」
そこにいるのは友人のジャズピアニストだった。私はなんだか遠い異国の地で知人に出会ったような気がして彼に抱きついて泣いて、
それで彼は困りながらも着ていたジャケットを私に着せてくれると、
「とりあえず師匠のマンションに行こうか。それじゃあ、風邪をひくから」
「はい」
私はもうまともな思考力が無くって、そう頷いた。
+
傘をさしつつ最速で喫茶店に向かい、なんだかやけに床が濡れている喫茶店に入った。
「いらっしゃいませ」
なんだか笑顔がおかしいウェイトレスに迎え入れられながら喫茶店の店内を見回すがそこに日和の姿は無かった。
「どこに行ったんだよ?」
怒って帰ってしまった?
違う。日和はそういう事はしない。だったら日和がこういう時にしそうな事は?
「しまった」
俺はもう傘はささずに駅まで全力で走った。
しかしずぶ濡れとなって到着した駅には日和の姿は見えなかった。
+
日和の家に行ったが、彼女はもう寝ていると言われた。
+
悠宇君が来たそうだが、寝ていると言ってくれと家族に伝言を頼んだ。
なんだか会うに会えなかったのだ…。
+
そしてその日の深夜、日和と悠宇の二人が飼っているイヅナがそれぞれ寝床から自力で飛び出して、会っていた。
そうして二匹は何やら相談しあうと、
悠宇のイヅナは日和のほうへ。
日和のイヅナは悠宇の方へと行った。
+
私は不思議な夢を見た。
私は悠宇君のイヅナとなって彼の一日を見るのだ。
机に突っ伏して寝ている彼にハラハラしたり、
美味しそうにカルボナーラを食べている彼を羨ましく想ったり、
そしてお婆さんに傘を貸してあげる彼を微笑ましく想ったり。
それからコンビニでバイトをしている友達に傘を借りた彼の姿に、私はああ、この時に擦れ違ったのかと思って悲しくなって、
それで喫茶店から駅までずぶ濡れになって走ってくれた悠宇君に今度は違う涙を零した。
+
俺は不思議な夢を見た。
俺は日和のイヅナとなって彼女の一日を見るのだ。
そして俺は彼女がどれだけ俺の身を案じてくれていたのかとか、
どれだけ彼女を不安にさせて、
それで自分が知らぬところで彼女を泣かせてしまっていた事も知った。
だから俺は眼が覚めたら彼女の家にもう一度行こうと想った。
【ラスト】
朝目覚めたのは同時だった。
そしてほぼ同スピードで身繕いをして、
同じタイミングで家を出て、
同じ道を選んで、
そうして丁度2件の中間点で二人は出会い、
笑いあった。
「さてと、1日遅れだけど約束していた映画を見に行くか?」
「うん。その後はウインドウショッピングにでもつきあってよね」
― fin ―
++ ライターより ++
こんにちは、初瀬・日和さま。
はじめまして、羽角悠宇さま。
ご依頼ありがとうございました。
このたび担当させていただいたライターの草摩一護です。
このたびは雨の物語で、イヅナが出てくるお話がお任せで読みたいと書かれていましたので、このようなお話を書かせていただきましまた。
少々、お二方をいじめすぎてしまったでしょうか?;
子は親のかすがいと申しますが、日和さん、悠宇さんの仲はそれぞれのイヅナが守ってくれたようですね。イヅナの恩返しといったところでしょうか。^^
今回の物語もお気に召していただけると幸いでございます。
それでは今回はこの辺で失礼させていただきますね。
失礼します。
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