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『もう雨のために泣かない』
＜オープニング＞
草間より少し年上と思えるその女性は、草間と視線を合わせるのが怖いのか、テーブルの上に乗った麦茶のグラスばかり見ていた。
「小５の娘さんが行方不明とは、それはご心配でしょう。だが、それは警察にいらした方がいいのでは？」
ブランドのハンカチが、女の鼻の頭に浮かんだ汗を吸い取る。そんな大きな娘がいるようには見えない、美しく化粧をしたキャリアガールという感じの女性だ。
「それが・・・夫と一緒だと思うのです。一緒に居なくなったので。でも、もう３日目になりますし、学校も始まってしまって。夫の携帯も電源が切ってあるので連絡がつかないし」
「夫？・・・先程、咲美ちゃんのお父さんとは、彼女が６歳の時に離婚されたとおっしゃったが」
「ええと・・・。入籍していませんが。一緒に暮らしています」
言いにくそうに、恋人は大学３年生だと告げた。預けた生活費数万だけを持って、二人で消えたそうだ。
「誘拐なのか、駆け落ちなのか、二人で家出したのか。それもわからなくて・・・」
「駆け落ちって。お嬢さんは11歳でしょうが。咲美ちゃんを探し出せばいいのですね？」
女はハンカチをぎゅっと握ったまま、こくりと頷いた。
＜ １ ＞
「ええと・・。身代金の電話も無いので、まず誘拐は無いと思うんです。咲美ちゃんは、お父さんに会いに行ったのではないでしょうか？」
おずおずと、しかし明瞭な口調で意見を口にしたのは、海原みなもだった。中学一年のみなもは、失踪した少女とも年齢が近い。咲美を身近に感じることができるのだろう。
長いまっすぐな髪とくるんとした素直な瞳。身につけたセーラー服もお洒落な加工などは施されておらず、一昔前の女学生の雰囲気を持った少女だ。たとえば、老人の蔵書に挿まれた、セピアな写真に写っていそうな。
「もちろん、元の主人には電話を入れました。来ていないとは言っていましたが。咲美を引き取ることは諦めていないようなので、本当のことを言っているかはわかりません」
依頼人は、初めて麦茶に口をつけ、申し訳程度に一口飲んだ。ポタポタと水滴が女のタイトスカートの上に落ち、染みを作る。
草間は、ソファに深く座り、天井に向かって煙を吐いた。考えに耽っているのだろうが、踏ん反り返ってと取られても仕方のないポーズだ。
『依頼人の前だというのを忘れていない？』とシュライン・エマは、唇をぎゅっと結んだ。立場上、笑みを漏らすわけにいかない。だが、こんな時の草間が可愛いと思ってしまう。
「お父様のところも、一応調査した方がいいかしら？でも、二人で好きな場所に出かけた可能性もあるでしょう。恋人の方には大学にご友人がいらしたでしょうし、何かご存じ無いかしら。どこかに旅行したがっていたとか。娘さんも、夏休みの宿題などでどこか特定の土地を調べていなかったかしら？」
草間興信所の単なるバイト事務員という肩書のシュラインだが、鋭い視点と洞察力を持つのは、もの書きが本業だからかもしれない。切れ長のきつい視線をぶつけられ、母親はおどおどと視線をそらす。
「い、一応、雄一郎の友人と咲美の仲良しのリストは作って来ました」
バッグから、パソコンで作成した表のプリントアウトを取り出した。雄一郎というのが、恋人の名前らしい。
「雄一郎さんとは、最後にどんな会話をなさっていますか？娘さんとは？」
ステッキを弄びながら、セレスティ・カーニンガムは尋ねた。子供が自分の意志で母の元から消えたのだとしたら、哀しいことだと思う。
「特に変わったことは無かったと思います。皆さん、家族関係に原因があったとお考えなのでしょう？でも、二人がいなくなったのにこんなことを言うのも何ですが、三人で本当に仲良く暮らしていたんです」
「みなも君は、父親の家に聞き込み。エマは、大学友人の聞き込み。セレスティには、二人に指示を出す役をお願いしていいですか」
母親の涙声を遮り、草間が煙草をもみ消しながら言った。
「この写真はお母さんが写されたのですよね。うまくいっていたのはわかりますよ」
草間が、雄一郎と咲美のツーショットをテーブルに滑らせた。
彫りの深い長髪美形の青年と、目のぱっちりした溌剌としたショートヘアの美少女。少女の肩に両手を置く青年も、少女本人も、カメラに向かって満面の笑顔だった。
＜ ２ ＞
ガラス越しのマンボウの口を真似るのは、写真と同じ強い瞳の少女だった。後ろに立ってそれを見守るのも、一緒のフレームに納まっていたあの青年だ。
「さすがに夏休みが終わると、水族館も急に人が減るなあ」
「やっと近くで見れるね」
「今日は小学校も始業式だけだから、この時間にサクがうろうろしてるのも変じゃないけどさ。明日からは職務質問されるぞ」
「・・・。」
少女は、ますます口を尖らす。だが、マンボウのとぼけた表情を見て、つい吹き出した。
シュラインは雄一郎の友人達に連絡を取ってみた。大学はまだ夏休みなので、東京に居ない者も多かったが、コンビニバイト中のクラスメートとコンタクトが取れた。
「雄一郎が旅行？うーん。インドとか好きみたいだけど。あとは、ドイツ？」
薄い資金で海外はあり得ない。
「彼は帰省しないの？」
スナック菓子を棚に並べていた青年は、手を止めずに答える。
「両親は死んでるし故郷には誰もいないはずだよ。姉さんが一人いるけど、もう結婚してるし」
シュラインの瞳が鋭い光を放つ。
「どちらの土地へ嫁がれたかご存じ？」
「ええと、神戸だっけな。・・・ねえ、奴、何かしたの？」
反対に質問されたので「ある企業の人事担当からの調査依頼なの。他のお友達には内緒にしてね」とごまかし、店を出た。
事務所に電話をかけ、詰めているセレスティに姉の存在を告げる。依頼人なら、雄一郎の姉の住所も知っているかもしれない。調べてもらうようにお願いした。
『横浜のお父様の方へ行っていたみなもさんからも、大阪方面で有力な場所が挙がりました。ご両親が離婚する前、三人で旅行したそうです。咲美さんは水族館がお気に召して、“新婚旅行もココに来る”とおませなセリフを吐いてお父様を苦笑させたそうです』
セレスティは淡々と情報を述べた。
『今から大阪へ向かっていただけますか？みなもさんには、新横浜から合流してもらいます』
青年は長い前髪を掻き上げ、大水槽のジンペイザメの動きを追う。鮫の名が付いているが鯨の種類である。奴は、もったりとした動きで水中を旋回し、見る者の眠気を誘った。隣で咲美は、鳥が羽ばたくようなエイの泳ぎに魅せられ、「わぁ」と時々歓声を漏らす。
『何も理由を聞かず、ママにも知らせず、連れて行って欲しい場所がある』
咲美に言われた時、あまりに真剣な目だったので、承諾した。子供と言い切るには、もう色々なことを考えている年頃だ。
娘という意識は全く無く、妹に近い存在だった。自分には姉しかいなかったから、咲美は可愛くて仕方がない。小さくておしゃまでおバカでわがままで泣き虫で。だが、母親譲りの聰明で感受性の強い部分も垣間見せる。
行きたい場所も、以前に聞いていた家族の想い出の場所だった。父親のことを懐かしむのを、母親に知られたくないのかとも思った。最近、時々、『サクがパパのところに行くって言ったら、ママは悲しむかなあ』等と言うようになっていた。
『相変わらずバカね、あんたは！』という姉の罵声がまだ耳に残っている。
『しっ。そんなでかい声。サクが起きるだろ』
ホテルに泊まる金も無く、雄一郎達は姉の家に宿泊させてもらっていた。
『サクちゃんは、もう思春期じゃない。そんな女の子が、年齢も近い他人の男と一緒に暮らすのが、ストレスになっていないと思う!?あんたを意識せずに生活できると思ってるの？』
リビングで義兄の帰りを待ちながら、姉は自分で酌をしたビールを飲み干し、また手酌して継ぎ足す。雄一郎は飲む気になれず、手元のグラスには泡の消えた苦い液体が最初の量のまま残った。
咲美が大きくなったら、自分が安アパートでも借りればいい。そんな風に簡単に考えていた。もっとうんと先のことだと高を括っていた。いや、そう思い込もうとしていた。三人の暮らしがあまりに楽しいから。咲美が父親と暮らす選択肢も、見ないようにしてきた。
「ねえ、次はクラゲ！クラゲを見に行こう」
咲美が雄一郎のＴシャツの裾を引いた。そう、以前なら腕を引っ張った。数カ月前から、咲美は雄一郎との肌の接触を避けるようになっていた。
昼の新幹線が空いているせいもある。シュラインは、年配主婦の旅行集団に好奇心も露に眺められて辟易だった。みなもとは、姉妹と言うには離れすぎているし、親子には見えないだろう。後妻と連れ子。アイドルとマネージャー。誘拐犯。主婦たちの妄想を掻き立てたようだ。
雄一郎と咲美もさぞ目立ったことだろう。
セレスティからの携帯メールで、神戸の姉のところに二人で居候していることは判明していた。セレスティが姉のところに電話をかけ、確認してくれたのだ。姉は、咲美達が家出同然で出て来たことを知らなかった。事態を知り、恐縮していた。
事故や事件に巻き込まれたわけでないのを知り、母親も一応安堵したことだろう。
「この後は、地下鉄に乗るわよ」
新大阪のホームにハイヒールを響かせながら、みなもへと告げた。
＜ ３ ＞
空に昇る速度があまりにゆっくりなので、雄一郎はかえって気分が悪くなった。
遠く臨む景色は、水も澱む貨物船の多い港と、倉庫だらけの街だ。決して美しいとは言えない。
自分たちの前のゴンドラが、ずり上がっていく様に目眩を覚えた。高いところはあまり得意じゃない。だが、大阪湾が一望できるというこの大観覧車は、咲美の一番のリクエストだった。
咲美には恐怖心は無いらしく、足元の道路を覗き込んで「うわっ、クルマ小さっ」と瞳をキラキラ輝かせる。
「パパがプロポーズしたのは観覧車の中だったって。ここじゃないけどね」
雄一郎は吐き気をこらえて「ふうん」と答えた。
「ごめん。ユウちゃんにはつまらない話か」
「いや、そうじゃなくて・・・。サクは平気なの、高いところ」
「あ、ごめん。苦手だったんだ、観覧車」
「いや・・・。乗る迄オレも苦手だと知らなかったから」
咲美の言葉には最近『ごめん』が多い。知らず、自分もそれを否定する言葉が多くなる。
「サクね、パパのところに行こうと思ってる」
「・・・。」
「驚かないの」
「薄々気づいてたから。サクは決めたら聞かない。ママを説得するのが大変だな」
雄一郎はそれだけ言った。
もう、雄一郎がマンションを出て行くと言い出しても遅い。咲美が雄一郎を意識する想いは、既に恋になっていた。近くにいて、母親の恋人として接し続けている限り、心は血を流し続けるだろう。
雄一郎にできるのは、気づかない振りをし通すことだけだった。
入場券を買って水族館に入ったのはみなもだけだった。シュラインは出口付近に立ち、退館者たちをチェックする。館はじっくり見て回ると一時間半ほどだそうだが、少ない館内の客を確認して回るだけのみなもは、30分もかからず出て来ることだろう。館内で二人を見つけたら、シュラインの携帯が鳴ることになっていた。反対に、出口で二人を捕まえたら、シュラインがみなもに連絡する約束だ。
平日のこともあり、出て来たのは学生っぽいカップル一組と幼児を連れた主婦達だけだった。夕方と言ってもまだ陽は高い。シュラインは空を仰ぎ、眩しさに手を翳した。
「観覧車？」
水族館に併設されたその乗物のゴンドラも、平日のせいがガラ空きだ。人が乗っている箱は10個しか無い。地上近くの乗客は外からもまる見えである。
顔まではもちろんわからない。だが、人数、それから個々の身長や男女の別くらいは見て取れた。
「居たわ・・・」
シュラインは声に出して言った。
＜ ４ ＞
新幹線の中で、二人は黙りこくって座っていた。シュラインもみなもも困惑するほど、静かだった。
興信所に足を運ぶほど切羽詰まって、咲美の母親は心配したのだ。雄一郎は、肘をついて窓の外をひたすら見ていた。闇に包まれ始めた景色は、少しも瞳に映っていない。ただ、中の三人と顔を合わせるのが辛かっただけだ。
咲美の「母親に内緒で行きたい」気持ちは理解できた。自分が彼女にこっそり知らせて、心配かけない方法もあったが、それは咲美への裏切りのようで出来なかった。恋人に甘えたかもしれない、少し位なら心配させても許してくれると。
膝に置かれた手の甲に、ひやりと感覚があり、驚いて振り向く。斜め前のシュラインという女性が、自分も缶ビールを握り、もう一本を雄一郎の方に差し出していた。咲美とセーラー服の少女はオレンジ・ジュースを握っている。気づかぬうちに、女性が車内販売で購入してくれたらしい。
「あ、すみません。幾らですか、オレとサクの分」
「いいわよ、別に」
女性は既にプルトップを引いて、飲み始めていた。
『なんか、姉貴に似てるかも』
「じゃあ、遠慮無く」
東京駅には、彼女が迎えに来ていると言う。往復ビンタぐらいは覚悟していた。人前で泣かれるのも仕方無いだろう。胸ぐら掴まれて、何と罵られても、全部自分が悪い。冷えたビールは苦さが心地よくて、すとんと胃の中に収まっていった。
東京に近づくにつれて、闇しかなかった景色には灯が増えて行く。下からビルの明りを見上げるような、都心での新幹線からの風景は、何か哀しい。
「あ、雨」
「雨だ」
窓際の咲美と雄一郎が同時に声を漏らした。
窓を斜めに水滴が走り出した。
＜ ＥＮＤ ＞
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■ 登場人物（この物語に登場した人物の一覧） ■
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【整理番号 ／ ＰＣ名 ／ 性別 ／ 年齢 ／ 職業】
1252／海原(うなばら)・みなも／女性／13／中学生
1883／セレスティ・カーニンガム／男性／725／財閥総帥・占い師・水霊使い
0086／シュライン・エマ／女性／26／翻訳家＆幽霊作家＋草間興信所事務員
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■ ライター通信 ■
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今回は発注ありがとうございました。ライターの福娘紅子と申します。
シュラインさんは、知的で才色兼備で。
サクサクと解決していってくれた、という感じです。
他の二人分も、ぜひ目を通して見てくださいね。
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