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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


第四地獄・心臓抜き

    一

 圧倒的な闇は、依然としてそこに存在していた。
 闇色の男が発する濃厚な死の気配は、空間を蝕み、幻の皮膚に浸透していく。
 その感触を幻は知っていた。覚えていた。
「……僕は貴方を知っている」
 幻は男を見上げてつぶやいた。応じて、男が薄っすらと微笑む。
 どくんと心臓が脈を打った。
 氷結した記憶を溶かそうとする一方、全身が思い出すのを拒否している。目が眩み、舌が乾き、鼓動は高鳴る一方なのに、血の気が急速に引いていく。脳から爪先にかけてパルスが走り、
 ――そして幻は思い出した。


    二

 少年は一人夜道を歩いている。
 このところ東京では猟奇的な事件が相次いでおり、新聞の一面を飾る血腥い話題は尽きなかった。
 そのせいか、午後八時とさほど遅い時間でもないのに、街は閑散としている。
 目に見えぬ幽霊や何かといったものよりはむしろ人間を恐れて、彼は足早に街路を歩いていた。
 ぽつんぽつんと灯る街灯の明かりだけでは払拭できない闇。人工物は奇怪な影をアスファルトに落としている。
 中途半端に見えているより、真っ暗闇のほうが良いのではないか。――否、視覚を完全に奪われてしまったら、余計に想像力が働いてしまうだけだろう――
 そんなことを考えながら、彼はいつもの倍のペースで歩みを進めていた。
 ふと、この異様な暗さは奇妙だということに彼は思い立った。
 昨日見上げた月は、満月に近い円ではなかったか――?
 足を止めて空を振り仰げば、雲一つない空が広がる。
 人工の明かりに相殺されて星は見えない。が、月の輝きまで失われてしまうことはないはずだ。
 それなのに、月の姿が、見当たらなかった。
 ぞっとする。
 それはおかしい。月が出ていないなど。そんな馬鹿げたことはない。今日が新月であるはずはないのだ。
 少年は目的地へ向かうのも忘れ、憑かれたように廃ビルへ飛び込んだ。建設途中で放棄されたビルの、非常階段を上り、屋上へ向かう。
 どこか高いところへ出れば。
 遮るもののない場所へ出れば、月が見えるはずだ。
 それは一見理にかなっていながら、実のところ酷く冷静さを欠いた行動だった。
 猟奇犯罪が絶えない東京の街で、日没後に人気のない廃ビルへ踏み込むなど、冷静な普段の彼からは考えられないことだった。
 何かとてつもなく危険な『異界』へ足を踏み入れていることを自覚しながら――
 少年は、屋上へ出た。
 空を見渡す。360度。
 地上から遠ざかったことで見晴らしは良くなったはずなのに、星も、月も見えなかった。
「そんな馬鹿な」
 少年は信じられないという面持ちでつぶやく。
 ――まさか。
 星や月が見えていないのではなく、空そのものが見えていない?
 すっぽりと、自分の周りだけが強大なる闇に包み込まれてしまったように。
 何者かの懐に迷いこんでしまったとでも?
「――来たな、道化よ。我が懐へ」
 不意に、地を這うような低い声が闇に木霊した。
 微々たる動きさえ許されぬようだった闇が、生き物のように蠕動するのを少年は感じた。
 肌が粟立つ。本能的な恐怖を抱き、少年は後退した。
「貴方は……」
 誰だ、と口にしようにも、声帯が取り除かれてしまったように声が出ない。
 もうそれ以上は後退できないというところまで追い詰められても尚、彼はどうにかして逃げる術がないものかと縋るような気持ちで考えていた。その闇を引き連れた男から。
 が、思考は空回りするばかりで、ちっとも有効的な手段が思い浮かばない。
「逃れようなどという考えは捨てるが良い――」
 この男から逃れることができるというならば、唯一、背後へ飛び降りるだけがその方法だろう。
 そしておそらく、待ち受ける結果は同じ。
 この高さから飛び降りて確実に死ぬという確証はなかったが。
 違いは些末なものだ。
 他者の干渉による死か、
 自ら選ぶ死か。
 ――僕は、この男に殺されるのだ、と。
 少年は確信した。
 避けられぬ死を意識した瞬間の恐怖といったらない。
 あるいは恐怖すら感じていなかった?
 地面に足を縫いつけられてしまったように、彼はその場を動くことができず、ただ死神の鎌が振り下ろされるのを見つめていた。
 そして意識がぶつりと途切れた一瞬。
 あの一瞬で、
 おそらくは永遠に、何かが失われてしまった。
 例えば名前を。傷つき、血を流す肉体を。

「貴方は……」
 目を見開き、幻は茫然と立ち尽くしている。
 あの瞬間に自分は死に、そして、生き返った。
 我が姿は能力(ちから)の残滓。
 死して尚その存在を継続させるという理に反した能力故に、彼は“幻”として具現化してしまった。そしてその死は、目の前の男によって下されたのだ。
「貴方は……」

 ――僕を殺した!

 絶叫したつもりだった。しかし実際には、掠れた声が漏れただけだった。
「すべては五つの地獄を揃えるため」
 男は地底に響くような重々しい声で断言する。その言葉に迷いはなかった。
「あの子供を執刀したのも、医師達に隠蔽を指示したのも、この私」
「なぜ、殺した」
 幻の声は微かに震えていた。滅多に激昂しない彼の、それは極限まで怒りに眩んだ声音だった。
「あの者はおまえのためだけに用意した生贄だ」
 男は言う。
 絶対の意志を以ってなされたその行為に何一つ後悔はなく――
「そしておまえは私の期待通りに動いてくれた」
 一方的な暴力によって奪われてしまった幻の年月すら関知しないとでもいうように冷徹。
「これで最後だ」
 男は、幻に一歩近寄った。ゆっくりと持ち上げられた片手が、あの日とまったく同じように幻からすべてを奪おうとしていた。
 地獄が揃おうとしている。
 意図的な手術のミスによって殺された子供。
 冷たい水底に沈められた医師達。
 炙られた女。
 腸を抜かれた神父。
 それに加えて、この男は……
「おまえの心臓はこの貴炎が貰い受ける」
 ――またしても、この自分から命を奪おうとしている!
 二度も殺されるのか。
 同じ男に?
 何をすべきかもわからないまま?
 これまで為してきたことの意味も知らぬままに?
 そんなことはさせるものか。
「貴様……ッ!!」
 幻は叫びと共に貴炎めがけて飛び出していた。


    三

 大勢の命あるものが、生と死の境界を彷徨っている。
 ある者は死神に呼ばれて現世を離れ、ある者は生者に呼ばれてこの地に留まる。
 しかし両者の力は必ずしも拮抗しておらず、健康な者までもが死の淵に引きずり込まれそうになる――
 病院とは、そういう場所だった。
 とりわけこの地下は、死の勢力が強い。
 霊安室には大勢の死者達が眠っており、その間を夜切陽炎は縫って歩いていった。
 陽炎は、そのうちの何人かが「正常に死んでいない」のを感じることができた。
 異常な死というのは、何も死因によってのみ定義されるものではない。
 彼女の感じる「異常な死」というのは、溺死したとか焼死したなどという意味のみならず――
「予定されていない死……」
 陽炎は、死者達を見渡してそう言った。
 たとえ不慮の事故による死であったとしても、それはそうと定められたものだ。逆に言えば、定められていない死はありえない。ここには、そのありえない死を迎えた者いる。
 本来、この日に死ぬべきではなかった人間が死んでいると、そういうことだ。
「貴炎……」
 陽炎は唇を噛み締めた。
 あの人形使いならば、法則を捻じ曲げることも可能だろう。
 そしておそらく、突然姿を消してしまった幻は、あの人形師の元にいる。
 陽炎は先を急いだ。
 霊安室から出て、エレベーターは使わずに四階へ――本来ならば四階であるはずの場所へ――上る。病院という縁起をかつぐ場所であるが故に五階と示されているが、下から数えれば紛れもなく四階だ。すなわち存在しないはずの階。
 四階へ出て、陽炎は愕然とした。
「なんてこと……」
 死者しかいない。すべて死んでいる。あの人形師によって歪められた空間の中で、まともに呼吸をできる者が誰一人としていなかったのか。
 陽炎ですら、呑み込まれてしまいそうになる。
 空間の歪みが強い四階の端の病室へ、陽炎は走る。
 右手に、無限創造によって生み出したクナイを。
 いつでもこの皮膚を切り裂けるように。
 そして呪いがかけられた己が血を、人形師へ浴びせかけることができるように。
「人形師――!」
 陽炎は病室に飛び込んだ。
 その男がいるだけで、病室は一種の異界となっていた。
「遅かったな」
 人形師――貴炎は、冷徹な微笑を浮かべた。
 陽炎は息を整え、異界に捕らわれてしまわぬよう意識を集中しながら、闇色の男を見据える。
「久しいな……貴炎」
 陽炎は貴炎と対峙する。
 一度は志を共にした仲。だが今では対極の立場に立つ者同士。
「本来はおまえに知られぬ内に事を済ますつもりだった」
 限りなく死に近い男が言う。
 生は限りあるもの、しかし死は永遠につづくものだ。
 永遠の生命を望むならば、それは死んでいることとほぼ同義。
 生と死は相反するものではないというその事実を体現するこの男は、すべての概念を内包している。
 闇のようであり白銀。
 動的であり静的。
 無のようであり有。
 それでもまだ完璧には至らないその存在を、貴炎は今度こそ絶対にしようとしている。
「拙者がこの町にいたのも、幻殿に出逢ったのも、偶然でありながら必然であったということだ」
 皮肉な巡り合わせに感謝すべきか?
 これが巡り合わせでなく何と言えよう?
「貴様は何のためにここにいる」
「おまえを殺すため」貴炎の問いに、陽炎は即答した。「そして幻殿を救うため」
「私はおまえを認めていた。共に不老不死を目指したこともある」
 人形使いは、絶対の死を振りかざすように片腕を水平に上げた。
「いいだろう。貴様を我が敵と認めよう」

 ――それが合図だった。
 陽炎と、貴炎の戦いが始まった。