コミュニティトップへ
高峰心霊学研究所トップへ 最新レポート クリエーター別で見る 商品別一覧 ゲームノベル・ゲームコミックを見る 前のページへ

<東京怪談ウェブゲーム 界鏡現象〜異界〜>


Guilt + Hope + Invisible

【a preface】

 忘れた訳では無い。
 唯、今は記憶の水底に沈めているだけ。
 忘れる事等、出来る筈が無い。
 この命が今此処に在るという現実――それが、忘却を許さない。
 この命の存在が、今は無きあの命に結びついているから。

               *

「……そろそろ、頃合か」
 様々な音の洪水が溢れる場にありながらも、その空間だけは妙な静けさを帯びていた。
 いや、空間ではなく、そこにいる2人の青年が醸し出す空気が――だろう。
 ここは、都内某所の「Az」という名のゲームセンター。その二階の片隅に、彼らはいた。地上の光を受けながら、星さえその腕に抱かずただ深い闇色を呈した空と、その下に広がる景色を見下ろせる、一面ガラス張りになっている窓辺に。
 そこから人通りが少なくなった店前の通りを見下ろしながら、呟いたのは黒いシャツにジーンズを纏った青年。周囲の音にかき消されそうな程のその小さな呟きに、硝子に背を預けながらその青年のすぐ傍らに立っていた白い式服の青年が伏せていた眼を僅かに上げた。そして、口許に微かな笑みを浮かべる。
「……そうだな。そろそろか」
「いつまでも阿呆みたいに遊んでいるわけにも行くまい。忘れている訳でもないのに全て忘れたかのように振る舞っているのには無理がある」
 黒式服の袂から携帯電話を取り出し、フリップを器用に片手で開いて着信メールの一つを開きながら、もう片方の手を軽く持ち上げる。
「奴らもお前の居場所に気づいたようだしな。狙ってくるぞ」
「…………」
「お前が俺の間近にいる事も、既によくご存知らしい。……邪魔、なんだと」
 携帯の画面を見せながら、黒尽くめの青年が微かに笑う。
「奴らにとっては、俺が既に『当主』らしくてな。本当の『俺』の存在は今となってはただ邪魔なだけらしい。そして、その存在を守ろうとするお前の存在も、当然、邪魔」
「――――……」
 視線を画面に落とし、表示された着信メールの内容、そして添付されている画像を見た白式服の青年は、僅かに双眸を細めた。
『いつまで戯れているつもりか。既に傀儡は動き出している。あちらもあれを当主の座から廃し、今は母親が座を継いでいる。用もなく穢れた存在を放置する事もない。次に仕損ずる事在らば、其の方の命も傀儡に狩らせる。近日、傀儡があれを屠る為に其方へ向かうだろう。……お前があれの近くにいる事は承知の上、傀儡を上手く使い、あれを仕留めよ』
 綴られている文には、ほんの僅かの温もりですら存在しない。あるのはただ、冷えた意思のみ。
「……まあ、そこで俺がお前の方に回りでもしたら、本気で俺も傀儡人形に狩らせる気なんだろうな」
 唇を歪めて笑いつつ、黒尽くめの青年は、いつの間にか持ち上げていた手の上に舞い降りてきていた一羽の真紅の鷹を見た。額に金の逆さ五芒星が妖しく煌いている、妖鷹――青年の式神だ。
「まったく、つくづく人形遊びが好きな連中だ」
 自分もまた、その連中に人形――駒扱いされていた身だ。もう、そうなる気はないし、そうさせる気もない。
 形だけの『当主』という身分など、どうでもいい。それよりも、自分ともう一人の『自分』を軽んじられた事が、気に障っただけ。
 自分は、その事を忘れていないだけ。
 考えながら、黒尽くめの青年は傍らの白式服の青年を見やる。
(そして、この男は……)
 失った自家の当主の座の事など全く気に留めず、ただ、自分の魂と引き換えに失った者の事を、いつまでも忘れられずに引きずっているだけ。
(まあ、喪わせたのは俺の所業のせい、だが……)
 ふっと息をつき、黒尽くめの青年は低く声を紡ぐ。
「……まあ、新型のお人形は随分と高性能なようだからな。お前の事に関しては、特に」
 差し向けるには絶好の刺客だろう。
 相手の姿を見たら、おそらく、
(……手出し出来ないだろうからな。こいつは)
 携帯電話の画面に映る画像に見入っている白式服の青年を再度横目で見、さて、と再度式神へと眼を戻す。
「どうする? 大人しく狩られてやるか?」
「……お前は、狩られてやるのか?」
「俺は狩り返してやるつもりだが。お前にもその気があるのかどうかと訊いているんだ。なんせ、相手は」
 つ、と顎先で携帯電話を示し。
「あの、七海綺(ななみ・あや)……だからな」


 携帯電話の画面に映し出されている、一人の少年の姿。
 それは、生気のない赤い瞳と無表情の――けれども、間違いなく、七海綺だった。


「……頃合だな」
 呟くと、白式服の青年――鶴来那王(つるぎ・なお)はゆっくりと硝子から身を離した。そして一つ深い溜息をつくと、肩越しに硝子の向こうを見やる。その視線を追うように、黒尽くめの青年――七星真王(ななほし・まお)もまた、黒い双眸を夜景へと向ける。
「やるのか?」
「いつまでも、魂が宿らないとはいえ綺の体を勝手に使わせておくわけにはいかない。一刻も早く、静かに眠らせてやりたい」
「……お前に、できるのか?」
「やらない訳にはいかない。大体、やらなければやられるのはこっちだぞ」
 ――俺は、死ぬわけにはいかない。
 言うと、那王は歩を踏み出してその場から離れていく。硝子に映るその背中を見、真王は僅かに肩を竦め、手に乗せていた式を放つと、もう一方の手の中にあった携帯電話を眺め下ろした。
「力を封じたあの莫迦一人でどうにかなるとは思えんしな。……やれやれ、俺も随分とお人よしになったものだ」
 呟くと、メール表示を消してどこかの電話番号を呼び出した。
 ――草間興信所、の番号を。


 翌日。
「何だ、今日は暇人と黒天使ちゃんは来てないのか……」
 プライズゲームに新しい景品人形を入れつつ、2階フロアを見渡した店長はポツリと呟いた。
 毎日このフロアに訪れている、ある青年。
 せっかく、その青年が喜びそうな人形を入れてやるというのに。
「取れなくて悔しがる様子を見たかったのになあ」
 いつもこの2階に白い式服の青年と、1階にいる黒尽くめの服を纏った青年。白式服の青年――店長曰く「暇人」は、いつもは穏やかに笑っているのだが、ふとした時に見せる表情が、何となく店長の意識に引っかかってはいたのだが。
 ……何かの痛みを、抱えているかのような。
 一方の黒尽くめの青年――店長曰く「黒天使ちゃん」の方も、いつもは不遜な態度でいるが、ほんの数秒だけ、その黒い双眸が穢れのない青い瞳に変わる事があり、それもまた店長の意識に引っかかっていた。
「まあ、何かある兄弟だとは思ってたけどさ……」
 何も、私が折角新しい景品を入れた時に姿を見せなくならなくてもいいだろう?
 そう考えると、なんだか胸の中がもやもやしてくる。
 どうしても、あの白式服の青年にこの景品にアタックしてもらいたくなってくる。
 どうしても。
「…………」
 丁寧に人形の配置を終えてパタンとガラス戸を閉めて鍵をかけると、店長はそのクレーンゲームの筐体の硬貨投入口にぺたりとガムテープを貼り付けた。
 そして。
「ちょっとそこのアンタ! 今からココに連れて来てもらいたいヤツがいるんだけど! 即刻、今すぐだよ!」
 近くに居た者に、鋭く声をかけた。


【おやつ係のお仕事】

「よっ……と」
 両手に乗せた箱を落とさないように上手くバランスを取りながら、開いた自動ドアの向こうから店内に入ってきたのはすらりと背の高い青年だった。その黒く切れ長の涼やかな眼が、すっと店内を斜めに切るように見る。
 そして、ふと少し首を傾げた。
「あれ……? おかしいな」
 店内にはいつものように賑やかな音楽が鳴り響いていた。平日の日中であるにもかかわらず疎らに学生らしい者たちの姿があるが、彼はそれを見ても別に何の感想を抱くでもなく、長い足ですたすたとホール内を移動し、休むことなく周囲へ視線をやっている。
 どうやら何かを探しているようだ。
 忙しなく移動する視線。少ない客の姿を一人一人眼で流し見ていく。
 その瞳が、一台の大きなモニターのついた音楽系ゲームの筐体を見やった時、はぁ、と何かを諦めるような溜息が唇から零れた。
 その筐体の前には一人の客もおらず、デモ画面だけが流されている。
 しかし、いつもならそこに、ゲームに興じている黒尽くめの青年がいるはずなのだが――。
「何だ、今日は来てないのか」
 せっかく取材先で買って来た物、持ってきてやったのに。
 呟きを飲み込んで、ふっともう一度溜息をつく。
 取材先で買って来た物。
 それは最近彼が得た新たな称号に関係のあるもの。
 ……いや、称号と言ってもそれはある人物が勝手にそう決め付けただけで、彼としては別にありがたくも何ともない物だ。
 けれどそんな称号をくれた相手は、やめろと言ったら言ったでますます嬉しそうに「本当は嬉しいくせに」などと言い出す困った人物なので、半ばその称号を与えられた己の不運に諦めを抱き、今日も今日とてこうして貢物を手にやってきたのだが。
「これ、どうするかな……あんまり日持ちしないのに」
 独りごち、視線を両手に落とす。
 そこには、都内の有名ケーキ店の箱が左右の掌に一つずつ乗っかっている。そして腕には紙袋が5つほど提げられていて、中にはどこかの土産物らしいクッキーの詰め合わせやらゴーフルやらが入っていた。
「お前がモロゾフのクリームクッキー食いたいとか言うからわざわざ神戸まで行って限定品買ってきてやったってのに……」
 いや、実際は取材のついでだったのだが、そんな風に恩着せがましく言って多少恩を売りつけてやってもいいだろう。
 いや、ぜひとも売らせて欲しい。
 前にはヤツにリクエストされた食べ物を入手する為北海道まで足を伸ばした事だってあるのだ。ヤツから下された指令は「白い恋人が食べたい」。……なんだかそのまま言いなりになるのも悔しかったので、白い恋人にプラスしてラーメンの詰め合わせも送り付けてやったのだが――そういう憂さの晴らし方もどうかと後で思ったが、その結果、「よくやった! えらいぞ花ちゃん!」という奴の言葉を聞き、まあそれはそれでなんだかもういいような気もして……。
(……だから下僕だの子分だの言われるんだろうな……)
 思い返し、花ちゃん――こと、フリージャーナリスト・花房翠は遠い眼をした。
 まあ焼き菓子類はそんなに早く傷む物ではないからまた別の日にでも持って来て食わせてやればいい。
 しかしここに来る前に買って来たケーキなんか、今日中に食さなければしっかり傷んでしまうだろう。冷蔵庫に入れておけば1日くらいなら何とか持つかもしれないが、確実に味は落ちてしまう。
 かといって、何日も経ったものを「折角買ってきてやったんだから食え」とか言ったら、きっと「そんな物食って腹でも壊したらお前、責任取れるのか。呪詛してやる」などと言い出すのは眼に見えている。今までもう何度「呪詛してやる……」「呪ってやる……」という不穏な言葉を聞いたことか。
 はあ……とヤツの不遜さがにじみ出た笑顔と倣岸な態度を思い出してもう一度深い溜息を翠が零した、その時。
「花房さん?」
 背後から不意に声をかけられて、翠は項垂れかけていた頭を上げてくるりと振り返った。
「あ……よう、琥珀」
 そこには、白い燕尾服を着た銀髪の少年が立っていた。軽く手を挙げて応えようとして両手が塞がっている事を思い出し、思わず苦笑を零す。その苦笑の意味を悟ってか、ちらりと琥珀の金色の瞳が翠の手にある物を映した。
「何だか……今日はたくさん荷物をお持ちですね。半分持ちましょうか?」
「いや、平気。それよりさ、今日はまだ来てないのか? るっしー」
 捜し人の名前を口にすると、琥珀は少し首を傾げた。
「るっしー? ああ、ルシフェルさんですか。そうですね、今朝はまだ、鶴来さんのお姿も見かけていませんが」
「え? 那王も?」
「あ、でももしかしたら僕がカウンター下の片づけをしている間に2階に上がられたのかもしれませんけど……」
 言いながら何となく頭上を見上げる琥珀の視線を追うように、翠も天井を見上げた。
「2階か……」
 弟が居なくても、兄にこれらを渡しておけば自然と弟の手に渡るかもしれない。
「よし、那王に押し付けよう」
 そう思い立つと、翠は2階へ上がる階段へと足を向けた。その後を「僕も次の掃除は2階なので」と琥珀もついてきた。


 ――思えば。
 あの時おとなしく「いないなら仕方ない、じゃあ仕事に戻るか」という方向に思考を働かせておけば……。
 両腕にたくさんの荷物を抱えたまま暫しその場に立ち尽くした翠は、胸の内である言葉を噛み締めていた。
 後悔、先に立たず。
 先人の言葉というのは本当に、よく出来ている。そうだ、後悔というのは後で悔いるから後悔だ。
「……なんて感心してる場合じゃないか……」
 がっくりと項垂れた翠のその足許に落ちた視界の中に、かつんと誰かの靴先が映り込んだ。
 誰だろう? と、爪先から足、太腿、腹、胸、首……と順に視線を上げていくと、ついにはにっこりと笑った隻眼の人物の顔に行き着いた。
「おう、その荷物はお前がヤツらを連れて来るまで私が預かっておいてやろう。ん? 何だ? おお、これはケーキか、ふむ。よしよし、傷みそうなものはちゃんと私が責任を持って処分しておいてやろうな。どうだ有り難かろう?」
 さばさばとした口調でそう言うと、黒スーツを纏ったその人物――この店の店長は、素早い動きでさっと翠の手許からケーキの箱を奪い取った。
「あっ、ち、ちょっと待てそれはっ」
「おおおっ、これはなかなか美味そうじゃないか! ……あ、いや、別に私が食うと言っているわけじゃないぞ? 誤解はするな、私はただ、傷みそうだなーと思ったら処分してやると言っているだけだぞ? 腐臭を発した物を大事に置いておく趣味はないだろう?」
 そんな事、箱の中を検めつつ眼帯に覆われていない右の眼を嬉しそうにキラキラさせて言われても、まったく説得力がない。
(絶対食う気だ。食う気満々だ。間違いない……)
「ん?」
 ジト眼で見つめられている事に気づいたのか、店長は箱の中に落としていた視線を翠に向けて眉を寄せた。
「なんだお前、私を信頼していないのか? なぁに、心配するな。お前が早いとこ連中をここに連れて来たら無事にケーキも傷む前にお前の手に戻るという話だ」
 連中。
 すなわち、鶴来那王と七星真王をここに連れて来い、と――翠は2階に上がってくるなりクレーンゲーム前に立っていた店長にそんな事を言われて、どうしたもんかと立ち尽くしていたのである。
「さあて、じゃあ私は仕事の続きでもしようかねー」
 腕に引っ掛けていた紙袋もひょいひょいと容易く腕に引っ掛けて鼻歌混じりに軽やかな足取りで去っていく店長の背中を暫し眺めて、翠は空になった腕を軽く胸の前で組んだ。
 別に、1日や2日ゲーセンに来なかったからといって、わざわざ探してまで連れてくる必要があるのだろうか?
(那王に最初にゲームやらせたいなら、あいつが遊びに来るまでずっとコインの投入口にテープ貼っておけばいい話だし……今までだって別に毎日遊びに来てた訳でもないはずなのに)
 もしかしたら、店長は店長なりに、日々ここに遊びに来ているあの2人を見ていて、何か感じ取っていたのかもしれない。
 探さなくてはならない理由のようなものを。
(……まあ、どっちにしても)
「せっかく貰ったアイス係の称号返上ってのも……今となっちゃ寂しいしな」
 組み合わせた両腕を天井に向かって持ち上げて大きく伸びをすると、翠はよし、と気を入れなおすように軽く掌を打ち合わせて周囲を見渡した。
 このフロアに主に置かれているのはプライズゲームとメダルゲームである。クレーンゲームが特に多いが、確か鶴来那王もこのゲームで遊んでいたはずである。
 ならば。
「触ったら何か分かるか……?」
 一番近くにあった、有名な黄色いくまのぬいぐるみがたくさん放り込まれている筐体に歩み寄る。そして、そっと手を伸ばして人形をキャッチするアームを動かす為のボタンに触れた。
(前に一度、那王の記憶は読んだ事あるし……)
 その時の感覚は、しっかりと覚えている。忘れたくても容易には忘れられない記憶と共に。
 なら、このゲーム機に触れた人間の数多の意識の中から、その時と同じ感覚だけを拾い上げる事もきっと可能だ。
(絶対、読んでやる。もし那王にまた何かあったのなら……)
 俺はあの時、那王の記憶を見てしまったその借りを、返したいから。
 そう思う翠の胸には、もう先ほどまで抱いていた「後悔」などという文字は存在しなかった。


【動く前に】

 結局、店長の言葉に反応した者は、その場にいた2名だった。
 一人は、若干20歳のフリージャーナリスト、花房翠(はなぶさ・すい)。
 もう一人は、翠より7つ年上の、能楽師であり裏では妖を狩る事を生業としている沙倉唯為(さくら・ゆい)。
 2人とも既に何度かこの店で顔を合わせた事があったのでお互いに対する挨拶等は省き、早速本題を口にした。
「鶴来を探して来い、と店長は言っていたが……一体何がどうなっているんだ?」
 店長に詳しい事を話せと言っても「私は知らん。お前らに任せたんだからお前らで調べろ」とあっさり逃げられた。何も知らないのかそれとも本当は何か知っているのかすら、確認する暇はなかった。
 やれやれと言うように溜息をつきながら腕組みをし、近くにあった窓ガラスに背を預けた唯為は、片手をクレーンゲームのガラスに添えて中の人形を覗き込んでいる翠を見る。
「俺も、別に1日や2日店に来なかったからって、わざわざ連れて来いとか命令しなきゃならないような事でもないと思うんだけどなぁ……」
 ガラスの向こうには、赤いシャツを着た有名な黄色いクマの人形が幾つも放り込まれている。
 そう言えばいつだったか店に来た時、店の1階カウンター前の、客と店員が気軽に意見交換ややり取り等ができるようにという意図で置かれているノートに「某ビーグル犬のぬいぐるみを取ってください」だの「某黄色いくまのぬいぐるみを取ってください」だの書いてあったのを見かけたが、あれは確か鶴来那王が書いたものではなかっただろうか。
 そんなどうでもよさそうな事をふと思い出し、唯為は眼を伏せて微かに笑った。
(この店で顔を合わせていても、随分と丸くなっていたから分からなかったか……)
 随分と穏やかに笑うようになっていた。唯為が最後に逢った時には確か、どこか冴えた色があり、捉え所がない男だと思ったのだが。
「……あ」
 ふいに傍らから聞こえた声に、唯為は自分の中へと向けていた意識をそちらへと向けた。
「どうした?」
「あー……、……」
 クレーンゲームに触れては見たが特にこれと言って何か得られるような物がなかった翠は、何となく唯為と同じ様にトンとガラスに背を預けて天井を見上げてみたのだが――。
 ……来た。
 ガラスに背をつけたまま、だらりと垂らしてた両掌もぴたりとガラスにくっ付ける。
 するりと意識の中に入り込んでくる、他者の記憶。
 それは一度、触れた事がある意識の感触。
 鶴来那王の、意識。
「――――……」
 何かを話しかけてこようとする唯為を軽く手を持ち上げて制し、眼を閉じて意識を凝らす。

 窓の外に見えるのは、夜の街。
 聞こえてくるのは、今ここに存在する雑多な機械音と同じ物。
 それにかき消されそうなほど密やかな声で交わされる、会話。
(……この声は、那王とるっしー……)
 七星からの刺客が来る事を告げるルシフェルの言葉を受けて、様々な事を胸の裡に巡らせる、那王。
 自分は、傀儡と化した綺に命を狙われている。
 けれども、俺は死ぬわけにはいかない。
 殺されてやるわけには、いかない。
 それが京都の本家――七星の、真王以外の者たちの願いだとしても。
 叶えさせてやるわけにはいかない。
 ……何とかして、綺の傀儡の術を解かなければ……ああそうだ……あの場所ならば誰にも迷惑かけず――……。

「――――……っ」
 ふっと眼を開き、翠は一つ大きく呼吸した。その様子を横から見ていた唯為が、翠の能力がどういうものかを思い出して口を開いた。
 サイコメトリー。それが、翠の能力。
「何か視えたのか」
「ああ、多分那王の残した記憶だ」
 言うと、見えた映像と現実とを切り離すように緩く頭を振り、こめかみの辺りを指先で押さえる。
 そして今見えたものを唯為に伝えると、僅かに、彼はその眉をひそめた。
「綺? 七海、綺……」
「あんた、綺の事知ってるのか?」
「ああ、過去に一度依頼で顔を合わせた事がある。しかし、傀儡として使われているとは……どういうことだ? 奴は今鶴来が身元を引き受けて面倒見ているんじゃないのか」
 問われ、翠は暫し言葉に詰まる。
 この様子だと、唯為はまだ知らないのだろう。
 綺の身に何が起きたのか。
「……綺は、こないだ……死んだんだ」
 その言葉に、唯為は僅かに眼を瞠った。
「死んだって……」
 まずは時間を遡り、翠はルシフェルが鶴来に呪詛をかけた事を話した。そして、その呪詛を解く為に必要な刀を鶴来の元に届ける為に、七星の者の呪詛を受けて死亡したのだと。
 その瞬間を見たのは、翠である。届けられた刀から綺の最期の思念をサイコメトリーで読み取り、綺がどのようにして命を落としたのか、まるでその場に居たかのようにはっきりと、視た。
(結局、俺はあの時何か役に立てたのかどうか……分からない……)
 その結果が今のこの状況を生んでいるのであれば、何とかしてやりたい。
 綺を、解放してやりたい。
「…………」
 語り終えて黙り込む翠を暫し眺めると、ふっと唯為は窓の外に視線を向けた。
「経緯は分かった。あれだな……俺は他所様のお家騒動に首を突っ込む趣味はないが」
 やはり、ここは店長に恩を売るいい機会のようだ。
 それに。
(どうも俺は、綺といい何といい……あの手のタイプに弱いらしいな……)
 大切な者の為になら命を賭しても構わないという、その、潔いまでの覚悟。そこら辺にどうも弱いようだ。
 だが、死して尚、大切な者を――愛する者を傷つける為に己の意思を無視して他人に操られるなど、自分なら絶対に御免だ。
 それはおそらく、綺も同じだろう。
 なら、結論は一つ。
「……お前はどうする?」
 お互い、沈んでいた思考を引き上げると、これから先どうすべきかを瞬時に選び取った。
 問いかけられて、まっすぐに翠は唯為を見る。
「俺は、綺が刺客としてここにくるなら、迎え撃つつもりだ。あんたは?」
「俺は……そうだな、鶴来とその弟の連行が目的なら、刺客である傀儡の操り糸を断てばいいという事だろう? お人形遊びが好きな黒幕を止めるのが先決かと思う。綺自身には意思がなく、そいつに操られているだけだしな」
「じゃあ俺は那王を探し出して、綺が来たらどうにかする。あんたは黒幕を止める、って事で」
「ああ、そう……、……?」
 諾の返事をしかけた所で、くいと背後から纏っている黒スーツの袖を引かれて唯為は言葉を止め、振り返った。
「何だ、琥珀か。どうした」
 そこには、先ほど「1階を掃除してきます」と言って去って行った琥珀が立っていた。唯為の顔を見上げてから、ちらと翠の方を見る。
「……下に、草間興信所という所から、昨夜ルシフェルさんの連絡を受けて来られた方々が」
「え? 草間のオッサンのところから?」
「はい、シュラインさんも来られていて……皆さん、鶴来さんの身を守るために何か思案されているようですが」
 翠の言葉にこくんと頷いて言葉を続ける。それに、ぽんと手を打って翠は足早に歩き出した。
「丁度いい、ここは手を組んだ方が良さそうだ」
 草間興信所から来たのなら、きっと綺と戦闘になっても使える能力者が居るはず。
「じゃあ、また後でな!」
 ひらりと手を振ると、翠は足の速度を速め、軽く駆けるようにして階段を下りて行った。


【探し人】

 結局、店内で鶴来那王を捕獲する事はおろか、姿を確認する事すらできなかった。
 手入れは行き届いているが、とにかく耳障りな音満載なゲームセンター内において、モーリス・ラジアルはややうんざりしたように肩を竦めた。
「さて……那王氏がここにいないとなると、どうやって居場所を捜しましょうか」
 現在、草間から連絡を受けてこの店で合流したのは、モーリスと、直親、シュライン・エマである。
 3人とも鶴来がここにいると思っていたのだが、アテが外れてどうしたものかと考え込んでいた。
 モーリスが携帯でいくら鶴来に呼び出しをかけても、向こう側の電源は切られたままらしく、空しいアナウンスが聞かされるだけ。彼がうんざりしているのは何もこの店の音楽のことだけではなく、そのアナウンスを聞き飽きてうんざり、というのもあるようだ。
 モーリスの言葉に、顎先に手を添えながらシュラインも溜息をつく。
「困ったわね……ルーくんにも連絡取れないし」
 鶴来がここに居ないと分かり、シュラインは草間興信所の電話に着信履歴と共に残っていたルシフェルの携帯番号を草間に聞き、念の為そちらにも電話をかけてはみたのだが――こちらも、電波の届かない所にいるか電源が切られているというアナウンスを聞かされた。
「傍迷惑な兄弟だな、まったく……」
 大人しく守られてくれればいいものを。
 宙ぶらりんになってしまった現状をどうしたものかと思案しながら、直親も溜息混じりに呟いた。
 式を複数放って、都内をくまなく探すか……しかし、もしかしたら都心を離れている場合もある。そうなると、綺より先に見つけられるかどうか分からない。
 ただ見つければいいというのではない。
 綺より先に見つけなければならないのだ。
「那王氏はどうも、誰かに干渉されるのを嫌がられているようですね。となると、誰かにどこへ行くか話している可能性も低いでしょうし……」
 手詰まりか。
 3人が揃って、口にはしないがそう思った時。
「なあ、あんたたちも那王を捜してるんだろう?」
 どこかから声が掛かった。誰かと見やった3人の視線の先で、声の主は、階段を軽やかに駆け下りて来た。
「俺もここの店長に命令されてさ、那王とその弟をここに連れてこなきゃならないんだ。よかったらメンバーに加えてもらえると有難いんだが」
「あら、花房くんは武彦さんに依頼回されたわけじゃないのね?」
 声の主が友人だった事に安心したように笑みを零したのはシュラインだった。それに頷き、シュラインと一緒にいる青年2人を見たのは、花房翠(はなぶさ・すい)。フリージャーナリストをやっている青年だ。
 ひょいと軽く片手を挙げ、モーリスにも笑いかける。
「よ、久しぶり」
「ええ、その節はどうも」
 モーリスと翠は過去、鶴来の呪詛を解くという依頼の時に顔を合わせている。
「花房さんは、知っているんですか? 七海君が……」
 言いかけたモーリスの言葉を遮るように、軽く翠は手を挙げた。そしてその挙げた掌を逆の手で指差す。
「分かってる。視たから。弟と話してた時の那王の記憶」
 その言葉に、直親が眉を寄せた。
「記憶を視た?」
「ああ、俺の力はそういう力だから。触れた物から、過去そこに触れた人物の記憶や思いを読み取る、って」
「サイコメトリーか……」
 納得したように呟いた直親の、その眉がふと持ち上げられた。
「ちょっと待て。サイコメトリーで鶴来の記憶を視たという事はお前、鶴来がその時点でどこへ行こうとしていたかも視たのか?」
「あ……そうよね、どうなの花房くん。何か視えた?」
 軽く翠の肩を掴んで前後に揺すりながらシュラインが問いかけた。余程何かの情報が欲しかったんだなと思いながら、翠は素直に頷く。
「けど、場所はよくわからないんだ。ただその場所の雰囲気と、感覚……というか、まあそういうのなら」
「どこですか」
 ずいと一歩前に出てモーリスも問う。
 おぼろげな物でもいい。輪郭がつかめればその実像を掴む役には、きっと立つ。手がかりが皆無な状態に陥ってしまった今となってはもう、藁をも掴みたい気分なのだ。
 そんな3人に向かい、本当に朧気なんだが、と前置きをしてから翠はさっき2階で読んできた鶴来の記憶の一端を、眼を伏せて瞼の裏に蘇らせる。
「あれは……どこかの空き地。東京都内……多分、草間の事務所の近く……だと思う。感覚の端々に草間興信所のイメージが重なってたから」
 となると、場所は新宿か。
 ふと、直親がシュラインを見る。
「おい。思い当たる場所はないのか。興信所の近くならお前もよく知っているはずだろう?」
「と言われても……」
 翠の記憶と合致しそうな場所を、口許に手を当てて思い描いていたシュラインは、暫くしてからその場にいる3人の青年の困ったような顔で見た。
「……ビルが取り壊されてたりして、新宿って実は結構あっちこっちに空き地あったりするのよ……」
 それこそ、大小さまざま。
 翠のヒントでは、あまりにも場所が特定し難い。
「なら、いっそ直接探して回るか?」
「交番でその辺一帯の地図でも貰って、空き地らしき場所をチェックして草間興信所付近から順に調べていけば何とかなるかもしれません」
 時間のロスは覚悟の上。しかし今の何も手がかりがない状況を打破するにはそれしか方法がない。
 直親とモーリスの言葉に、シュラインと翠も頷いた。
 迷っている時間すら勿体無い。ならば今は、動くまでだ。
「じゃ、行きましょうか」
 言うなり、すっと踵を返してシュラインは店を後にする。直親とモーリスもすぐさまその後を追う。
 その後に続いて翠も駆け出そうとしたのだが、その視界の端に、黒尽くめの男がこちらに向かって歩いてくるのを見て動きを止めた。
「あ、霧嶋のおっさん。どこか行くのか?」
「彼女が向かう先を域で包む為に」
 彼女、とシュラインが走り去った方を見ながら言う霧嶋聡里に、はたと翠は眼を瞬かせた。そして、聞かなければならない事があったのを思い出す。
「あのさ、陰陽師の術で傀儡……つまり、いいように操られてる奴の体を、ある人間の命を守るために破壊してしまったら……おっさん、直してくれるか? その操られてる奴の方も、大事な奴だから、できたら直して欲しいんだけど」
 綺も、域の中に入れば自分達と同じ様に人形化の影響を受けるだろうかと思ったのだ。もし受けるのなら、心置きなくその身を潰して、鶴来への行動を阻む事が出来る。
 その翠の言葉に、ふと霧嶋が微かに笑った。
「彼女もそのような事を言っていた。……お前達には世話になっているからな……私の子供達が。お前達がそう望むのなら、たまには私もその恩を返してもいいと思うんだが、どうだろう?」
 それは、諾の返答。
 ぱあっと明るい笑みを浮かべると、翠は霧嶋の皮手袋に包まれた手をぎゅっと掴んでぶんぶんと乱暴に振った。
「ありがとな! あ、でも琥珀と瑪瑙は……ここに置いていくのか?」
「いや。琥珀は私の域内を瞬間的に移動できる能力を持っている。後で瑪瑙を連れて跳んで来るだろう」
 そういえば、前にアッシュという黒尽くめの少年が瞬時に目の前から居なくなった事を思い出した。
「そっか……あとで瑪瑙に頼みたい事もあるから、よろしく頼むな」
 瑪瑙の能力で、綺の魂を呼び出して話をし、その言葉を鶴来に伝えれば目が覚めるかもしれないと思ったのだ。
 自分のせいで綺の命を失くさせてしまったのだという、その負い目から……解放させてやれるかもしれない。
 しかし、とにかく今は、鶴来と合流するのが先だ。
「じゃ、よろしく頼むな!」
 ひょいと軽く手を挙げて霧嶋にそう言葉を残すと、翠もまた、先に駆け出した3人を追うように走り出した。


【探し人・2】

 ゲームセンターを出てから、4人は新宿駅近くにある新宿東口交番で地図を貰い、警察官に空き地はないかと尋ねて地図にチェックを入れると実際にその場所に行き、翠が見た鶴来の記憶中の風景と合致するかを確認する……という、かなり時間がかかる方法で鶴来の居場所を探していた。
 が、結局その地図の範囲内ではそれらしき場所に行き当たる事が出来なかった面々は、今度は歌舞伎町交番、続いて大久保交番で地図を貰い、先ほどと同様、足を使って実際の場所を見て回っていた。
 既に店を出てから、かれこれ2時間近く歩き続けている。青年3人はともかく、紅一点のシュラインの足は大丈夫なのかと女性には優しい直親が多少心配したようだったが、そこは草間興信所の最古参。足を使った調査には慣れていてまったく平気そうだった。
 ちらりと、直親が退魔刀を納めた布袋を持つ方の腕に嵌めていた時計に視線を落とした。時間は正午を回っている。
 ちなみに、実際に交番に入って警察に話を聞いたのはシュラインとモーリスと翠の3人で、直親は1人外で待機していたので刀を持っていても追求される事はなかった。
「さて……ここはどうですか?」
 モーリスが、隣に立つ翠を見ながら問いかけた。
 さて、これで幾つめの空き地だろうか。
 ついたのは、ビル街の中にぽっかりと拓けた空間。コンクリートやアスファルトではなく、土とぼこぼことした大小の石が散らばっている地面。
 広さにして、約100メートル四方くらいだろうか。
 草間興信所の近くで多少激しく暴れても問題ないくらいの広さがある空き地、という条件を考えたら、ここは最適の場所のように思える。道路に立って空き地内を一通り見渡してみても、あるのは工事現場などでよく見かける赤い三角コーンがいくつかと、空き地の向こうにあるビルの姿だけ。
 人の姿はない。
「どう? 花房くん。ここも違う? なら他には……」
「いや、俺が見た景色……、なんかこんな感じだった気がする」
 別の場所を手許にある地図の中から探し出そうとしたシュラインに、記憶の中に刻まれた風景とその場の風景とを照らし合わせながら翠が答える。
「……ああ、間違いない。確かにここだ」
「でも、鶴来さん居ないみたいだけど……まだ来てないとか?」
 すると、それまで黙って視線を周囲に巡らせていた直親が、ふっと唇を歪めて笑い、その場に片膝をつくようにしてしゃがみ込んだ。そして指で道路と空き地の境目辺りにすっと触れる。
「……念の入ったことだ」
 感覚に導かれるままに伸ばした指先に、びりっと痛みが走る。静電気に触れたかのようなその痛みは、何かの反発によるもの。
 他者を拒む、反応。
「結界、ですか?」
 ゆったりと腕組みをして翠緑玉と同じ色の眼を細めて、直親から空き地の方へと視線を戻すと、モーリスが口を開いた。それに顎を引いて小さく頷くと、直親はゆっくりと立ち上がった。
「おそらくはこの空き地全てが、隠行の結界内に収められている。何者かの、な」
 何者か、など今は考えなくても簡単に分かる。
 鶴来那王自身が現在、己の能力の全てを封じているとすれば、これはその弟である七星真王の手によるものだろう。
 それがルシフェルの手によるものかミカエルの手によるものかはわからないが、なんにせよ。
「破れるのか?」
「破らなくても、入ればいい」
 翠の問いに答えると、直親はやおら結界内へと足を踏み出した。空き地の中へ、構うことなく歩いていく。
 暫くその背中を眺めていた翠とモーリス、シュラインも、その後に続くように空き地内へと入って行く。
 結界内は、特に何か反発があるわけではなかった。もしかしたら霊的能力に優れてい、結界を張った主と同じ職――陰陽師である直親には、何らかの反応が感じられているのかもしれないが。
「ああ……そうか、完全に他者をシャットアウトする訳にはいかないから、ですか」
 何かに気づいたようにモーリスが呟く。その言葉を聞きとめて、少し先を歩いていた翠が振り返った。
「どういう意味だ?」
「つまり、この結界内の出来事を外に見せないようにする必要はあっても、人が入れないようにまでしては意味がない、という事です。そもそも、彼は七海くんに逢うためにここにいるんでしょう?」
「あ……そうね、綺くんを待ってるのに、彼までもがこの結界内に入れなかったら待ってる意味がないものね」
 納得したようにシュラインが返す言葉に、モーリスがよくできましたとでも言うように微笑んだ。
 おそらく、隠行の結界を張ってあるのは内部で何があっても一般人の眼に触れないようにするため、だろう。
 そう、何があっても――。
(たとえ自分が七海に殺されたとしても、殺したとしても……な)
 ついてくる者たちの声を耳に入れながら、直親はその双眸を一度ゆっくりと閉じ、次の瞬間、すっと顔を上げて正面を見据えた。
 そこには、白い式服の裾と、襟足で結わえた長い黒髪を秋の気配を帯びた風に揺らせながら立つ、鶴来那王が居た。


【守る理由】

「お前は望まないだろうが、俺も一口乗らせてもらうぞ」
 開口一番軽い調子でそう告げる直親に、鶴来は浮かべていたいつもと変わらぬ穏やかな微笑をほんの少し沈ませる。
 その目に宿る、真摯な色を見たからだろう。決意、ともいうべき色を。
 そんな鶴来の表情には構わず、直親は続けた。
「七海の遺体が傀儡として使われているそうだな?」
 紡がれた言葉に、ちらと鶴来の瞳が直親の後ろから歩いてくる者たちの方へと向けられた。
 シュライン、モーリス、翠。
 そのいずれも、先日、呪詛からの覚醒を手助けしてくれた者たちだ。
「……綺の事、草間に聞きましたか。それともあの方々に?」
「草間だ」
「……そうですか……」
 呟いた鶴来の顔に、もう先ほどまでの微笑はない。暫し言葉を選ぶように黙り込むと、やがて視線を足許に落として口を開いた。
「……、すみません、貴方に助けてもらった綺の命を、俺が判断を誤ったせいで……」
「過ぎた事を今更どうこう言っても仕方ないだろう」
 クールに切り返す。
 今は、過去をのんびり振り返っている時ではない。振り返った所で時間が戻るわけでも、事態が好転するわけでもないのだから。
 その直親の言葉に乗るように、二人の傍までやってきたモーリスが声を挟み込む。
「他者の眼を欺く結界を張ってまで七海君を待つ貴方のことだ、手助けは要らないと言われるかもしれませんが、私達も依頼を請けての事。帰れと言われても素直に聞く事はできませんよ」
 私情で来たと言うよりは仕事だからと割り切った言葉を口にした方が鶴来は大人しく従うだろうと思ったのだ。
 嫌がられるかもしれないと思いはした。綺の事に酷く責任を感じていた彼のことである、自分の手で始末をつけたいと思い、携帯電話の電源も切り、こうして一人でこの場に立っている筈だから。
 しかし、その言葉に鶴来が静かに落としていた視線を上げてモーリスを見た。
「綺を解放する為に力を貸して頂けるのなら、俺には断る理由などありません。俺が一人で意地を張った所でどうにかなるなどとは思っていませんから」
 予想に反して聞き分けのいい返事だった。
 ふっと、満足げにモーリスは微笑む。
「助けが必要な人には手を差し伸べる。それが人情だと聞きましたからね。非常時には利用できるものは全て利用すべきですよ、遠慮なく」
「そうそう、遠慮なく使ってさっさと解決して、早いとこゲーセンに戻ろうぜ」
 明るい口調で言い、自分の右胸の上に手を当てながら翠が頷く。
「店長がさ、お前が帰って来るの待ってんだよ。UFOキャッチャーに新しい人形入れたからとか何とか言って。まずはあんたに挑戦させたいんだーとか言ってさ」
「では、花房さんは店長さんに命じられて来たんですか? 草間からの依頼で、ではなく?」
 驚いたように問う鶴来に、再度翠は頷いた。
「そういう事だ。あとは、まあ……アンタにはいろいろ借りがあるからな」
「借り……?」
 心当たりがないのか、鶴来は首を傾げている。
 しかし、翠の心にはそんな彼の奥底に沈められている過去が、忘れられずに刻み込まれていた。
 痛ましい幼少期と、彼の出生に関する秘密――が。
 見たいと望んだわけではないが、その彼の心に深く穿たれた傷を見てしまった負い目が、翠に彼への協力を強く願わせたのである。
「ん、まあ気にするな。さて、そうと決まればこれからどうするかだな」
 曖昧に笑ってそう言うと、翠は一緒にここまでやってきた面々を見回した。
 鶴来を見つけるには至ったが、まだ具体的にどうやって綺から彼を守るのか決めていない。
 もう既に「今日」という日も半日が経過している。いつ綺が現れてもおかしくない状況だ。
「……ねえ、鶴来さん」
 すっと、それまで少し後ろに立っていたシュラインが真っ直ぐに鶴来を見ながら一歩前に出る。しかし、鶴来の方は彼女と眼を合わさないように僅かに視線をずらせた。
 迎え討つ相手が綺だからだろう。シュラインにもいろいろと気をかけて貰っていた少年と今から対峙する事になるという事態に、何となく引け目のようなものを感じているのかもしれない。
 シュラインと共にとある事件の調査をしていたあの時――ルシフェルにかけられた呪詛を甘んじて受けずに容赦なく返していたなら、こんな事にはならなかったのだから。
 しかしそんな反応には構わず、シュラインは鶴来に向かって手を差し出した。
「その刀。私に預けて」
「え?」
 紡がれた言葉の意味が一瞬飲み込めなかったのか、鶴来がずらせていた視線をシュラインへと戻す。
「刀を……ですか?」
「そう。その刀、『緋降(ひふり)』を」
「……俺がどうしてこれを常に所持しているか、シュラインさんは理解しておられると思っていたのですが」
「分かってるつもりよ。鶴来さんに降りかかる全ての術を無効化する、緋降……それを携帯する理由は、ただ一つ。七星からの呪詛を食らわないようにする為、でしょ?」
「その通りです」
「なら問題ないわ。手放しても、今は久我さんが何とかしてくれるもの」
 唐突に話を振られて直親は僅かに眉を持ち上げたものの、特に反論はしなかった。
 実際、鶴来に向けた呪詛が放たれたのなら、自分はそれを、全力を持って返す心積もりでいるからだ。
「さあ。渡してちょうだい」
 ずいとさらに手を差し出すシュラインに戸惑い、きゅっと刀を持つ手に力を込めた鶴来は、眼差しを直親へと向ける。
 暫しのためらいの後。
「……分かりました。呪詛に関しては……俺の命はあなたに預けますので」
「ああ。預かろう」
 気負いなく、直親はさらりと答えてみせる。それに小さく頷くと、鶴来は視線をシュラインに戻した。
「では、暫しお預けします」
 そっとシュラインの手の上に刀を乗せた。そして微かに苦笑を浮かべる。
「何だか……俺は皆さんに守られたり助けられたりしてばかりですね。すみません」
「理由はそれぞれでしょうが、草間さんから回された話を請けた時点で私達は貴方を守ると決めた。そして七海君も、傀儡の術から解放する、とね」
 優美な笑みを浮かべながらモーリスは手を伸ばし、鶴来の肩にとんと触れた。
「貴方が謝る事でありません。それぞれ、思うところがあってここに居るだけです。草間興信所から依頼を請けてやって来た私達は、それが仕事。そして」
「あぁ……俺はまあ、店長命令に従った結果、だな。あと、おやつ係解任の危機を乗り越える為だ」
 モーリスの視線を受けて答える翠の言葉に、鶴来がふといつものように笑った。
 おやつ係解任、というのが何の事なのかその場に居た者たちにはよく分からなかったが、まあとにかく、それぞれ理由がありここに居る、という事に間違いはない。
 表向きには「依頼を請けての仕事」と「他者の命令に従った」為。
 各人が自分の胸の奥に持つ真の理由については、誰も語る事はなかった。
「有難う御座います」
 仕事でも何でも自分を守るために来てくれた者たちに対し、鶴来は深い感謝の念を抱いて静かに頭を下げて言った。
 そしてすっと姿勢を元に戻そうとした時。
「あ、鶴来さんちょっとそのまま」
 緋降を片手に持ったシュラインが、小走りに鶴来の背後へと移動し、ひょいと結わえた彼の髪を持ち上げ、式服の襟首から中を覗き込んだ。
「……? 何ですか?」
「あ、ううん、何でもないわ。ちょっと気になる事があっただけ」
 不思議そうに問いかけられてすぐに髪を離すと、シュラインは何かに納得したように頷いた。
(大丈夫みたい……よかった。これでいいわ)
 何を確認したのか他の者達にもよくはわからなかったが、誰かが問いかけるより先に、それより、とシュラインは話を切り替えた。
「具体的に呪詛を解く方法ってどうするの? 久我さん、何か考えてる?」
 陰陽師である直親に最初に話を振るのは自然な選択だろう。問われて、直親は軽く頷いた。
「昨夜から考えてはいたんだ。七海の家に伝わる桜があっただろう? あれを人形にするなりして形代にし、そちらに七海への術を移せないかと」
「綺の家?」
 眼を瞬かせ、翠が直親を見る。
「けど、今から行ってたら間に合わなかったりしないか?」
「ああ……だから別の形代を、と……」
 言いかけた所で、ふとシュラインが何か思い出したように肩に掛けていたバックを開き、ごそごそと中を探り始めた。
「どうしたんですか?」
 何をしているのかと好奇の眼差しでモーリスが問う。その問いに、シュラインは言葉ではなく引っ張り出した物を見せる事で答えた。
「……なんですか、それは」
 見せられたのは、人の形を模った木彫りの人形だった。赤っぽい茶色のその木は……。
「桜、ですか?」
 楢などなら明るい茶色、胡桃などは焦げ茶色等、木はそれぞれによって微妙に持つ色合いが違うのである。庭師でもあるモーリスは植物や樹木に関する知識が豊富なのか、さらりと色味だけを見てそう判断した。
 それに、シュラインが顎を引いて頷く。
「これ、鶴来さんが綺くんの魂を宿しているの。桜で作ったのよね?」
 問われて、鶴来は静かに頷いた。
「ちなみに言うと、元は七海の桜です」
「七海の……」
 それは願ってもない、と言いかけて、直親はふと言葉を止めた。
 確かに、その人形からは覚えのある気を感じる。宿されているのは本当に、綺の霊体なのだろう。
 としたら、綺が宿る物に術を移す訳にはいかない。
 一旦綺を別の場所に移すか、と考えかけた時。
 す、とモーリスが背後を振り返った。何かの気配に引かれて。
 その視線の先――建物の影から、ゆらりと華奢な少年が姿を現した。
「もしや、彼が七海君……ですか?」
 実際にその姿を見た事がないモーリスである。誰へともなく確認するように言った。その言葉に、弾かれたように他の4人がモーリスの視線を追ってそちらを見やる。
 細い身体に、白いシャツとジーンズを纏った少年。やや俯きがちに立つ姿は、解けた靴紐を気にしているにも見えるが、今の彼にそんな意思はないだろう。
 傀儡として操られているのだから。
 す、と。
 その顔が静かに上げられた。さらりと吹く風になぶり上げられた前髪の下から覗く瞳は、前は鳶色だったが、今は……まるで血を流し込んだかのような、真紅。
 瞳の色こそ違えど、それは間違いなく――。
「綺……」
 呟いた鶴来のその言葉に反応するように、少年は唐突にスイッチを入れたかのように駆け出した。身を低くし、風を切るようにして一直線に鶴来に向かって来る。
 その姿はまるで、俊敏な獣のようだった。
「……っ!」
 いち早く反応したのは、直親だ。所持していた退魔刀を袋からするりと抜き出し、抜刀する。
 それは、綺を斬り伏せる覚悟を持っているという事。
 その意思を感じ取ったのか、鶴来が眼を見開いた。
「久我さん、何を……っ」
 途切れた言葉の先に、それで綺を斬るつもりなのかという問いがあるのは分かる。
 綺の動きを見ながら、直親は冷めた顔で告げた。
「アイツに生きろと言ったのは俺だ」
 その結果が、今のこの状況を生んだと言うのなら。
(始末をつけるのは、きっと俺の役目……)
「……身勝手ですまないな。だが、これが俺にできる、死したアイツへの手向けだ」
 低く呟くように言う直親に、待ってくれというように手を伸ばしかける鶴来。だがその腕を横から掴んだ者がいた。
 翠である。
 強い力を宿す瞳でじっと鶴来を見据え、そのままぐいっともう一度強く腕を掴み直す。
「花房さんっ」
「来ますよ」
 放してくださいと鶴来が訴えるより先に、モーリスが冷静な声で告げた。
 シュラインは、翠と共に鶴来の傍らに立ち綺の動きを――その顔を、じっと見つめていた。
(綺くん……)
 無表情な真紅の瞳にはもう、生前の綺のような優しさはない。虚ろな表情には、綺らしさなど微塵も存在しなかった。


【一瞬の――】

 操られた人間というのは、通常の人間の運動能力を超えた動きができるものなのだろうか。
 鶴来目指して疾駆して来た綺は、そのままの勢いで、たんっと地を蹴ると数メートルの距離を物ともせず襲い掛かってきた。
「鶴来を退かせろ!」
 叫び、直親は抜き放った刀を振るった。風を切る音を鳴らせ、刃が綺の身へと襲い掛かる。
 一刀の元に斬り伏せるかと思われたが、それは金属質な音と共に直親の腕に僅かな痺れが走った事で阻まれたと知れる。
 綺が、いつのまにかジーンズの腰辺りに差していたらしい短刀を引き抜き、その刃で直親の刀を受け止めたのだ。
 ち、と軽く舌打ちし、すぐさま腕に力を込めて刀を押し、短刀ごと綺を突き放す。体格自体は完全に直親のほうが勝っているため、綺は軽々と弾き飛ばされた。が、軽く片手をついて後転すると体勢を整え、再度身を低くして走り出す。
「他の者には眼もくれず、ただ那王さんのみ狙っているようですね」
 何とか隙をつき接触を図る機はないものかと注意深く綺の動きを見つつ、モーリスが呟く。その言葉の通り、綺は対峙している直親を「邪魔者」と認識はしたようだが倒す為に動こうとはせず、シュラインと翠に腕を引かれて後退させられている鶴来のみを見つめている。
 自分の横を凄まじい速度で綺が通り過ぎようとするのを、すっと身を低くして直親が足払いをかけた。鶴来しか見ていないため見事にその足に引っかかった綺はふらりと前傾に体勢を崩す。
 そこに容赦なく片膝をついた姿勢で、右腕で刀を握り左下から右上に向けて斜めに斬り上げる。
 しかしどんなバランス感覚を持っているのか、綺はよろけたそのままの姿勢で軽く一歩後ろへ飛び退った。胴を薙ぎ払う事を狙った刀は、綺のシャツの胸元をはらりと切り裂くに止まる。
「……っ」
 すぐさま、直親は立ち上がって再度綺に向かい、右に流した刃を左方向へ払い返した。しかし、綺はさっきの直親のように身を低くしてその刃の軌道をかわし、一気にその横を駆け抜けた。
「あ……!」
 翠が、脇目も振らずに一直線に鶴来に向かってくる綺の姿を見て一瞬その前に立ちふさがり、右胸の上に手を当ててそこに秘められている力を解放しようとした。
 が、その腕をシュラインが引く。
「ダメ、花房くん、綺くんに手出ししないで!」
 叫ぶように言うと、シュラインはそのまま翠の腕のみを引き、鶴来から離れた。
 突然に生まれる、一瞬の、隙。
 直親とモーリスが、そのシュラインの突然の行動に双眸を見開く。
「何を考えて……っ」
「那王さん!」
 何者からの守りもなくなった鶴来のその瞬間を、綺が見逃す事はなかった。
 刀もなく、自らの身を守る術を持たない鶴来は、ただ自分に向かい駆けて来る綺を見つめる事しかできなかった。
 そして、その数秒後。
 さくり、と。
 ごくあっさりと、鶴来の左胸の上に銀色の刃が突き立てられた。
 心臓の、真上に。


【捕獲】

 瞳の色は違うけれど。
 表情も違うけれど。
 そこにあるのは、確かに――確かに、綺の顔だった。
「……あ、や……」
 掠れた息声。その二文字の言葉と淡い微笑みのみを残し、鶴来はその場に崩れ落ちた。しっかりと柄を握り締めていたのか、綺の短刀はするりとその左胸から抜ける。
 止めを刺した凶器を手に、綺は無感情な瞳でその様をじっと見つめていた。
 その、今度は綺のほうに生まれた一瞬の隙を、直親とモーリス、シュラインが見逃さなかった。
「く……っ!」
 すぐさま綺と鶴来の間に身を割り込ませ、退魔刀で綺を鶴来から引き離す為に中段の一閃を放つ。当たってその身体を傷つけても、胴を真っ二つにしてもやむなしという思いを抱いている為、刃が描く軌跡には一寸の迷いもない。
 が、すっと綺が一歩、またしても軽く後ろに飛んでそれをかわした。
「っ!」
 今だ!
 胸のうちで叫ぶと同時にシュラインが駆け出し、綺の人形を手に着地の一瞬、その場で棒立ちになる綺をぎゅっと腕の中に抱き込んだ。
「綺くん……!」
 その呼びかけに呼応するように、ふわりとシュラインの身を包むように何者かの霊体が現れる。
 白い着物を纏った、少年。その身を守るかのように、幾つかの桜の花弁がふわりふわりと舞っていた。
 それは、綺の魂。
「――――」
 途端、切り離されている肉体と魂が反発を起こしたのか、傀儡の動きがぴたりと止まった。まるで電池が切れたかのように。
 それを見て、
「離れて!」
 それまで機会を見計らっていたモーリスが鋭く声を上げた。反応するように、シュラインが傀儡から腕を解いて素早く離れる。
 途端、綺の周りに光の刃が幾つも突き立てられた。
 否、それは刃ではなく――格子。
 モーリスの能力「アーク」である。あらゆる物を閉じ込める檻だ。
「……捕獲成功ですね」
 ふっと息をついて、声をいつものトーンに戻したモーリスが言う。同様に、シュラインも吐息を零した。そしてすぐさま顔を倒れ伏した鶴来へと向ける。
「鶴来さんはっ?」
「ああ、大丈夫だ」
 穴の開いた式服の中を覗き込み、傷の具合を確認していた翠が返す。指を服の中に滑り込ませ、傷口らしき部分をすいと撫でて、その指先をシュラインに見せる。
 そこには、べったりつくはずである血が、一滴もついていなかった。
「一体……何がどうなっているんだ」
 檻の中に収められてからはぼんやりとその場に立ち尽くすだけになった綺からすっと眼を離し、鶴来を無防備にした翠とシュラインに直親が問う。モーリスも、すぐさま翠の傍らに片膝を落としてしゃがむと、鶴来の式服の胸元を開かせて傷口を直接確認した。
「これは……」
 モーリスが言葉を失う。
 傷口は、まるで木でも切りつけたかのようにさっくりと穴が開いてはいるが、血が流れていない。その穴から刺し貫かれた心臓が見える事もなかった。
 そういえば、綺が持っている短刀の刃にも血は一滴もついていない。刺された刃が引き抜かれた際にも、血が吹き出したりもしなかった。
「どういうことですか、一体……」
 ありえない。
 鶴来は確かに、人間だったはずだ。
 なのに、これは……。
「人形みたい、だろ?」
 翠のその言葉に、モーリスが怪訝そうに視線を向ける。
「人形?」
「よかった……霧嶋さんの能力、ちゃんと効いてくれて」
 シュラインの安心したような呟きに、直親も怪訝そうな顔付きになる。
「霧嶋?」
「これはその人物の能力によるものですか?」
 二人の問いに、シュラインと翠が霧嶋という人物の能力の説明をした。
 ゲームセンターAzに身を寄せている霧嶋聡里という名の胡散臭い黒尽くめの男が持つ能力が及ぶ範囲内に居る能力者は、まるで人形になったかのように痛覚が消失し、怪我をしても血が流れる事がなく、肉が欠けたり破壊されたりするだけで、死んだりはしないのだと。
 しかも、その欠けた部分は後で霧嶋に修復してもらえば元通りになるのだ、と。
 今鶴来が気を失っているのはおそらく、刺された衝撃の為だろう。人形化しているとはいえ、人体の核でもある心臓に直接攻撃を食らってしまったせいだ。
 翠も、鶴来が刺されるまではシュラインの意図が読めなかったのだが、すぐに鶴来を無防備にしても大丈夫な状況にある事を思い出し、言われるがまま身を引いたのだ。
 今ここに姿は見えないが、確かに霧嶋は店を出、自分達について来ているという事を知っていたから。
 この一帯を能力下に置く為に。
「敵を欺くにはまず味方から、とは言え……黙ってて悪かったわ。ごめんなさい」
 まずそう言い添えて、シュラインは綺に鶴来を刺させた理由を述べた。
「綺くんが無防備になる瞬間があるとしたらきっと、鶴来さんを討つっていう目的を果たした時だと思ったから……」
 檻の中にある綺の肉体ではなく、手の中にある綺の魂を宿す人形を見つめ、苦しげに眉を寄せながらシュラインは言葉を続けた。
「ごめんね……綺くんには、辛い事させる案だと思ったの。でも……何をしてでも、恨み言は一切私が引き受けるから綺くんと鶴来さんを向こうから切り離したかったのよ」
 そう考えはしても、やはり綺の持つ優しさを思うと胸が締め付けられそうになる。襲い来る身体に魂は宿っていないが、その魂は自分の傍にある。
(鶴来さんを慕っている綺くんの魂の前で、綺くんの身体にそんな事させるのは……あまりにも酷だとは思ったけど……)
 きゅっと人形を掴むシュラインのその肩を、軽く翠が叩いた。
「綺にとったらきっと、実際に鶴来を殺してしまう方が辛い事だろうからさ。これで止められたんならいいと思うぜ? まあ確かに……見た目にはちょっと……かなり、痛いけど……な」
 綺が鶴来を刺した瞬間、本当に大丈夫なのかと言葉にしようがないほどの不安が身を駆け抜けた。
 結果、万事上手く行き、綺も捕らえる事に成功したのだが――。
 後は。
「どうやって傀儡の術から解放するか、って事だな」
 翠の言葉に、現状を理解した直親とモーリスが頷く。
 選択肢はいくつかある。
 1つは、直親の陰陽術を駆使して傀儡に向けられている呪詛を別のものに移す。
 もう1つは、モーリスの能力を使い、綺の肉体が傀儡として使役される前の状態まで引き戻す。
 そして最後は――霧嶋の鶴来を治療してもらった後、霧嶋と共にこの場に来ているであろう琥珀という、霧嶋の息子的存在である少年の「霧嶋の能力の影響を受けないよう、領域を切り離す」という能力を使い、綺を霧嶋の能力影響下から切り離して人形化を解き、傀儡として使用される綺の肉体そのものを消去する。
 一番手っ取り早そうな最後の選択肢を取るのなら、鶴来が気絶している今の状態はうってつけかもしれないが……。
「……一つ、聞いてもいい?」
 ぽつりとシュラインがモーリスの方へと眼を向けた。手に、しっかりと綺の人形を持ちつつ。
「綺くんの体が使役される前の状態……っていうのは、どこまで前の話? 傀儡になる直前? それとも……」
 言いかけて、期待と不安の狭間で揺れる心に言葉を押しとどめられてしまう。
 だが、シュラインが一体何を問いたいのか、その場にいる者たちには即座に飲み込めた。
 それを受けて、ふとモーリスが笑みを零す。
「私は陰陽師ではありませんから」
 言いながら直親をちらりと見る。
「七海君にかけられたという命を奪う呪詛と、現在彼を傀儡として使役する術の関係が一体どうなっているのかよく分からないんですが」
 問われる形になった直親が、僅かに眉宇を寄せる。
「術の関係?」
「七海君の命を奪う為に発された呪詛が、傀儡として七海君を使役するという呪詛も含んでいるとすると……私がその呪詛を受ける前まで七海君を元に戻せば――どうなるかは、言わなくても分かりますね」
「……、もしかして……綺、生き返る……のか?」
 一つ息を呑んでから、期待を抑えながら問う翠の声は、僅かに上ずっていた。思わず浮かべそうになる喜色も、どうにか押さえつける。ぬか喜びかもしれないからだ。
 が、ごくあっさりとモーリスは翠に向かって頷いてみせた。
「まあそうなるでしょうね。そしておそらくは彼にとっても、それが最善の事だと思うのですが……どうでしょうか?」
 その視線は、倒れ伏したままの鶴来へと向けられていた。
 確かに、それ以上の結果はないだろう。
 綺を傀儡として使役されるという状態をゼロに戻し、なおかつ綺を生き返らせる事が出来るのであれば――ゼロどころか、むしろプラスだ。
「まあ、念の為に彼に向かって現在も流れ込んでいるであろう術を一時的にどこかへ移しておいた方が、厄介な方々の眼を暫し晦ます事ができると思いますが」
「ならそれは俺がやろう」
 言うと、直親はシュラインの手にある人形に視線を向けた。
 今からモーリスが綺を元の状態に戻すと言うのであれば、その人形に封じられている魂の行き場に悩む事もない。
 一時的に魂を解放し、そこに呪詛を移す。
 無防備になった魂はすぐに肉体に戻るだろう。
 本物の、七海綺の肉体の中に。


【あるべき形に】

 朝から曇りがちだった空は徐々に重みを増し、今にも雨が降り出しそうである。吹いてくる風にも微かに湿り気と水の匂いが混ざっている気がする。
 もう近くまで雨雲は来ているのかもしれない。
 綺の魂を抜いた人形をシュラインの手から受け取ると、直親はスーツの内ポケットから筆風のサインペンを取り出し、人形の身体に何かを書きこんだ。何かの文字と5つの梵字のようだ。
 人形から抜け出した綺は今、ふわりとシュラインの肩の辺りに浮いている。そしてモーリスの作り出した「アーク」の中にいる自分の身体ではなく、倒れたままの鶴来の方を見ていた。
 その鶴来の傍らには今、翠がこの空き地周辺を駆け回って探し連れて来た霧嶋聡里が膝を落としてその場にしゃがみ、鶴来の傷の具合を見ている。
 最初、翠に連れられて来た、その――黒い帽子を目深に被り、この季節にはそぐわない黒いコートと黒い皮の手袋を身につけた無精髭に長髪の男を、ひどく胡散臭そうな顔で直親とモーリスは見た。
 そしてその後についてきた、この場にあまりにもそぐわない……まるで童話の中から抜け出して王子様とお姫様のような白い燕尾服の少年と白いスレンダードレスの少女を見て、さらに訝しげに眉を潜めた。
「あら、琥珀くんと瑪瑙ちゃんも来てくれたの?」
 今後の展開に期待と不安を抱きながら表情を僅かに固くしていたシュラインが、その少年と少女を見てほんの少し表情を和らげる。
「琥珀くんバイトあるのに、ごめんね」
「いえ。マスターが望まれた事なら、それは僕の望みでもありますから」
 無表情で淡々と話す銀髪の少年――琥珀は、ちらりと直親とモーリスに視線を向けると、挨拶もせず鶴来の体の具合を見ている霧嶋の代わりに小さく会釈をして寄越した。それに倣うように、銀髪の、眼を伏せたままの少女――瑪瑙も、微笑んでぺこりと頭を下げる。
「可愛らしいお供を連れておられる」
 手を取り合って霧嶋の元へ歩み寄り、瑪瑙にその場で待つように告げて片腕に提げていた黒い小さめのアタッシュケースを地面の上に下ろすとてきぱきと霧嶋の手伝いを始める琥珀を見て、モーリスが微笑んだ。が、すぐさまその視線は檻の中でぼんやりと視点の合わない瞳を足許に向けている綺の方へと向けられる。
「さて……それでは始めましょうか。よろしいですか、久我さん」
 問われて、直親は小さく頷いた。そして素早く刀印を結んだ手で九字を切る。片手の上には形代とする人形を乗せている。
 意識を眉間の辺りに集中させる。
 それは、モーリスも同様だった。直親の術が完成するのと同時に自分の力を発動させるため、意識を研ぎ澄ませる。
 す、と直親が人形の額の辺りに刀印を結んだままの指先をつけた。
「金剛の智火極め威耀ならしめ、千妖万邪、摧破する尊に帰命し奉る……」
 低く、けれどもよく通る声で澱みなく紡がれる呪。まるで詠うかのようなそれは聞いているとどこか心地よくもある。
 呪を紡ぎ終えると、ふっと気を含めてから人形の額から指を離し、軽く眼を伏せた。
「オン・キリキャラ・ハラハラ・フタラン・バソツ・ソワカ」
 唱え終えた途端、どさりと鈍い音を立てて檻の中の綺が、まるで操り糸が切れた人形のようにその場に倒れ込んだ。次いで、手の中に収めていた形代が独りでに、小刻みに震え始める。
 今まで綺に向けられていた術がこちらへ流れ込み、反応しているのだろう。
 その震えを感じながら、直親は眼を開いてモーリスを見やった。
 それが、合図。
 心得たと言うように頷くと、モーリスは光の格子の前に立ち、すっと眼を伏せて軽く両手を持ち上げた。
 何かを掲げ持つかのように上げられたその手に宿すは、この世に存在する全てのものに調和をもたらす力。
 それが、モーリスが持つ能力「ハルモニアマイスター」。
 掌からふわりと、透明感のある明るく青みがかった緑色の気が揺らめき立つ。
 緑色の象徴的な意味合いは、安らぎ、潤い、生命力、平静、平和――そして、永久。
 体の機能を正常にするという効果もあり、どの色とも調和の取れるその色が能力の発現時に現れるのは、ある意味とても、らしいのかもしれない。
「さあ、あるべき姿に還れ……」
 モーリスから生み出された緑の気が、やがて明るさを増して白い炎のように姿を変えながら地面に倒れ伏した綺の身体を包み込む。
「……ん?」
 ふと、その様子を見守っていた直親が、僅かに眉を寄せて自分の手許に視線を落とした。
 何気なく零した直親の声に気づいた翠が、鶴来の修復を続けている霧嶋の手許に落としていた視線を上げる。
「どうしたんだ?」
「いや……術が止まったようだ」
「え? 七星の家からの傀儡の術が止んだって事?」
 どういう事だろう?
 シュラインが首を傾げた。それに、あ、と翠が小さく声を零す。
 そうだ、今まですっかり忘れていたが。
「そうか……じゃあ向こうも上手く行ったんだな」
「向こうって? 花房くん、何か知ってるの?」
「ああ、俺と一緒に店長から命令されて動いてる奴がいるんだ。そっちは傀儡の術を使ってる奴を直接狙いに行ったから、多分アイツが上手く食い止めたんだろうなと思ってさ」
「直接黒幕を狙いに行ったのか」
 なるほど、と呟くと、直親は役目を終えた人形をそっと両手で包み込んだ。ふっと軽く息を吐き、形代にするためにかけていた術を解く。
 その間にモーリスも、広げていた両手をゆっくりと、静かに下ろした。もう陽炎のような翡翠色のオーラはなりを潜めている。
「終わったのか?」
「ええ。無事に」
 翠の問いに答えると、モーリスは一旦下ろした右手を軽く持ち上げた。そして光の檻の方へと掌を向ける。
 途端、ふっとその檻が一瞬で消え去った。「アーク」を解いたのである。
 傀儡化していない上、モーリスの力で「最適な姿」に戻った綺は、もう危険ではない。となれば、檻も必要ないということだ。
「さて……私の方も終わったから帰らせて貰うぞ」
 ぽつりと言うと、霧嶋は破壊された箇所を綺麗に直し終えたらもうその場のことには一切興味がなくなったと言わんばかりにすっと立ち上がり、踵を返して道路に向かって歩き出した。鶴来を修復する為に出した様々な道具を手早くしまい直し、琥珀と瑪瑙も霧嶋の後に続く。
「ありがとう、おっさん!」
「ありがとう、霧嶋さん。琥珀くんと瑪瑙ちゃんも」
 その背中に翠とシュラインが声をかける。と、霧嶋は足を止めて肩越しに振り返り、口許に微かな笑みを浮かべた。
「助けが必要な時には手を差し伸べるのが人情、なんだろう?」
 それはモーリスが鶴来に告げた言葉。どこで聞いていたのかと僅かに眉を持ち上げたモーリスだったが、その反応を気に止めず霧嶋は再度背を向け、振り返ることなく琥珀と瑪瑙を伴って去って行った。


【覚醒】

 刻々と、時は静かに流れ行く。
 すでに霧嶋たちが去ってから十数分が経過していた。
 倒れ伏した綺と鶴来が目覚める気配はまだない。
「……何となく、痛そうよね」
 今更かもしれないが、地面の上に直接寝かされている2人の状況に、シュラインが肩にかけていたバッグを下ろし、どちらにするかと暫し考えてから、バッグの中からハンドタオルを取り出した。それを二つ折りにして鶴来の頭の下にいれ、今度は綺の頭を軽く持ち上げてその下にバッグを差し入れる。枕代わりだ。
 その横では、直親が胸元を開いたままだった鶴来の式服を正してやっている。同業者ゆえに手馴れたもので、すぐに着衣は整え終えた。
「雨が降る前に目覚めてくれたらいいけどな」
 呟いて空を見上げる翠のその声に導かれるように、微かな声が綺から零れた。
「……ん……」
「あ……綺くんっ?」
 傍らにしゃがみ込んだままだったシュラインが、ゆっくりと瞼を押し上げた綺の顔を間近に覗き込む。まだどこか焦点の合わないぼんやりとした鳶色の瞳を、綺は宙へと向けている。
 何が起きたのか理解していないようだった。
「七海君。こっちを見てください」
 シュラインの隣に片膝を落とすと、モーリスは医者らしい口調で言いながら片手を綺の目の前に差し出した。
「指が何本立っているか分かりますか」
 人差し指と中指を立てながら問いかける。もう片手は綺の手首に添えられ、脈を取っているようだった。
 綺は、最初は見ているのかいないのか分からないように黙していたが、やがてゆっくりと唇を開き。
「……に……」
 ぽつりと呟いた。
 紡がれたたった一つの言葉に、けれどもその場にいた4名はほっと安堵の吐息を零した。注がれる視線の中、綺はゆっくりと上体を起こす。病気の後などとは違い、モーリスにより「呪詛をかけられ命を奪われる前」に戻された綺の身体は、何の違和感もなくすんなりと動いた。
「……俺は……」
 しかし、自分が死んだ時の記憶があるのだろう、不思議そうに手を持ち上げて眺める。
 その双眸が、ふいに見開かれた。
「あ……那王さん、は……?」
 恐る恐る問いかけられ、シュラインが微かに笑った。
「心配ないわ」
 言って、少し身体を横に避けて、まだ眠ったままの鶴来を綺に見せる。
「あともう少ししたら鶴来さんもちゃんと起きるから」
「お前より寝意地が張っているようだな、鶴来の方が」
 軽口を叩きながら、直親が唇を歪めて笑った。
「目覚めはどうだ、七海」
「……久我……さん?」
「どうやら、寝起きは悪くないようだな」
「……一体、何が……」
 綺が、上手く状況を飲み込めないままに口を開いた、その時。
 ふ、と鶴来が眼を開いた。
「あ、おい那王、俺が分かるか?」
 翠が、どこかぼんやりしている風な鶴来の頬を軽く指先でぺちぺちと叩きながら問いかけた。すると、視線が翠の顔を捉える。
「ええ……花房さんでしょう? 大丈夫です……何が起きたのかはよく分かりませんが」
「ああ、何でまだ生きてるのかって話か?」
「……確か、俺は……」
「はい、記憶を辿るのはそこまでにしてください。あまり思い出さなくてもいい記憶でしょうし」
 言うと、モーリスは翠に支えられながら上体を起こした鶴来の顔をすっと覗き込んだ。さらりと襟足で結ばれている金色の髪が肩に滑り落ちる。
「あの時の問いの答え。今、きちんと貴方にお渡ししておきますよ」
「あの時の……?」
「死んだ者の体があればそこに命を戻す事が可能か、という問いです」
 覚えていませんか? と言われ、鶴来は小さく頭を振った。
 それは、綺の命と引き換えのようにして鶴来の呪詛を解いた後、鶴来がモーリスの勤める屋敷へ出向いて問いかけた言葉。
「覚えていますが、渡しておく、とは一体どういう意味……」
「こういう意味よ」
 モーリスの向こうから聞こえたシュラインの声に、鶴来が不思議そうにそちらへ視線を向けようとして――しゃがみ込んだモーリスの影からすっと、立ち上がる人物を、見た。
「那王さん」
 驚きに染めた双眸を見開く鶴来の表情を、その場にいた者達は満足げに眺めていた。
「確かに、お渡ししましたからね」
 モーリスが再度微笑んだ。
 鶴来は、暫し呆然と見開いていた双眸に静かに涙を浮かべると、やがてゆっくりと深く頭を下げた。
「有難う御座いました……」
 それはモーリスにだけ向けられた言葉ではなく、その場にいる者たち全てに向けられた言葉。
 自分の命を守ってくれただけではなく、綺に掛けられていた呪縛を解き放ち、なおかつその命を取り戻してくれた事に対する、この上もなく深い感謝の念を込めた言葉だった。


【final――おやつ係のツイてない日】

「おーいてんちょー!」
 ずるずると鶴来の式服の袖を引っ張りながら、翠は無事、店に帰還を果たした。
「ですから、花房さん。引っ張らなくても俺はちゃんとついていきますと言っているのに」
「いいや、このほうが何だか『連行しました』っぽくていいだろ?」
 何がいいのかよく分からなかったが、とりあえず言っても無駄だと理解した鶴来は、そのままおとなしく従うことにした。ずるずると引っ張られて2階へと移動する。
「那王さん、最近はこんなところで遊ばれているんですか?」
 きょろきょろ店内を物珍しげに見回しながらついてくるのは、綺だ。聞いたところによると、綺が育った場所は随分な田舎町だという。ならばゲームセンターなどというものも珍しいのかもしれない。
 2階に上がると、翠は周囲を見渡した。
「あれ? おっかしいなあ……おーい店長?」
「店長さんでしたらそこに」
 連行されてきた鶴来が、ひょいと2階の景品交換カウンターを指差す。
 まだ学校が終わる時間までには猶予があるため、フロアにはあまり人がいない。ちらりと視線を動かせば、カウンターはすぐに見ることができた。
 そのカウンターで、何やら嬉しそうにティータイムをしている店長の姿を見ることも。
「あああっ!! それ……それっっ!」
「ん?」
 勢いよく鶴来を引っ張ってカウンターに向けて突進した翠は、店長が食しているものを見て大声を上げた。店内に響いている雑多な音楽を軽く上回る叫び声に、店長がフォークをくわえたまま顔を上げる。
「よ、お帰り。案外早かったなあ」
「案外早かった、じゃないだろっ! それっ、俺が今朝買ってきたケーキじゃないのか!!」
「ん? ああ、そうみたいだな。でもさー、だってさー、ケーキちゃんが『私を食べてぇン』ってハートつきで誘惑するもんだからさ、つい辛抱たまらんって感じで食っちゃったんだよなー」
 あははー、と明るい笑いを発する店長に、翠はがくりと肩を落とした。
 せっかく朝早くから並んで買ってきたというのに。
 ちゃんと鶴来を捕まえてきたというのに。
 こんな結末が待っていようとは……。
「まあまあ若者、そう気落ちするでないぞ。私がこれを処分したのには理由があるのだ」
 言うと、鶴来を顎先で示し、店長は唇に笑みを浮かべた。
「黒天使ちゃんから電話があったんだ。今京都にいるからとか言ってな。今日中に東京に戻る予定はないから、花ちゃんが来たら菓子を預かって兄に渡してくれと伝えてくれだと」
「京都?」
 実家に帰っていたのだろうか?
「だからさ。ケーキはどうするかって聞いたら花ちゃんに返すか私が食うか好きにしていいって言うからさ、だから遠慮なくいただいたんだぞ? 無断で食ったわけじゃないんだぞ?」
 どうだと言わんばかりに胸を反らして店長は言うと、傍らに置いていたケーキの箱を翠に差し出した。
「どうせなら一緒に食うか? 今、店は霧嶋の域内にないみたいだから、美味いのも分かるぞ? 暇人を連れて来てくれた礼だ、紅茶も私が手ずから淹れてやろう。どうだ?」
「こんなとこで店長とティータイムかよ」
 そういえば、まだ昼食をとっていなかったことを思い出す。それを意識したら、急に物凄く腹が減ってきた。
「しょうがない。じゃあ紅茶一杯頼むか。アンタも食うか?」
 確か兄の方も甘い物好きだったはずだと思い、翠は鶴来に向かって声をかけた。
 が、さっきまで傍らに立っていたはずの鶴来はすでにクレーンゲームの方へ移動し「わあ、プーさんがオパール付のステッキ持ってるー!」「わあ、このパンダ、頭の中にパンダが入って操縦できるようになってるー!」などと言い、そこに貼り付けられているガムテープを剥がしていいものかどうか悩んでいる。
 もともとそのガムテープは店長が鶴来に最初にゲームをさせたいからという理由で貼り付けていたものだ。ならば、鶴来がプレイしたがるのを止める理由は特にない気がする。
 紅茶を淹れに行ってしまった店長を見てから、翠は笑って鶴来の背中に声をかけた。
「剥がしていいぞ? 店長がお前を連れて戻って来いって言ってのもそれ取るトコが見たかったからみたいだし」
 取るところ、というよりは取れなくて悔しがっているところ、のようだが、まあその辺は言わなくてもいいだろう。
 その言葉に、鶴来が嬉しそうに振り返って頷いてから、ぺりぺりとコイン挿入口に貼り付けられていたガムテープを剥がした。
 何だか。
(この兄にしてあの弟ありって感じだよなあ……)
 どっちも、かなり変わっている。
 思いながら、翠はくるりとカウンターの方へ向き直り、箱の中からケーキを取り出した。
 なんとなく、この場所では味がないことに慣れているため、ケーキ1つでもどんな味がするのかと妙にドキドキ感がある。
 その後ろから。
「……あ、残念。霧嶋戻ってきたみたいだな」
「えっ」
 紅茶を淹れて戻ってきた店長がぼそりと呟いた。慌てて翠はケーキの側面をうまく潰さないように持ってがぷりと豪快にかぶりついてみたが――見事にまったく、味がしなかった。
 がくりと翠が項垂れたのは言うまでもない。
(何だか今日の俺っていろいろツイてない気が……!)
「まあまあそう気を落とすな翠ちゃん。お姉さまが相手してやろうなーよしよし」
 何だか諸悪の根源としか思えないような人物に頭をなでなでされてしまい、翠がもっと深く深ーく項垂れたのは、やはり言うまでもないだろう。


 後日。
 草間の元に一通の手紙が届いた。
 差出人は、七星那王。
 鶴来家の当主の座を追われた那王は、唐突な七星の者たちの意志変更により七星家に引き戻され、七星家の長子として正式に当主の座に就いたらしい。
 綺は、遺体が見つからなかった為に役所等に死亡届を提出していなかったため、一時期死んでいたなどという事実は表に出ないまま、今までどおりに暮らしているようだ。
 今までどおり――那王の元を離れて、七海の桜がある里に戻り、普通に高校生としての生活を再開したらしい。
 真王は、七星の当主を降りてから晴れて自由になった身で、どこか別の場所で暮らすことを決めたようである。

『皆様には大変お世話になりました。
 お蔭で、全てが収まるべきところに収まったように思います。
 この度は本当に、御尽力頂き有難う御座いました。』


 知らせをシュラインから聞いた翠は、原稿を書きながら微かに笑った。
 変な兄弟ではあるが、これで少しはまともになるかもしれない。
「さってと、仕事仕事」
 1つ大きく伸びをして気分転換をすると、翠はペンを握る手に力を込めた。




□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
□■■■■■■□■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
 整理番号 … PC名 【性別 /年齢/職業/階級】

0523 … 花房・翠――はなぶさ・すい
        【男/20歳/フリージャーナリスト/大天使】
0733 … 沙倉・唯為――さくら・ゆい
        【男/27歳/妖狩り/権天使】

□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■         ライター通信          ■
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□

 こんにちは。ライターの逢咲 琳(おうさき・りん)です。
 この度は依頼をお請けいただいて、どうもありがとうございました。
 少しでも楽しんでいただけましたでしょうか?

 花房 翠さん。またまた再会できてとても嬉しいです。
 いつもルーにおやつを与えてくださって有難う御座います(笑)。
 今回は何やら……ルーが席を外しておりまして、大変申し訳なく……(汗)。
 翠さんの能力のおかげで、鶴来の居場所を特定しやすくなりました。
 とりあえず、何だかルーやら店長やらに色々とこき使われてしまっているような気がする翠さん……ほ、本当にどうもすみませんっ(笑)。

 今回は、草間興信所と異界「Az」から同シナリオを出し、双方から調査が進められています。
 そして途中からプレイングにより、
  >東京に残って鶴来を守りつつ綺をどうにかする。
  >京都に行って、直接、七星の術師をどうにかする。
 と、ルートが分かれました。東京編は4名、京都編は2名になっております。
 双方の活躍により、無事全てが綺麗に落ち着いたようです。
 本当に、有難う御座いました。

 もしよろしければ、感想などをお気軽にクリエイターズルームかテラコンからいただけると嬉しいです。今後の参考にさせていただきますので。

 それでは、今回はシナリオお買い上げありがとうございました。
 また再会できることを祈りつつ、失礼します。