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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


吐息の行方


 外れにあるとはいえ腐っても代官山にある、とある喫茶店。
 そこでは見事に閑古鳥が鳴いている状態だった。今、まさに。
 平日の昼間という時間帯もあるが、普段に輪を掛けただけで、実は閑古鳥が鳴いているのは日常茶飯事だということはここだけの話である。
 しかし、この店のマスター深山智(みやま・さとる)はそんなことはこれっぽちも気に病んでいなかった。
 この店の名前は「深山」。
 読んで字のごとく、マスターである深山はオーナーでもあるのだ。
 もともと趣味と実益―――というより寧ろ多大に趣味に傾いている―――でやっている店なのでたとえ閑古鳥が鳴いていたとしてもこれといって苦痛を伴うわけではない。
 暇なら暇で備品の手入れをするまでである。
 カップ&ソーサーはもちろんのこと、趣味というだけあってコーヒー用の器具だけでももネイルドリップ、サイフォン、バーコレーターからエスプレッソメーカーまで良く言えば幅広く悪く言うと節操なく鎮座している。たかがコーヒーひとつであるが豆によってその長所を最大限に引き出す入れ方があるのだ。そのためにいくつもの器具を置くのは彼なりのこだわりなのかもしれない。
 だが、かといってコーヒー専門店と銘打たずに喫茶店というだけあってコーヒーに限らず、紅茶からアルコールまであらゆる飲み物を味・量ともに格安の値段で振舞われている。
 実はこの「深山」は非常にリピーター率の高い店なのである。
 振舞われる飲み物はもちろんだが、マスターである深山が聞き上手で客の相談に乗ることもしばしば……という理由もその一端をになっているのは間違いないなかった。


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 年代もののジュークボックスから流れるジャズに耳を傾けながらグラスを柔らかい布で拭いては陽にかざし丁寧に磨いていた深山は入り口のカウベルが鳴ったことに気付いて顔をあげる。
 顔を上げると、すらりとした背の高い女性が店内に入ってきたところだった。
「いらっしゃいませ」
 馴染みの客に深山は目尻の皺を深くする。
「こんにちは」
 綾和泉汐耶(あやいずみ・せきや)はいつもの様にカウンターのスツールに腰掛ける。
 図書館が休館日になることの多い月曜に汐耶は古書店を巡り「深山」でコーヒーを飲んで帰ると言うのがいつもの定番のコースである。
 しかし、いつもならばカウンターに置かれるはずの本の束が今日は無かった。
「ちょうど今日いい豆が入ったところなんですよ」
 コーヒー党の汐耶の為に、深山は浅煎りの豆をサイフォンに掛ける。
 あっという間に店中にサイフォンから洩れるコーヒーの香りが広がる。
 一連の動作をぼんやりと眺めていた汐耶に、ふと目を止めた深山に、
「おや……眼鏡変えられたんですね」
と言われて汐耶は少し伏せていた目を上げる。
「さすが目敏いですね。先日ちょっとアクシデントがあって新調したところなんです」
「よくお似合いですよ」
 そう言って深山は汐耶の前に白地にロイヤルブルーのラインの入ったカップを置く。
「ありがとうございます」
 小さく微笑んだ汐耶はカップを手に取った。
 まずゆっくりと香りを楽しんだ後に口をつけると、最初少し酸味を感じたが、その酸味と口に含んだ後の苦味が程よいバランスで深いコクを生み出していた。
 ブルーマウンテンと並ぶプレミアム豆と称されるだけのことはある深い味わいに汐耶は思わず息を漏らす。
 それは簡単の吐息であったのだが、それだけではないことに深山は気付いた。
「最近は何かありましたか?」
 まるで明日のお天気は?と尋ねるような気軽な口調で深山は汐耶に問いかける。
「お見通しなんですね」
 汐耶はそういって少し自嘲気味な表情で深山を見る。
「私でよければお伺いしますよ。人に話すことで何か判ることもあるでしょう」
 促されて汐耶は吶々と吐息の理由を話し始めた。


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「ちょっと気になる人がいるんです」
「ほぉ」
 そう口にすることで気になるどころか好きだと言うことを更に自覚したようで汐耶は微かに頬を染める。
「でも相手の気持ちが判らなくて―――不安なんです」
 気持ちを確かめてもいないのに不安だと言うのも可笑しいですよね……と深山に同意を求める。
 シュンシュンと言うお湯の沸く音がジャズのメロディに重なる。
 好きと言う気持ちに翻弄されそうになりつつも、多分、この不安は自信の無さからくるものだと、汐耶の冷静な部分は十分に理解していた。
「どれだけ本を読んで経験したような気持ちになったとしても、それはあくまで擬似体験でしかないんですよね……。本当の私は恋愛経験が薄かったり、情熱が続かなくて自然消滅してしまったり……お世辞にも恋愛上手とは言えないんですよ」
 いままで何十冊、何百冊と読んだ本にも『恋愛の正しい答え』などは載っていない。
 結局象牙の塔で得た知識が現実世界では無力だとこんな時に痛感する。
「何回経験しても上手になるものではないですよ。例え同じ人に何回何十回恋をしたとしても全て違うものですから―――だから、厄介だが止めることはできないんでしょうねぇ」
 そう言って深山は微笑む。
 正しい道などどこにもないから不安は尽きないし、根拠の無い自信なんて持てないけれど、それでもきっとこの気持ちだけは間違いないものだから―――


「あ、もうこんな時間?」
 すっかり話し込んでしまった汐耶は腕時計を見て慌てて立ち上がる。
「ありがとうございます。美味しいコーヒーを飲んで話を聞いてもらったらちょっと気持ちが軽くなったみたい」
 考えすぎて恋愛ですらつい頭でっかちになりつつあったが、深山と話しているうちに、少しは自分の気持ちのまま素直にあの人に会えるような気がしてきた。
「ごちそうさまでした」
 そう言って財布を取り出そうとした汐耶を深山が止める。
「今日の御代は、今度結果を教えていただくと言うことで結構ですよ」
 そういう深山に、
「吉報だったら真っ先に」
と、汐耶ははにかんだ笑みを見せた。