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<東京怪談ノベル(シングル)>


前章―前兆

 遥かに思いし時とは覚えず。
 悲しき事とも苦しき事とも心には刻まれず。
 ただ分かるのは、自らが内に潜む影がゆらりゆらりと揺れる事のみ。


 桐崎・明日(きりさき みょうにち)は呆然と立ち尽くしていた。さわさわと吹く風は、柔らかく黒髪を撫でてゆく。そして黒の目はただじっと目の前に繰り広げられる光景に囚われたまま、視線が動かされることは無い。
(駄目だ)
 明日は頭の中で呟く。
(駄目だ……!)
 呟きは、いつしか叫びへと変わっていく。
(駄目だ、駄目だってば!)
 叫びは頭の中を支配し、しかし体を動かすことは許さなかった。
(……どうして、こんなにも)
 じゃり、と足元から音がした。ようやく、体が動いたのだ。明日はぐっと手を握り締めると、最初はゆっくりと、だんだん足を速めて走り出した。
「……ああ」
 走りながら口から出てくるのは、嘆息交じりの声。
「あああ……!」
 お腹の奥底から出てきたような、苦しみを帯びた声。
 明日は周りには目もくれず、ただ一目散に走っていく。何処を走っているのか、何処に向かって走っているのか、それすらも全く分からないのだ。ただただ頭の中を支配していたのは、赤い赤い世界だけ。
「……どうして……!」
 明日はそう叫ぶと、ゆっくりと足を止めていき、がくんとその場に足を付いた。辿り着いたのは、川辺だった。明日の家の近所にある、幼い頃から慣れ親しんでいた川辺。
(無意識のうちに……家に帰ろうとしていたんだ)
 明日はそう考えると、はあはあと息を切らしながら突如笑った。「はは」と。
(帰ろうとしたんだ、家に。逃げようとして、家に)
 明日は再び「あははは」と笑い始めた。だんだんどうして笑っているのかが分からなくなっていった。ただ笑っているだけのような気もしていたし、何か可笑しい事が合ったかのような気もしていた。
 川辺に夕日が反射していた。きらきらと光る水面は、明日の笑い声に対して何も言わぬ。何もいわず、流れて行くだけなのだ。
「……くそ」
 ぽつり、と明日は漏らした。自分の心を支配する、赤い色に向かって。


 その日、いつも通り明日は学校に行き、一日をいつも通り過ごし、いつも通りに家へと向かっていた。友達もそれなりにいたし、それなりに一緒に遊んだりもしていた。中学二年生という年齢に適した生活を、明日は毎日送っていたのだ。
 しかし、いつも通りに進む筈だった時間は、突如として破られた。帰り道、明日は遭遇してしまったのだ。赤い色に、赤い世界に。
 帰り道の途中、明日は何かの違和感に気付いた。それは誰も通らぬ路地裏から、ひしひしと伝わってきたのだ。何かがおかしい、と頭の中でシグナルが鳴る。
(何かあるのか……?)
 辺りを見回すが、人通りは驚くほど少なかった。道の向こう側に通行人が数人、道路に車が時々猛スピードで過ぎ去っていくだけ。明日の気付いた違和感のある路地裏に至っては、一人二人がその前を通っていっても、何も気付く事なく過ぎ去っていくだけだったのだ。
(どうして、気付かないんだ?)
 明日は不思議そうに首を傾げる。こんなにも違和感があるというのに、路地裏から何かを確かに感じるというのに。誰も何も気付かないだなんて……!
(それに……)
 明日はゆらり、と揺れ、慌てて態勢を整える。路地裏から感じる何かは、自らの内に何かを問い掛けてくるような気がしていた。
「危うい……」
 ぽつり、と明日は呟く。それは、いつも明日が心のどこかで感じていた事だった。何が危ういのか、どうして危ういのかさえ分からない。ただあるのは、危ういという感情だけ。だが、その感情が時々強く出てくるのだ。今のように違和感に気付いた瞬間だとか、何事も無いふとした瞬間だとかに。そうした時、いつもゆらりと体が揺れてしまっていた。まるで、何かに気付こうとするかのように。
(まだ、大丈夫)
 ぐっと拳を握り締め、明日は自分に言い聞かせる。まだ、危うさは確定していない筈だ。こうして何かに気付いてしまったけれど、またいつも通りに何も無かったかのように家へと向かえばいいだけなのだ。
(……だけど)
 一度気付いた違和感を、簡単に拭い去る事は出来なかった。路地裏にあるだろう何かが気になって仕方が無いのだ。
(もしかしたら、何もないのかもしれないし)
 明日はそう自分に言い聞かせる。全てが気のせいだったのだと、そう思いたいのかもしれない。
(何もないって分かったら、この違和感も……危うさもなくなるし)
 ただの気のせいなのだと、明日は思いたかった。常に感じていた危うさでさえも。
(きっと何もない。きっと)
 明日はそう考え、路地裏に向かう。
(だけど、もし何かがあったら……?)
 ふと、そんな考えも頭をよぎる。だが、その度に明日は頭を振る。
(そんなに簡単に何かが起こるとは限らない。そんな何かがある事自体、珍しいんだし)
 明日はそう納得させるように考え、足を踏み入れた。
「……!」
 目の前に踏み入れた瞬間、声も出なかった。頭の中が真っ白になり、聞こえていた騒音ですら何も聞こえなくなってしまったのだ。静寂だけが支配する、真っ白な世界。だがその世界の中に、ぽつんと、赤い染みがあった。真っ赤な真っ赤な染みが。
 明日の目の前には、体を赤く染めた人間と赤い刃を持った人間が無造作にいたのだ。
(どうしてどうしてどうして?)
 頭の中を支配する、止め処ない疑問。
(赤い赤い赤い)
 まだ固まっていない血液は、ゆっくりと流れて明日の足元へ向かってきていた。明日は目を大きく見開き、とりつかれたように赤い体を見ていた。だが、赤い刃を持った方がざり、と足音をさせた時にはっと気付く。
(逃げないと……!)
 幸い、赤い刃を持った方は明日には気付いていないようだった。今ならば逃げられる、と明日は自分を叱咤する。
(逃げないと、逃げないと!)
 動かない体を必死で叱りつけ、明日は逃げ出そうとした。非日常のこの路地裏から、いつもの日常である表通りへと向かって。


 明日は座っていた川辺から、そっと立ち上がった。どっどっと激しく脈打っていた心臓は、幾分か落ち着いてきていた。辺りを見回しても、先程まであった違和感や危うさはなくなっていた。
 明日はまっすぐに、家に向かって歩き始める。
「これで……日常に戻る」
 明日はぽつりと呟く。そう呟くと、先程出会ってしまった事柄が、悪い夢のようにも思えてくるから不思議だ。
(そう、あれは幻だったのかもしれない)
 どくんどくんと波打つ心臓も。
(ただの、見間違いだったのかもしれない)
 頭の奥で繰り返される危うさも。
(こうして家に帰れば、また日常に帰れる)
 気付けば、自宅の前に着いていた。考えながら歩く距離は、何と短いのだろうと苦笑する。そしていつも通り家へと入り、自室へと入ってベッドに横になる。これもいつも通り。
(いつも通りなのに……)
 ベッドで横になったものの、心を占める不安感は消えない。
(何故……?)
 消えたと思っていたシグナルが、再び点滅し始める。心を支配しようとする、奥底からの叫び。
 何かが壊れた。何かが堕ちた。
 それは決して、明日の意志ではなく。もっと根底から湧き上がってくるのだ。バラバラとなるかのような感覚と共に、くるくると……狂、狂、と。
(こうして何も無く……毎日同じように過ぎていく筈だったのに)
 既に過去形となってしまった言葉。
(全て、いつものように過ごしていけるはずだったのに)
 否、と答える自分がそこにいる。いつからかどこからか、明日には分かっていたのだ。危うさも揺らめきも、全てがこの壊れたり堕ちたりする瞬間だけの為に存在していたのだと。そしてそれが、今この瞬間なのだと。
「……何だ?」
 何時間経っただろうか。明日は寝転がっていたベッドからがばっと起き上がった。
(気配が……音が……)
 先程まで確かに感じていた気配が、聞こえていた音が、全くなくなってしまったのだ。家には自分ひとりしかいないような感覚しかなく、それを裏付けるかのように家の中は恐ろしく静まり返っている。
 気付けば、明日は自室から飛び出していた。何かが起きたであろう家の中を確認する為に。頭のどこかに、それは駄目だと叫ぶ声がしたが、あえて聞こえないふりをした。もう遅いのだと、もう過ぎ去ってしまったのだと。
「あ……!」
 明日はぴたりと足を止め、目の前に立ちはだかった人物をじっと見つめた。男は不思議なものを持ち、じっと明日を見つめていた。鉄製の刃のついた、卒塔婆のようなもの。それくらいしか表現のしようのないものだ。
「……何故」
 男が静かに口を開いた。辺りを包んでいる静寂を、壊さないとするかのように。
「何故、巻き込まれた?」
 明日の頭の中を、今日起きた出来事が巡っていく。頭の中を支配していく赤い世界。何故、などという言葉はむしろこちらが言いたいくらいだった。
 だが、明日の口はなかなか開かなかった。何かを喋ろうとするのだが、口が開かない。声が出てこない。体も動かない。静寂に支配されたまま、静寂に音を発することを許されぬかのように。
(……何故……だなんて)
 明日は自らを叱咤し、ぐっと力を込めて口を開く。
「どうゆう……こと?」
 ようやくそれだけが、明日の口をつく。だが、その言葉が最後まで紡がれる事は無かった。
 男の持っていた卒塔婆のようなものが、明日に向かって振り下ろされたのだ。明日は目を見開き、ただそれだけを呆然としながら見つめるのだった。


 全てが始まり、全てが終わろうとする。
 ゆらりゆらりと揺れていた心は、一つの場所へと向かって行く。
 巻き込まれし心が行きつく先を求め、前章を紡ぎだすかのように。

<兆しは静寂の中で起こり・了>