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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


温故知新

 蒸し暑い夏の夜は、矢張り散歩でもして涼むしかないさね。そう言って勾音は出掛けていったのだが、普通散歩と言うのは、地面を平らに歩く事ではないだろうか。
 ビルの天辺、その一角の上に平然と直立する、そんな勾音の姿が散歩中であるとは、誰も思いもしないだろう。

 『…おや』
 腕組みをした勾音が、上体を屈めて下を覗き込む。見知った顔をビルの谷間に発見したのだ。若い男、その金色の髪が、僅かな繁華街のネオンを弾いて時折煌く。立てた二本の指の間に挟んだ何枚かの符、それを肩の後ろまで引いてから、男は鋭く前へと投げ付ける。軽い紙では到底あり得ない、重さと勢いを持って符は宙を飛び、その前方で数体の、陣笠を被った人型の小さな式神に姿を変えた。
 「お珍しい事。慶悟じゃないか」
 軽く口笛を吹く真似などして、勾音が口元で笑う。鮮やかに式神を使役するその手管を見て、感心したように軽く頷いた。が、その態度は完全に傍観者のもので、旧知の間柄の慶悟に手を貸そうなどとは、爪の先程にも思っていないようだった。
 慶悟は式神に先導させ、ビルの隙間を縫うように走る。派手な色目のスーツが、夜目にも華々しく映る。早いテンポで移動していく慶悟を追う勾音は、相変わらずビルの屋上から屋上へと瞬間移動していく。フッと消えては次のポイントにフッと現われる勾音の姿は、どこか夏の陽炎のようにも見えた。
 慶悟が追っているのは一匹の犬らしい。彼が向かう先の暗闇から、ハッハッと獣特有の生温い息遣いが聞こえてくる。暗闇を抜け、点滅する寿命の尽きかけた街灯の下で立ち止まった犬は、一般的に言う犬の様相を保っていなかった。崩れた顔の半分と蛆の湧き掛けた眼窩、明らかに、一度死してからこの世に甦った、摂理に反する生き物である。
 「死返しの呪法、ねぇ…人間の考える事は判らなくもないが、判らないものだね」
 しみじみと呟き、勾音は片方の頬をつるりと片手で撫でる。多少、散歩に飽きて来たらしく、生欠伸を噛み殺して、眼下の遣り取りを何とはなしに眺めた。
 慶悟が立てた二本指を揃えて犬に向け、差し出す。その延長線上を、陣笠の式神達は螺旋を描きながら犬に向かっていく。数体の式神が、犬の頭部へ近付いた瞬間、黄ばんだ犬の牙が陣笠を引っ掛けて引っ繰り返す、するとそれはくるりと手の平を返すように、ただの符に逆戻りして地面へとひらりと落ちた。犬に掛けられた呪詛はなかなかにしつこく根深いものらしい。慶悟が、それに敵わないとは全く思っていないが、勾音はふと思い付いた考え故に、静かに立ち上がるとそのままビルの下へと飛び降りた。

 まるでスローモーションの魔法が掛かったかのよう、勾音の身体は引力に逆らい、自然落下よりはやや遅めの速度で舞い降りる。十何階かのビルの屋上から飛び降りたにも拘らず、頭が下になる事もなく、爪先からふわりと降りていく。そのまま、何の前触れもなくどこかの空間から召喚した剣を何気ない様子で垂直に叩き降ろす。それはものの見事に犬の首を断ち切り、犬は咆哮をあげる間もなく絶命し、目を見開いたままその頭はごろりと地面に転がった。

 げっ!

 実際に、慶悟がそう叫んだ訳ではない。突然誰かが現われていきなり犬を叩き斬った事にも、驚きはしたがそれを表情に出す事はなかった。だが、その相手が勾音だと知った瞬間、慶悟の心情的にはまさに『げっ』と叫びたくなるような思いだった。
 「おや、久し振りに会った相手にそんな顔をするもんじゃないよ。折角の男前が台無しじゃないか」
 「あんたに男前と言われる事ほど胡散臭い事はないな」
 微妙に嫌そうな顔をして、慶悟が笑う勾音から視線を外す。それはまるで、悪戯していた所を親に見つかってしまった、子供のような様相を、僅かにだが呈していた。
 「と言うか、突然現われていきなりこれか。どう言うつもりだ」
 「そりゃおまえ、おまえの手助けをしたかったからに決まっているだろう?……とでも言って欲しいのかえ」
 勾音がそう言うと、勾音の返答の半ば辺りで既に何かを言い返そうとしていた慶悟が、ぐっと言葉に詰まる。決まっているだろう?の部分で返答が終わっていれば、そんな訳ないだろと即座に突っ込んでやろうと思っていたのに、その機会を失って調子を狂わされたと言う所か。やれやれ、と首を緩く左右に振り、慶悟は片手で前髪を掻き上げる。
 「…で、本当は何なんだよ。俺の仕事を手伝いに来た訳でも邪魔しに来た訳でもじゃないんだろ」
 「いや、珍しい男の姿を見掛けたもんでね。散歩もしてみるもんだねぇ」
 「散歩って、あんたの散歩は空から降ってくる事かい。フツーは、その二本の足で歩いてくるもんだろ」
 「細かい事を突っ込む男だねぇ…出会った頃は、そりゃもうカワイイボウヤだったのに、そんなに月日が経ってないのに、人間は変わるもんだね」
 勾音が態とらしく深く溜め息をついて肩を竦めると、慶悟の眉間の皺が更に深くなった。
 「いつの話だ、いつの。あんたにとっちゃ、六年はほんの一瞬の出来事かもしれないが、俺にとっては充分長い年月だよ。その間にどれだけ変わったって可笑しくはないね」
 「人をそう年寄り扱いするもんじゃないよ。特に、女に対してはね。失礼だろう?」
 そう言ってわざと咎めるような表情をする勾音に、慶悟は何をと鼻で笑った。で?とさっきの問い掛けの続きを要求するよう、視線だけで勾音に言葉を促す。そうしながら、頭の無くなった犬の亡骸に近付き、その傍らに膝を突く。懐から取り出した新たな呪符を指に挟んで犬の腹の上をなぞると、符が刃の役目を果たし、犬の腹部がぱっかりと綺麗に二つに裂ける。心臓辺りに巻き付いている呪術の符を、血で指を汚す事なく器用に取り出すと、それに印を切って一旦効力を封じた。のち、犬の亡骸の周りに陣を描いて範囲を限定し、さっき封じた呪符を使って式返しの術を施す。その間、勾音は黙って腕を組み、慶悟の動きをじっと見詰めているだけだった。慶悟は、術の為りようを確認してから立ち上がる。軽く両手を打って払い、首の関節を二、三度鳴らした。
 「…さて、これで良し、と。…それじゃ、用事は済んだな。では」
 そう言って慶悟は片手をあげ、その場から立ち去ろうとする。そんな彼に、勾音は素知らぬ顔で足払いを掛けた。勿論、それに易々と引っ掛かる慶悟では無かったが、勾音の足を避けて飛びすさりながら、また眉間に深い皺を刻んだ。
 「何するんだよ!」
 「お待ち、まだ私の話が終わってないよ」
 「終わらなくても終わっててもどっちでもいいさ。感謝はするが、また今度…」
 「感謝、って何の事だい?」
 「これの事だよ!あんたがこいつを叩っ斬ったんだろう!」
 しれっとした勾音に対し、珍しくも語気を荒立てた慶悟が肩を怒らせて言い返す。どうも勾音を前にすると、普段のペースを保つ事ができず、それで慶悟は勾音の事が苦手なようだった。勾音は、そんな慶悟の様子には全く気にした風もなく、ああ、と今更思い出したように動かない犬の頭部を見た。
 「酒でも飲もうかと思ってね」
 「…話が通じてないぞ」
 「だから、酒が飲みたいと思ってね、でも独り酒なんてのは虚しいじゃないか。誰か居ないかと思って辺りを見渡して見れば、丁度上手い具合に…」
 「……俺が居た、と言う訳か」
 微妙に脱力したような表情を向け、慶悟がそう呟くと、勾音はその通りだと言うように深く頷いた。
 「ま、それはともかく。あんたが式を打ったのなら、呪術の主も只では済まないだろう?それに、私も暇でね。久し振りに懐かしい顔に会ったんだ。そうツレ無い事をお言いでないよ」
 付き合いな、と軽く顎をしゃくる勾音の表情は、あくまで慶悟を揶揄うようなものだ。だが、そうしながらもその赤い目は久し振りに会った男の姿をとくと眺め、その健勝さにほんの僅かにだが唇を笑みの形にした。寿命の長い勾音にとって、人間は己の生を通り過ぎていくだけの存在に過ぎない。それがいつからだろう、行き過ぎるのみの存在故にか、己が関わった相手の事が気に掛かるようになったのは。そんな勾音の心情を酌んでか、慶悟も観念をして溜め息混じりに頷く。すると、途端に不敵な笑みを浮かべた勾音が、慶悟の脇を片腕でひょいと抱える。そのまま上空へと飛び上がり、細身とは言え男一人を抱えているとは思えないほどの軽やかさで、ビルの屋上へと舞い上がったのだ。

 うわー!

 勿論、慶悟が口に出してそんな悲鳴を上げる訳がない。まるで手荷物みたいに扱われ、憤慨してはいたが、この扱い振りを見ている限り、慶悟も勾音にとっては、未だ十四歳のままのようである。
 「…誘っといて缶ビールかよ。色気ないな」
 ビルの屋上で縁に腰掛け、缶ビールのプルを引き上げながら慶悟が笑う。ぶらぶらさせている足元の下は、真っ暗闇の奈落の底だ。そんな危険な場所に居ながら、二人の雰囲気はまったりのんびり、戯れに軽く互いの缶をカツンと触れ合わせた。
 「私に色気を求める方が間違っているだろう?大体、おまえに色気醸し出したって、何の得にもなりゃしない」
 「それも失礼な話だな。だから、六年ってのは人間にとっちゃ結構長い年月なんだよ。俺をいつまでもガキ扱いするなっての。あん時の俺とは違うんだよ、いろいろと」
 「おや、そうかい?それじゃ、あの時のケツの青いボウヤも、ようやく大人になったって事かねぇ」
 「…ケツの青い、は余計だ」
 ぼそりと抗議して視線を逸らす慶悟に、勾音が喉で可笑しげに笑う。やがて観念した慶悟も小さく笑い出し、深夜の街に静かな笑い声が響いた。

 ビルの背後には月、それを背にし逆光で黒いシルエットしか映らない二人の小さな宴会は、それから月が眠りにつくまで続いたと言う。


 頼りが無いのは元気な証拠、と言うが、やっぱりたまにはこうして酒でも酌み交わさないとねぇ。


おわり。