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<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


止まずとも良い雨

 雨音は、所詮は水の粒が地面に当たって砕ける時に発せられる音に過ぎない。それなのに、どうして今日はこうも耳障りなまでに俺の聴覚を刺激してくるのか。
 それは払っても払っても顔の前に纏わり付いてくる粒子の細かい煙のように、払う手はそれをただ一旦断ち切るのみ、完全に追い払う事は叶わず、俺は最後には諦めて、雨音が耳へと流れ込んでくるままに、放置せざるを得なかった。
 見たくないものは目を閉じれば遮断できる。だが、聞こえてくる音を完全に遮断する事は難しい。
 親切と言う名の厄介な好奇心と同様、邪魔な事このうえないのに、振り払い遠ざける事が出来ないものなのだ。


 あれからどうやってここまで歩いてきたか、はっきりとは覚えていない。正確に言えば、俺の目に、今までの歩みの経路はちゃんと映し出されていた。黒い革靴の爪先が、雫を蹴飛ばした時の水粒が前方に跳ねて弾ける様子、雨曝しのスーツの肩先が、最初は表面が雨粒を弾いていたが、そのうち度を越したが故に布地に染み込み、そこが色を変えていく様子など、逐一、俺の目に映ったものは全て頭に残っている。だがそれは、単なる記録に過ぎない。何故それを俺が為したか、何の為にそうなったか等と言う行動の起因は、何一つ存在しなかった。

 『そのうち分かるさ』
 『お前にはもう帰る場所など無い事だし』

 朱束が最後に俺に告げた言葉。その言葉の意味は分かる。それ程俺も馬鹿ではない。だが、それをそのまま受け止めて消化する訳にはいかなかった。勿論、俺がどんなに嫌だと言っても、俺を巻き込んだ濁流の流れはとてつもなく激しく早く、最早それから逃れようが無い事は分かり切ってはいた。それでも俺は、帰る場所を無くした事を認める訳にはいかなかったのだ。
 朱束がそう言ったのなら、俺は同じ場所に帰る事は到底叶わない。それは、地理的な場所と言う意味であるが、それと同時に、同じ環境に戻る事は出来ない、と言う意味でもあった。多分朱束は、俺が他の極道に身売りする事が出来ない男である事を見抜いているのだ。俺があの組を失ったと言う事は、俺の極道たる由縁はもうどこにも無い。かと言って、俺が今更日の当たる場所に出て行ける筈が無い。人は、例えどんなに短い期間でも、お陽さんの当たる場所で暮らした記憶があるならば、大変な苦労はしても、またそこに戻っていく事が出来る。だが俺には、そんな甘やかな記憶は無い。物心付いた時から、人を羨む事と、その恨み辛みを他人に当り散らす事しか知らない餓鬼だった俺の前には、真っ当な道が伸びている事などある訳が無いのだ。

 …そう思った途端、途方も無いぐらい巨大な敗北感が俺の肩に圧し掛かった。濡れたスーツが異様に重く感じる。足が縺れ、躓いて危うく転びかける。ナリのデカい強面の男が、何も無いところで蹴躓いて転び掛けているのだ、端から見れば可笑しな光景だろうが、周りの人間は誰一人としてくすりとも笑わない。それも致し方ない。見るからに極道の俺が、ずぶ濡れでまるで病人のように覚束なく雨の中を彷徨っているのだ。今、奴等が感じている恐怖は、獣と出会ってしまった恐怖ではない。見た事も無い化物と出会ってしまった、もっと本能的な底知れぬ恐怖なのだろう。
 雨は止むどころか更に激しさを増す。大粒の雨音はバタバタと節操の無い音を立てる。それはまるで、情けなくも濡れ鼠の俺をせせら笑っている様にも聞こえる。俺の脇を、一台の車が通り過ぎる。俺のすぐ脇を通り抜けざま、邪魔だと言うようにパァンとクラクションを鳴らした。その耳障りな音が、俺には嘲笑のように聞こえる。そこまで行くと、被害妄想も立派な病気の一つなんじゃないかと思いたくもなってくる。俺は思わず笑みを浮かべるが、既に閉まった店舗の窓ガラスに映った顔は、まるで子供が泣き出すのを必死で堪えて無理矢理笑っているような、そんな表情だった。濡れたガラスに映った俺の顔、その輪郭がぶれ、どこかで見覚えのある餓鬼の顔になった。

 やんちゃと言えば聞こえはいいが、本当は単なる馬鹿で無鉄砲な愚かな餓鬼だった。餓鬼の頃から体格では人に劣った事は無い、だが、今ガラスに映っている子供の頃の俺の目は、痩せ細ってギスギスに尖がった目をしている。この顔が、先代にはどう見えたのだろう。先代に、ただの屑だと思われなかっただけ、俺は幸運だったのかもしれない。それを感じる事が出来たのは、一瞬だけ触れた先代の広い背中だった。何の折に触れたのかと言えば、粋がって刃向かった恐いもの知らずの俺に、強烈な一本背負いを仕掛けた時だ。あの時は本当に世界が廻った。受身と取る間もなく地面に叩きつけられ、激しく咳き込んで背を海老のように丸める俺を、先代は息を切らす事無く平然と俺を見下ろしていた。
 …不意に俺の脳裏に、朱束の表情が甦る。あの細腕で俺を投げ飛ばし、地面に叩きつけた女。あの時の朱束は、先代と違って口元には僅かに笑みを浮かべていた。だが、俺の記憶の中で二人の面影が近付き、ぴったりと重なり合う。見た目は似ても似付かぬ二人だが、漂う何かは同じであるような気がした。
 それが何であるかは、未だに愚かな俺には分からなかったが。

 キレのいい一本背負いを喰らった餓鬼は、暫くはその場から動けなくなった。肉体に負った衝撃もさる事ながら、相手から伝わってくる鬼のような気迫が、重力のように俺を薄汚れた地面に押し付け、痺れさせていた。先代は、決して優しくも甘くも無かった。大抵は研ぎ澄まされた刃のような緊張感を常に漂わせており、俺はいつも先代の前では、首の後ろの産毛がチリチリと放電しているような感覚を受けていた。それを厭う組員も多かったが、俺は逆に心地良いと感じていた。それは先代と俺との、言葉のない真剣勝負であり、それに勝てずとも、負けずに立ち向かう事が出来た時、先代は俺を心から認めてくれた。それが何より嬉しくて、屑は何かの役に立とうと、僅かな知恵と体力を振り絞り続けてきたのだ。


 そんな遣り取りを、俺の身体と精神は欲している。平穏や安穏など、俺には縁の無いものだ。味方の中にあっても尚、感じる程好い緊張感と、どこか嗜虐的な、塵ほどのほんの僅かな恐怖感。それが、俺の生きている証でもある。
 俺はいつしか片手に名刺を持っていた。いつの間に懐に忍ばせたのか、【酔天】とだけ書かれた極めてシンプル且つ機能的な名刺。それを頼りに、俺は人気の無い裏通りへと足を踏み入れた。
 一見するとどこに店名が書いてあるかも分からないような戸を押し開ける。入り口の正面、カウンターのスツールに浅く腰掛けて足を組む女は朱束だ。入ってきた俺を、来訪を予想していたとでも言うように、俺がそこに居るのが当たり前の顔で、俺を迎え入れた。
 「随分な重役出勤だね。あんまり遅いもんだから、そろそろ休もうかと思い始めていた頃だったよ」
 休養など、朱束には必要ないだろうが。そう思いながら俺は黙って戸を締め、奥へと歩みを進める。朱束の腰掛けるスツールから数個離して、俺もカウンターの席に腰を下ろした。何故俺はここにいるのだろう。ふと、今更のような問いが俺の視界の端を掠めた。
 「一杯だけ飲みに来た。それで帰る」
 それで義理は果たせるだろう、と抑揚の無い声でそう告げる俺の横で、朱束が笑う気配がした。目には見えなかったが、その表情は明らかに勝ち誇ったような薄い笑みで、それを悔しいと捉えるべきなのだろうか、と俺は他人事のように思った。
 「一杯だけ、ね。相変わらず頑なな男だねぇ。そんなにずぶ濡れになった甲斐が全くないじゃないか」
 「…嗤いたきゃ嗤うがいいさ。実際今の俺は、かなり滑稽なのだろう」
 俺がそう言うと、隣で朱束の笑みが姿を潜める。不審に思った俺が、視線だけでそちらを見ると、朱束が目を細めて口端を持ち上げる過程を目の当たりにする事が出来た。
 「そんな事を言うもんじゃないよ。私は人間を喰らう事はあっても嗤ったりはしないさ。…ちゃんと生きてる人間ならね」
 「………」
 「ゆっくりしてお行き、意地っ張り。どうせ今夜は一晩中雨だよ。傘なんて洒落たもの、持ってないんだろう?またずぶ濡れになりに出て行くのかい?」
 雨音は止まない。室内に入った事で、あの耳障りな響きは遠くはなった。相変わらず雨垂れは姦しく音を立ててはいるが、俺にはもう、それは嗤い声には聞こえなかった。
 「お前みたいなナリの大きな男が物憂げに歩いていたって、誰も同情なんかしてくれやしないさ。寧ろ、不気味がられるのがオチさね」
 「…好きでデカくなった訳ではない。それに、俺は誰かに情けを掛けられたいなどと思った事も無い」
 まるで子供の喧嘩のよう、俺は憮然とそう言い返す。そうかい?と軽く往なす朱束の口調は、明らかに俺を揶揄ってはいたが、それは俺の存在を無視するものではなかった。
 「雨が止むまで、…か」
 俺は独り言のように、朱束の言葉を繰り返す。朱束がぱちんと指を鳴らすと、魔法のように、無言のバーテンダーが俺の前にスコッチのグラスを置いた。
 「雨が止むまでか…そうしよう」
 俺はグラスを手に取る。琥珀色のアルコールが、カットグラスの中で揺らめいた。一口含み喉へと流し込むと、熱い感触が俺の喉を焼く。その時、どれだけ自分の身体が冷え切っていたかを、俺は思い知ったのだった。


 雨はいつか止む。だが、俺の中では、雨は永遠に止まない。
 それを呪縛と言う輩も居るだろう。確かに、大抵の雨はジメジメして湿っぽく、鬱陶しい事このうえない。



 だが同時にそれは、恵みの雨でもあるのだが。



おわり。