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少年とクマと緑な午後
薄い色のカーテンからこぼれる朝の光を頬に受けながら、藤井蘭はお気に入りのビーズクッションを枕にしてすやすやと眠る。
彼の腕には、大きな真珠色の卵が抱えられていて、まわりには開きっぱなしの日記帳とクレヨンが散らばっている。
魚が空を泳ぎ、小鳥は水の中を飛ぶ。しゃべるぬいぐるみに、雲のような地面。花が空から降ってくる。そんな不思議な世界で不思議なクマのぬいぐるみたちと過ごした冒険が、色とりどりに、かつダイナミックに描かれていた。
葛に見せようと頑張ったソレは一週間掛かりの超大作である。
徹夜に近い状態になりつつ夢中になって書き上げた彼は、そのせいで見事クッションに埋もれて力尽きてしまった。
そのままいつまでもいつまでも眠り続けられそうだったのだが、
「ふに?」
不意に耳元で鳴った微かな音にぴくりと体が反応し、眠い目をこすりながらもぞもぞと動き出す蘭。
そして、
「………あ!!」
差し込んできた朝日を受けて、自分の手の中で真珠色のタマゴが孵る瞬間を見た。
手の中でほっこりと2つに割れたタマゴ。
中から現れたのは、どこまでも無垢な植物色のクマのぬいぐるみだ。その頭には、ちょこんと小さな双葉が揺れていた。
「うわ〜うわ〜〜」
蘭の瞳が手の中の宝物を映してキラキラと輝く。
「持ち主さ〜ん!持ち主さ〜〜ん!!タマゴ!タマゴがかえったなの〜」
大事な彼女に真っ先に報告すべく、オリヅルランの少年はクマを両の手の平に乗せたまま、葛の姿を探してバタバタと部屋の中を走り回った。
絵本のような世界からもらったお土産は、小さな不思議と驚きを少しずつ緑の少年に贈る。
草間興信所は今日も無闇に雑多なもの――調査依頼書、煙草、資料、そしてここに出入りする調査員達の持ち込んだ私物各種が山のように積み上げられ、一部は雪崩を起こしつつ、せまい事務所を占拠していた。これはいつもの光景。
ただ、今日は珍しいことに現在のところ怪奇の類を引き摺った依頼主も、興信所を喫茶店代わりにしている者たちもこの扉を叩いていない。少しは掃除を手伝って欲しいと叱る義妹も買い物に出かけている。
めったにない状況下。これ幸いと穏やかな睡眠を貪るそんな草間武彦のささやかな時間は、一時間もせずに破られた。
「草間さ〜ん!草間さ〜ん!!クマさんなの〜」
「こら、蘭!挨拶もなしにいきなり飛び込むんじゃない」
盛大な音を立てて飛び込んできたのは、限りなくここの常連に近付きつつある緑の少年と、そして、白い箱を片手に抱いている持ち主兼保護者である大学院生だった。
「はう……ごめんなさいなの」
「よし。じゃあ、ちゃんと草間さんに挨拶して。ほら」
「はいなの」
「……………」
心地よい眠りから引き剥がされて、いまだ頭が働かずにボンヤリしている武彦の前で展開されるのは、姉弟を思わせる躾のワンシーンだった。
そして、
「こんにちはなの、草間さん!あのね、あのね、クマさん!クマさんがかえったなの。タマゴが割れたなのぉ!」
「あ〜……」
今度は視界のほとんどが透明感のある新緑色で占められる。
「……クマ?タマゴ?割れた?」
何がなんだかさっぱり分からないといった顔で説明を求めるように、彼は緑の物体から少年の保護者へと視線を向けた。
「どうも、お世話になってます。実は、蘭がどうしても草間さんたちに見せたいって言うんで連れてきたんですが」
礼儀正しく頭を下げると、葛は、いまだ机から動けない武彦へと手短に状況を説明する。
つい先日、興信所の冷蔵庫から現れた奇妙な依頼人。その事件を無事解決できた蘭に渡された真珠色のキレイなタマゴ。ソレは一週間を経た朝に突然割れて、中からはクマのぬいぐるみが出てきたと言う。
「ああ……そういやウチの事務員も同じクマを持って来てくれたな」
「え?」
ようやく事態を飲み込んだ武彦の言葉と棚へ向けられた視線に、葛はきょとんとし、
「え?え?あ!ほんとなの!」
振り向いた蘭は、眼を輝かせてそちらへ駆け寄った。
「うわ〜うわ〜カワイイなの!おそろいなのぉ!」
行儀よく座っているのは、双葉が揺れる夕日色のクマだ。蘭のものより少し大きいそのぬいぐるみは、自分と冒険を共にしてくれた青い瞳の彼女のもの。
「アイツは別の調査に出かけてて今は留守なんだが、戻ってきたら話をしてみるといい」
「うんなの!」
「へえ、カタチは似てるのに色は全然違うんだ」
棚の縁に手を掛けて背伸びをしている蘭の背後から、葛が興味深げに覗き込む。と、一瞬、夕日色のクマが左右に揺れた気がした。
「………」
錯覚だろうか。だが、確かにこのぬいぐるみと目が合ったような気もする。
「持ち主さん?」
「今、コレ、動かなかったか?」
「ふに?クマさんは動くよ?」
「いや、蘭が会ったクマは動いたかもしれないけど、これはただのぬいぐるみだろ?」
「でもクマさんは動くなの」
「……そうなんだ」
真剣な眼差しで語られて、思わずそういうものなのかもしれないと納得してしまう葛。
振り返れば、なんとも微妙な顔で武彦がこちらを見ていた。
彼はおそらく依頼の報告書を読んでいるはずだ。そして、動いてしゃべるクマのぬいぐるみとも対面済み。ということは多分、何が起きても驚かない。受け入れ態勢は万全ということだろう。
そこでふと、葛は自分が抱えている箱の存在を思い出す。
「そうだ。草間さん、差し入れにケーキを持ってきたんですけど」
とりあえず夕日色のクマが動いたのは気のせいということにして、箱を持ち上げてみせる。
「冷蔵庫に入れておいてもいいですか?」
「あ?ああ、いや……あそこは今チョットばかし魔窟になってる。ソレくらいの大きさだと確実に入れんのは無理だから、この場にいる奴で消費しちまおう」
「わ〜い!ケーキケーキ」
「こら、蘭!」
「まともな茶は淹れられんが、いいか?」
「すみません。では、よろしくお願いします」
ごそごそと給湯室へ引っ込んだ武彦が紅茶を淹れている間に、ガチャンガチャンガションガタガタッと少々不吉な破壊音が響いた。だが、つい駆けよろうと腰を浮かせば、向こうから大丈夫だの声が飛んでそれを制された。
蘭は手の中の新緑色クマを頭に乗せて、夕日色くまをじっと見上げている。
楽しげに何か話しかけているようだが、うまく聞き取れず、ソレも気になる。
何もかもが気になって仕方ない。
気を紛らわせるように、葛はケーキの入った箱をテーブルに置くと、周囲を埋め尽くして崩壊しかかった書類の整理整頓に掛かった。
これで、戻ってきた事務員の仕事は幾分楽になるだろう。
そして。
ようやく彼が不器用そうにガチャガチャとトレイに乗せてやってきた時には、雑然としていた興信所の景色が随分とすっきりしていた。
「おお、随分と見晴らしが良くなった。有難うな。そして待たせてすまん」
武彦は片付いた周囲に礼を述べ、ついで頭を下げる。
「いえ、気にしないでください。やりたくてやったことですし……」
どれほど時間が掛かろうと、どれほど不吉な音を立てようと、こうして出て来たモノが『まとも』だというだけで充分なのだ。
まるで性質の悪い呪術でも掛けたかのように凄まじい物体を作り出す姉の姿が、ほんの一瞬だけ葛の脳裏に浮かんで消えた。
「3時のお茶会なの〜」
嬉しそうに笑う蘭につられて壁の時計を見れば、いつのまにか、ささやかなお茶会を開くのに程よい時間となっていた。
「じゃあ、始めるか」
「あ、こちらで取り分けますよ。草間さん、どれがいいですか?」
白い箱を開けると、イチゴやオレンジやブルーベリーなど色とりどりのフルーツをたっぷりの生クリームで飾ったケーキたちが顔を出す。
「へえ、これはすごいな」
「うんとね、うんとね、僕が持ち主さんと一緒に選んだなの!キレイなのいっぱいなの〜」
得意げに胸を張る蘭の頭を、向かいの席から武彦が礼の代わりに撫でると、彼から弾けんばかりの満面の笑顔が返ってきた。
それぞれ好きなケーキを選び終え、葛によって柄のバラバラな皿に取り分けられてフォークが渡される。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきますなの」
おやつを前にして彼らの声が重なる。そして、いよいよケーキに銀色のフォークが突き立てられようとしたその瞬間―――
ぺとん。
「ん?」
「え?」
「あ」
蘭の頭に乗っていた新緑色クマが起き上がったかと思うと、まるで意思があるようにたっぷりクリームが絞られたケーキの上へとダイブした。
ソレは、白い世界に埋もれたまま動かない。
葛も武彦も、じっと見つめたまま動けない。
フォークを握ったままで、蘭だけがきょとんとしながらも首を傾げる。
「えっとね、クマさんも食べたい?」
当然のように話しかけた少年の言葉に、顔だけ上げて、ぬいぐるみはこくこくと頷く。
「じゃあ、僕のこれ、半分あげるなの!」
生クリームまみれとなったクマのぬいぐるみは、むっくり起き上がると、今度は嬉しそうに手足をばたつかせた。
「えへへ〜じゃあ、クマさんと僕で半分こ」
何の疑問もなく、蘭は笑顔で皿の縁に腰掛けたクマと壊滅的に崩れたケーキを分け合い始める。
「クマさん、はいあ〜ん」
言葉に合わせて、新緑色クマが大きく口を開いてパクリとかぶりつく。
「じゃあ、次は僕の番」
今度はクマがフォークを持って、蘭の口にケーキの欠片を運ぶ。
もぎゅもぎゅもぎゅ。
おいしいね〜と言い合いながら、楽しげに、幸せそうにケーキを頬張るオリヅルランの少年とクマのぬいぐるみ。
めいっぱい頬ばったクマの頭で揺れていた双葉が、突如ぐぐっと成長を始める。ソレはするすると伸びて伸びて伸びて、
「あ」
ぽぽぽぽ……と、開いた花から飛び出すのは飴玉だった。
あまりの急展開についていけず、葛は言葉を失いつつ、何か言うことはないかと武彦の方を見る。
だが、彼も目の前で起こった一連の出来事についていけず、ただただ時間を止めていた。
不思議な世界の住人からもらった不思議なタマゴ。そこから生まれた不思議なクマは、やはり不思議な世界を展開してくれる。
「ああ、そうか……そうだよな……」
葛は呆然としつつも、妙に得心が行った顔で呟きを洩らした。
そうだ。ここは草間興信所。東京中、時には日本各地どころか世界各地から怪異が集まる怪奇探偵の事務所なのだ。出入りする調査員達も考慮すれば、これくらいのことは、起こって当然なのかもしれない。
「蘭が楽しいなら、いいか」
ソレが、彼女が今日一日浮かび続けた疑問に対する最終的な結論だった。
結局、調査中の事務員空今日は戻れない胸の連絡が武彦へ入り、葛は残念がる蘭の手を引いて暇を告げた。
その夜のお風呂場からは、蘭とクマがふざけあう派手な水音がしばらく続き、近所迷惑だからと言う理由で、彼らはしっかり葛に叱られた。
それからどれくらい経ったのか。
いつのまにか、春の香りがふわふわと漂い始めた心地よい休日の午後。
「持ち主さ〜ん!持ち主さ〜ん!!見てみて!外!すごいなの」
おおはしゃぎの蘭が、ディスクで分厚い資料集とパソコン画面とを睨む葛の腕を引っ張った。
「今度は何?」
もう何があっても驚かないよ、という意思表示をしつつ振り向いた彼女に、緑の少年は、「とにかく来て」と尚も引っ張ってベランダへ行こうと何度も促す。
彼の頭の上では、植物色のクマがくるくると踊っている。
やれやれと思いつつ、蘭についてベランダへ向かった葛は見たものは―――
「え?あ、うわ……」
「ね?ね!?すごいキレイなの〜」
ふわふわと光の花が舞う。吸い込まれるような青空から優しい色をほのめかせながら降りてくる、うっとりするような光たち。
「うんとね、うんとね、あっちの世界で降ってたお花とね、同じ感じでワクワクするなの!この子もワクワクするって言ってるなの!」
「うん。確かにワクワクする」
視線を逸らせずに、葛は素直に頷いた。
ベランダの窓から身を乗り出して見上げる蘭の頭や鼻の先に、花がひとつふたつと積もっていく。
クマが頭の上でちょっとだけ動いて、ぺたぺたもふもふと手を伸ばしてはソレを払う。
「ん〜くすぐったいなの〜」
光の花は光の粉になって、もう一度ふわりと空に舞って消えた。
「あ!そうだ!ね、ね、持ち主さん!外!外いこうなの!」
「ああ……せっかくだし、行くか」
好奇心でじっとしていられない蘭に、葛は思わず笑みをこぼして彼の手を取った。
レポートは明後日が締切だが、きっと何とかなるだろう。こんな不思議を体験せずにいてはあまりにも勿体無い。
「えへへ」
頭の上で嬉しそうにクマが跳ねる。
そうして1人と1鉢と1体は、輝く世界に「せーの」で飛び出した。
彼らはまだ知らない。
草間興信所と同じように、藤井家の冷蔵庫の中にもこっそりとクマ達からの手紙が配達されていることに。
扉の向こう側にある不思議の国からの贈り物は、まだまだ続く。
END
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