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嵐の後の静けさ
その声が届いたのは、振り向く一瞬前。
「――――危ないッ!!」
台風が近付いているという現場。暴風が吹き荒む中、あるいは錯覚だったのかもしれない。
が、それでも振り返った直後。
ものすごい衝撃が脳天を直撃し――思わずその場に倒れ込んだ。
ざわめく周囲とは逆に、どんどんと沈んでいく意識の中、思い返すのは自分を呼んだ声。どんな嵐の中でも聞こえたその声をぼんやりと考えながら、僅かに残った意識は闇に消えた――。
◇
葛井・真実(くずい・まこと)、23歳、独身。
現在の職業は某テレビ局に勤める現地アナウンサー。
運び込まれた病院の診療室で意識を取り戻した真実は、医師から自分のことを尋ねられてポツリポツリと答えていく。その言葉に医師はただにこやかに聞いていた。
「うん、これなら大丈夫だね。軽い脳しんとうだよ。怪我の方も掠り傷程度だし」
サラサラとカルテに何かを書き込んでいく医師に、真実はただはあ、と生返事をした。
「念のため、明日もまた来なさい。場所が場所だからね、一応精密検査の方をするよ」
「分かりました」
医師の言葉に素直に頷き、そのまま診察室を後にした。
病院を出てから、真実はそのままの足でテレビ局へと戻った。さすがに怪我の為とはいえ、仕事に穴を開けてしまったのだ。一度は顔を見せるのがスジだろう。
そう考えて、局へと戻ってきたのだが‥‥。
「何しに戻って来たんだ?」
開口一番。
戻るなり真実の耳朶を打ったのは、ひどく不機嫌な多岐川・雅洋(たきがわ・まさひろ)の言葉だった。周囲のスタッフによれば、台風の取材以来、かなりピリピリきているらしい。
その強い剣幕に思わず怯みそうになりながらも、真実はなんとか言い訳を口にした。
「こ、この度はご迷惑をおかけしました。それで」
「怪我をしているのだろう? ならばさっさと帰りたまえ」
言葉遣いは丁寧だが、その端々に不機嫌さが滲み出ている。その口調の強さに、額面通り受け止めればいいものの、思わず反発してしまった。
「そ、そんな言い方はないでしょう! そりゃあ仕事に穴を開けた事は俺だって悪いと思ったから、こうして顔を出したんだし、少しは手伝う事があれば」
「怪我人にうろつかれては迷惑だ」
だが、彼の言葉を、多岐川はあっさりと両断した。
グッと思わず口ごもる。
「だけど!」
「怪我人は大人しくしていればいいんだ」
「怪我なんか大した事ない」
「本人はそう思っても、周りはそうじゃない。キミを気遣って仕事が遅れるのは目に見えてるさ」
「そんな‥‥多岐川さん!」
一見、冷静に見えてもかなり不機嫌な多岐川に、一アナウンサーが口答えするなど言語道断だ。
普段ならその辺のところも弁えているのだが、やはり怪我のせいで少しだけタガが外れていたらしい。今の真実には、周囲の視線すら目に入らなかった。
そして――一気に雪崩れ込んで来た音の奔流。
「だいたいどうして、多岐川さんは俺にばっかり‥‥ぁ」
言い争う内に、思わず暴走した能力。
熱が起きているコトにも気付かず、言い合いに夢中になった真実の中に、外野の声が大音量となって叩き込まれたのだ。
結果、どうなったかと言えば。
「‥‥葛井クン?」
不意に押し黙った真実に多岐川が声をかける。
が、次の瞬間。
意識が昏倒した真実は、そのまま床へ倒れ込んだ。騒然となる外野。その中で、ただ一人悠然としている人物がいた。
当の言い争っていた多岐川である。彼は、周囲の人間に落ち着くように言うと、
「俺が運ぼう。他の者は、仕事を続けておいてくれたまえ」
意識のない身体をゆっくりと抱え上げる。
そのまま仕事の指示を最後まで与えてから、多岐川は局を後にした。
◇
(‥‥やれやれ、しょうがないヤツだな)
抱える葛井の体温を僅かに感じながら、雅洋は思わず口元に笑みを浮かべた。
いつでも反抗的な態度で喚き散らす彼だったが、それがどこか子犬がキャンキャン吠えているように感じ、そこがまた彼を気に入った点でもある。
時折、魘されて眉根を寄せる表情に、幾度となく語りかけてやる。
自分の声が彼にとって心地よい響きであることを、雅洋は随分前から気付いていた。そう、彼が胸に秘めているだろうその能力についても。
(いったい、いつになったら気付くのやら)
すっと髪を撫でる掌。
そこから読み取れる波動が、徐々に気分が楽になっていくようだと感じさせる。
『サイコメトリー』――あらゆる物質が見聞きした情報を読み取る能力。それが彼の持つ力であるが故、誰もが彼に対して秘密を持つ事は出来ない。
だからこそ、葛井の持つ秘密の能力も、なんとなくだが知っていた。
その力のせいで、彼が幼い頃から苦労していただろう事も。
(俺なら、お前の全てを受け止めてやれるだろうに‥‥)
思わず浮かんだ考えに苦笑しつつ、雅洋は自宅へ送るべく車へと乗り込んだ――。
‥‥思わず立てた僅かな物音に気付いて、彼がゆっくりと目を覚ました。
「ああ、悪い。起こしてしまったか」
雅洋の言葉に、目を覚ましたばかりの葛井はまだぼんやりとしていた。キョロキョロと辺りを見回しているのは、おそらく自分の部屋であることを確認しているのだろう。
思わず苦笑を洩らしたが、さすがに先の怪我の事もある。少し心配になった雅洋は、フッとその顔を覗き込んでみた。
「どうした? やはり怪我が響くのか?」
「‥‥ど、どうしてあなたがここに‥‥」
「気を失った君を運んで来たのだよ。どうやら熱を出したようだしね‥‥まだ、あるかな?」
そう言って掌を額に当てる。
普段、素っ気ない態度を取る自分とはあまりに違う行動に、どうやら彼はかなり動揺しているようだ。大きく目を見開き、息を飲むほどに硬直している。
僅かに上気する頬。
熱で少し潤んだ瞳。
見上げてくるその視線が、どこか縋るような眼差しに見え、雅洋は思わずゴクリと唾を飲んだ。表面上はどうあれ、内心では今のこの状況にかなりどぎまぎしている。いい年をした男が、まるで中学生のように心中穏やかではない。
刺激された欲望の、その衝動を抑えきれずに思わず近付けた唇。
「‥‥えっ」
呟かれた声を、そのまま自分の中に飲み込んでみる。重ねたその感触は柔らかく、どこか心地よいもので、そのまま歯列を割って深く貪ってしまった。
驚きに見開く目。
必死で離そうとするのをガッシリと押さえ込んでいると、さすがに衝撃が大きかったのか、葛井は再び気を失ってしまった。
「‥‥おい」
一旦唇を離して、思わず覗き込む雅洋。
途切れた意識の、力の抜けたその身体を見て、ヤレヤレと苦笑を洩らす。どこか決まり悪そうな溜息を吐きつつ、抱き締めていた腕からゆっくりと解放してやった。
再びベッドに寝かせてやり、毛布をかけ直す。僅かに身じろいだ仕種に、ふと零れる笑み。
が、その直後。
ベッド脇に置かれていた写真立てが目に入った。そこには、一組の男女が仲睦ましい姿で写っている。なんとも言えない幸せそうな雰囲気が、写真越しでも伝わってくる。
男の方は、まごう事なき葛井だった。
「彼女、いたのか」
呟いた瞬間、浮かべていた笑みがどこか不敵なものに変わる。
葛井の髪を梳きながら、果たして何を思い浮かべているのか――本心を、雅洋は深く胸の内に沈めるだけだった。
◇
不意に意識が上昇する。
「‥‥んん‥‥」
ゆっくりと目蓋を開けた真実は、寝惚け眼のままぼんやりとベッドの上でしばらくぼうっとしていた。
何故自分がここにいるのか、何があったのかを、思い出そうとして‥‥思わずガバッとベッドから飛び出した。慌てて周囲を見渡し、天敵とも言える人間の姿を探す。
が、どうやら多岐川の姿はなかった。
ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。
意識が落ちる寸前、その男にされた事を思い返し、思わず顔を真っ赤にして口元を掌で覆った。
「あ、あの人、なんだってあんな事を‥‥ッ!」
ワケが分からない。
自分のことが嫌いならば、そう言えばいい。なにもあんな嫌がらせをしなくても――真実にとって、多岐川の行為はあくまでも嫌がらせの範疇のようだ――そう心中で呟き、険しく眉根を寄せる。
ふと。
卓袱台の上に置かれた器に目が映る。よく見ればお粥のようだ。
何故そんなものがそこにあるのか。
自分が作った記憶はない。
それならば。
「まさか多岐川さんが‥‥?」
困惑しつつ、その器を覗き込んでみれば、いかにも素人然とした‥‥ある意味下手くそなお粥がそこにあった。だいぶ前に作ったのだろう、かなり冷め切ったそれを、真実は思いきって一口、口に含んでみた。
お世辞にも美味いとは言い難い。
いや、むしろ。
「不味い」
低い呟き。
冷めてしまっている分、余計にその味が際立つのだろう。
だが、その時の真実の頬がどことなく赤くなっていたのを、自分では気付いていなかった。
その胸中に、ぽつりと点った小さな温かさの事も――――。
【終】
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